ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

「ありがとな、洸平」
 部長に肩を叩かれ、俺ははっと我に返った。その俺に、部長が申し訳ないという顔で「それで」と声を潜める。
「悪いんだけど、宵くん連れてちょっと抜けてくんない?」
「あ、……すみません」
 いつもだったら、言われる前に率先して取っていたはずの行動。慌てて、俺は笑顔を浮かべた。よし、と心の中で自分を鼓舞して、いつもの声を出す。
「宵」
 いつも。天才の宵をひとりにしない、昔から宵を知っている兄貴分の声。呼びかけに、宵の視線が俺のほうに動く。
 無表情なのに、縋っているようにも見える瞳。あーあ、という気分を隠して、誘い出す提案をする。
「おまえ、ずーっと店番してたろ。ちょっと休憩行くぞ」
「でも」
「いいから、いいから」
 そこはね、真面目に店番のシフトを守るんじゃなくて、部の空気を読むんだよ。そう教える要領で、俺は宵の腕を掴んだ。
 冊子を机に置き、宵を連れて部室を出る。それで、最後に、開けっ放しだった部室の扉を閉めた。
 抜かりなく「部誌販売中」の看板をうしろ向けにした俺を、宵は不思議そうに見守っている。
 ……本当にしょうがねぇな、こいつ。
 わかる、宵。これが空気を読むってことなんだよ、とも言わず。「ほら、行くぞ」と俺は宵を促した。昔から、宵は絶対に俺に着いてくるのだ。
 歩き始めた背中に、部長の声が届く。かすかだったけど、たぶん、宵の耳にも。
「悪い、俺の責任だ。もっとしっかりサインはなし、プレゼントも禁止って周知しておいたらよかったな」
 なにも言わない宵の背中を、ぽんと叩く。ドンマイというように。
 でも、本当、そう。佐畑さんの言うことも一理あると思うけど、基本は部長の言うとおりだと思うよ。
 宵を連れ出せと言った部長のお願いも、最適解。それもわかるけど、でも、どこに行ったらいいんだろうな。クソみたいに目立つこいつを連れて。
 あーあ、とぼやきたい感情を押し込んで、部室棟の階段を上り切ることを選ぶ。部室棟の屋上は出入り可能なのだ。
 このことは、あまり誰も知らなくて。だから、ひとりになることのできる秘密の場所だったんだけど、しかたがない。
 溜息も呑み込んで、屋上に続くドアノブをひねって、外に出る。十一月の風は冷たかった。
 ……なにやってんだろうな、マジで。本当に。
 予想どおり先客のいない屋上を、フェンスに向かって数歩進む。立ち止まって振り返ると、気のせいか、宵は迷子のような顔をしていた。
 途方に暮れたようなそれに、覚えたのは幾度目かの「しかたない」だった。学ランの下からパーカーの袖を伸ばすことで防寒し、口火を切る。
「まー、あんま気にすんなよ」
 宵はなにも言わない。しかたなく、俺はへらりと笑った。
「部長が言ったとおりで、事前対策がいまいちだったのは事実なんだしさ」
 イケメン高校生作家の宵先生の影響力を、俺たちも、部長も。ついでにゴーサインを出した顧問の先生も。みんな見誤っていた、ということだ。
 それを宵のせいとするのは、さすがにお門違いだろう。
「林先輩たちもさー、そのうち落ち着くって」
 まぁ、これは願望込みではあるんだけど。そうじゃないと、俺も困る。黙ったままの宵に、俺はもう一度笑いかけた。
「まぁ、気になるなら、迷惑かけたって謝ってもいいかもだけど」
「先輩」
「ん? なに」
「やめてください、その顔」
「…………は?」
 脈絡もなにもない――ついでに言うと、「俺の対応も悪かったんですよね、迷惑かけてすみません」みたいな。あるべきはずの罪悪感のいっさい見当たらない態度に、笑顔が固まる。
 いや、おまえ、さっき迷子みたいな顔してたじゃん。だから、フォローしてやったのに。すべて心の中で言い、俺はへらりと笑い直した。
「なに、やめてって。ふつうの顔なんですけど」
 それなのに、宵は変わらなかった。淡々と、さも自分が正しいという声で断罪する。
「違いますよ。ふつうじゃない。というか、少なくとも、昔の日生さんはそんな顔しなかったです、俺の前で」
「…………」
「いつも楽しそうで、それで」
 と言ったところで、宵は言葉を切った。いやに澄んだ黒い瞳が、まっすぐに俺を射る。その瞳に、心臓がどきんと跳ねた気がした。
「俺、入らないほうがよかったですか?」
「え? いや」
 岡南高校に。文芸部に。予想外の問いかけに、再び俺は固まった。誤魔化すように、視界にうるさい髪を耳にかけ「べつに」と呟く。でも、その続きは出なかった。
 代わりに、もし、と考える。目の前にいるのが、宵じゃなかったら。自分が発端となった事態を憂いて「辞めます」と手を挙げることは、おかしな話じゃないんだろう。でも、宵だ。
 空気が読めなくて、ある種の傍若無人さを持っていて、そのくせ、頭を抱えたくなるほど純粋にできている。だから、だから――俺は。
「でも、すみません。俺、日生さんと同じ高校に入りたかったんです」
「宵」
「同じ高校通って、同じ部活して、日生さんと一緒が」
 ああ、おまえ、俺の書く話、好きだってしつこかったもんな。ようやく回り始めた頭で叩こうとした軽口が、続いた言葉で止まった。宵を凝視する。
「日生さんが好きだから」
「は?」
 さっきとは別方向で予想外の台詞。意味がわからないまま、俺は問い返した。屋上に、風が吹き抜けていく。
「え? なに、好きって、どういう意味で?」
「……恋愛的な意味、ですけど」
 応じた宵の声は固かった。あ、緊張してるんだなって一発でわかる声。いや、ほかのやつにはわからないかもしれないけど。でも、俺にはわかる。
 はじめて会ったときの宵も、そっくり同じ声を出していた。声のトーンは、もう少し高かったけれど。
 声変わり前の、幼い丸みを残した宵の顔が鮮明によみがえる。
 ――僕、ひなせさんがすごく好きで。……えっと、その、ひなせさんの小説が。
 今まで、ずっと。心のどこかでお守りにしていた声。
 どれだけ苦しくても、宵が俺の小説を好きなことは事実なんだからって。そう、俺は自分に言い聞かせていた。ぐっと手のひらを握りしめる。
 いや、べつに、おまえが男が好きだろうが、俺を好きだろうが、正直どうでもいいんだけどさ。そう、そんなことはどうでもよくて。
 本当に、どうでもよくて。
「なに、おまえ」
 ぐわり、と。足元が不安定に揺れた気がした。頭の中が、驚きと怒りと失望で塗りつぶされていく。
「俺のこと好きなの? いつから?」
 俺の質問に宵はなにか言っていたけれど、なにひとつとして頭に入ってくることはなかった。
 ぐわんぐわんと身体中の感情が揺れ続けている。いや、今、告白する流れあった? なんて、茶化す気にもなれない。
 ……なに、おまえ。俺のことが好きだから、おまけみたいに俺の書く話も好きって言ってたって、そういうわけ?
 ふざけるなよ。
 俺はもう一度ぎゅっと拳を握り込んだ。
 駄目だ、この言葉は宵の本気を踏み躙る。不当に傷つける。わかっていたのに、止めることができなかった。
 目の前の宵に対する、正しいのか、正しくないのか。なにひとつわからない怒りと一緒に吐き捨てる。
「気持ち悪い」
 文化祭でにぎわっている高校の、ふたりきりの屋上で。空は青く、空気は冷たかった。
 いつもきらきらと俺を見ていた宵の瞳から、すっと感情が消える。最悪すぎる魔法の終わり。
 宵は、なにも言わなかった。

 そうして、その翌日。宵は、あっさりと文芸部を辞めた。