ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

「日生さん、俺、マジでやばいかもしんない」
 勉強机に立てかけたスマホの向こう側で、中学二年生の鬱々とした宵の声がする。
 音声だけだから顔は見えないけど、たぶん、宵の机に頬っぺたくっつけてんだろうな。立派で渋いアンティークの勉強机と、眠くなったらふたりで転がった大きなベッド。いつのまにか俺のおすすめが増えた、背の高い本棚。
 かつてよく行った宵の部屋のひとつひとつを思い出して、俺は笑った。
「マジやばいって、まだ改稿? 終わらないんだっけ」
 宵が賞を取ったのは少し前のことで、今の宵は受賞作の改稿に取り組んでいる。そうしてそれが完成したら、宵の本が本屋に並ぶのだ。
「べつにぜんぜんいいと思うけど、おまえ、こだわり強いもんなぁ」
 話の内容もだけど、宵は文章に対するこだわりが強い。
 気になった箇所は、それはもう執拗に。何度も何度も書き直す。そんな宵を、俺はずっと近くで見ていた。
 小さく笑うと、同じような苦笑が届いた。
「それ、幸崎(さいさき)さんにも言われた」
 幸崎さんというのは、宵の担当編集者の人のことだ。塾の課題をこなしながら、「ふぅん」と相槌を打つ。
 宵の受賞が決まった、二ヶ月ほどの前の夏休み。受験勉強を理由に、俺はそっと宵から距離を取ることを選んだ。
 まぁ、距離を取ったと言っても、宵の家に行く回数を減らしただけなんだけど。週に二度は夜に作業通話もしてるし。だから、宵は気がついていないんじゃないかな、と思う。
「でも、幸崎さん、俺は学校に行ってないから」
「うん」
「時間もあるし、ギリギリまでこだわっていいって言ってくれた」
「よかったじゃん」
 今日の課題は英文だ。集中力の欠けた頭で目を通しつつ、へらりと応じる。
 通話先からは、パソコンのキーボードを叩く音が響いていた。宵の出す音、まぁまぁうるさいんだよな。
「まぁ、でも、そっか。学校行きながら、とか。会社行きながらだったら、夜しかできないもんな」
「うん」
 頷いたあと、少しの間が空いて、宵が言う。
「だから、行ってなくてよかったじゃんって」
「はぁ? それ、その担当の人が言ったの?」
「うん。俺は才能があるんだからって」
「あのなぁ」
 あまりに衒いのない調子に、俺は思わず噛みついた。
「才能は、そりゃ、あるんだろうけど。でも、その人は十年後のおまえがどうなってても絶対責任取ってくれねぇぞ。今のおまえの責任は取ってくれるかもしれねぇけど」
 沈黙。むっと唇を突き出した幼い顔が浮かんで、俺は「あーあ」と心の中で天を仰いだ。
 あーあ、なんで、俺、こんな説教してんだろ。いまさら、こいつに。俺はただの受験生で、向こうは中学二年生で最年少受賞をした天才なのに。
 呆れる気持ちはあったものの、俺は諭す言葉を続けた。宵にこんなことを言えるのは自分だけとわかっていたからだ。
「おまえ、たったひとりの天才になりたいの?」
「……ううん。ごめん。ありがとう」
「いいよ、それは」
 素直なんだよな。こいつ、こういうとこ。癖になりかけている「あーあ」を呑み込んで、俺は苦笑をこぼした。
 だから、憎めないのだろうか。
 もう一度「ありがとう」と呟くと、宵は再び文字を打ち始めた。
 カタカタカタカタ、タッターンと。けっこうマジでうるさいのに、耳に馴染んでしまった音。それをバックミュージックに、俺も英文に意識を向け直した。
 高校受験まで、あと四ヶ月。俺の成績は、合格圏内のデッドラインを行ったり来たりの状態だ。油断はできない。
 設問を解いていると、「日生さん」と俺を呼ぶ声がした。
「なに」
「なんで、最近、俺の家来てくれないの?」
「あー……。まぁ、ほら。俺も受験あるしさ。っつか、言っただろ? 終わるまで無理って」
「言ったけど」
 不満そうに認めた宵の溜息が、スマホの向こう側で響いている。
「高校って、岡南ですよね。文芸部があるところ」
「そうだよ」
 県立岡崎南高等学校。おまえも行きたいって言ってたじゃん、昔。まだ「僕」って言ってたころ。とは言わず、俺はおざなりに頷いた。
「あそこの文芸部、このあたりじゃ一番活動が盛んなんだよね」
 そう。だから、俺はらしくもなく受験勉強をがんばっている。建前だけで宵に告げたわけじゃない。
 まぁ、本来の俺だったら、ランクひとつ落として、楽をしたと思うけど。
 ……らしくないことしてんなぁ。いろいろ、マジで。
 あーあ、という気分でペンを回すと、また「日生さん」と宵が俺を呼ぶ。
「ん? なに」
「やっぱり、俺、がんばって、もうちょっと中学行きます」
「なに? どした、急に。さっきの説教?」
 決意表明の調子をからかった俺と正反対のまっすぐさで、宵は首肯した。
「うん。日生さんと同じ高校行って、同じ部活に入りたいから」
「あー……」
 きらきらとした宣言に怯み、曖昧な声をもらす。いや、マジで。こいつ、本当。
「宵さぁ」
 持て余した感情を散らすようにシャーペンを揺らし、俺は呼びかけた。
 俺と同じ高校に入って、同じ部活に入る。という話は、今よりもっと小さかった宵が言い始めたことだ。
 違う、ごめん、嘘。始めたのは、宵じゃない。不登校で引きこもり気味だった宵が心配になって、俺が兄貴ぶって提案した。
 一緒の高校行って、同じ部活に入ったら楽しいんじゃね? って。そのためには、中学行かなきゃなって。でも。
「出席日数が大丈夫になったらさ。もっと偏差値高いとこ行けるだろ。そっちのほうがいいんじゃない?」
 ちなみにだけど、宵の不登校はいじめとか、そういう外的な要因が理由のものではない。
 宵いわく「授業もぜんぶわかるのに、教室に座ってるのがすげー無意味って感じで馬鹿らしいんですよね」らしかった。いや、マジかわいくねぇな。天才。
 同学年だったら、俺も絶対遠巻きにしたと思うよ。
「なんで」
 意味がわからないと宵が断言する。
「日生さんと一緒じゃないと、意味ないよ」
「あー……、そっか」
 それ以外に言いようがなく、俺は苦笑を浮かべた。音声通話だったことに安堵した気分で、シャーペンを握り直す。
 だって、俺は、宵に、今の俺の顔を見せたくない。
「なら、まぁ、うん。がんばれよ」
 うん、という素直な返事とともに、沈黙が流れる。宵が発するにぎやかなタイプ音を聞きながら、俺は小さく溜息を吐いた。目元にかかった前髪を、くしゃりと掻きやる。
 ……なにやってんだろ、マジで。
 きっと、宵の頭の中には、書きたいものや、新しい表現があふれているのだ。だから、宵の音はよどみがない。俺とは違う。
 受験勉強に集中するという言い訳で片づけたノートパソコンを、俺は一瞥した。机の片隅、古い教科書と一緒に置かれたそれは、うっすらとしたほこりをかぶっている。あーあ、と心の中で、俺は呟いた。
 あーあ、本当。マジでなにやってんだろうな。俺。
 のっそりシャーペンを動かす俺と音だけが繋がった世界で、宵は今夜も軽やかに、宵だけの物語を紡ぎ続けている。
「…………」
 英文の設問を見つめたまま、俺は、と考える。
 俺は、宵の本が本屋に並んだとき。宵の受賞を喜んでみせたときと同じ顔で、笑うことができるのだろうか。