はは、と何度目かの軽い笑い声を立てたのとほとんど同時にドアが開き、俺と部長は会話を止めた。
「失礼します」
「お、宵くん。おつかれ」
「どうも。……あ、日生先輩」
俺の存在に気づいたらしく、宵の声のトーンがぱっと華やぐ。部長に対しての儀礼的なそれと桁違いの親密度。
マジこいつこういうとこ犬だよなぁと思っていると、宵がとことこと近寄ってきた。しかたなく、へらりと笑いかける。
「本選んでたの。おすすめある?」
「おすすめ……。先輩が今読んでるやつは? あ、ラノベ」
「そう、そう」
興味津々という調子に頷いて、俺は表紙を見せた。
「最近、一周回って王道ラノベもいいなーって時期」
「へぇ、俺も読んでみようかな」
「あー、まぁ、宵が好きかどうかはわかんないけど」
「大丈夫です」
「いや、なんなの、その自信」
自信というか、謎の俺への信頼というか。覚えた居た堪れなさで、再びぱらりとページをめくる。
――でも、こいつ、そうなんだよなぁ。
幾度目かの「あーあ」を呑み込んだタイミングで、部長がひょこりと顔を出した。鞄を手にしている様子から判じるに、帰る前に絡みに来てくれたのだろう。
「なんだ、宵くん、ラノベも読むのか?」
名指しを受けた宵が、「はい」と部長に顔を向ける。
「好きな文体なら」
「好きな文体……。そうか。宵くんが言うとすごいレベルが高そうだな」
「いや、レベルっていうか、わりとこいつ雑食なんですよ」
「はい、ラノベもですけど、児童書も一般文芸も、ネットの小説も。時間があったらなんでも読みます」
「へぇ、ネット」
「そうなんすよ」
意外そうに相槌を打った部長に、俺は宵の言葉足らずを補足した。
「好きな文体っていうのも、本当にうまい下手じゃなくて、ガチでこいつの好みかどうかみたいな感じで」
「でも、文体が合わないと読めないじゃないですか」
「それはわかるけど。おまえ、わりと過敏なほうだと思うよ」
だって、俺は、宵が執念深く自分の文章を修正することを知っている。
あそこまで必死なやつ、俺はおまえしか知らないよ。プロにとっては、あたりまえのことかもしれないけど。
微妙な顔で黙り込んだ宵と俺を見、部長は会話を切り上げた。
「じゃあ、俺、先帰るけど。カギ閉めお願いしてもいい?」
「いいっすよ。おつかれさまです」
俺の隣で、宵もぺこりと頭を下げる。
扉の閉まる音と、遠ざかっていく足音。しんと静まった部室の空気を妙に冷たく感じつつ、本棚を物色し始めた宵を窺う。
宵の視線の先にあるのは、俺が今手にしているラノベの作者の本だ。
「宵さぁ」
目線を手元に戻し、できるだけなんでもないふうに呼びかける。
「仲良く部活したいなら、言い方ちょっと気をつけたほうがいいぞー。部長はそういうの気にする人じゃないけど」
「……はぁ」
不承不承、というか、たぶん、いまひとつわかってないんだろうな、という雰囲気だった。
ちらりと確認した瞳は、想像のとおりの不思議そうなもので。しかたなく、俺はわかりやすく言い足した。
なんで、こいつ、現実の人間の情緒には疎いんだろうな。小説の表現は、あんなに繊細できれいなのに。
「天才だから、で、不要な発言もぜんぶ許容されたいわけじゃないんだろ」
「ああ、……はい」
わかりました、と宵が呟く。今度のそれは理解した声だった。
会話が途切れ、本棚に向き直った宵が、手に取った本の表紙を見つめながら口を開く。
「ありがとうございます」
「いや、べつに。ただの説教だし」
「それだけじゃなくて、さっきも」
「ん?」
「部長と」
「ああ」
なんだ、聞いてたのか、と答える代わりに、俺は小さく笑った。ふっとつられたように宵も笑う。
「日生さんは、いつも俺をふつうにしてくれる」
ふつう。珍しく俺のほうを見ないまま、宵は続けた。
「俺が学校行ってなかったときも」
「ああ、まぁ。でも、宵は宵だし、俺、宵と喋ってんの好きだったからなぁ」
そう。好きだった。純粋に、かつては。
「俺も」
静かに応じた宵が、ぱらりと本をめくる。
「日生さん」
「うん、なに」
「俺、日生さんと同じ高校入れてよかったです」
告白に、俺はそっと宵を見た。カーテンの開いた窓から差し込む光が、宵の黒い髪に天使の輪をつくっている。
出会ったころのまんまのような、さらさらの髪。その髪を見つめているあいだに、宵が静かに言葉を綴る。
「こうして一緒に部活できんの、すげぇうれしい」
「そっか」
「……まぁ、日生さんが書いてくれたらもっとうれしいんですけど」
反応に困って、はは、と俺は笑った。
もう、この話、やめてほしいんだけどな、本当に。何度も思ったことだったけど、やっぱり今日も言えなくて。俺は手元の本に意識を戻した。
でも、沈黙は長く続かなかった。また、宵が「日生さん」と俺を呼ぶ。
「俺、ずっとひとりだったじゃないですか」
「ん?」
「ずっとひとりで家にいて、べつにすることもなくて、ぼーっとするばっかりで。でも、そんなとき、日生さんの小説読んで『すげー』ってなって」
「おい、先生。語彙やべぇだろ」
俺のからかいに宵は乗らなかった。変わらない淡々とした――それでいて、しっとりとした感情の乗った声で言う。
「そこから日生さんと喋ることが楽しくなって、日生さんに宵も小説書いたらって言ってもらって、本当に世界が変わったんです」
世界が変わった、という言葉に、なぜかぐっと胸が重くなった気がした。からかって誤魔化すこともできず、じっと一文を見つめる。
「日生さんと一緒に俺の部屋で小説を書くのが、めちゃくちゃ楽しかった」
俺だって、楽しかったよ。あのころは。たぶん、純粋に。自惚れて。
宵と知り合って、宵の家に行くようになって、どんどんと一緒にいる時間が増えて、――それで。
知らず本を持つ指先に力が入る。でも、宵はまったく気づかなかったみたいだった。
「だから、日生さんともっと一緒にやりたいと思って、面倒だったけど中学も通ったんです。不登校だと日生さんと同じ高校に行けないって思ったから」
「あー、……なぁ。そうだよな」
だから、がんばる、という宵の宣言は、かつて何度も聞いたものだった。
そのたびに、大丈夫だよ、となんの根拠もない励ましをしたことも覚えている。でも。
曖昧な相槌だったにもかかわらず、宵ははにかんだ。
「はじめて日生さんにコメント送ったときのこと、俺、今もはっきり覚えてます」
いや、忘れろよ。そんなこと。
そうやって笑い飛ばせばよかったのに、できなくて。俺はぎこちなくページを繰った。
適当に笑うことも、適当に場を盛り上げることも得意なはずなのに。宵といると、たまにできなくなることがある。息が詰まることがある。
俺は、それがすごく嫌だ。
「日生さんから返信があって、それだけで飛び跳ねるくらいうれしかったのに、いっぱいやりとりもできるようになって、日生さんが近くに住んでるってわかって奇跡だと思った」
なぁ。そんな奇跡みたいな偶然、なかったらよかったのにな。
なにも言わないまま笑い、また一枚ページをめくる。静かな時間がふたりきりの部室に流れ、いつ帰ろうかなぁと思案していると、宵が再び口を開いた。
「あの」
固さのある呼びかけに、しかたなく宵のほうを向く。俺は結局、小さなころを知る宵を邪険にできないのだ。
「日生さんが書かないのって、俺のせいですか」
真剣な瞳の真ん中に俺が映っている。もし、ここで俺が宵のせいだと言ったら、宵は書くことをやめるんじゃないだろうか。
あっていいはずのないことなのに、なぜかそんな気がした。だから、俺はくしゃりと笑った。いつもの顔で。
「ばーか。んなわけねーだろ」
宵のことが嫌いなわけじゃない。はじめて俺を「先生」にしてくれた小さい宵が好きだった。俺だって、宵と一緒に小説を書く時間が好きだった。
今だって、そうだ。嫌いじゃない。嫌いなわけがない。宵に変な屈託を抱かせたくはない。
先輩としての意地と、あとはなんだろう。わからないけれど。持て余し続けている感情に蓋をして、宵を安心させる言葉を選ぶ。
「たださぁ、なんていうの? 俺、宵より前から小説書いてたからさ。飽きた、じゃないけど、ほかにもやりたいことがあるっつうか」
「…………はい」
「それだけ」
それだけだよ、と俺は笑って繰り返した。じっと俺を見つめていたきれいな瞳がゆるむ。でも、安心した、だけじゃなかったかもしれない。
日生さんの言うことを信じたい、みたいなそれ。
あーあ。宵の魔法が解けかけていることに気づいて、俺は心の中で呟いた。俺がかけた宵の魔法。
――日生先輩は、俺の師匠みたいなものなんです。
はじめて宵に小説を教えたのが俺だというだけで、恥も外聞もなく俺のことをすごいと言って、俺の言うことはぜんぶ信じる。宵だけに効いた魔法。
でも、そんなもの。何年も続くわけがないんだから。いっそのこと、はやくぜんぶ解けてくれたらいいのにな。
いつのまにか、宵は俺の隣で立ったまま小説を熟読し始めている。真剣な横顔を一瞥し、俺は本棚に本を返した。
宵の魔法が解けたら。宵が、俺のことをすごいと妄信しなくなったら。俺のしんどいはマシになるのかな。そんなことを考えながら、「宵」と声をかける。
「俺、帰るけど。おまえ、どうすんの?」
「…………少し」
「え、なに?」
聞こえないんだけど、と苦笑した俺の学ランの袖を、本を持っていない宵の白い指が引く。
「もうちょっと、一緒にいて」
宵の視線は、一心に本に注がれたままだ。
いや、マジで、おまえいくつだよ。呆れたのに言えなかったのは、甘え下手な宵が甘えることができる相手は少ないと知っていたからだ。
少ないというか、ほぼほぼ俺ひとり。
……本当にしょうがねぇな、こいつ。
それで、俺も。諦め半分で自嘲して、俺は「はい、はい」と良い兄貴ぶった返事をした。
「しょうがねぇの」
たぶん、宵の耳には受容に響く言い方。予想と違わず、かたちのいい唇がうれしそうに歪む。かわいくないわけじゃないんだけどね、本当。
溜息を呑み込んで、なぁ、と心の裏側で問うように呟く。俺のプライドに誓って宵には言わないから、俺の中での発言くらいは許してほしい。
そうでもないと、あふれてしまう。
――なぁ、本当。嫌いになれたら、よかったのにな。
おまえも、小説も。なにもかもすべて。
「失礼します」
「お、宵くん。おつかれ」
「どうも。……あ、日生先輩」
俺の存在に気づいたらしく、宵の声のトーンがぱっと華やぐ。部長に対しての儀礼的なそれと桁違いの親密度。
マジこいつこういうとこ犬だよなぁと思っていると、宵がとことこと近寄ってきた。しかたなく、へらりと笑いかける。
「本選んでたの。おすすめある?」
「おすすめ……。先輩が今読んでるやつは? あ、ラノベ」
「そう、そう」
興味津々という調子に頷いて、俺は表紙を見せた。
「最近、一周回って王道ラノベもいいなーって時期」
「へぇ、俺も読んでみようかな」
「あー、まぁ、宵が好きかどうかはわかんないけど」
「大丈夫です」
「いや、なんなの、その自信」
自信というか、謎の俺への信頼というか。覚えた居た堪れなさで、再びぱらりとページをめくる。
――でも、こいつ、そうなんだよなぁ。
幾度目かの「あーあ」を呑み込んだタイミングで、部長がひょこりと顔を出した。鞄を手にしている様子から判じるに、帰る前に絡みに来てくれたのだろう。
「なんだ、宵くん、ラノベも読むのか?」
名指しを受けた宵が、「はい」と部長に顔を向ける。
「好きな文体なら」
「好きな文体……。そうか。宵くんが言うとすごいレベルが高そうだな」
「いや、レベルっていうか、わりとこいつ雑食なんですよ」
「はい、ラノベもですけど、児童書も一般文芸も、ネットの小説も。時間があったらなんでも読みます」
「へぇ、ネット」
「そうなんすよ」
意外そうに相槌を打った部長に、俺は宵の言葉足らずを補足した。
「好きな文体っていうのも、本当にうまい下手じゃなくて、ガチでこいつの好みかどうかみたいな感じで」
「でも、文体が合わないと読めないじゃないですか」
「それはわかるけど。おまえ、わりと過敏なほうだと思うよ」
だって、俺は、宵が執念深く自分の文章を修正することを知っている。
あそこまで必死なやつ、俺はおまえしか知らないよ。プロにとっては、あたりまえのことかもしれないけど。
微妙な顔で黙り込んだ宵と俺を見、部長は会話を切り上げた。
「じゃあ、俺、先帰るけど。カギ閉めお願いしてもいい?」
「いいっすよ。おつかれさまです」
俺の隣で、宵もぺこりと頭を下げる。
扉の閉まる音と、遠ざかっていく足音。しんと静まった部室の空気を妙に冷たく感じつつ、本棚を物色し始めた宵を窺う。
宵の視線の先にあるのは、俺が今手にしているラノベの作者の本だ。
「宵さぁ」
目線を手元に戻し、できるだけなんでもないふうに呼びかける。
「仲良く部活したいなら、言い方ちょっと気をつけたほうがいいぞー。部長はそういうの気にする人じゃないけど」
「……はぁ」
不承不承、というか、たぶん、いまひとつわかってないんだろうな、という雰囲気だった。
ちらりと確認した瞳は、想像のとおりの不思議そうなもので。しかたなく、俺はわかりやすく言い足した。
なんで、こいつ、現実の人間の情緒には疎いんだろうな。小説の表現は、あんなに繊細できれいなのに。
「天才だから、で、不要な発言もぜんぶ許容されたいわけじゃないんだろ」
「ああ、……はい」
わかりました、と宵が呟く。今度のそれは理解した声だった。
会話が途切れ、本棚に向き直った宵が、手に取った本の表紙を見つめながら口を開く。
「ありがとうございます」
「いや、べつに。ただの説教だし」
「それだけじゃなくて、さっきも」
「ん?」
「部長と」
「ああ」
なんだ、聞いてたのか、と答える代わりに、俺は小さく笑った。ふっとつられたように宵も笑う。
「日生さんは、いつも俺をふつうにしてくれる」
ふつう。珍しく俺のほうを見ないまま、宵は続けた。
「俺が学校行ってなかったときも」
「ああ、まぁ。でも、宵は宵だし、俺、宵と喋ってんの好きだったからなぁ」
そう。好きだった。純粋に、かつては。
「俺も」
静かに応じた宵が、ぱらりと本をめくる。
「日生さん」
「うん、なに」
「俺、日生さんと同じ高校入れてよかったです」
告白に、俺はそっと宵を見た。カーテンの開いた窓から差し込む光が、宵の黒い髪に天使の輪をつくっている。
出会ったころのまんまのような、さらさらの髪。その髪を見つめているあいだに、宵が静かに言葉を綴る。
「こうして一緒に部活できんの、すげぇうれしい」
「そっか」
「……まぁ、日生さんが書いてくれたらもっとうれしいんですけど」
反応に困って、はは、と俺は笑った。
もう、この話、やめてほしいんだけどな、本当に。何度も思ったことだったけど、やっぱり今日も言えなくて。俺は手元の本に意識を戻した。
でも、沈黙は長く続かなかった。また、宵が「日生さん」と俺を呼ぶ。
「俺、ずっとひとりだったじゃないですか」
「ん?」
「ずっとひとりで家にいて、べつにすることもなくて、ぼーっとするばっかりで。でも、そんなとき、日生さんの小説読んで『すげー』ってなって」
「おい、先生。語彙やべぇだろ」
俺のからかいに宵は乗らなかった。変わらない淡々とした――それでいて、しっとりとした感情の乗った声で言う。
「そこから日生さんと喋ることが楽しくなって、日生さんに宵も小説書いたらって言ってもらって、本当に世界が変わったんです」
世界が変わった、という言葉に、なぜかぐっと胸が重くなった気がした。からかって誤魔化すこともできず、じっと一文を見つめる。
「日生さんと一緒に俺の部屋で小説を書くのが、めちゃくちゃ楽しかった」
俺だって、楽しかったよ。あのころは。たぶん、純粋に。自惚れて。
宵と知り合って、宵の家に行くようになって、どんどんと一緒にいる時間が増えて、――それで。
知らず本を持つ指先に力が入る。でも、宵はまったく気づかなかったみたいだった。
「だから、日生さんともっと一緒にやりたいと思って、面倒だったけど中学も通ったんです。不登校だと日生さんと同じ高校に行けないって思ったから」
「あー、……なぁ。そうだよな」
だから、がんばる、という宵の宣言は、かつて何度も聞いたものだった。
そのたびに、大丈夫だよ、となんの根拠もない励ましをしたことも覚えている。でも。
曖昧な相槌だったにもかかわらず、宵ははにかんだ。
「はじめて日生さんにコメント送ったときのこと、俺、今もはっきり覚えてます」
いや、忘れろよ。そんなこと。
そうやって笑い飛ばせばよかったのに、できなくて。俺はぎこちなくページを繰った。
適当に笑うことも、適当に場を盛り上げることも得意なはずなのに。宵といると、たまにできなくなることがある。息が詰まることがある。
俺は、それがすごく嫌だ。
「日生さんから返信があって、それだけで飛び跳ねるくらいうれしかったのに、いっぱいやりとりもできるようになって、日生さんが近くに住んでるってわかって奇跡だと思った」
なぁ。そんな奇跡みたいな偶然、なかったらよかったのにな。
なにも言わないまま笑い、また一枚ページをめくる。静かな時間がふたりきりの部室に流れ、いつ帰ろうかなぁと思案していると、宵が再び口を開いた。
「あの」
固さのある呼びかけに、しかたなく宵のほうを向く。俺は結局、小さなころを知る宵を邪険にできないのだ。
「日生さんが書かないのって、俺のせいですか」
真剣な瞳の真ん中に俺が映っている。もし、ここで俺が宵のせいだと言ったら、宵は書くことをやめるんじゃないだろうか。
あっていいはずのないことなのに、なぜかそんな気がした。だから、俺はくしゃりと笑った。いつもの顔で。
「ばーか。んなわけねーだろ」
宵のことが嫌いなわけじゃない。はじめて俺を「先生」にしてくれた小さい宵が好きだった。俺だって、宵と一緒に小説を書く時間が好きだった。
今だって、そうだ。嫌いじゃない。嫌いなわけがない。宵に変な屈託を抱かせたくはない。
先輩としての意地と、あとはなんだろう。わからないけれど。持て余し続けている感情に蓋をして、宵を安心させる言葉を選ぶ。
「たださぁ、なんていうの? 俺、宵より前から小説書いてたからさ。飽きた、じゃないけど、ほかにもやりたいことがあるっつうか」
「…………はい」
「それだけ」
それだけだよ、と俺は笑って繰り返した。じっと俺を見つめていたきれいな瞳がゆるむ。でも、安心した、だけじゃなかったかもしれない。
日生さんの言うことを信じたい、みたいなそれ。
あーあ。宵の魔法が解けかけていることに気づいて、俺は心の中で呟いた。俺がかけた宵の魔法。
――日生先輩は、俺の師匠みたいなものなんです。
はじめて宵に小説を教えたのが俺だというだけで、恥も外聞もなく俺のことをすごいと言って、俺の言うことはぜんぶ信じる。宵だけに効いた魔法。
でも、そんなもの。何年も続くわけがないんだから。いっそのこと、はやくぜんぶ解けてくれたらいいのにな。
いつのまにか、宵は俺の隣で立ったまま小説を熟読し始めている。真剣な横顔を一瞥し、俺は本棚に本を返した。
宵の魔法が解けたら。宵が、俺のことをすごいと妄信しなくなったら。俺のしんどいはマシになるのかな。そんなことを考えながら、「宵」と声をかける。
「俺、帰るけど。おまえ、どうすんの?」
「…………少し」
「え、なに?」
聞こえないんだけど、と苦笑した俺の学ランの袖を、本を持っていない宵の白い指が引く。
「もうちょっと、一緒にいて」
宵の視線は、一心に本に注がれたままだ。
いや、マジで、おまえいくつだよ。呆れたのに言えなかったのは、甘え下手な宵が甘えることができる相手は少ないと知っていたからだ。
少ないというか、ほぼほぼ俺ひとり。
……本当にしょうがねぇな、こいつ。
それで、俺も。諦め半分で自嘲して、俺は「はい、はい」と良い兄貴ぶった返事をした。
「しょうがねぇの」
たぶん、宵の耳には受容に響く言い方。予想と違わず、かたちのいい唇がうれしそうに歪む。かわいくないわけじゃないんだけどね、本当。
溜息を呑み込んで、なぁ、と心の裏側で問うように呟く。俺のプライドに誓って宵には言わないから、俺の中での発言くらいは許してほしい。
そうでもないと、あふれてしまう。
――なぁ、本当。嫌いになれたら、よかったのにな。
おまえも、小説も。なにもかもすべて。



