ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

「おばちゃーん、来たよー」
 子どものころから通っているラーメン屋のドアを引くと、カウンターの奥にいたおばちゃんが愛想良くほほえんだ。
「あら、洸平くん、ちょっとぶり。いらっしゃい」
「うーん、最近、バイト忙しくてさ。あ、こっち後輩」
 ぎこちなく頭を下げた宵を促して、正面のカウンター席に座る。お客さんは俺らのほかには二組だけ。
 ラッキーだったなとほくほくした気分で、俺は宵にメニューを手渡した。
「宵、おまえなににする? なんでもいいよ」
「先輩と同じので」
「んー。じゃあ、おばちゃん味噌ふたつー」
 あいかわらず欲ねぇなぁ、こいつ。
 呆れと懐かしさの入り混じったことを思いつつ、おばちゃんに注文する。ついでに宵からメニュー表を回収して、俺はグラスに水を注いだ。
「はい、宵」
「ありがとうございます。あの」
 水を受け取った宵が、小さく首を傾げる。
「ん?」
「よく来るんですか、ここ」
「ああ、まぁ。ここ、友達の親がやってるんだけど。親同士が仲良くて。だから、けっこう来るかな。友達ともだけど、家族とも」
「ふぅん」
 そうなんですね、というふうに頷いた宵の、ちょこんと尖った唇がかわいくて。ふはっと笑う。
「なんなんですか、ちょっと」
「んー、べつにぃ」
 かわいいなぁと思って、と告げる代わりに、俺は元の位置に戻したばかりのメニュー表をトントンと指で指した。
「腹空いてるなら餃子もうまいよ、食う?」
「いいです、べつに」
「なに。おまえ、あいかわらず小食のままなの? 背、伸びねぇぞ」
「べつに。それもいいです」
 水を一口飲んだ宵が、ちらりと俺を見る。
「日生さんは追い越したし」
「かわいくねぇな。何センチ?」
「九月に測ったとき、七十五だった」
「……かわいくねぇな」
 前言(口にはしてないけど)撤回。かわいくない。俺の目から見たら、ドヤ顔に見えるのがまたよけいに。
 たった三センチでドヤんなよなぁという苦笑ひとつで、カウンターの高さに揃えた手を横に動かす。
「昔はこんなチビだったのに」
「そんなチビだったことないでしょ。いつの記憶ですか」
「えー?」
「はーい、お待ちどぉ」
 へらっと笑ったタイミングで、味噌ラーメンが出てきた。お礼を言って、カウンター越しに受け取る。
 箸を取ってやったりなんだかんだと宵の世話を焼いてから、俺も「いただきます」と手を合わせた。
 宵と外を歩いて冷えた身体に、食べ慣れたうまいラーメンは染みる。黙々と食べていると、手が空いたらしいおばちゃんが「ねぇ」と話しかけてきた。
「ちょっと気になったんだけど、宵って、もしかして、宵先生? ほら、あのイケメン高校生作家の」
「あー……」
 一瞬、やべ、と焦ったものの、バレたものはしかたがない。俺はへらりとほほえんだ。無言のイエスに、おばちゃんが勢い込む。
「やっぱり! うちの町の有名人。ごめんね、読んだことはないんだけど。あ、でも、うちの娘は好きみたいで。なんだっけ? タイトル。本棚にあったんだけどな。ヘブンリー……、えーと」
「ヘブンリーブルー」
 気難しい顔でラーメンを食べ続ける宵に代わって、答える。宵のデビュー作だ。
「西洋朝顔のことらしいよ」
「ああ、西洋朝顔。かわいいわよね。あたし好きなのよ」
「なんか人気らしいね、家庭菜園とかでも」
 まぁ、小学生の宵が気に入ったのは、幻覚剤として使われていた歴史のほうだったみたいたけど。
 あるよな、そういうのに正しく興味を持つ年頃って。あと、なんかヘブンリーブルーって字面がかっこいいじゃん。西洋朝顔じゃ様にならない。そういうセンス。
 俺がはじめてつけたタイトルなんて、ウェブで流行りの超長文だったよ。
 あーあ、とすっかり癖になったそれを内心で呟いて、俺に任せて雑談から身を引いていた宵に問いかけた。
 ちなみに、おばちゃんはレジに入っている。
「うまい?」
 こくんと宵の頭が動く。その反応に、俺は満足して目を細めた。
「だよな」
「こういうとこ、あんまり家族とかと来ないんで」
「……だよな」
 ほんのちょっと。なんとも言えない気まずさを覚えたものの、俺はへらりと笑うことを選んだ。
 まぁ、たしかに、宵のおばちゃんもおじちゃんもこういうとこ来なさそうだよなぁ、と思いながら。
 俺が勝手に決めんなよ、という話であることは重々承知の上で宵の家庭事情を説明すると、「めちゃくちゃドライ」の一言に尽きる。
 育児放棄とかではないんだけど、各々自立、みたいな。
 まぁ、僕が学校に行かなくてもなにも言わないんで、そういう意味では楽ですけど、と大人ぶった口調で評していた小学生の宵は、それから二年後。俺の受賞を喜んでくれたのは日生さんだけです、と言った。
 会話が終わり、黙々と箸を動かしていると、おばちゃんが戻ってきた。カウンターの向こうから、にこにこと宵に笑いかける。
「ねぇ、宵くん。よかったらなんだけど、あとでサイン書いてもらえないかな?」
「いや……」
「書けばいいじゃーん。おばちゃん、サイン代に煮卵かなんかトッピングちょうだいよ」
「…………先輩がそう言うなら」
「もちろん。って、あら、ごめんなさい。なにに書いてもらおうかな」
「なに。おばちゃん、サイン色紙ないのに提案したの」
「だって、せっかくだと思って。まぁ、いっか。サイン色紙買っておくから、次来たときに書いてもらってもいい? はい、これは先におまけね」
 了解、と笑って、俺はおばちゃんから煮卵がふたつ入った小皿を受け取った。ひとつを宵のラーメン鉢に落とし、もうひとつは自分のところへ。
「な、ラッキー」
 笑顔を向けると、宵は不満そうだった表情をゆるめた。まぁ、しかたないと言わんばかりだったけど。
 そのやりとりを見ていたらしいおばちゃんが、ほほえましそうに俺たちを評す。
「後輩って言ってたけど、随分仲が良いのね」
「ああ、えっと……」
「日生先輩は、俺の師匠みたいなものなんです」
「師匠? あら、やだ。洸平くんも小説なんて書いてたの? そういえば、昔はよくここでも本読んでたっけ」
「ちょっと、宵~。やめてよ、おばちゃん。こいつのこれ、マジお世辞だから」
「お世辞なんかじゃ」
「はい、はい。俺の煮卵もやるから黙ってて」
 宵の器に追加で煮卵を落とすと、宵は黙り込んだ。言うなの暗を察したらしく、もそもそと煮卵を食べている。
 あーあ。本当、マジこういうとこ。俺はまた言えるわけのない文句を呑み込んだ。ちょっと伸びてきた麺をすする。
 ――ひなせさんは、僕のヒーローなんです。
 目を合わせることもできず、照れたようにはにかんだ幼い顔。
 馬鹿じゃねぇの、あのときかわいいなんて思わなかったら。絆されなかったら、たぶん、俺、こんなに苦しくなかったぞ。
 でも、と。俺は宵の横顔を盗み見た。
 そうしたら、こいつは作家になってねぇんだよな。いや、まぁ、いずれなったんだろうけど。べつに、俺がいなくても。
 俺が作家・宵を育てたなんて、厚顔無恥なことを言う気はない。良くも悪くも、俺にはその程度の分別があった。
「宵」
 呼びかけると、宵が俺のほうを向いた。ばちりと目が合う。
「おまえの書く話、好きだよ、俺」
 めちゃくちゃ腹も立つけど、それでも。
「だからさ。今度、また連れてきてやるから、サイン書いてやってよ。おまけ貰っちゃったし。由衣ちゃん――あ、さっきの話の娘さんね、が、おまえの本好きなのはガチだと思うし」
 な、と宥めるように告げれば、幼いころの面影を残した瞳がふにゃりとゆるむ。学校の女子が見たら「きゃー」って叫びそうな感じだった。
「俺ね」
「うん」
「やっぱり日生さんの話が大好きなんです」
 だから、と宵が言う。
「日生さんも早く書いてくださいよ。文化祭の部誌、去年短編載せてましたよね。俺、あの話も」
「あー、マジごめん」
 延々と続きそうだった話を遮り、俺は笑った。へらりと。誠意もなにもないそれで。
「休憩中なんだわ、俺」
 たぶん、この二年――とくに、宵が俺の高校に入学してからの半年で何度告げたかわからない、薄っぺらい理由。
 でも、俺がこの常套句を口にすると、宵はそれ以上はせっつかない。
 まぁ、黙っていても雄弁な宵の目は「じゃあ、なんで、文芸部に籍を置いてるんですか」と俺を責めているんだけど。
 いや、マジ、それ。チビだったおまえが俺と一緒に部活したいって言ったからだよ。その名残り。搾りかす。青春の残骸。
 こんなふうになるなんて、思ってなかったからさ。
 あーあ、と内心でぼやいて、俺はレンゲで汁をすくった。

 さて、ここで、ひとつ昔話をしよう。
 中学生だった俺の、かわいい黒歴史だ。ひなせという名前でほとんど毎日ウェブ小説を投稿していたころの、たぶん、そこそこよくある話。
 あのころの俺は、自分は小説を書くことがうまいと思っていた。というか、信じていた。少なくとも、同年代の中では圧倒的なんじゃね? と、そう。
 宵に教え始めたときもそうだった。でも、それって、よくよく考えたら、あたりまえの差だったんだよな。
 小さいころから本ばかり読んでいて、文字が書けるようになると自然と小説――まぁ、小説とは呼べない出来のものだったけど――を書き始めていた。それでウェブ小説の売れ筋も知っていた。凡人がこつこつ積み重ねた、六年ほどのアドバンテージ。
 そんなもの、天才を前にしたら爆速で吹き飛ばされるんだってことを、このときの俺は知らなかったってわけ。
 受賞したと息せき切って報告に来た宵の頭を「すごいじゃん」と撫でたのは(ちなみにだけど、そのころの宵は本当に小さかった。子どものころの一学年の差ってデカい)、宵を褒めたかったからじゃない。俺のプライドを守りたかったからだ。
 先輩面をしていたくせに、あっというまに後輩に追い抜かれた。そのことを悔しく思っているなんて、絶対に知られたくなかった。
 だから、俺はずっと宵にそういう顔を見せなかった。
 だから、宵がこういうことを言うのは、なにも悪くないとわかっている。苛々するのも、鬱屈するのも、マジでぜんぶ俺の問題。
 でも、だから、宵がもっと嫌なやつだったらよかったのにな、と思うことはある。
 たとえば、なんの努力もしてない、天性の化け物だった、とか。受賞した途端に、俺を下に見るようになった、とか。
 そんな宵は宵じゃないけど、そんな宵だったら、たぶん、俺、もっと楽だったんだろうな。