「まだここでバイトしてるって言ってたから」
「いや、そりゃ……してるけど」
戸惑いつつも、俺は頷いた。宵の言うそれは、たぶん、俺がどこかでした世間話なんだろうけど。
なんで、覚えてんだよ。そんなこと。笑い飛ばしてもよかったはずなのに、うまくできなくて。俺は、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
宵とこんなふうに話すのは、「お大事にな」と笑って、宵の部屋を出た朝以来かもしれない。
宵のつむじを見つめていると、ぽつりとした声が響いた。
「最近」
「うん」
「先輩がよく変な顔してるから」
「は?」
予想だにしなかった展開に、まぬけな声がもれる。ずいぶん昔にも聞いた覚えのある台詞だった。
「え……。なに、それ。おまえ、それでわざわざこんなところまで来たわけ?」
べつに大学で話しかけてくれたらいいし、なんなら、メッセージアプリで連絡をくれたっていいのに。
困惑の強く出た問いかけに、宵も困惑のにじんだ声を返した。
「大学じゃ、うまく話せないから」
「うまく話せないって……」
「いつもそうなのかもしれないですけど」
応じた宵の瞳が、ふっと自嘲に揺れる。
「困らせたいわけじゃないんです」
「え?」
「これでも、昔からずっと」
俺はじっと宵を見つめた。
宵の言葉足らずは、それこそずっと昔からだ。あるいは、察してしまう俺が助長させた一面もあったのかもしれない。
困らせたいわけじゃない、というのはなんなのだろう。あの夜のキスのことか、それとも。思案していると、宵がふいと視線を外した。
「俺がいると日生さんが笑えないなら、俺がいないところで笑ってくれたらいいと思ってた」
言葉足らずから、勝手に想像したなによりも。遠いところにあった告白に、俺は目を瞠った。
連想ゲームみたいに、高校一年生だった宵の声が次々と頭に流れていく。
――日生さんが書かないのって、俺のせいですか。
――やめてください、その顔。
――俺、入らないほうがよかったですか?
――日生さんが好きだから。
なんで、こんなタイミングで言うわけ? おまえ。上目線で、俺はそう思っていた。
おまえの非難も、告白も、タイミング最悪だよって。
でも、違った。ようやくわかった。今になって。あのころの俺はたしかに限界だったけど、その俺の態度を間近で見ていた宵も、きっと限界だったのだ。
……馬鹿だよな、本当。
俺のことなんて、とっとと嫌いになっていてくれたらよかったのに。
「このあいだ、俺が風邪引いたとき」
「……うん」
静かな宵の声に、どうにかふつうの相槌を振り絞る。
「俺だけが特別だったらいいのにって思ってたって。すげぇガキみたいなこと言いましたけど、そっちも本音なんです。言うつもりなんてなかったけど」
「うん」
「でも」
そう言ったところで、宵の言葉は途切れた。俺たちのあいだだけの沈黙に、冷たい冬の空気が混じる。宵の背後の県道は、何台もの車が行き交っていた。
「俺は、たぶん、ふつうの人間としてどっかおかしいから」
宵の口から、白い息がこぼれる。俺は、なにも言うことができなかった。
「日生さんにたくさんのものを貰ったのに、俺はなにも返せない」
「…………」
「なにもないんです、俺には」
なぁ。おまえ、ちょっと、本当に言葉足らずがすぎない? それで、俺も勝手にわかった気になりすぎだったんじゃない?
自分じゃない他人のことが百パーセントわかるなんて、あるわけがなかったのに。俺はどれだけうぬぼれていたんだろう。
「あのさ」
気を抜くと震えそうになる声帯を叱咤して、呼びかける。腹の中の獣は、すっかりおとなしくなっていた。
「俺は宵になにかを求めたことはないし、なにかを返してほしいから優しくしたわけでもないんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
びっくりするくらい、迷子の子どものような声だった。でも、俺の口からこぼれ落ちた声も、似たようなものだったかもしれない。
「宵には」
呟いて、俺はポケットの中でぎゅっと手のひらを握りしめた。
「そのままでいてほしい」
俺みたいに悩まないでほしいし、俺みたいに苦しまないでほしいし、俺だって、幸せでいてほしいと思ってたよ。
きらきらした目で「楽しい」だけですごい小説を書く、宵でいてほしかったよ。
変わらないなんてことがあるわけがないとわかっていても、それでも。
「あとさ」
そっとひとつ息を吐き、俺はもう一度呼びかけた。
「宵が俺のことをどんな人間だと思ってるのか知らないけど」
「え……」
驚いたように、宵の顔が上がる。あのころとは違う、少し大人になった瞳。その瞳を見つめ、俺は続けた。
「べつに遊んでないし、キスされて嫌だったら、ふつうに怒るよ」
「あ、……ええと、はい」
「怒るんだよ、そういうとき。ふつうは」
なんだよ、「はい」って。呆れたらいいのか、怒ったらいいのか。それとも、笑ったらいいのか。
なにもかもわからなくて。それでも、俺は言い聞かせる調子を選んだ。
「それで、そういうのは、好きな相手にしかしちゃ駄目なんだよ」
どこかきょとんとしていた宵の表情が、次第にバツの悪いものに変わっていく。ああ、もう、おまえは本当になんで。
……どうしようもないくらい、かわいいんだろうなぁ。
最後のつもりで「なぁ」と三度呼びかける。
「おまえ、俺のこと好きなの?」
俺は、おまえと同じ好きだったらよかったのにって。どこかでずっと願ってたよ。
「いや、そりゃ……してるけど」
戸惑いつつも、俺は頷いた。宵の言うそれは、たぶん、俺がどこかでした世間話なんだろうけど。
なんで、覚えてんだよ。そんなこと。笑い飛ばしてもよかったはずなのに、うまくできなくて。俺は、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
宵とこんなふうに話すのは、「お大事にな」と笑って、宵の部屋を出た朝以来かもしれない。
宵のつむじを見つめていると、ぽつりとした声が響いた。
「最近」
「うん」
「先輩がよく変な顔してるから」
「は?」
予想だにしなかった展開に、まぬけな声がもれる。ずいぶん昔にも聞いた覚えのある台詞だった。
「え……。なに、それ。おまえ、それでわざわざこんなところまで来たわけ?」
べつに大学で話しかけてくれたらいいし、なんなら、メッセージアプリで連絡をくれたっていいのに。
困惑の強く出た問いかけに、宵も困惑のにじんだ声を返した。
「大学じゃ、うまく話せないから」
「うまく話せないって……」
「いつもそうなのかもしれないですけど」
応じた宵の瞳が、ふっと自嘲に揺れる。
「困らせたいわけじゃないんです」
「え?」
「これでも、昔からずっと」
俺はじっと宵を見つめた。
宵の言葉足らずは、それこそずっと昔からだ。あるいは、察してしまう俺が助長させた一面もあったのかもしれない。
困らせたいわけじゃない、というのはなんなのだろう。あの夜のキスのことか、それとも。思案していると、宵がふいと視線を外した。
「俺がいると日生さんが笑えないなら、俺がいないところで笑ってくれたらいいと思ってた」
言葉足らずから、勝手に想像したなによりも。遠いところにあった告白に、俺は目を瞠った。
連想ゲームみたいに、高校一年生だった宵の声が次々と頭に流れていく。
――日生さんが書かないのって、俺のせいですか。
――やめてください、その顔。
――俺、入らないほうがよかったですか?
――日生さんが好きだから。
なんで、こんなタイミングで言うわけ? おまえ。上目線で、俺はそう思っていた。
おまえの非難も、告白も、タイミング最悪だよって。
でも、違った。ようやくわかった。今になって。あのころの俺はたしかに限界だったけど、その俺の態度を間近で見ていた宵も、きっと限界だったのだ。
……馬鹿だよな、本当。
俺のことなんて、とっとと嫌いになっていてくれたらよかったのに。
「このあいだ、俺が風邪引いたとき」
「……うん」
静かな宵の声に、どうにかふつうの相槌を振り絞る。
「俺だけが特別だったらいいのにって思ってたって。すげぇガキみたいなこと言いましたけど、そっちも本音なんです。言うつもりなんてなかったけど」
「うん」
「でも」
そう言ったところで、宵の言葉は途切れた。俺たちのあいだだけの沈黙に、冷たい冬の空気が混じる。宵の背後の県道は、何台もの車が行き交っていた。
「俺は、たぶん、ふつうの人間としてどっかおかしいから」
宵の口から、白い息がこぼれる。俺は、なにも言うことができなかった。
「日生さんにたくさんのものを貰ったのに、俺はなにも返せない」
「…………」
「なにもないんです、俺には」
なぁ。おまえ、ちょっと、本当に言葉足らずがすぎない? それで、俺も勝手にわかった気になりすぎだったんじゃない?
自分じゃない他人のことが百パーセントわかるなんて、あるわけがなかったのに。俺はどれだけうぬぼれていたんだろう。
「あのさ」
気を抜くと震えそうになる声帯を叱咤して、呼びかける。腹の中の獣は、すっかりおとなしくなっていた。
「俺は宵になにかを求めたことはないし、なにかを返してほしいから優しくしたわけでもないんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
びっくりするくらい、迷子の子どものような声だった。でも、俺の口からこぼれ落ちた声も、似たようなものだったかもしれない。
「宵には」
呟いて、俺はポケットの中でぎゅっと手のひらを握りしめた。
「そのままでいてほしい」
俺みたいに悩まないでほしいし、俺みたいに苦しまないでほしいし、俺だって、幸せでいてほしいと思ってたよ。
きらきらした目で「楽しい」だけですごい小説を書く、宵でいてほしかったよ。
変わらないなんてことがあるわけがないとわかっていても、それでも。
「あとさ」
そっとひとつ息を吐き、俺はもう一度呼びかけた。
「宵が俺のことをどんな人間だと思ってるのか知らないけど」
「え……」
驚いたように、宵の顔が上がる。あのころとは違う、少し大人になった瞳。その瞳を見つめ、俺は続けた。
「べつに遊んでないし、キスされて嫌だったら、ふつうに怒るよ」
「あ、……ええと、はい」
「怒るんだよ、そういうとき。ふつうは」
なんだよ、「はい」って。呆れたらいいのか、怒ったらいいのか。それとも、笑ったらいいのか。
なにもかもわからなくて。それでも、俺は言い聞かせる調子を選んだ。
「それで、そういうのは、好きな相手にしかしちゃ駄目なんだよ」
どこかきょとんとしていた宵の表情が、次第にバツの悪いものに変わっていく。ああ、もう、おまえは本当になんで。
……どうしようもないくらい、かわいいんだろうなぁ。
最後のつもりで「なぁ」と三度呼びかける。
「おまえ、俺のこと好きなの?」
俺は、おまえと同じ好きだったらよかったのにって。どこかでずっと願ってたよ。



