ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

 ※

 一ヶ月――正確には、一ヶ月と少し前。
 お節介をして、宵のマンションにお見舞いに行って、宵とキスをした。
 改めて言葉にすると、「え、なに、そのベタな恋愛小説」みたいなシチュエーションだけど、でも、それだけ。
 その先には、なにもない。宵の指があっさり離れたことが証拠のようなものだ。よく覚えている。俺から視線を外して告げた、吐息まじりの宵の声も。
「先に戻ります」
 謝罪ではなく、ただの用件。いや、べつに謝られたかったわけじゃないけど。
 なにも言えないでいるうちに網戸が閉まり、ベランダにひとりになる。さっきまでの宵みたいに桟に肘をつき、俺は、あーあ、と口の中で呟いた。
 ……なんで優しくするの、か。
 おまえが放っておけないことばかりをするからだというのは、ずるい言い訳なのだろうか。
 あるいは、宵が「忘れたい」と言っている以上、宵と同じ「好き」を返すことができない以上、優しくしないことが本当の「優しい」になるのだろうか。
 構内で宵を見かけても、声をかけることをせず。評判の悪い誰かとつるんでいても放置して、体調が悪そうだと気がついても、無視をする。
 そうしたら、宵は幸せになることができるって?
 俺のいないところで、俺の知らない誰かと一緒に。
 ……いやいや。まぁ、でも、べつに、いいんじゃね? 宵がいいなら。
 本当に?
「…………」
 どこからか湧いた自問自答に、俺は黙って夜を見上げた。
 宵は、宵の口。夜の始まり。今は深夜。ほとんどの人は寝ている時間。そんな真夜中に、ひとり。俺はなにをしているんだろう。
「……あーあ」
 腹の奥に、得体の知れない生き物が巣食っている。宵が眠る部屋にのこのこと戻る気にはなれないまま。俺は溜息を吐き出した。
 それで、今。
 俺は、宵に声をかけることを躊躇するようになり。あの夜に生まれた生き物は、もやもやの輪郭を広げながら成長を続けている。

「十二月に入った瞬間、すっげぇクリスマスって感じですよね~」
 二十二時まで入っていたシフトが終わり、更衣室でダウンジャケットを羽織りながら、俺は民さんに話しかけた。
 街中の音楽もそうだけど、バイト中のファミレスで耳に入る会話もぜんぶ。なんか、マジでクリスマスだなって感じ。いや、べつにいいんだけど。
「お客さんも多いし、忙しいし。クリスマス前後のシフトは埋まんねぇし」
 あーあ、という調子で吐き出すと、スマホを触っていた民さんが、微妙に不審そうな顔で俺を見た。
「なに。おまえ、振られでもしたの?」
「え……べつにしてないですけど。なんでですか?」
 世間話半分で、問い返す。
 というか、この半年弱。宵に振り回されていたせいで(まぁ、宵は、逆だって思ってそうだけど)、恋愛どころじゃなかったんだけどな。
「らしくない愚痴の吐き方してたから」
「…………」
「クリスマス前に振られて苛々してんのかなーって。まぁ、べつにいいんだけど」
「……そういうわけじゃないっすけど」
 バツが悪くなり、俺はもにょもにょと呟いた。その俺に、「いや、だから、べつにいいんだけど」と民さんが生ぬるく笑う。
「高西ちゃんとユリちゃんが『なんか、最近、日生さん苛々してないですか~?』って言ってただけだから」
「…………マジ?」
「マジ、マジ。まぁ、おまえ、ふだんがへらへらにこにこしてっから。悩んでるなら、なんか聞いてやろうか?」
「そういうわけでもないんですけど」
 ぽつりと応じ、俺は前髪を掻き上げた。
 みっともないから、認めたくはない。でも、もし、俺が、バイト先の女子高生に勘付かれるレベルで苛々していたのだとしたら。
 それは、ぜんぶ、腹の中で育ったもやもやのせいだ。
「民さんってさぁ」
 はじめて会ったころから変わらない派手な金髪に、やんちゃに整った顔。バイト仲間の女の子からは「軽い」と敬遠されつつも、お客さんのギャルからは大人気。
 間違いなく経験豊富と踏んで、俺は問いかけた。
「付き合ってない女の子に、キスしたりする?」
「いや~、逆になしかな」
「あ、……そうなんだ」
 あっさりと首を横に振られ、ほんの少し意外な心地で瞬く。
「どういうシチュエーションの話か知らないからあれだけど、本気って思われたくねーもん」
「民さんに聞いた俺が馬鹿だった」
「誰が馬鹿だ、誰が」
「だから俺って言ってるじゃないですか。俺です、俺! みっともなく苛々しててすみませんでした!」
 宵は絶対そんなこと考えねぇからな、なんて。言葉にできるわけのない捨て台詞を胸に、更衣室をあとにする。
 その勢いのまま外に出たところで、俺は、あーあ、とぼやいた。もちろん、心の中で、だけど。
 十二月の夜は寒い。
 ――あんたのこういうところ、本当にすげぇ嫌いです。
 あの夜、ベランダで。宵は俺に言った。
 俺が誰にでも適当に優しくするところが嫌いで、俺が誰のキスでも適当に受け入れるところが嫌い、と。そう。
 後者に関しては、おまえの事実誤認だからなって言ってやりたい気もするけど。とりあえず、宵の中ではそうなっているということ。
「……あーあ」
 すっかり癖になったひとりごとが、ファミレスの駐車場に溶けていく。
 誰にでも優しくするのも、空気を読んでへらへらと行動するのも。昔からの俺の処世術だ。心根が優しいわけでもなんでもない。
 ――洸平は、自分から苛々しに行かないタイプだと思ってたから、俺。そうなる前に一線引いて、『はい、終わり』みたいな。
 そう、いつだったか民さんが評したとおり。所詮、そういう人間で、異論はない。でも、とは少しだけ思うけれど。
 なぁ、宵、と。頭の中で呼びかける。
 なぁ、宵。知ってる? 俺がこれだけ感情を乱されるのも、それなのに、放っておけないと思うのも、ぜんぶおまえだけなんだよ。
 その感情を、なんと呼んだらいいのかは、わからないままだけど。
「あ……」
 溜息を呑み込んで、頭を振った瞬間。俺は小さな声をこぼした。
 もう何年も前。いつかの夜と同じように、ガードレールにもたれるようにして、宵がいる。
 ……そういえば、宵が待ってたのは、あの日が最初で最後だったんだっけ。
 今、目の前にいるから、最後は今日に更新されたんだろうけど。どうでもいいことを考えながら、俺は足音を立てて宵の前に立った。
 あの日と違って、宵はあたりまえに学ランじゃない。
 あの日。宵はまだ高校一年生で、俺との関係もこじれなくて、俺と同じ文芸部に所属していた。
「なんでいるの?」
 今夜はスマホで執筆をしていたわけではないらしい。宵の顔はすぐに上がった。俺を見上げた静かな瞳が、わずかに傾ぐ。