『文化祭の部誌の掲載原稿の締切は十月二十三日です。今日の報告会に不参加だった人で「間に合わない」と悩んでいる人がいたら、ぜひ早めの相談・報告を』
アルバイト先のファミリーレストランの更衣室で、俺は思わず「うわぁ……」と絶望の声を出した。
見ているのは、文芸部のグループラインだ。
「あと二週間。マジかぁ」
「なにが二週間?」
「あ、民さん」
ぱっと顔を向けると、更衣室に入ってきた民さんが首を傾げる。
「中間? もうそんな時期だっけ、高校生」
「いや~、中間ももうすぐっすけどぉ」
へらりと笑い、俺はスマホを制服のポケットに突っ込んだ。ちなみに、民さんはバイト先の先輩の大学生だ。
女の先輩たちからは「あいつ、チャラい」と評されているけれど――たぶん、誰かに手を出したんだろうな――、俺にとってはいいひと。
「部活のほうで締切があって」
「締切? ああ、そういや、なんか文芸部って言ってたな」
「や、まぁ、幽霊部員なんすけどね。幽霊」
はは、と笑って、ロッカーからリュックを取り出す。ちらりと確認した更衣室の壁時計は、二十一時四分を指していた。
今からまっすぐ家に帰っても、風呂に入ったりなんだかんだとしていたら、あっというまに二十三時だ。やりたいことは、いろいろある。時間は有限。
うん。無理だな。心の中であっさり切り捨てる。とは言え、だ。多少の罪悪感はあったので、俺は冗談まじりに言い足した。
「こう見えても真面目なとこあるんで。気になっちゃったんすよね」
「こう見えてもって、洸平真面目じゃん」
「マジですか」
「うん」
制服を脱ぎながら、民さんがあっさりと頷く。
「だって、シフトすっぽかさないし。それに、先週もだったけど、今日も新井の代わりにシフト入ってくれてるじゃん」
「いやぁ……。だって、しょうがないでしょ。新井さん、骨折しちゃったんだし」
「そういうとこ。いいやつだよな」
「あざーす」
笑って、俺は会話を切った。
調子のいいやつ、はぜんぜんいいんだけど。いいやつと評されると、なんだか少し据わりが悪い。
それに、シフトの変更はおたがいさまだし。ひとり暮らしで骨折してるほうが大変だと思うし。俺は暇だし。
だから、べつにたいしたことじゃない。そんなことを考えていると、私服に着替え終わった民さんが、くるりとバイクのキーを回した。
「おまえ、今日、このまま帰るの? 送ってやろうか」
「マジで? 民さん好きー」
「かわいーね、おまえ。そういうとこ。学校でも教師とか先輩にかわいがられてるだろ」
「いや、どうかな~」
なんて。まぁ、自分が世渡りがうまいタイプだってことは知ってるんだけど。適当にバイト中のできごとを喋りながら、民さんのバイクのある駐輪場に向かう。ファミレスはいろんな人が来るから、けっこう楽しいんだよね。人間観察とまでは言わないけど。なんか、そんな感じ。
「や、でも、マジで助かりました。ありがとうございます、本当」
「おまえん家のほう通るし。ぜんぜん。気にすんなって」
男前なことを言って、民さんはヘルメットを取り出した。シフトの終わり時間が一緒になったときに、送ってもらうことははじめてのことじゃない。
ありがたくヘルメットを受け取り、被ろうとしたところで、俺は動きを止めた。数メートル先の歩道。正確に言うと、ガードレールにもたれている人影を見つめたまま、呟く。
「あー……、ごめん。民さん、やっぱいいや」
「なに、どした」
不思議そうな問いに、俺は微妙に視線を泳がせた。認めたくないし、いや、マジ、なんでおまえいるの、でしかないんだけど。あそこにいるのは、どこからどう見ても宵だった。
「後輩」
面倒くせぇなぁという感情を呑み込んで、へらりと笑う。当然のことながら、民さんは「あ、そう」の一言で颯爽と出発してしまった。
……いや、マジでなにしてんの、あいつ。
そこそこの夜中に、制服のままで。遠ざかるバイクの音を耳に、小さく溜息を吐く。
髪をぐしゃりと掻きやって、俺は宵がいる方向に足を踏み出した。
長かった夏が終わった十月の夜は、ほんの少し肌寒い。宵の目の前で立ち止まり、「なにやってんの」と俺は呼びかけた。
反応はない。あーあ、という気分で、制服のポケットに手を突っ込むと、俺はもう一度呼びかけた。
「宵」
「あ、先輩」
ようやく気がついたという態度で、一心不乱にスマホを打っていた宵の顔が上がる。
いったいいつからいたのか、頬が白い。ほんの少しの苛々を抱えたまま、俺は繰り返した。
「なにしてんの、おまえ。こんな時間に」
「や、先輩待ってたんですけど」
「はぁ?」
「そのあいだにいろいろ書いてたら熱中しちゃって」
「…………いや、熱中しすぎだろ」
というか、そういう天才ぶり、見せつけてくれなくていいから。という嫌味を押し込んで、さらに問いかける。
「それで、なに。待ってたってなんの用? というか、俺、待ってたんなら、店ん中で待ってたらよかったじゃん」
「先輩が来るなって言ったんじゃん」
「えー? あー……、いや、うん。言ったかな」
そう言われると、バイトを始めてすぐの、去年の春。「遊びに行ってもいい?」ときらきらした瞳で問うた宵を、「恥ずいし、嫌だ」で切り捨てたかもしれない。
……いや、でも嫌だろ、実際。俺がバイトしてる空間で、一心不乱に文字を打ってる宵を見るのとか。拷問じゃん。
だが、宵の側からすると、外で延々と待っていた理由は、過去の俺にあるらしい。ほんの少しバツが悪くなって、俺は声音をゆるめた。
「で? 外で待ってた理由はわかったけど。なんの用?」
「…………」
「いや、なに。その顔」
「先輩が俺を置いて行くから大変だった」
「はぁ?」
二度目の「はぁ?」に、宵の表情がますます不服そうなものになる。
ほかのやつが見たら、いつもの澄ました宵かもしれないけど。とにかく、俺からしたらそう。
それにしても、なんなんだ、マジで。事態を持て余していると、宵が恨みがましい声を出した。
「放課後。先輩が置いて行くから、よくわかんない話に付き合わされた」
「よくわかんない話って、おまえのファンみたいなもんだろ。ファンサしてやればいいじゃんか」
「俺の本が好きなわけじゃない。俺の本に興味があるわけでもない。ああいうのはファンじゃないです」
はっきり言い切った宵に、堪え損ねた溜息がこぼれる。
それでも、どうにか、「マジおまえそういうとこだよ」という苦言は呑み込んで。俺はガリっと髪を掻き上げた。
「っていうか、だから来るなって言ったんだよ。春に。おまえ目立つからって。なのに、なんでわざわざ来たわけ、俺のクラスに」
「…………先輩が」
「俺がなに?」
「先週の活動日も休んだから、それで」
「なに。俺がとうとう文芸部辞めるって思ったってこと?」
素直に黙り込んだ宵が、ふいと俺から目を逸らす。
……いや、もう、マジでなんなの、こいつ。
もうひとつ溜息を吐き、俺はできるだけなんでもないように種を明かした。
「どっちもバイト。いっつもたくさんシフト入ってくれてる人がバイクで事故って足折ったんだよ、それで代わりに入っただけ」
ぱっと顔を上げた宵が、ぱちりと瞬く。そうしてから、「なんだ」と心底安心した態度で呟いた。いや、だから、マジでその顔。
しかたねぇなぁという気持ちが半分と、放課後の一件に対する罪悪感が半分。そんな割合でもって「宵」と呼びかける。
まぁ、ちょっと、俺の言いつけを守って、外で待っていたらしい馬鹿な忠犬に対するご褒美の割合もあったんだけど。それは秘密だ。
「そんなわけで、バイト代余裕あるんだけど」
「はい」
「奢ってやろっか。夜まだだろ」
あーあ、俺よりよっぽど金持ってるやつになに言ってんだよ、死ねよ、俺。
誘った直後に後悔したのに、輝いた宵の瞳を見たら撤回なんてできなくて。ポケットに手を突っ込み直して、俺は言った。
「友達のラーメン屋」
微妙にかっこつけたふうになってしまったが、宵の前での俺はいつもこんな感じかもしれないな、とも思う。
ひなせの大ファンだと言った小学六年生だった宵と、はじめて対面したあの日から。
「おまえ行ったことないだろ。連れてってやるよ。俺の行きつけ」
そう告げると、宵はガードレールから背中を離した。
「先輩」
うれしそうに俺を呼びながら、隣に並ぶ。「なんだよ」と苦笑した俺に、宵は繰り返した。
「先輩」
だから、マジでなに。その甘えた呼び方。俺、おまえの母ちゃんでも兄貴でもなんでもないんだけど。
呆れる気持ちがあることも事実なのに、どっかでちょっとうれしがってんだから、マジで笑える。
いや、でもさ。心の中で、俺は誰にともなく言い訳をした。
誰だって、自分にだけ懐く見た目の良い犬がいたら、ちょっと気分良くなるだろ。
なんていうか、その犬に認められた自分が特別、みたいな感じで。まぁ、実際、特別なのは犬のほうなんだけど。
アルバイト先のファミリーレストランの更衣室で、俺は思わず「うわぁ……」と絶望の声を出した。
見ているのは、文芸部のグループラインだ。
「あと二週間。マジかぁ」
「なにが二週間?」
「あ、民さん」
ぱっと顔を向けると、更衣室に入ってきた民さんが首を傾げる。
「中間? もうそんな時期だっけ、高校生」
「いや~、中間ももうすぐっすけどぉ」
へらりと笑い、俺はスマホを制服のポケットに突っ込んだ。ちなみに、民さんはバイト先の先輩の大学生だ。
女の先輩たちからは「あいつ、チャラい」と評されているけれど――たぶん、誰かに手を出したんだろうな――、俺にとってはいいひと。
「部活のほうで締切があって」
「締切? ああ、そういや、なんか文芸部って言ってたな」
「や、まぁ、幽霊部員なんすけどね。幽霊」
はは、と笑って、ロッカーからリュックを取り出す。ちらりと確認した更衣室の壁時計は、二十一時四分を指していた。
今からまっすぐ家に帰っても、風呂に入ったりなんだかんだとしていたら、あっというまに二十三時だ。やりたいことは、いろいろある。時間は有限。
うん。無理だな。心の中であっさり切り捨てる。とは言え、だ。多少の罪悪感はあったので、俺は冗談まじりに言い足した。
「こう見えても真面目なとこあるんで。気になっちゃったんすよね」
「こう見えてもって、洸平真面目じゃん」
「マジですか」
「うん」
制服を脱ぎながら、民さんがあっさりと頷く。
「だって、シフトすっぽかさないし。それに、先週もだったけど、今日も新井の代わりにシフト入ってくれてるじゃん」
「いやぁ……。だって、しょうがないでしょ。新井さん、骨折しちゃったんだし」
「そういうとこ。いいやつだよな」
「あざーす」
笑って、俺は会話を切った。
調子のいいやつ、はぜんぜんいいんだけど。いいやつと評されると、なんだか少し据わりが悪い。
それに、シフトの変更はおたがいさまだし。ひとり暮らしで骨折してるほうが大変だと思うし。俺は暇だし。
だから、べつにたいしたことじゃない。そんなことを考えていると、私服に着替え終わった民さんが、くるりとバイクのキーを回した。
「おまえ、今日、このまま帰るの? 送ってやろうか」
「マジで? 民さん好きー」
「かわいーね、おまえ。そういうとこ。学校でも教師とか先輩にかわいがられてるだろ」
「いや、どうかな~」
なんて。まぁ、自分が世渡りがうまいタイプだってことは知ってるんだけど。適当にバイト中のできごとを喋りながら、民さんのバイクのある駐輪場に向かう。ファミレスはいろんな人が来るから、けっこう楽しいんだよね。人間観察とまでは言わないけど。なんか、そんな感じ。
「や、でも、マジで助かりました。ありがとうございます、本当」
「おまえん家のほう通るし。ぜんぜん。気にすんなって」
男前なことを言って、民さんはヘルメットを取り出した。シフトの終わり時間が一緒になったときに、送ってもらうことははじめてのことじゃない。
ありがたくヘルメットを受け取り、被ろうとしたところで、俺は動きを止めた。数メートル先の歩道。正確に言うと、ガードレールにもたれている人影を見つめたまま、呟く。
「あー……、ごめん。民さん、やっぱいいや」
「なに、どした」
不思議そうな問いに、俺は微妙に視線を泳がせた。認めたくないし、いや、マジ、なんでおまえいるの、でしかないんだけど。あそこにいるのは、どこからどう見ても宵だった。
「後輩」
面倒くせぇなぁという感情を呑み込んで、へらりと笑う。当然のことながら、民さんは「あ、そう」の一言で颯爽と出発してしまった。
……いや、マジでなにしてんの、あいつ。
そこそこの夜中に、制服のままで。遠ざかるバイクの音を耳に、小さく溜息を吐く。
髪をぐしゃりと掻きやって、俺は宵がいる方向に足を踏み出した。
長かった夏が終わった十月の夜は、ほんの少し肌寒い。宵の目の前で立ち止まり、「なにやってんの」と俺は呼びかけた。
反応はない。あーあ、という気分で、制服のポケットに手を突っ込むと、俺はもう一度呼びかけた。
「宵」
「あ、先輩」
ようやく気がついたという態度で、一心不乱にスマホを打っていた宵の顔が上がる。
いったいいつからいたのか、頬が白い。ほんの少しの苛々を抱えたまま、俺は繰り返した。
「なにしてんの、おまえ。こんな時間に」
「や、先輩待ってたんですけど」
「はぁ?」
「そのあいだにいろいろ書いてたら熱中しちゃって」
「…………いや、熱中しすぎだろ」
というか、そういう天才ぶり、見せつけてくれなくていいから。という嫌味を押し込んで、さらに問いかける。
「それで、なに。待ってたってなんの用? というか、俺、待ってたんなら、店ん中で待ってたらよかったじゃん」
「先輩が来るなって言ったんじゃん」
「えー? あー……、いや、うん。言ったかな」
そう言われると、バイトを始めてすぐの、去年の春。「遊びに行ってもいい?」ときらきらした瞳で問うた宵を、「恥ずいし、嫌だ」で切り捨てたかもしれない。
……いや、でも嫌だろ、実際。俺がバイトしてる空間で、一心不乱に文字を打ってる宵を見るのとか。拷問じゃん。
だが、宵の側からすると、外で延々と待っていた理由は、過去の俺にあるらしい。ほんの少しバツが悪くなって、俺は声音をゆるめた。
「で? 外で待ってた理由はわかったけど。なんの用?」
「…………」
「いや、なに。その顔」
「先輩が俺を置いて行くから大変だった」
「はぁ?」
二度目の「はぁ?」に、宵の表情がますます不服そうなものになる。
ほかのやつが見たら、いつもの澄ました宵かもしれないけど。とにかく、俺からしたらそう。
それにしても、なんなんだ、マジで。事態を持て余していると、宵が恨みがましい声を出した。
「放課後。先輩が置いて行くから、よくわかんない話に付き合わされた」
「よくわかんない話って、おまえのファンみたいなもんだろ。ファンサしてやればいいじゃんか」
「俺の本が好きなわけじゃない。俺の本に興味があるわけでもない。ああいうのはファンじゃないです」
はっきり言い切った宵に、堪え損ねた溜息がこぼれる。
それでも、どうにか、「マジおまえそういうとこだよ」という苦言は呑み込んで。俺はガリっと髪を掻き上げた。
「っていうか、だから来るなって言ったんだよ。春に。おまえ目立つからって。なのに、なんでわざわざ来たわけ、俺のクラスに」
「…………先輩が」
「俺がなに?」
「先週の活動日も休んだから、それで」
「なに。俺がとうとう文芸部辞めるって思ったってこと?」
素直に黙り込んだ宵が、ふいと俺から目を逸らす。
……いや、もう、マジでなんなの、こいつ。
もうひとつ溜息を吐き、俺はできるだけなんでもないように種を明かした。
「どっちもバイト。いっつもたくさんシフト入ってくれてる人がバイクで事故って足折ったんだよ、それで代わりに入っただけ」
ぱっと顔を上げた宵が、ぱちりと瞬く。そうしてから、「なんだ」と心底安心した態度で呟いた。いや、だから、マジでその顔。
しかたねぇなぁという気持ちが半分と、放課後の一件に対する罪悪感が半分。そんな割合でもって「宵」と呼びかける。
まぁ、ちょっと、俺の言いつけを守って、外で待っていたらしい馬鹿な忠犬に対するご褒美の割合もあったんだけど。それは秘密だ。
「そんなわけで、バイト代余裕あるんだけど」
「はい」
「奢ってやろっか。夜まだだろ」
あーあ、俺よりよっぽど金持ってるやつになに言ってんだよ、死ねよ、俺。
誘った直後に後悔したのに、輝いた宵の瞳を見たら撤回なんてできなくて。ポケットに手を突っ込み直して、俺は言った。
「友達のラーメン屋」
微妙にかっこつけたふうになってしまったが、宵の前での俺はいつもこんな感じかもしれないな、とも思う。
ひなせの大ファンだと言った小学六年生だった宵と、はじめて対面したあの日から。
「おまえ行ったことないだろ。連れてってやるよ。俺の行きつけ」
そう告げると、宵はガードレールから背中を離した。
「先輩」
うれしそうに俺を呼びながら、隣に並ぶ。「なんだよ」と苦笑した俺に、宵は繰り返した。
「先輩」
だから、マジでなに。その甘えた呼び方。俺、おまえの母ちゃんでも兄貴でもなんでもないんだけど。
呆れる気持ちがあることも事実なのに、どっかでちょっとうれしがってんだから、マジで笑える。
いや、でもさ。心の中で、俺は誰にともなく言い訳をした。
誰だって、自分にだけ懐く見た目の良い犬がいたら、ちょっと気分良くなるだろ。
なんていうか、その犬に認められた自分が特別、みたいな感じで。まぁ、実際、特別なのは犬のほうなんだけど。



