ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

 ふと目が覚めると、宵がいなかった。
「あれ……」
 どこに行ったのだろう。起き上がろうとしたところで、宵が毛布をかけてくれていたことに気がついた。
 いつのまにか、眠ってしまっていたらしい。立ち上がって、ふらりと宵の部屋を出る。
 ……どこ行ったんだろ、あいつ。
 無人のリビングをきょろりと見渡し、俺は「あ」と呟いた。
 ベランダのカーテンと、窓が開いている。ぺたりとフローリングを進み、俺は網戸を引いた。夜の風が冷たい。
 サンダルはなかったが、俺はそのままベランダに出た。桟に肘をついて外を眺めていた宵の横に並ぶ。
「なにしてんの、寒いだろ。熱は?」
「下がりました。ちょっと気持ち良かったから」
「……あっそ」
 ひとりごと半分の調子で言い、俺はちらりと宵の横顔に視線を向けた。
 俺も、宵も、まだ子どもだったころ。宵と聞いて思い浮かぶのは、きらきらとした瞳だった。
 でも、最近の宵は横顔のイメージが強いかもしれない。とりとめのないことを考えたまま、俺は呼びかけた。
「宵」
「なんですか?」
「あのさ、毛布ありがとな」
「べつに」
 ほんの一瞬、俺のほうを見た瞳が、夜の向こうに逸れていく。
「俺のせいで風邪引いたって言われても困るし」
 かわいくねぇなぁ。心の中で笑い、俺は「なぁ」と問いかけた。
「ちょっとひとつ聞いてもいい?」
「いいですよ、借りができたから」
「おまえなぁ。借りとか言うなよ。前にサイン色紙の話したときも思ったけど」
「じゃあ」
 不思議そうに宵が首を傾げる。
「借りじゃなかったら、なんなんですか。これ」
「なんなんですかって」
「また、日生さんのお節介ですか」
「そうだよ。ただの俺のお節介だよ」
 応じながら、そうだよ、と俺は認めた。昔から、俺は、俺の意思で宵の面倒を見続けている。
 宵のことを、どうしても放っておけなかったから。
 ……なんでなんだろうなぁ、本当。
 いっそ、これを、あのころの宵と同じ感情だ、と。断言することができたらよかったのに。
「おまえさ」
 宵の横顔に、改めて切り出す。
「締切がやばいって言ってたけど。なんでそんなに生き急いでんの? 刊行ペースやばくね?」
「知ってるんだ」
「それは、まぁ……」
 知ってるよ、と俺は白状した。
 でも、自分で買い揃えているとまで告白することは、少し恥ずかしくて。言い訳のような台詞を続ける。
「あー……、その。うちの姉ちゃんも宵のファンだし。うちの母さんも、父さんも好きだし。リビングに置いてある」
「あいかわらずですね」
 ふっと、宵が笑った。
「日生さんのところは、みんな仲良さそう」
「宵」
「俺にはなにもないのに」
「……いやいやいや」
 予想外のそれに、ぎこちなく首を横に振る。
「なにもないわけないだろ。おまえの小説、めちゃくちゃ売れてるし、映画にまでなったじゃん。女の子にだってモテてるし、それに――」
「ないですよ」
 さらりと宵は言い切った。
「まぁ、まったくなにひとつないとは言いませんけど」
「だ、だよな」
「日生さんがいなかったら、俺には小説家としての価値しかない」
 宵の声が、本心でそう思っているとわかったから。俺は思わず絶句した。
 いや、なに言ってんの。そんなわけないだろ。言ってやりたいのに、なぜかひとつも言葉が出ない。
 その俺に、宵は淡々と言葉を継いだ。
「だから、読者を増やそうともするし、経験を増やそうともする。あんたは『俺らしくない』って高いところから言ってるのかもしれないけど、こっちは必死なんですよ」
「…………」
「昔は、絶対、そんなこと思わなかったのに」
 宵の声に、自嘲が混じる。
 ……なぁ、その、昔は絶対思わなかったって、俺がいたから? 俺がいたら、おまえは迷わなくてすむの? きらきらしたままでいることができるの?
 うぬぼれた質問が、ぐるぐると身体の中を巡っていく。黙ったまま宵の横顔を見つめていると、宵の視線が動いた。
 いつのまにか大人になった瞳と目が合って、同じく大人になった声が、「ねぇ」と俺を呼ぶ。
「日生さん」
 言葉をどこかに忘れてきたみたいに、俺はなにも言えなかった。
「忘れようと思ったのに、なんで優しくするの」
 宵の指が、俺の頬に触れる。避けなかったということは、つまり、同意だったんだろうな、と思う。
 瞬きもせず見つめていると、宵の黒い髪が夜風に揺れ、目前に瞳が迫る。唇が触れても、俺は避けなかった。
 そのキスが、深いものに変わっても。
 下がったと言い張っていただけで、熱の名残りがあったのか。それとも、別の要因か。わからないけれど、宵の口の中はびっくりするくらい熱かった。
「宵?」
 余韻のひとつもなくキスは終わり、でも、宵の指は離れなかった。俺の頬に触れたまま、宵が笑う。先ほどよりも強く、自嘲するように。
「あんたのこういうとこ、本当にすげぇ嫌いです」
 夜はまだまだ深く、夜明けは遠かった。
 いや、なんだよ、嫌いって。そう笑い飛ばすこともできず、俺はかすかに目を伏せた。へらりと。いつもどおりに見えるように、口元だけで笑う。
「そっか」
 でも、俺は、おまえを嫌いだと思ったことは、実は一度もないんだよ。なんて、誰にも言えないことを思いながら。
 妬んだことは、数えきれないくらいあったけれど。