ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

「――あ、起きた?」
 小さく声をかけると、ぼんやりしていた宵の目が、ちょっと驚いた色に染まる。
 光量を絞った部屋の中でもはっきりとわかった変化に、熱下がったんだな、と思っていると、宵が掠れた声を出した。
「なんでいるんですか」
「俺も居座るつもりはなかったんだけど。帰る前におまえに声かけようと思ったら、ほら」
 掴まれていた右手を示すと、宵が信じられないという顔になる。
 言いたいことはわかるけど、冷えピタを張ってやった俺の手を取って、「もうちょっといて」とごねたのは数時間前のおまえだよ。
 思い出して笑った俺に、宵はぶすりとした声を出した。汗ばんだ指が、ぎこちなく離れていく。
「離して帰ったらよかったのに」
「まぁ、そうだけど。鍵のこともあったし。風邪引いてるときに心細くなる気持ちもわかるし」
「…………」
「それに、俺、今日はべつに用事もなかったしさ」
 だから問題ないというていで笑い、手持無沙汰に触っていたスマホで時間を確認する。
「今、夜の八時だけど。どうする? なんか食う? とりあえず飲む?」
「…………飲む」
 その声も、なんというか、ものすごく不本意そうだった。
 なんか、今日は、ずっと拗ねた子どもみたいだな。言葉にしたら、さらに拗ねそうなことを考えながら、持ち込んでいたペットボトルを渡す。
 起き上がった宵がもそもそと飲む姿を見守っていると、半分ほど飲んだところで宵はキャップを閉めた。
「あ、もういいの?」
「はい」
「また起きたタイミングでちゃんと飲めよ。ここに置いとくから」
「うん」
 おざなりな返事を残してベッドに潜った宵が、俺の背中を向ける。調子に乗って、かまいすぎたかもしれない。
 ……いいかげん、帰ったほうがいいかな。
 宵も起きたし、熱もちょっとマシになったみたいだし。スマホを見ながら思案していると、ぽつりとした宵の声が響いた。
「先輩が俺のことを知らないのと一緒で、俺も先輩のことは知らないけど」
「え?」
「でも、先輩がなんで急に俺にかまい出したのかはわかります」
 予想外のそれに、宵を見つめる。と言っても、後頭部しか見えなかったんだけど。
「俺に対して……、というか、高校一年生だった俺に対しての罪悪感がすごいんでしょ」
「…………」
「それで、今の俺が、あんたの目から見たときに、どうかと思う状態だから。だから、かまってる」
 たぶん、これは、風邪を引いている現状じゃなくて、宵の大学生活全般を指してるんだろうな。わかったものの、俺は沈黙を選んだ。
 なにを言っていいか、わからなかったからだ。
「そういうのがマジでいらないって言ってるんです」
 淡々とした中に苛立ちのにじんだ声。かける言葉がないことを誤魔化すように、俺は「宵」と名前を呼んだ。
 でも、俺の呼びかけなんて聞こえていないみたいに、宵が続ける。
「その、誰にでも適当に優しくするとこ、すげぇ嫌いでした、俺」
「宵」
「俺だけが特別になったらいいのにって、ずっと思ってた」
 そこで、宵の言葉は途切れた。
 かつての癖で伸ばしそうになった指先を留め、自分の膝に視線を落とす。三度呼びかける気にはなれず、俺は苦笑した。
「疲れてんだよ、おまえ」
 そうとしか言いようがなく、当たり障りのない言葉を告げる。
「今はマシかもしれないけど、熱も高かったんだしさ。もうちょっと寝てな。起きるまで、いてやるから」
 あ、またよけいなこと言ったな、これ。気がついて撤回しようとした瞬間、小さな声が聞こえた。
「うん」
 あまりにも、衒いがない返事だったせいだろうか。ふいに胸を突かれた気分になってしまった。
 頭の中に、子どもだった宵の笑顔が流れていく。俺だけがすべてで、俺がいたら毎日が楽しいと笑っていた宵の、今よりも少し幼い声。
 ――ひなせさん。
 ――日生さん。
 ――先輩。
 学ランを着た宵が、十一月の青空の下でまっすぐに俺を射る。
 ――日生さんが好きだから。
 その言葉を聞いた瞬時、俺は「宵が俺の小説を好きだと言うのは、俺のことをそういう意味で好きだったからだ」と思い込んだ。
 今ならわかる。あれは、ただ、自信がなかっただけだ。
 宵が小説に対して不誠実な評価をするわけがないことは、俺が一番知っていたはずなのに。
 震えそうになる吐息を吐き、俺は「あのさ」と口火を切った。
「あのときのことだけど、ごめんな」
 寝ているのか、それとも、起きている上で無視しているのか。宵はなにも言わなかった。
 でも、それでよかった。丸っこい後頭部を見つめ、小さく続ける。
「でも、俺、宵が俺のことを好きって言ってくれた気持ちを、気持ち悪いって言ったわけじゃないんだよ」
 それだけは、本当なんだよ。謝ることもいまさらな気がして、謝ることもできずにいたけど。
 宵から視線を外し、あーあ、と俺はひとりごちた。
 なんというか、本当に。心の底からどうしようもないな、と思う。面と向かって、宵に謝る勇気がないことも含めて、ぜんぶ。