ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

「……はい、すみません」
「いや、すみませんっていうか。大丈夫?」
 エレベーターに上って着いた先。玄関内で俺を迎えた宵は、なんというか、めちゃくちゃ風邪という顔をしていた。
 マスクをしたところで、なにひとつ誤魔化せてねぇぞ、という感じ。それなのに、宵はあっさりと首を振った。
「大丈夫です。ただの風邪なんで」
「いや、いやいや。病院とか行った?」
「行ってないですけど。締切もあるんで」
 だから早く帰れという調子に、むっと眉を寄せる。
 本当に、なんで、放っておけないようなことばかり言うんだろうな。かまっているのは、俺の勝手だけど。
「締切って。おまえのことだから、そこまで切羽詰まってないだろ?」
「いや、……まぁ」
「俺にうっかり頼るくらい体調悪いんだったら、おとなしく寝てろよな。そんな状態でやっても効率悪いだろ」
 じっとした宵の視線に、わかったふうなことを言うと思われているのかな、とドキリとする。でも、宵はなにも言わなかった。
 その代わりのような小さな溜息ひとつで、宵が背を向ける。
「え? ちょっと、宵?」
 突然の行動に驚きつつも、背後の扉の鍵を閉めて、俺は靴を脱いだ。手にした袋をガサガサといわせながら短い廊下を進み、宵が消えた扉を開ける。
 リビングダイニングはちょっとびっくりするくらいきれいで、逆に言うと、生活感がまったくなかった。ついでに、宵の姿もない。
「宵?」
 ほんの少し躊躇したものの、俺は奥の部屋の扉を開けた。ベッドとパソコンを置いた机があるだけの小さな部屋は、宵の部屋という感じがした。
 この家の中で一番、机回りに生活感があることも含めて。
 あいかわらず、パソコンの前が定位置なんだな。そんなことを思いながら、膨らんだベッドを見つめる。
 叱られて――いや、べつに叱ったつもりはないけど、ベッドに潜るってどこの子どもだよ。
 苦笑ひとつで、俺はベッドに向かって「宵」と呼びかけた。
「冷蔵庫開けていい? 買ってきたのしまいたいから」
「……どうぞ」
 どうぞの前に「ご勝手に」がつきそうな言い方だった。
 あーあー、という気持ちで、宵の部屋のドアは開けたまま、台所に足を運ぶ。
「ってか、宵さぁ」
 ポカリに、ゼリーに、あとはレトルトのお粥。まぁ、レトルトは冷蔵庫にしまう必要はないだろうけど。
 ドラッグストアで買ったもろもろをしまいながら、宵に話しかける。
「食欲とかある? あるなら一応、レトルトのお粥とかうどんも買ってきたんだけど」
 返事はなかったものの、俺は気にせず声を張り上げた。
「あと、冷えピタも買ってきたけど――って、冷蔵庫もの少なすぎない? おまえ、普段なに食って生きてんの?」
 体力云々と言うのなら、バランス良くものを食えと言いたい。
 ……まぁ、でも、こいつ、昔から食に興味なかったからなぁ。
 大学の食堂で、宵を見かけることはあるけれど。宵はいつも味気のない顔でもそもそと咀嚼している。
 幾度目かの「あーあ」を呑み込んで、もう一度呼びかける。
「宵? それでどうする? なんか食える?」
 またしても、宵からの返事はなかった。冷蔵庫を閉めて、よいしょと立ち上がる。
 寝たのかもしれないとの想像どおり、ベッドからは静かな寝息が響いていた。電池が切れたようにいきなり寝落ちする癖も、変わっていなかったらしい。
 覗き込んだ寝顔も、幼いころと不思議なほど変わらないものに見えて。あのころとは違うはずなのにな、と自嘲する。
 俺が宵の寝顔をよく見ていたのなんて、三年どころではない昔の話だ。
 宵がまだ中学校に入ったばかりのころ。その当時から何年もの月日が流れ、俺も、宵も変わったはずなのに。
 なんで、宵は、変わらないままの透明さを見せつけてくるんだろう。
 ――ひなせって本名なんですか?
 そう言ったのは、まだ小学校六年生だった宵だ。
 住んでいるところが近いとわかって、直接交流するようになったころ。場所は宵の部屋だった。
 ――そうだよ。
 あっさりと明かして、俺は漢字を説明した。
 ――苗字なんだけど。曜日の「日」に生きるで日生。
 ――すごくきれい。ひなせさんみたい。
 きらきらとした瞳で俺が書いた字を見る宵に、苦笑をこぼす。
 人とあまりかかわらず、小説ばかり読む生活を送っていたからか。宵の喋る言葉は児童書から抽出したみたいな純粋さがあって。俺はそれが好きだった。
 流行りの言葉だらけが飛び交う教室とは違うふたりきりの空間は、あたたかくて心地が良い。
 だから、俺は、自分の意思で宵の部屋に通い詰めていた。同情なんかじゃない。
 ――なんで。宵の名前もかっこいいじゃん。きれいだし。
 ――でも、僕の名前は夜だから。ひなせさんは、光って感じがする。
 ――光……。そう言えば、下の名前にも「光」って入ってるわ、俺。
 ――やっぱり。
 事実を告げただけだったのに、宵は無邪気に笑った。
 ――なにが「やっぱり」?
 ――ひなせさんは、僕の光だから。
 ――え?
 ――僕、ひなせさんと会って、毎日が本当に楽しくなったんです。ひなせさんがいなかったら、こんなふうに思うことは絶対になかったはずだから。
 だから、自分の光なのだ、と。衒いのない調子で幼い宵が言う。
 俺もまだ中学一年生で、宵に小説の書き方を教え始めたばかりで、ずっと、ずっと余裕があって。自分を慕う宵を、心の底からかわいいと思うことができていたころ。
 だから、きっと、あのときの俺は、本心で宵の言葉を喜んだのだと思う。その数年後、楽しかった世界がぐちゃぐちゃになるなんて、想像もしないまま。