ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

 あ、宵だ。
 三限目が終わったあとの、昼休みに比べると利用者の少ない学生食堂で。遠目に確認した姿に、俺は歩く速度をゆるめた。
 昼食を乗せたトレーを持ったまま、意識を宵のほうに向ける。宵の向かいの席には、明るい髪の女の子が座っていた。
 ……っていうか、あいつ。二週間前にビンタ食らっといて、違う女の子といんのかよ。
 だから、学内で、しょうもない噂になるんだよ。あーあ、と勝手な溜息を呑み込んだところで、俺は相手が咲菜ちゃんだと気がついた。
 同じ学科の、遊んでいると評判の女の子。そういえば、莉愛ちゃんが「咲菜ちゃんも宵を狙ってる」と言ってたんだっけ。
 ちらちらと窺っているうちに、「今日、マンション行っていい?」「駄目です」という、カップルじゃねーか、みたいな会話が届き、俺は表情を引きつらせた。
 マジで見る目ねぇな、あいつ。
 ――そうだ。洸平くん。今度、宵くんに会ったら、お礼言っといてあげてね。
 宵の現状があまりにもあまりだったせいか、数日前のできごとが鮮明にリフレインする。
 数年ぶりに宵と喋って、ファミレスの駐輪場で民さんに愚痴って。その流れで「あれ、煮卵食い逃げしたんじゃね?」と遅ればせながら気がついて。
 ちょっとぶりにおばちゃんのラーメン屋に行ったときのことだ。
 ――え、なに。お礼って。
 きょとんとして問い返すと、おばちゃんはうれしそうに種を明かした。
 ――このあいだ、わざわざうちに来てくれたのよ。すっかり忘れてたけど、サインですって。
 いろんな意味で仰天したものの、おばちゃんが指し示した先、店の壁にはたしかに宵のサインがある。マジか、と俺は絶句した。
 なんで見たらわかるかって? サインってどうしたらいいんだろう、と。途方に暮れていた中学生の宵を励まして、俺が一緒に考えたからだよ。
 ――おまけに、『よかったら』って本まで貰っちゃったのよ~。せっかくだと思って読み始めたら、おもしろくって。おばちゃん、すっかりファンになっちゃった。
 あの、それ、どこの宵の話? なんて、聞けるわけもなく。愛想笑いを振り撒いて、その場は終わったんだけど。
 いや、本当、なにやってんの、あいつって話だよ。
 なんとも言えない回想の途中で咲菜ちゃんは席を立ち、俺の視線の先では宵がひとり、もそもそとまずそうに飯を食っている。
「…………」
 あーあ、と口の中で呟いて、俺は宵のいる席に向かって歩き出した。なんで、こいつ、こんなに放っておけないんだろ、本当に。
 俺が勝手に世話を焼いているだけだってわかってるけど。
 大学の学生食堂での相席は、珍しい話じゃない。宵の正面の椅子を引いてトレーを置くと、おもむろに宵の視線が上がった。
「……席、ほかにどこでも空いてますけど」
「いいだろ、べつに。俺がどこに座っても」
「それはそうですけど。じゃあ、俺が移動します」
「ちょ、待て待て待て待て」
 広げていたタッパーを片づけ始めた宵を、慌てて引き留める。
「ちょっとあるんだって、話したいことが!」
「…………はぁ」
 ものすごく正直に不本意ですという顔をした宵が――まぁ、これも、咲菜ちゃんにはクールな顔に見えるんだろうけど――、渋々と椅子に座り直した。
 あーあ、なんで、こいつ、こういうとこばっかりかわいいんだろ。素直というか、なんというか。
 ……そういえば、昔は犬みたいって思ってたんだっけ。
 と、懐かしいことを思い出したところで、俺は、あれ、と首をひねった。
「あのさぁ、宵」
「はい?」
「べつにいいんだけど。おまえ、マッチョになりたかったの?」
「は?」
「いや、だって。それ、ブロッコリーだったじゃん」
 訝しげな反応に、宵がしまいかけていたタッパーを示す。さっき味気ない顔で食べていたのも、サラダチキンだった気がするし。
「あと、莉愛ちゃんが、ひょりガリじゃないっつってたから。おまえ、昔、めちゃくちゃ薄い身体してたのに」
「誰だよ、莉愛ちゃん。あと失礼だな」
「俺の友達。それはごめん」
 ちなみに、咲菜ちゃんの友達でもあるんだけど。正直どうなの? 咲菜ちゃん、とのジャブを打ち込むことを諦めて謝ると、宵は小さく息を吐いた。
「そういうわけじゃないですけど、幸崎さんが」
「幸崎さん」
 まだ担当なんだ、の意で繰り返し、箸を取る。
 今日のランチは、日替わり丼。安くてうまい学食は、貧乏学生の強い味方だ。
 その例にもれず、俺もありがたく活用してるんだけど。まさか宵と一緒に食べる日が来るとはな(まぁ、宵は食べてないんだけど)。
「若いくせに引きこもってんな。体力つけろって。年取ってから書けなくなるぞって」
「へぇ」
 見たこともない幸崎さんの顔を想像しながら、相槌を打つ。引きこもり気質の宵に運動習慣がつくのは、俺もいいことだと思うけど。
「まぁ、それはそうかなで納得したので」
「うん」
「あと、ひょろガリより舐められないし」
「舐められないって。……いや、まぁ、べつにいいけど」
 不承不承に頷き、ちらりと宵に視線を送る。宵は、面倒だけど、付き合ってあげてるんですよ、と言わんばかりの顔をしていた。
「…………」
 正直なことを言うと、話したいことはいくらでもある。他愛もない世間話もそうだけど、ほかにももっと。
 おまえ、咲菜ちゃんがどんな子か知ってるの? とか。
 知った上で付き合ってんの? 二週間前に違う子と大揉めしてたのに? とか。
 さっきマンションって言ってたけど、ひとり暮らししてるの? とか。
 そこに咲菜ちゃんを呼んだりするの? 自分のテリトリーに他人が入ってくることを、あれだけ嫌がっていたくせに、とか。
 ――俺のこと、どう思ってんの、とか。
「あの」
「ん?」
 顔を上げると、宵は緩慢な動作で首を傾げた。
「それで、なんなんですか? 日生さんがしたかった話って」
「あー……、いや」
「なかったんなら、もう行きますけど」
「いや、ある、ある! その、ラーメン屋!」
 これは、本気で席を立ちかねない。悟って、俺は言い募った。
「ラーメン屋?」
「ほら、その、サイン持っていってくれたんだって? すごい喜んでたよ、おばちゃん。ありがとね、わざわざ。そのお礼言っといてって頼まれてたんだよね」
「ああ」
 得心したらしい宵が、あっさり首肯する。
「このあいだ先輩と会ったら思い出したんで。借りがあるままなのも気持ち悪いじゃないですか」
「借りって」
 おまえね、と呈そうとした苦言を呑み込み、俺は宵を窺った。
 あいかわらずのきれいな黒髪に、誰が見てもわかりやすく「かっこいい」になった顔。手持無沙汰にスマホを触るでもなく、腕を組む姿はえらそうだけど、なんとも言えない雰囲気がある。
 きっと、今の宵なら。コミュケーションに難があっても、「変わった子」と敬遠されず、「なにを考えているのかわからないけど、かっこいい」と評されるんだろうな。
 そんなことを考えたまま、ぽつりと問いかける。
「でもさぁ」
「なんですか、今度は」
「いや、おまえ、読者でもない人に、自分の本渡したりするタイプだったっけ」
「は?」
「その、いや、もちろんね? おばちゃんは喜んでたんだけど」
 嫌そうな宵の声に、俺はへらりとした笑みを返した。やばい。なにか間違えた気がする。
「本当、本当。『せっかくだからって読んだらおもしろくてファンになっちゃった~』って言ってたし」
「…………」
「ただ、その、どういう風の吹き回しだったのかなーって。ほら、おまえ、おばちゃんがサイン書いてって言ったときも嫌がってじゃん」
 宵がまだ俺に素直に懐いていたころ。宵はおばちゃんが読者じゃないと悟ると、躊躇するそぶりを見せていた。
 まぁ、俺が頼んだら、「しかたないな」って顔をしたんだけど。でも、これが、俺の知る宵のイメージだった。
「べつに」
 ようやく口を開いたかと思えば、ぶすりとした声で宵が言う。
「というか、なんでそんなわかったふうなこと言うんですか」
「いや、それは、まぁ」
「先輩は、べつに、俺のことなんてわかんないでしょ」
「え?」
 予想外の言葉に、俺は宵を凝視した。その俺から、宵が気まずそうに視線を逸らす。みっともないことを言ったと思ったのかもしれない。
「お礼は聞きました。俺も、筋は通しました」
「いや、あのさ」
「このあいだも言いましたけど。本当にこういうの求めてないんで」
 不機嫌そうな顔で机を片づけると、宵は立ち上がった。最後に俺を見て、はっきりと言い捨てる。
「だから、マジでかまわないでください」
 ……かまわないでください、ねぇ。
 ひとりになった食堂のテーブルで、俺は、あーあ、と呟いた。続けて、ぽつりとひとりごちる。
「かわいくねぇの」
 いや、本当。俺とかかわりたくないと宵が本気で思っているのなら、尊重する気はあったのに。
 あんなふうに拗ねた顔で、拗ねたことを言うなんて。本当の本当に、かわいくねぇな、と思う。