ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

「え、辞めたんすか、あいつ」
 高校二年生の文化祭が終わった翌々日。部長に呼び出された昼休みの部室で、俺はそのことを知った。
「そうなんだよね。昨日、俺の教室まで退部届持ってきてくれてさ。びっくりしてちょっとふたりで話したんだけど、『商業に集中したいから』って」
「…………」
「昨日のこと気にしてるんなら気にしなくていいからねって言ったんだけど。そういうことじゃないって。ありがとうございましたって言うもんだから」
 絶句したままの俺に、微妙に困った顔で部長が続ける。
「まだみんなには言ってないんだけど。ほら、洸平。あのあと宵くんと部室に戻ってきたとき、なんかぎこちなかったから。もしかして喧嘩とかした?」
 なにも言えないでいると、部長はまた少し困ったふうに眉を下げた。
「違うならいいんだけど。ただ、もし、洸平が知らなかったらあれだなと思って。みんなより先に言っておきたかったんだ」
 部長の言葉に、俺はようやく口を動かした。機械的に「ありがとうございます」と告げる。
 知っていた、とも、知らなかった、とも。喧嘩をした、とも、しなかったとも言わなかった俺に、それ以上迫ることはなく。部長は、俺の肩をぽんと叩いた。
「まぁ、新部長、大変だと思うけど。小うるさい三年は引退するし、きっと楽になるからさ。がんばれよ」
 励ましを申し訳なく感じつつも、はい、と頷く。それしかできなかった。

 それは、まぁ、林先輩がいなくなったら、ピリピリの八割はなくなるだろうけどさ。昼休みの校舎を歩きながら、溜息を呑み込む。
 文化祭の部誌の一件だけでなく、林先輩が宵にきつかったことは事実だ。
 ……でも、林先輩も、宵みたいな天才がいなかったら、あんなにピリピリしなかったんだろうな。
 そう思うと、少し気の毒だったかもしれない。だって、俺は、天才が身近にいるつらさを身をもって知っている。
 それがどう精神をむしばむかということも。
「…………」
 廊下の途中で立ち止まり、窓辺に寄る。教室に戻ってへらへらと笑うことのできる自信がなかったからだ。
 このあたりは人の通りも少ないから、ちょうどいい。窓の外を見下ろしたまま、俺はぽつりとひとりごちた。
「っつか、なんで辞めてんだよ、あいつは」
 次の部長が俺だと知って、喜んでいたくせに。というか、べつに、誰も辞めろなんて言ってないだろ。
 そうだ。べつに、辞めろなんて一言も言っていない。――気持ち悪いとは言ったけれど。
 窓枠に肘をついて、小さく溜息を吐く。自分も悪かったという自覚はあったからだ。
 もちろん、宵に対して思っていることはある。腹の底はまだもやもやとしているし、やっぱり腹も立っている。
 でも、言葉にしてはいけないことを言ったという後悔はあった。だから、と言い聞かせるように考える。
 宵の教室に行ったり、ラインを送ったり。そういった俺から仲直りのきっかけをつくることはしない。
 だけど、宵がバツの悪そうな顔で俺の前に現れたら、なんでもない顔で笑ってやってもいい。
 宵はそれを「変な顔」と言うのかもしれないけど。容易かった想像に、ふっと唇がゆがむ。
 ……本当、かわいくねぇよな、あいつ。
 それで、本当にしかたがない。あの告白の仕方もそうだけど、すべてのタイミングが最悪すぎる。
 あーあ、と心の中で呟いて、窓辺を離れようとした瞬間。窓の外に見つけた宵の姿に、俺は固まった。どきんと心臓が鳴る。
 ここは二階で、決して遠い距離じゃない。だから、はっきり目が合った実感があった。
「あ……」
 いつもの俺だったら、笑って手を振っただろう場面。
 でも、今日はどうしたらいいんだろう。ぐるぐると悩んでいるあいだに、すっと宵の視線が逸れていく。それが最後だった。
 なにごともなかったように、宵が歩き去る。
 小さくなる宵を見送りながら、俺は「ああ」と気がついた。
 宵がバツの悪い顔で現れたら許してやってもいい、なんて。そんなお気楽なことを考えていたのは俺だけだったのだ。
 俺を見る宵の瞳には、後悔も、怒りも。腹いせも、羞恥もなにもなかった。完全にフラットなそれ。
「…………そっか」
 誰にともなく、小さく呟く。
 そっか、もう宵の中で、俺は「先生」でも、「初恋」でもないんだな。その事実を、二日遅れで実感する。
 完全なる、魔法の終わり。
 悲しいのか、腹が立つのか、それとも、どこかで、宵から解放されてほっとしているのか。自分の感情のはずなのに、皆目見当がつかなかった。
 身体中に渦巻く感情の熱を逃すように、あーあ、とひとりごとを言う。
 誰もいない廊下は少しひんやりとしていて、冬の気配がした。
 今から二年と半年前。俺がなにものでもなくなったときの話だ。過ぎ去ったはずの、過去の記憶。