春まだ浅いものの、一日一日と確実に暖かくなっている。
部屋の窓からは日が差し込み、その眩しさに葵はゆっくりと目を覚ました。
まだ夢から覚めずにぼんやりとしている葵の耳に、遠くから小鳥の囀りが届く。
(ん……朝? 昨日の事は夢だったのか?)
昨夜、寝しなに怪しい声を聞いたことを思い出し、葵は首を傾げた。
きっと寝ぼけていたのだろう。
そう思うことにして葵はのっそりと起き上がると身支度を整えた。
ジャバジャバと顔を洗った時にはすっかり目が覚め、ハムエッグの焼けるいい香りを辿るように台所へと向かう。
「おはようございます」
台所に立つ透哉に声を掛けると、いつものような穏やかな声で挨拶が返ってきた。
「葵君、おはよう。もうちょっとで朝ごはんの準備ができるから待ってて」
母が亡くなってからというもの、葵は朝食などまともに食べていなかった。
父親はやはり自宅に帰って来ることも少なく、葵が起きる時間には研究に没頭して徹夜明けで寝ているか、授業のために早々に大学に行っていた。
だからわざわざ一人分の朝食を作るのも面倒で、コンビニでおにぎりやパンを買ってさっと食べる程度というのがこれまでの日常だった。
だからこうやって誰かが朝食を作ってくれることに最初は違和感を覚えたが、居候として一ヶ月余りをこの家で過ごしていると、もうすっかり馴染んだ光景となっていた。
透哉は葵の死んだ母親の弟にあたり、代々続く町医者を継いでこの家を守っている。
叔父と言ってもまだ30代そこそこの若さであるのだ。
(料理も上手いし、顔もイケメンなんだしモテると思うんだけどな……)
透哉は身内の贔屓目に見ても美男子だ。
背はスラリと高く、手足も長いモデル体型。
少し茶色がかった髪はさらさらで、眼鏡の奥の瞳は柔和な印象を与えるアーモンド型。
近所の若い女の子だけではなくお婆さんにまで人気な人物だ。
ただ、医者の仕事と骨董が趣味というちょっと変わり者のせいか、いまだ独身である。
そんなことを思いつつ、葵はいつものように朝食の準備を手伝うことにした。
といっても、できることと言えば食器を並べたり、味噌汁をよそったりという程度なのだが。
焼き魚に納豆、ご飯と味噌汁にハムエッグ。
パンに牛乳だけを流し込み、慌ただしく学校に向かっていた一ヶ月前の生活が嘘のように、今では規則正しい生活を送っている。
「それじゃあ食べようか」
「いただきます」
てんこ盛りのご飯を頬張っていると、葵は透哉の視線に気づいてハムを摘まんだ箸を止めた。
「ん? どうしたんですか?」
「いやー。だいぶウチに慣れたのかなと思ってね」
透哉はしみじみとそう言いつつ、小さく笑った。
「え?」
「初めはほら、朝食食べなかっただろう? 成長期の男の子なのに、パンだけでよく持つと思っていたんだよ」
「そうですか?」
「うん。いい傾向だね。……でも、ちょっと顔色が良くないね。ちゃんと眠れているかい?」
流石医者だけあって、透哉には寝不足であることがばれてしまっているようだ。
「えっと……」
「勉強もほどほどにしないと、体を壊してしまうよ」
「は……はい、気をつけます……」
葵は曖昧な笑みを浮かべてそう答えた。
高校の編入試験勉強に追われている葵としては、素直に頷けなかったからだ。
実は透哉の家で暮らすことにしたもう一つの決め手が、透哉の母校への進学の為だった。
透哉の家で暮らすことになり、一番驚いたのは蔵書の数だ。
医者である透哉の書斎には本が所狭しと並べられていた。
少しすさんだ匂いのする書斎に居ると、なんとなく落ち着くことができ、暫くの間は自分の部屋のように透哉の書斎に引きこもり、本を読み続けていた。
その中で次第に医学……特に心療内科の世界に興味を持つようになった。
その様子に気づいた透哉は再びある提案をした。
『葵君、医学に興味があるかい?』
『そうですね……。医学にも興味はありますけど、心って面白いですね。心理学とか興味あります。』
『そうかい。じゃ、勉強してみるかい?』
『え?』
『実は僕の母校はここから近い高校なんだけど、そこの先生が個性的なんだよ。とても面白いよ』
聞けば透哉の母校には心理学のスペシャリストである先生も何故かいて、透哉はずいぶんとその先生に世話になったらしい。
自由な校風で図書館も充実しているから、いっそのことその高校に転学してはという提案だった。
正直、高校に行かなくては就職しようにも出来ないだろうし、元の高校に通うためには実家に戻らなくてはならない。
そんな打算的な考えもあり、葵は透哉の母校に転学することにした。
もちろん、転学など簡単にはできないこと。
だから葵は転学試験を受けるために、猛勉強を始めたのだった。
……とはいうものの、試験勉強は一向に芳しい成果は上げていないのだが。
「そうだ。折角だから気分転換でもしたらどうだい?」
正直、試験のことが気がかりで一分一秒でも勉強したいと思うが、柔和な透哉の笑顔を見るとその言葉を無下には出来ない。
答えに詰まった葵に、透哉は念を押すように言った。
「ともかく、無理は禁物だからね」
「……はい」
この満面の笑みで言われてしまったら、葵の良心が断ることを許してくれない。
仕方なしに承諾すると、透哉は満足したように更ににっこりと微笑むと、再びご飯を食べ始めた。
葵もまた焼き魚に手を伸ばしたが、ふと昨日のことが気になって一応透哉に聞いてみることにした。
「そういえば叔父さん、夜にお客さんでも来ていました?」
「え? 夜かい?」
「はい」
透哉は葵の質問に対し、首を傾げながら記憶を辿るような素振りを見せた。
「うーん、昨日の夜は夜間救急も無かったし。通常診察の後は患者さんは来ていないよ。もちろん来客も無かったと思うけど」
「じゃ、電話とかしていましたか?」
「葵君が部屋に戻ってからは電話はなかったかな」
「そうですか……」
まぁ、案の定と言えば案の定の回答に、葵は内心ため息をついていた。
(またか)
今に始まったことではないが、やはり気持ちのいいものではない。
どうしてこんな体質なのかは分からないが、葵は「物の怪」というヤツが見える体質だ。
それは死んだ人間――幽霊という場合もあるし、古い物の化身だったりするし、あるいは妖怪と呼ばれるものだったりする。
子供の頃は、そういったモノと人間との区別が付かず、周囲の大人や友達に気味悪がられたりしていたものだ。
葵も大人になり、そういったモノとの関わり方というのを器用に身につけたお陰で、中学・高校の生活はいたって平凡な学生を演じられたと思う。
それは見えるものを見えないように、聞こえるものを聞こえないようにする努力の上に成り立っていたと言えるだろう。
そんなわけで、この家に来てもそれを演じている中、昨晩のような出来事があったのだから、憂鬱になるのも仕方が無い。
(まぁ、無視すればいいかな)
葵はそう結論付けると、再び食事を始めた。
部屋の窓からは日が差し込み、その眩しさに葵はゆっくりと目を覚ました。
まだ夢から覚めずにぼんやりとしている葵の耳に、遠くから小鳥の囀りが届く。
(ん……朝? 昨日の事は夢だったのか?)
昨夜、寝しなに怪しい声を聞いたことを思い出し、葵は首を傾げた。
きっと寝ぼけていたのだろう。
そう思うことにして葵はのっそりと起き上がると身支度を整えた。
ジャバジャバと顔を洗った時にはすっかり目が覚め、ハムエッグの焼けるいい香りを辿るように台所へと向かう。
「おはようございます」
台所に立つ透哉に声を掛けると、いつものような穏やかな声で挨拶が返ってきた。
「葵君、おはよう。もうちょっとで朝ごはんの準備ができるから待ってて」
母が亡くなってからというもの、葵は朝食などまともに食べていなかった。
父親はやはり自宅に帰って来ることも少なく、葵が起きる時間には研究に没頭して徹夜明けで寝ているか、授業のために早々に大学に行っていた。
だからわざわざ一人分の朝食を作るのも面倒で、コンビニでおにぎりやパンを買ってさっと食べる程度というのがこれまでの日常だった。
だからこうやって誰かが朝食を作ってくれることに最初は違和感を覚えたが、居候として一ヶ月余りをこの家で過ごしていると、もうすっかり馴染んだ光景となっていた。
透哉は葵の死んだ母親の弟にあたり、代々続く町医者を継いでこの家を守っている。
叔父と言ってもまだ30代そこそこの若さであるのだ。
(料理も上手いし、顔もイケメンなんだしモテると思うんだけどな……)
透哉は身内の贔屓目に見ても美男子だ。
背はスラリと高く、手足も長いモデル体型。
少し茶色がかった髪はさらさらで、眼鏡の奥の瞳は柔和な印象を与えるアーモンド型。
近所の若い女の子だけではなくお婆さんにまで人気な人物だ。
ただ、医者の仕事と骨董が趣味というちょっと変わり者のせいか、いまだ独身である。
そんなことを思いつつ、葵はいつものように朝食の準備を手伝うことにした。
といっても、できることと言えば食器を並べたり、味噌汁をよそったりという程度なのだが。
焼き魚に納豆、ご飯と味噌汁にハムエッグ。
パンに牛乳だけを流し込み、慌ただしく学校に向かっていた一ヶ月前の生活が嘘のように、今では規則正しい生活を送っている。
「それじゃあ食べようか」
「いただきます」
てんこ盛りのご飯を頬張っていると、葵は透哉の視線に気づいてハムを摘まんだ箸を止めた。
「ん? どうしたんですか?」
「いやー。だいぶウチに慣れたのかなと思ってね」
透哉はしみじみとそう言いつつ、小さく笑った。
「え?」
「初めはほら、朝食食べなかっただろう? 成長期の男の子なのに、パンだけでよく持つと思っていたんだよ」
「そうですか?」
「うん。いい傾向だね。……でも、ちょっと顔色が良くないね。ちゃんと眠れているかい?」
流石医者だけあって、透哉には寝不足であることがばれてしまっているようだ。
「えっと……」
「勉強もほどほどにしないと、体を壊してしまうよ」
「は……はい、気をつけます……」
葵は曖昧な笑みを浮かべてそう答えた。
高校の編入試験勉強に追われている葵としては、素直に頷けなかったからだ。
実は透哉の家で暮らすことにしたもう一つの決め手が、透哉の母校への進学の為だった。
透哉の家で暮らすことになり、一番驚いたのは蔵書の数だ。
医者である透哉の書斎には本が所狭しと並べられていた。
少しすさんだ匂いのする書斎に居ると、なんとなく落ち着くことができ、暫くの間は自分の部屋のように透哉の書斎に引きこもり、本を読み続けていた。
その中で次第に医学……特に心療内科の世界に興味を持つようになった。
その様子に気づいた透哉は再びある提案をした。
『葵君、医学に興味があるかい?』
『そうですね……。医学にも興味はありますけど、心って面白いですね。心理学とか興味あります。』
『そうかい。じゃ、勉強してみるかい?』
『え?』
『実は僕の母校はここから近い高校なんだけど、そこの先生が個性的なんだよ。とても面白いよ』
聞けば透哉の母校には心理学のスペシャリストである先生も何故かいて、透哉はずいぶんとその先生に世話になったらしい。
自由な校風で図書館も充実しているから、いっそのことその高校に転学してはという提案だった。
正直、高校に行かなくては就職しようにも出来ないだろうし、元の高校に通うためには実家に戻らなくてはならない。
そんな打算的な考えもあり、葵は透哉の母校に転学することにした。
もちろん、転学など簡単にはできないこと。
だから葵は転学試験を受けるために、猛勉強を始めたのだった。
……とはいうものの、試験勉強は一向に芳しい成果は上げていないのだが。
「そうだ。折角だから気分転換でもしたらどうだい?」
正直、試験のことが気がかりで一分一秒でも勉強したいと思うが、柔和な透哉の笑顔を見るとその言葉を無下には出来ない。
答えに詰まった葵に、透哉は念を押すように言った。
「ともかく、無理は禁物だからね」
「……はい」
この満面の笑みで言われてしまったら、葵の良心が断ることを許してくれない。
仕方なしに承諾すると、透哉は満足したように更ににっこりと微笑むと、再びご飯を食べ始めた。
葵もまた焼き魚に手を伸ばしたが、ふと昨日のことが気になって一応透哉に聞いてみることにした。
「そういえば叔父さん、夜にお客さんでも来ていました?」
「え? 夜かい?」
「はい」
透哉は葵の質問に対し、首を傾げながら記憶を辿るような素振りを見せた。
「うーん、昨日の夜は夜間救急も無かったし。通常診察の後は患者さんは来ていないよ。もちろん来客も無かったと思うけど」
「じゃ、電話とかしていましたか?」
「葵君が部屋に戻ってからは電話はなかったかな」
「そうですか……」
まぁ、案の定と言えば案の定の回答に、葵は内心ため息をついていた。
(またか)
今に始まったことではないが、やはり気持ちのいいものではない。
どうしてこんな体質なのかは分からないが、葵は「物の怪」というヤツが見える体質だ。
それは死んだ人間――幽霊という場合もあるし、古い物の化身だったりするし、あるいは妖怪と呼ばれるものだったりする。
子供の頃は、そういったモノと人間との区別が付かず、周囲の大人や友達に気味悪がられたりしていたものだ。
葵も大人になり、そういったモノとの関わり方というのを器用に身につけたお陰で、中学・高校の生活はいたって平凡な学生を演じられたと思う。
それは見えるものを見えないように、聞こえるものを聞こえないようにする努力の上に成り立っていたと言えるだろう。
そんなわけで、この家に来てもそれを演じている中、昨晩のような出来事があったのだから、憂鬱になるのも仕方が無い。
(まぁ、無視すればいいかな)
葵はそう結論付けると、再び食事を始めた。



