春、告ゲシモノ

夜の玄関に、葵の怒りに満ちた声が響いた。

「ふ、ふざけるな! 今更父親気取りかよ! 帰れ!」

夜半にその家を突然訪れた壮年の男に対し、葵は激しい怒りをぶつけた。
だがその熱に反して男は顔色一つ変えることなく淡々と告げる。

「迎えに来た。電話では……埒が明かない。帰るぞ」

「久しぶりだな」でも「元気だったか?」でもない。
その声には家族の情など一切なく、そして低く冷たい声だった。
壮年男は背が高く、がっちりとした体躯に加え、眼鏡の奥から覗く目は威圧感さえ感じられるほどだ。
対してまだ高校生の葵は、男と言えど少年らしい華奢な体つきだ。
ともすれば目の前の男が纏う重苦しい空気に圧倒されそうなものだが、それを跳ね返すように葵は睨む。
そして殺意をも滲ませる目を男に向けながら、食らいつかんばかりに叫んだ。

「今まで……今まで俺の事も母さんの事も、ほったらかしにしていたくせに!」

それは傷口から血が溢れるような、そんな切ない叫びだった。
葵は感情をぶつけるように言葉を重ねた。

「母さんが、どんなに苦労したか、知っているのかよ!」

男は葵の昂った感情を受け止めるように口を噤むと、再び口を開いた。

「……知ってる。だから、すまないと思う……」

『すまない』という謝罪の言葉だが、そこには感情というものは込められていない。
少なくとも葵はそう感じた。
淡々と紡がれた言葉に、葵は皮肉気に笑った。

「ふ、は。はははは! 知っているだって!? 馬鹿なこというな! 父さんに……父さんに何が分かるっていうんだよ!」
「葵。お前はまだ子供だ。大人の事情は分からないだろう」
「大人の事情? 病気の母さんを放っておいたのも、親族から虐められているのを知ってて止めなかったのも、全部大人の事情なのかよ!」

葵の言葉に、今度こそ父親は口を閉ざした。
2,3秒ほどの静寂が玄関を支配する。
それは静寂というよりも地震が起こる直前のような、張り詰めたものだった。
怒りに満ちた眼差しを向ける息子に対し、父親は一旦目を閉じると小さくため息を漏らした。

「お前が、母さんを大切に思っているのは分かる。だが、そろそろ一緒に暮らしてもいいだろう。私たちは家族だ」
「僕にはもう家族は居ない。あんたと一緒に住む気もない。帰ってくれ」
「……来月からの学校の手続きはしておいた。来週、迎えに来る」

葵の意思など無視した一方的な言葉を告げると、父親はくるりと踵を返して玄関を出て行った。
衝撃のあまり一瞬呆然とした葵だったが、パタンという玄関ドアの閉まる音と共に我に返る。
そして荒々しくドアを開くとそのまま道路へと飛び出した。

「勝手なこと言うな! 俺は絶対にあんたとは暮らさない!」

葵は父親の背中に向かって叫んだが、父親はそれに構うことなく去って行った。
一人残された葵はグッと拳を握りしめ、地面に視線を落として呻くように言った。

「最悪だ……」

暗がりの中、電信柱の灯りだけが葵を取り囲むように照らす。
世界から拒絶され、一人取り残される錯覚を覚えた。
葵が俯いたまま道路に立ち尽くしていると、不意に優しい男性の声が掛けられた。

「どうしたんだい? 誰か来た?」

父親の厳めしい声とは全く異なる声は柔らかく、葵を現実に引き戻すようだった。

「あ……叔父さん」

玄関先で不思議そうに首を傾げている青年の存在に気づいた葵だったが、それ以上言葉を発することができなかった。
父親が来たのだと叔父に伝えればいいのだが、先ほどの激しいやり取りをどう伝えればいいのか分からない。
答えられずにいると、叔父の透哉(とうや)が何かを察したようだ。

「義兄さんが来たの?」
「すみません……、俺もう寝ます」

葵は心配そうにこちらを見やる透哉の横をすり抜けるようにして家に入ると、そのまま部屋へと向かった。



葵――朝砂葵(あさずなあおい)は部屋に入ると脱力したようにベッドに身を投げ出した。
電気をつける気力さえない。
暗闇の部屋の中、葵はゆっくりと仰向けになると、片腕で自らの目を覆った。
今葵は、叔父である透哉の家に身を寄せている。
高校二年生の17歳だが、複雑な事情から現在は学校にも行っていない。
全てが嫌で、全てから逃げたかったからだ。

事情の一つが父の存在だった。
葵と父との間には大きな確執がある。
葵の父は大学で物理の教授として働いているが、研究第一の人間で家に帰って来るのは稀だった。
葵の記憶では父親に遊んでもらった記憶すらない。
たまに家に帰ってもいつも眉間に皺を寄せ、難しい顔をして、母が父親の好物を作ったり、お茶を淹れたりと気遣っても、ありがとうの一つも言わなかった。
少し時間が出来ると自室にこもってしまう。

葵の母はそれに文句も言わず、献身的に父を支えた。
母親は義理の両親――つまり葵にとっての祖父母の介護もしていたが、それは親族に押し付けられたもので、それなのに親族からは「介護をするのも遺産目当てなのだろう」などと難癖をつけられる。
それを父は知っていても止めようともせず、母に押しつけたまま自分の好きな研究に没頭していた。

そんな母が、去年癌で亡くなった。
調子を崩していた母に、葵は何度も病院に行くように促していたのだが、「お父さんが心配するから」と言って病院には行かず、発見された時には末期だった。
葵は父親にもそのことを告げたが、「分かった」という一言だけで、これまでの生活を大きく変えることは無かった。
そして余命僅かになって入院した母を、父は一度として見舞いに来ることは無かった。

だから葵の中では父親は母を見捨てた男であり、恨みしか抱けない。
母の死後、父親はようやく家に帰って来るようになったが、相変わらず父親は何も言わないし、葵も父に対する恨みを抱いた状態で親子2人きりの生活は息苦しいものだった。
父親とできた溝をどうすることもできず、やり場のない怒りが胸中を締まる。
悶々とした生活を送るうち、全てが嫌になり、次第に部屋から出ることも億劫になり、学校に行かない日も多くなっていた。
そんな生活を見かねたのが母の弟である透哉だった。
心療内科医でもある透哉は葵と父にある提案をした。

『葵君、このまま家に閉じこもってるのはもったいないよ。無理に学校に行く必要はないと思うし、気分転換にウチで暮らすのはどうかな?』

母に似た柔和な笑みで透哉にそう提案されると、父は暫し無言でいたが葵に尋ねた。

『お前はどうしたい』

この暮らしには限界を感じていた。
家にいるとどうしても父親との関係に頭が言ってしまう。
そして現状を変えられない閉塞感でこれ以上耐えられなくなりそうだった。

『……叔父さんの家に行く』

俺の返事を聞いて、父は一言「分かった」というと、そのまま書斎に籠ってしまった。
こうして葵は透哉の家にやって来た。
先ほどの父親との会話を思い出しながら、葵は大きくため息をついた。

「はぁ……」

怒りに任せて怒鳴ったせいか、はたまた精神的に疲労したのか。
目を瞑っていると徐々に眠気が襲ってきた。
夢へと落ちていく一歩手前の、意識が現実と幻の間で浮き沈みしている葵の耳に、何やら会話が聞こえて来た。

——まだかの? まだかの?
——今年こそは見られるじゃろかの?
——もう何年見れておらぬかの?
——はて、何年じゃったかの

うるさい……。
人の声が耳について、葵は目を覚ました。
窓からは月明かりがぼんやりと淡く差し込んで部屋を薄明るく照らしている。
時計を見ると針はまだ3時を示しているのが、薄明かりの中で分かった。
葵は気を取り直して布団を深く被ると、再び眠りに就こうとした。
しかし、会話は一向に止まる気配がない。
しかも気にしないようにしようと思えば思うほど耳に入ってくる。
どうやら声の主は2人。
ひそひそと喋っているつもりなのだろうが、人が寝静まったこの時間では生憎部屋に響いてしまっている。

——あれを見ぬ春は何度目ぞ。
——何度目かの? かれこれ20年余りかの?
——そんなに経つのか。あっという間のようじゃの
——かの人が居なくなってからじゃてな
——早いの~
——早いの~

透哉とその知り合いが話しているのだろうか?
それにしては透哉の声ではないような気がする。
透哉はまだ30代だ。対して声の主達はどう聞いても70歳は越えているだろう。
葵は延々と続く会話により現実に引き戻され、そしてとうとうベッドから身を起こす。
そして廊下を覗くが、その時には何の物音もしなくなっていた。
リビングから聞こえたのだろうか。
そう思って階段を下りるが、リビングには人の気配はなく、灯りも付いていなかった。

「リビングからだと思ったんだけど……気のせいか?」

ぽつり呟いた自分の声が闇に響く。
先ほどまでの喧騒が嘘のように話し声は途絶え、辺りは一気に静寂に満たされていた。

「……おかしいなぁ?」

葵は首を捻ると再び部屋へと戻り、そのまま布団を被った。
静かに目を瞑る。
うとうととし始めたとき、確かに葵は再び声を聞いた。

——今年こそは出してくれまいかの
——出してくれまいかの

何の話をしているのか。
理解できないと思いつつ葵は静かに眠りに落ちていった。