穢れた龍神と生贄の花嫁

 まさか、翔澪の身に何かあったのだろうか。力が戻って来たと言っていたけれど、力を使いすぎて倒れてしまったのではないか。慌てて水夜がリビングから出ると、廊下の窓の外に黒いススのような塊がうごめいている。その黒い塊は、窓に触れた瞬間にはじけるように飛び散り、消え去った。

(さっきの音は、もしかしてこの音?)

 屋敷の一部が綺麗に浄化されたので、穢れの塊が屋敷に近寄れなくなっているようだ。ふと、廊下の向こう側に黒い塊がズズズと床を這うようにして動いている。まだ掃除が終わっていない場所に、黒い塊が集まりつつあるのだ。

 水夜が驚いて後ずさりすると、ポタリ、と目の前を何かが落下した。

(えっ?)

 何が降って来たのだろうかと水夜が上を見上げると、天井に黒いススのようなものが壁の隅を這っているのが見えた。水夜が目を大きく見開くと、その黒くうごめくものは一斉に水夜へ向かって飛びついてくる。

(!)

 水夜は驚いて両手で頭を庇いながらしゃがみ込もうとした、その時。

 ふわり、と水夜の周囲の気が清らかになるのがわかる。そして、水夜を庇うようにして肩を抱く翔澪がいた。

 黒くうごめくものは翔澪に触れる前にはじけ飛び、消えて無くなる。

「水夜の美しい気に惹かれて天井を伝って集まって来たか。水夜に近寄ろうなどと、穢れの分際で生意気な!」

 翔澪が怒号を飛ばすと、天井を伝って移動していたススは一目散に散り、まだ掃除が終わっていない部屋へ戻っていった。
天井も箒で掃いてはいたが、所々汚れが残っている部分があったらしい。そこを伝って穢れが水夜を目指してやって来てしまったようだ。

「すまない、水夜。怖かっただろう」

 優しく翔澪が水夜を抱きしめる。驚いた水夜はかすかに震えていたが、翔澪に抱きしめられたことで少しずつおさまっていった。

(翔澪様に包まれていると安心する……)

 さっきまでの恐怖が嘘のように静まっていく。ホッと息を吐き、水夜は翔澪を見上げて微笑んだ。

「翔澪様が来てくださったから大丈夫です、ありがとうございます。それにしても、突然翔澪様が現れてびっくりしました」
「変な物音がして、嫌な予感がしたんだ。水夜を守れてよかった」

 そう言って、水夜を抱きしめたまま頭をぐりぐりと水夜にこすりつける。

(神様だから瞬間移動ができるのね、すごいわ。それにしても翔澪様は神様なのに、これじゃまるで犬のように思えてしまう)

「翔澪様、あの、くすぐったいです」

 水夜が照れくさそうにそう言うと、翔澪は慌てて顔をあげた。

「すまない、嫌だったか?」
「翔澪様にされて嫌なことなどありません!ただ、くすぐったかっただけです」

 フフッと水夜がはにかむように微笑むと、翔澪はほんのりと頬を染めて嬉しそうに笑った。

「ああ、そうだ。湯が沸いたから風呂に入って来るといい。最低限のものだけだが、風呂で必要そうなものは置いておいた」
「ありがとうございます!」

 そう言ってから、水夜はハッとする。

「神様より先にお風呂に入るなんて罰当たりなのでは!?翔澪様、お先に入ってください」
「俺は風呂に入らずとも綺麗にできる、神だからな。……だが、水夜が入った方がいいと言うのであれば、入ろうか。そうだな、せっかくだから一緒に入るか?」
「なっ!?」

(翔澪様と、一緒に!?)

 目を丸くして顔を真っ赤にする水夜を見て、翔澪はクックックと楽しそうに笑った。

「ははは、冗談だ。水夜は本当に可愛いな!いや、俺は本気にしてもらっても構わないが、一緒が無理だと言うなら水夜が先に入ってくれ」
「翔澪様、酷いです!か、からかわないでください……!」

 平然とした顔で驚くようなことを言うのだから、心臓がいくつあっても足りないと水夜は思う。手で顔をパタパタと仰ぐ水夜を見て、翔澪は急に真剣な表情になった。

「からかってなどいない。お前は俺の花嫁だ。いずれは一緒に入りたいと思っている。お前の心の準備が整えばすぐにでもだ」

 そう言って、翔澪はそっと水夜の頬に手を伸ばし、優しく撫でる。その仕草はとても優しいのにあまりに色っぽく、水夜の心臓は大きく跳ね上がった。

「だが、まだ先のことになるだろう。俺はいつまでだって待てる。だから、今はほら、先に入っておいで」
「は、はい……」



(はあ、いいお湯だな)

 水夜はお湯に浸かりながらぼんやりと天井を見つめていた。実家にいたころは残り湯を桶で体にかけるだけ、髪の毛も数日に一度しか洗うことができなかった。きちんと全身を荒い、こんなにもゆっくりとお湯に浸かることができるなんて夢を見ているかのようだ。
 体のあちこちにできた傷に染みるかと思っていたが、意外にも痛みはない。しかも身体中がほぐれてじわじわと疲れが無くなっていく。

(もしかして神様がいれてくれたお湯だから、癒しの効能があるのかもしれない)

 龍神様へ生贄として差し出され、食べてもらうこともできないと知って自ら命を絶とうとしたが、死ぬくらいなら一緒に来いと龍神様が言ってくれた。しかも、水夜が必要だと言ってくれたのだ。

(神力を持たないこんな私を、翔澪様は必要としてくれる……)

 一緒にいることで力が戻って来たと言っていた。おそらく掃除をすることで神域が清められ力が戻っているのだろう。まだ掃除ができていない箇所には穢れが溜まっていた。自分のすべきことは屋敷を隅々まで綺麗にすることだ。必要としてくれるのだから、翔澪の役に立ちたいと、水夜は湯船の中で意気込んだ。



「とても良いお湯でした、ありがとうございました」

 水夜がそう言ってリビングへ戻ると、翔澪がテーブルの上に荷物を置いていた。

「それは?」
「ああ、人間は食べ物が必要だろう?とりあえず米と野菜、果物など少しだが一通り買って来た」
「翔澪様が!?」

 神様が買い物をするなんて驚きだ。水夜が驚いた顔で翔澪を見ていると、翔澪はクスリと小さく笑う。

「人の姿で町へ行くこともある。穢れてしまってからはそんなこともできなくなっていたが、今は水夜のおかげでそれができるからな。久々の町はずいぶんと変わっていて面白かった。今度一緒に行こう」

 なんてことない顔で翔澪は言う。人の姿でということは、この美しい姿で町を歩いたと言うことだ。さぞかし目立ったことだろう、水夜は目を丸くする。

「金は賽銭があるからそれで支払える。昔はお供え物があったから買い物に行かずともそれでまかなうこともできただろうが、今の俺に供え物をする人間はどこにもいないからな」

 そう言って翔澪はテーブルから離れ水夜の前まで足を運ぶと、水夜を上から下まで眺め嬉しそうに微笑んだ。

「うん、よく似合っているな」
「新しいお着物、置いていてくださったんですね。ありがとうございます」

 洗面台の棚に置いておいたはずの脱いだボロボロの着物は無くなり、代わりに新しい着物が置いてあったのだ。薄い水色に淡いピンクと紫の花が描かれた着物だ。

「水夜に似合うと思って用意したが、やはり似合っている。さて、髪の毛がまだ濡れている、乾かしてやろう」

 そう言って翔澪は水夜の持っていたタオルを水夜の頭にかけ、優しく拭く。

「あ、そんな、神様にそんなことをしてもらうなんて……!」
「俺がやりたいんだから、黙って拭かれていろ」

 嬉しそうにそう言いながら翔澪は水夜の髪を拭く。ひとしきり拭き終わると、タオルを取って手をかざした。すると、風が優しく水夜の髪の毛の周囲に吹く。

(わあ……!)

「よし、乾いたな」

 そう言って翔澪は満足そうに水夜の髪の毛を優しく手にとり、口づける。驚いて顔をほんのり赤らめる水夜を見て翔澪は嬉しそうに微笑んだ。

「せっかくだから、水夜が入って来た湯に俺も入ってこよう。掃除した部屋は自由に行き来して構わない。すぐに戻って来る、それまでくつろいでいてくれ」

 そう言って翔澪は水夜の髪の毛から手を離すと、意気揚々とお風呂場へ向かって行った。