両手でかんざしをつかみ、鋭くとがった軸の先端を自分の喉元に向ける。
(これで喉を一突きすれば、私はもう解放される)
神様の前でこんなことをするのは失礼かもしれない。だが、そんなふうに思いめぐらせることもできないほど、追い詰められ自暴自棄になっていた。
ふと、異変に築いた龍神が振り返り、驚く。
──馬鹿者!
龍神がそう言うと龍神の体が光り輝き、その光の中で姿が消えていく。次の瞬間、目の前に人が現れ、水夜の手からかんざしを奪った。
美しい銀色の髪を緩く一つに束ね、濃い青緑色の着物を着た水色の瞳の美しい男がいる。
まさか目の前の美しい龍神に必要とされ、花嫁となり溺愛されることになるなんてこの時は思ってもいなかった。
*
「あら、そこにいたのね、水夜。存在感がなさすぎて気づかなかったわ」
水夜の母親である万里絵はそう言って水夜の前を通り過ぎる。床の水拭きをしていた水夜は膝をつきながら深くお辞儀をすると、万里絵が通り過ぎるのを待ってから水拭きを再開した。
神力を持つ巫女が生まれ、その巫女によって代々神様と繋がりを持ち国内の繁栄を担ってきた家柄のひとつ、青条家。
その長女でありながら、神力を持たずして生まれてきた水夜は家の中に居場所がなく、侍女として生きてきた。
「あら、お姉様は今日もお掃除?神力を持たないというだけで侍女のように働かされるなんて、可哀想。ああ、私は神力を持って生まれてきてよかった!」
ひとつ年下で実の妹である珠奈は濃い茶髪のセミボブを揺らし、水夜を蔑んだ目で見つめ笑みを浮かべる。
巫女に神力が現れるのは五歳までと言われており、五歳までに神力が現れなかった場合巫女にはなれず、水夜はまさにそれだった。
(いつものことだもの。気にしてはだめ)
水夜は怯える様子も悲しむ様子も見せず、ただ小さくお辞儀をしてまた水拭きを始めようとした。
「ちょっと!私の話を無視するなんて生意気じゃない!」
珠奈は腹いせに近くにあったバケツを水夜へ向かって蹴る。バシャッと盛大に水夜へ水がかかり、水夜は頭から水浸しになった。
「あっはは!汚い水を被っていい気味だわ!力を持たないお姉様にはそれがお似合いね!」
心底楽しそうに笑う珠奈は、ひとしきり笑うと空になったバケツを庭へ蹴り上げた。
「床が水浸ししゃない。それにバケツも外へ出てしまったわよ?早く取ってきてさっさと掃除してちょうだい。お姉様は掃除することしか特技が無いでしょう」
フンと鼻で笑い、珠奈は満足そうにその場から立ち去った。
ぽたり、ぽたりと水夜の髪の毛から水が滴り落ちる。
(私のことなんて、構わなければいいのに)
目を瞑りギュッと雑巾をきつく握りしめると、小さく息を吐いて水夜は目を開け立ち上がる。
(着替えてこなきゃ。早くしないと、侍女頭に怒られてしまうわ。それに、床に汚い水がまかれたままではすぐに穢れてしまう)
神力を扱う巫女のいる屋敷は、すみずみまで磨き上げなければいけない。ほんの少しの汚れの積み重ねが穢れを生み、神力を弱らせてしまうのだ。
神力が現れるはずの五歳まで巫女としての教育を徹底的に受けていた水夜は、神力が現れなくてもその教えを健気に守り続けてきた。
屋敷を掃除する水夜と珠奈が顔を合わせれば必ず嫌味を言われ、反応しなければ余計に酷い扱いを受ける。水夜にとって、これは日常茶飯のことだった。
両親も珠奈の水夜に対する扱いを知っている。知った上で神力を持つ珠奈を贔屓し、力を持たない水夜はどんな仕打ちをされても良いと思っているのだ。
水夜にとってこの家の中に居場所はどこにもなかった。
*
「はあ!?どうして私が龍神様の生贄にならなきゃいけないの!?」
珠奈の怒声が屋敷内に響き渡る。万里絵は珠奈と水夜たちの父親である清四朗を交互に見てオロオロしているが、清四朗は腕を組んで眉間に皺を寄せていた。
珠奈と両親が食卓を囲んでいたその日、清四朗が珠奈へ龍神の生贄になるようにと告げた。配膳をしていた水夜は珠奈の怒声に驚き思わずお膳を落としそうになるが、そんなことをすれば余計に珠奈の怒りが増幅されてしまう。水夜はなんとか落とさないように堪え、細心の注意を払いながら配膳を行なった。
「隣町で頻繁に災害や疫病が流行っているのは知っているだろう。国から調査依頼が来てな、調べたところどうやら龍神様の仕業のようだ」
龍神を祀っているはずの湖はどす黒く濁り、そこから邪気が発せられ町で災害や疫病を招いているというのが父親の見解だった。
「隣町も我が青条家の管轄だ。国からなんとかしろと言われれば、なんとかしなければいけない」
「だからって、大事な娘を生贄として差し出すの!?信じられない!」
珠奈は目を大きくひん剥いて大声を出す。配膳を終え、後ろの方で小さくなって控えめに正座していた水夜は、驚いてビクッと肩を震わせた。
「本来であれば巫女の舞で清浄化すれば済む話だが、神様が人々の生活を脅かすほどの状態になっているのであれば巫女を生贄の花嫁として差し出すしかない。お前もこの家の巫女ならそのくらいのこと知っているだろう」
「だったらなんでそんな状態になるまで放っておいたのよ!そうなる前に私に舞を踊らせればよかったでしょう!」
清四朗に今にも掴みかかりそうな勢いで珠奈が言うと、清四朗は堪忍袋の緒が切れたのか、ついに珠奈へ怒号を浴びせる。
「隣町の町長とは先々代の頃からそりが合わないのだ!何が神力だ巫女だと青条家を毛嫌いし馬鹿にしている。そんな町をなぜわざわざ助けなければいけない!」
さっきまで威勢のよかった珠奈は急な清四朗の怒号に驚き、その場に座り込む。だが、すぐにハッとして後ろを振り返り、水夜を見た。
(……?)
珠奈の視線に嫌な予感がする。思わず視線を逸らすと、珠奈から小さく笑う声が聞こえて来た。
「だったら、私じゃなくてお姉様を生贄に出せばいいじゃない。巫女を馬鹿にしてるんでしょう?神力の無いお姉様はうってつけじゃない」
(え……!?)
水夜の目が大きく見開かれると、珠奈は厭らしい笑みを浮かべる。だが、清四朗はさらに怒ったように声を荒げた。
「そんなことしてみろ、龍神様の怒りを買うかもしれないだろう!普通の人間に神力のなんたるかがわからずとも、龍神様には水夜に力が無いことなど簡単にわかってしまう!」
「だったら、私の力を含んだ勾玉でも持たせればいいでしょう。神力の気配があれば問題ないわよ、きっと。その後、龍神様にバレてお怒りになったとしても、適当に嘘をついて町長のせいにしてしまえば怒りの対象は町へ向けられるでしょう。それであの町がどうなろうと知ったこっちゃない。元々そりが合わないんだったら、ちょうどいいんじゃない?」
珠奈の提案に、万里絵は名案だと言わんばかりに目を輝かせて清四朗を見る。清四朗も、顎に手を乗せなるほど、と呟き水夜へ視線を向けた。
(え、まさか、そんな……)
水夜が怯えたように珠奈、そして両親へ視線を向けると、清四朗はにんまりと微笑んだ。
「よかったな、水夜。使い道のないお前がついに役に立つ時が来た。お前が龍神の生贄、花嫁だ」
「私が、生贄の、花嫁……?」
「お姉様に拒否権なんてないわよ?国からの命令なんだからこれが出来なかったらお父様の立場も、この家の立場も危うくなるわ。そうなったらお姉様のせいよ?」
珠奈は水夜の目の前まで来るとしゃがみ込み、水夜の目を覗き込む。珠奈の目には、怯えて震える水夜が映っていた。
「わ、私は……」
「だーかーらー、お姉様に拒否権はないって言ったでしょうが!」
水夜の髪の毛を掴んで思い切りひっぱると、珠奈は水夜を床に叩きつけた。
「っ!!」
「ああ、そうだわ、龍神様の花嫁になるんだったら見えるところに傷をつけちゃいけないわね。ごめんなさい、気づかなかったわ。さ、話しは済んだことだし、食事にしましょう!」
両手を合わせて嬉しそうにそう言うと、珠奈は自分の席に戻って食事を始める。万里絵も珠奈に続いて食事を始め、水夜を見ようともしない。
「龍神様の元へ行くのは三日後だ。それまでに色々と準備しなければいけないな。忙しくなるぞ」
そう言って満足そうに頷くと、清四朗も水夜を気にすることなく食事を始めた。
(私が、龍神様の、生贄の花嫁……私には、拒否権はない。生贄になることが、私が唯一役に立てること……)
ぼんやりとした思考のまま水夜はゆっくりと起き上がり、部屋の隅に大人しく正座した。
(これで喉を一突きすれば、私はもう解放される)
神様の前でこんなことをするのは失礼かもしれない。だが、そんなふうに思いめぐらせることもできないほど、追い詰められ自暴自棄になっていた。
ふと、異変に築いた龍神が振り返り、驚く。
──馬鹿者!
龍神がそう言うと龍神の体が光り輝き、その光の中で姿が消えていく。次の瞬間、目の前に人が現れ、水夜の手からかんざしを奪った。
美しい銀色の髪を緩く一つに束ね、濃い青緑色の着物を着た水色の瞳の美しい男がいる。
まさか目の前の美しい龍神に必要とされ、花嫁となり溺愛されることになるなんてこの時は思ってもいなかった。
*
「あら、そこにいたのね、水夜。存在感がなさすぎて気づかなかったわ」
水夜の母親である万里絵はそう言って水夜の前を通り過ぎる。床の水拭きをしていた水夜は膝をつきながら深くお辞儀をすると、万里絵が通り過ぎるのを待ってから水拭きを再開した。
神力を持つ巫女が生まれ、その巫女によって代々神様と繋がりを持ち国内の繁栄を担ってきた家柄のひとつ、青条家。
その長女でありながら、神力を持たずして生まれてきた水夜は家の中に居場所がなく、侍女として生きてきた。
「あら、お姉様は今日もお掃除?神力を持たないというだけで侍女のように働かされるなんて、可哀想。ああ、私は神力を持って生まれてきてよかった!」
ひとつ年下で実の妹である珠奈は濃い茶髪のセミボブを揺らし、水夜を蔑んだ目で見つめ笑みを浮かべる。
巫女に神力が現れるのは五歳までと言われており、五歳までに神力が現れなかった場合巫女にはなれず、水夜はまさにそれだった。
(いつものことだもの。気にしてはだめ)
水夜は怯える様子も悲しむ様子も見せず、ただ小さくお辞儀をしてまた水拭きを始めようとした。
「ちょっと!私の話を無視するなんて生意気じゃない!」
珠奈は腹いせに近くにあったバケツを水夜へ向かって蹴る。バシャッと盛大に水夜へ水がかかり、水夜は頭から水浸しになった。
「あっはは!汚い水を被っていい気味だわ!力を持たないお姉様にはそれがお似合いね!」
心底楽しそうに笑う珠奈は、ひとしきり笑うと空になったバケツを庭へ蹴り上げた。
「床が水浸ししゃない。それにバケツも外へ出てしまったわよ?早く取ってきてさっさと掃除してちょうだい。お姉様は掃除することしか特技が無いでしょう」
フンと鼻で笑い、珠奈は満足そうにその場から立ち去った。
ぽたり、ぽたりと水夜の髪の毛から水が滴り落ちる。
(私のことなんて、構わなければいいのに)
目を瞑りギュッと雑巾をきつく握りしめると、小さく息を吐いて水夜は目を開け立ち上がる。
(着替えてこなきゃ。早くしないと、侍女頭に怒られてしまうわ。それに、床に汚い水がまかれたままではすぐに穢れてしまう)
神力を扱う巫女のいる屋敷は、すみずみまで磨き上げなければいけない。ほんの少しの汚れの積み重ねが穢れを生み、神力を弱らせてしまうのだ。
神力が現れるはずの五歳まで巫女としての教育を徹底的に受けていた水夜は、神力が現れなくてもその教えを健気に守り続けてきた。
屋敷を掃除する水夜と珠奈が顔を合わせれば必ず嫌味を言われ、反応しなければ余計に酷い扱いを受ける。水夜にとって、これは日常茶飯のことだった。
両親も珠奈の水夜に対する扱いを知っている。知った上で神力を持つ珠奈を贔屓し、力を持たない水夜はどんな仕打ちをされても良いと思っているのだ。
水夜にとってこの家の中に居場所はどこにもなかった。
*
「はあ!?どうして私が龍神様の生贄にならなきゃいけないの!?」
珠奈の怒声が屋敷内に響き渡る。万里絵は珠奈と水夜たちの父親である清四朗を交互に見てオロオロしているが、清四朗は腕を組んで眉間に皺を寄せていた。
珠奈と両親が食卓を囲んでいたその日、清四朗が珠奈へ龍神の生贄になるようにと告げた。配膳をしていた水夜は珠奈の怒声に驚き思わずお膳を落としそうになるが、そんなことをすれば余計に珠奈の怒りが増幅されてしまう。水夜はなんとか落とさないように堪え、細心の注意を払いながら配膳を行なった。
「隣町で頻繁に災害や疫病が流行っているのは知っているだろう。国から調査依頼が来てな、調べたところどうやら龍神様の仕業のようだ」
龍神を祀っているはずの湖はどす黒く濁り、そこから邪気が発せられ町で災害や疫病を招いているというのが父親の見解だった。
「隣町も我が青条家の管轄だ。国からなんとかしろと言われれば、なんとかしなければいけない」
「だからって、大事な娘を生贄として差し出すの!?信じられない!」
珠奈は目を大きくひん剥いて大声を出す。配膳を終え、後ろの方で小さくなって控えめに正座していた水夜は、驚いてビクッと肩を震わせた。
「本来であれば巫女の舞で清浄化すれば済む話だが、神様が人々の生活を脅かすほどの状態になっているのであれば巫女を生贄の花嫁として差し出すしかない。お前もこの家の巫女ならそのくらいのこと知っているだろう」
「だったらなんでそんな状態になるまで放っておいたのよ!そうなる前に私に舞を踊らせればよかったでしょう!」
清四朗に今にも掴みかかりそうな勢いで珠奈が言うと、清四朗は堪忍袋の緒が切れたのか、ついに珠奈へ怒号を浴びせる。
「隣町の町長とは先々代の頃からそりが合わないのだ!何が神力だ巫女だと青条家を毛嫌いし馬鹿にしている。そんな町をなぜわざわざ助けなければいけない!」
さっきまで威勢のよかった珠奈は急な清四朗の怒号に驚き、その場に座り込む。だが、すぐにハッとして後ろを振り返り、水夜を見た。
(……?)
珠奈の視線に嫌な予感がする。思わず視線を逸らすと、珠奈から小さく笑う声が聞こえて来た。
「だったら、私じゃなくてお姉様を生贄に出せばいいじゃない。巫女を馬鹿にしてるんでしょう?神力の無いお姉様はうってつけじゃない」
(え……!?)
水夜の目が大きく見開かれると、珠奈は厭らしい笑みを浮かべる。だが、清四朗はさらに怒ったように声を荒げた。
「そんなことしてみろ、龍神様の怒りを買うかもしれないだろう!普通の人間に神力のなんたるかがわからずとも、龍神様には水夜に力が無いことなど簡単にわかってしまう!」
「だったら、私の力を含んだ勾玉でも持たせればいいでしょう。神力の気配があれば問題ないわよ、きっと。その後、龍神様にバレてお怒りになったとしても、適当に嘘をついて町長のせいにしてしまえば怒りの対象は町へ向けられるでしょう。それであの町がどうなろうと知ったこっちゃない。元々そりが合わないんだったら、ちょうどいいんじゃない?」
珠奈の提案に、万里絵は名案だと言わんばかりに目を輝かせて清四朗を見る。清四朗も、顎に手を乗せなるほど、と呟き水夜へ視線を向けた。
(え、まさか、そんな……)
水夜が怯えたように珠奈、そして両親へ視線を向けると、清四朗はにんまりと微笑んだ。
「よかったな、水夜。使い道のないお前がついに役に立つ時が来た。お前が龍神の生贄、花嫁だ」
「私が、生贄の、花嫁……?」
「お姉様に拒否権なんてないわよ?国からの命令なんだからこれが出来なかったらお父様の立場も、この家の立場も危うくなるわ。そうなったらお姉様のせいよ?」
珠奈は水夜の目の前まで来るとしゃがみ込み、水夜の目を覗き込む。珠奈の目には、怯えて震える水夜が映っていた。
「わ、私は……」
「だーかーらー、お姉様に拒否権はないって言ったでしょうが!」
水夜の髪の毛を掴んで思い切りひっぱると、珠奈は水夜を床に叩きつけた。
「っ!!」
「ああ、そうだわ、龍神様の花嫁になるんだったら見えるところに傷をつけちゃいけないわね。ごめんなさい、気づかなかったわ。さ、話しは済んだことだし、食事にしましょう!」
両手を合わせて嬉しそうにそう言うと、珠奈は自分の席に戻って食事を始める。万里絵も珠奈に続いて食事を始め、水夜を見ようともしない。
「龍神様の元へ行くのは三日後だ。それまでに色々と準備しなければいけないな。忙しくなるぞ」
そう言って満足そうに頷くと、清四朗も水夜を気にすることなく食事を始めた。
(私が、龍神様の、生贄の花嫁……私には、拒否権はない。生贄になることが、私が唯一役に立てること……)
ぼんやりとした思考のまま水夜はゆっくりと起き上がり、部屋の隅に大人しく正座した。

