それから五か月がたった。
夫は、もうほとんど何も覚えていない。
朝起きるたびに、私を見て丁寧にお辞儀をする。
「おはようございます。あなたは、どなたですか」
毎朝、同じ挨拶。
毎朝、私は笑って答える。
「美咲だよ」
料理は、一人ではできなくなった。洗濯機の使い方も忘れた。テレビのつけ方も分からなくなった。
でも、不思議なことがある。
夫は毎朝、目玉焼きの皿を持つと、迷わず醤油に手を伸ばす。
理由は覚えていない。「なんとなく」と言う。
水曜日になると、買い物の帰りに、なぜか遠回りをしたがる。花屋の前を通る道を選び、「こっちの方が、風が気持ちいい気がします」と言う。
何一つ覚えていないのに。
感情だけが、正しい道を歩いている。
ある日曜日の朝。
夫がいつものように「あなたは、どなたですか」と聞いたあと、台所に立って目玉焼きを作ろうとした。
フライパンを持ち上げて、卵を割って、火をつけようとして。
手が止まった。
「……すみません。このあと、どうすればいいか、分からなくなりました」
フライパンを持ったまま、夫は立ち尽くしていた。
私は夫の隣に立って、手を添えた。
「火はここだよ。こうやってつけるの」
カチッ。
青い炎がともる。
「油はここ。少しだけ」
「卵は、もう入ってるよ。上手に割れたね」
夫は私の手の動きを、じっと見つめていた。
「……美咲、さん」
「うん?」
「僕は、あなたに料理を教わったことが、ありますか」
首を横に振った。
「ないよ。いつも、あなたが作ってくれてた」
「そうですか」
夫は小さくうなずいた。
「では、今度は教わる番ですね」
目玉焼きが焼けた。
皿に盛ると、夫が迷わず醤油をかけた。
「なんとなく、これが正解な気がします」
「正解だよ」
私は笑った。泣きそうだったけれど、笑った。
その日の昼すぎ、田中さんが家へ来た。
夫が私の名前を忘れてから、家へ人を呼ぶのは初めてだった。
「いらっしゃいませ」
ハルは田中さんへ丁寧に頭を下げた。
「美咲さんのお客様ですね。お茶を用意します」
「覚えてるの?」
「いいえ。でも美咲さんがドアを開けたとき、うれしそうに笑いました。大切な方だと判断しました」
田中さんは、私を見た。
「ハルさん、美咲のこと、見てるんだね」
「はい。見ています」
夫が台所へ入ると、田中さんは膝の上で両手を重ね、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「……うちの最新型、完璧な温度でお茶を淹れてくれるんだけどね。私がドアを開けたとき、あんなふうに私の顔をちゃんと見てくれたことなんて、一度もないよ」
田中さんは小さく息をついて、私を見た。
「この前は、ごめん」
「もういいよ」
「よくない。買い替えたらって言う前に、美咲がどうしたいかを聞けばよかった」
「ううん。私も、言い返しちゃったし」
「でも、毎朝なんでしょ。毎朝、自分が妻だって説明して、家のことも全部やって。それで、ずっと笑っていられるの?」
私は少し考えた。
「平気だから笑うんじゃないよ」
「え?」
「つらいよ。名前を忘れられるたび、今でも胸が痛い。でも、泣いたままだと、今日を始められない朝もあるから」
「だから、笑うの?」
「うん。それに、ハルが怖がるからね。知らない女性が、顔を見るなり泣き出したら」
田中さんが、ふっと笑った。
「それは怖いかも」
「でしょ」
私も笑った。
台所から、カップの触れ合う音がした。
「美咲さん」
ハルが顔を出した。
「僕は、泣いている美咲さんも怖くありません」
「聞いてたの?」
「はい。旧型なので、音を選んで聞く機能がありません」
「そこは聞こえないふりをしてよ」
「次から努力します」
三人で笑った。
ハルは少し遅れてから、同じように笑った。
田中さんが帰ったあと、ハルが聞いた。
「あの方は、美咲さんのご友人ですか」
「うん。大切な友達だよ」
「分かりました」
ハルは目を閉じ、胸を二回たたいた。
その姿を見ていたら、胸が締めつけられた。
「……ハル」
「はい」
「明日の朝には、全部忘れちゃうんだよ。それでも、記録する意味あるの?」
ハルは自分の胸に手を置いたまま、少しだけ考えて、静かに言った。
「意味は、あります」
「どうして?」
「今の僕が、忘れたくないと思ったからです。……大切なことです」
「……うん。そうだね、大切なことだよね」
午後、二人で買い物に出かけた。
帰り道、夫が立ち止まった。
いつもの角。まっすぐ行けば近道。左に曲がれば遠回り。
夫は左を見た。
「こっちに行きたいです」
「どうして?」
「分かりません。でも、こっちに行くと、胸のこの辺りが温かくなる気がするんです」
夫は、自分の胸に手を当てた。
花屋の前を通った。
色とりどりの花が並んでいる。夫が足を止めた。
「あの白い花、何というんですか」
「カスミソウだよ」
「カスミソウ」
夫はしばらく、花を見つめていた。
「これを……買ったことがある気がします。思い出せないけれど」
「あなたが私にくれてたんだよ。毎年」
「そうですか。……良い趣味をしていたんですね、僕は」
夫は、少しだけ誇らしそうに笑った。
その笑顔が、以前と同じだった。
記憶は消えても、笑い方は変わらない。
「買おうか、カスミソウ」
「いいんですか?」
「うん。今度は、私があなたに贈る番だから」
小さなカスミソウの花束を、夫に渡した。
夫は丁寧に受け取って、鼻を近づけた。
「……いい匂いですね」
「うん」
「美咲さん」
「うん?」
「僕は、あなたのことを覚えていません」
「知ってるよ」
「でも、あなたの隣にいると、胸がこんなに温かい。これは、覚えているのと同じことですか」
私はしばらく、何も言えなかった。
空を見上げた。夕焼けが、花屋の軒先を橙色に染めていた。
声が震えた。
「同じだよ。それは、覚えてるのと同じことだよ」
夫は安心したようにうなずいた。
カスミソウを大事に抱えて、彼は歩き出した。
私は、その隣を寄り添うように歩いた。
夜。
ベッドに入る前に、夫がリビングで静かに座っていた。
カスミソウの花束をテーブルの上に置いて、じっと見つめている。
「寝ないの?」
「はい。もう少しだけ、この花を見ていたくて」
「どうして?」
「明日の朝、僕はたぶん、この花のことも忘れています」
分かっているのだ。自分の記憶が、朝には失われることを。
「だから、今のうちに覚えておきたいんです。美咲さんがくれた花を。美咲さんの名前を。この部屋の匂いを。今日が温かかったことを」
夫は私を見た。
穏やかで、透き通った目だった。
「全部忘れても、また明日、あなたに会えるんですよね」
「うん。毎朝、会えるよ」
「なら、大丈夫です」
夫は笑った。
「忘れても、また好きになれるから。毎朝、あなたに会えるから。僕は、世界で一番幸せな型落ちです」
私は泣いた。今度は我慢しなかった。
泣いている私を見て、夫が慌てて立ち上がった。
「すみません、何か変なことを――」
「違うの。うれしいの」
「うれしいときも、泣くんですか」
「泣くよ。人間はね、うれしいときも泣くんだよ」
夫は不思議そうに、でも優しく微笑んだ。
「人間は、すごいですね」
リビングの明かりを消した。
カスミソウの白が、月明かりに淡く浮かんでいた。
明日の朝、夫はまた「どなたですか」と聞くだろう。
私はまた「美咲だよ」と答えるだろう。
いつか夫の最後の回路が止まる日まで、同じ朝を繰り返すのだろう。
でもそれでいい。
記憶が残らなくても、温かさは残る。
名前を忘れても、醤油には手が伸びる。
道を忘れても、花屋の前で足が止まる。
過去を忘れても、隣にいると胸が温かくなる。
それを、愛と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
おやすみ、あなた。
明日もまた、初めまして。
(了)
夫は、もうほとんど何も覚えていない。
朝起きるたびに、私を見て丁寧にお辞儀をする。
「おはようございます。あなたは、どなたですか」
毎朝、同じ挨拶。
毎朝、私は笑って答える。
「美咲だよ」
料理は、一人ではできなくなった。洗濯機の使い方も忘れた。テレビのつけ方も分からなくなった。
でも、不思議なことがある。
夫は毎朝、目玉焼きの皿を持つと、迷わず醤油に手を伸ばす。
理由は覚えていない。「なんとなく」と言う。
水曜日になると、買い物の帰りに、なぜか遠回りをしたがる。花屋の前を通る道を選び、「こっちの方が、風が気持ちいい気がします」と言う。
何一つ覚えていないのに。
感情だけが、正しい道を歩いている。
ある日曜日の朝。
夫がいつものように「あなたは、どなたですか」と聞いたあと、台所に立って目玉焼きを作ろうとした。
フライパンを持ち上げて、卵を割って、火をつけようとして。
手が止まった。
「……すみません。このあと、どうすればいいか、分からなくなりました」
フライパンを持ったまま、夫は立ち尽くしていた。
私は夫の隣に立って、手を添えた。
「火はここだよ。こうやってつけるの」
カチッ。
青い炎がともる。
「油はここ。少しだけ」
「卵は、もう入ってるよ。上手に割れたね」
夫は私の手の動きを、じっと見つめていた。
「……美咲、さん」
「うん?」
「僕は、あなたに料理を教わったことが、ありますか」
首を横に振った。
「ないよ。いつも、あなたが作ってくれてた」
「そうですか」
夫は小さくうなずいた。
「では、今度は教わる番ですね」
目玉焼きが焼けた。
皿に盛ると、夫が迷わず醤油をかけた。
「なんとなく、これが正解な気がします」
「正解だよ」
私は笑った。泣きそうだったけれど、笑った。
その日の昼すぎ、田中さんが家へ来た。
夫が私の名前を忘れてから、家へ人を呼ぶのは初めてだった。
「いらっしゃいませ」
ハルは田中さんへ丁寧に頭を下げた。
「美咲さんのお客様ですね。お茶を用意します」
「覚えてるの?」
「いいえ。でも美咲さんがドアを開けたとき、うれしそうに笑いました。大切な方だと判断しました」
田中さんは、私を見た。
「ハルさん、美咲のこと、見てるんだね」
「はい。見ています」
夫が台所へ入ると、田中さんは膝の上で両手を重ね、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「……うちの最新型、完璧な温度でお茶を淹れてくれるんだけどね。私がドアを開けたとき、あんなふうに私の顔をちゃんと見てくれたことなんて、一度もないよ」
田中さんは小さく息をついて、私を見た。
「この前は、ごめん」
「もういいよ」
「よくない。買い替えたらって言う前に、美咲がどうしたいかを聞けばよかった」
「ううん。私も、言い返しちゃったし」
「でも、毎朝なんでしょ。毎朝、自分が妻だって説明して、家のことも全部やって。それで、ずっと笑っていられるの?」
私は少し考えた。
「平気だから笑うんじゃないよ」
「え?」
「つらいよ。名前を忘れられるたび、今でも胸が痛い。でも、泣いたままだと、今日を始められない朝もあるから」
「だから、笑うの?」
「うん。それに、ハルが怖がるからね。知らない女性が、顔を見るなり泣き出したら」
田中さんが、ふっと笑った。
「それは怖いかも」
「でしょ」
私も笑った。
台所から、カップの触れ合う音がした。
「美咲さん」
ハルが顔を出した。
「僕は、泣いている美咲さんも怖くありません」
「聞いてたの?」
「はい。旧型なので、音を選んで聞く機能がありません」
「そこは聞こえないふりをしてよ」
「次から努力します」
三人で笑った。
ハルは少し遅れてから、同じように笑った。
田中さんが帰ったあと、ハルが聞いた。
「あの方は、美咲さんのご友人ですか」
「うん。大切な友達だよ」
「分かりました」
ハルは目を閉じ、胸を二回たたいた。
その姿を見ていたら、胸が締めつけられた。
「……ハル」
「はい」
「明日の朝には、全部忘れちゃうんだよ。それでも、記録する意味あるの?」
ハルは自分の胸に手を置いたまま、少しだけ考えて、静かに言った。
「意味は、あります」
「どうして?」
「今の僕が、忘れたくないと思ったからです。……大切なことです」
「……うん。そうだね、大切なことだよね」
午後、二人で買い物に出かけた。
帰り道、夫が立ち止まった。
いつもの角。まっすぐ行けば近道。左に曲がれば遠回り。
夫は左を見た。
「こっちに行きたいです」
「どうして?」
「分かりません。でも、こっちに行くと、胸のこの辺りが温かくなる気がするんです」
夫は、自分の胸に手を当てた。
花屋の前を通った。
色とりどりの花が並んでいる。夫が足を止めた。
「あの白い花、何というんですか」
「カスミソウだよ」
「カスミソウ」
夫はしばらく、花を見つめていた。
「これを……買ったことがある気がします。思い出せないけれど」
「あなたが私にくれてたんだよ。毎年」
「そうですか。……良い趣味をしていたんですね、僕は」
夫は、少しだけ誇らしそうに笑った。
その笑顔が、以前と同じだった。
記憶は消えても、笑い方は変わらない。
「買おうか、カスミソウ」
「いいんですか?」
「うん。今度は、私があなたに贈る番だから」
小さなカスミソウの花束を、夫に渡した。
夫は丁寧に受け取って、鼻を近づけた。
「……いい匂いですね」
「うん」
「美咲さん」
「うん?」
「僕は、あなたのことを覚えていません」
「知ってるよ」
「でも、あなたの隣にいると、胸がこんなに温かい。これは、覚えているのと同じことですか」
私はしばらく、何も言えなかった。
空を見上げた。夕焼けが、花屋の軒先を橙色に染めていた。
声が震えた。
「同じだよ。それは、覚えてるのと同じことだよ」
夫は安心したようにうなずいた。
カスミソウを大事に抱えて、彼は歩き出した。
私は、その隣を寄り添うように歩いた。
夜。
ベッドに入る前に、夫がリビングで静かに座っていた。
カスミソウの花束をテーブルの上に置いて、じっと見つめている。
「寝ないの?」
「はい。もう少しだけ、この花を見ていたくて」
「どうして?」
「明日の朝、僕はたぶん、この花のことも忘れています」
分かっているのだ。自分の記憶が、朝には失われることを。
「だから、今のうちに覚えておきたいんです。美咲さんがくれた花を。美咲さんの名前を。この部屋の匂いを。今日が温かかったことを」
夫は私を見た。
穏やかで、透き通った目だった。
「全部忘れても、また明日、あなたに会えるんですよね」
「うん。毎朝、会えるよ」
「なら、大丈夫です」
夫は笑った。
「忘れても、また好きになれるから。毎朝、あなたに会えるから。僕は、世界で一番幸せな型落ちです」
私は泣いた。今度は我慢しなかった。
泣いている私を見て、夫が慌てて立ち上がった。
「すみません、何か変なことを――」
「違うの。うれしいの」
「うれしいときも、泣くんですか」
「泣くよ。人間はね、うれしいときも泣くんだよ」
夫は不思議そうに、でも優しく微笑んだ。
「人間は、すごいですね」
リビングの明かりを消した。
カスミソウの白が、月明かりに淡く浮かんでいた。
明日の朝、夫はまた「どなたですか」と聞くだろう。
私はまた「美咲だよ」と答えるだろう。
いつか夫の最後の回路が止まる日まで、同じ朝を繰り返すのだろう。
でもそれでいい。
記憶が残らなくても、温かさは残る。
名前を忘れても、醤油には手が伸びる。
道を忘れても、花屋の前で足が止まる。
過去を忘れても、隣にいると胸が温かくなる。
それを、愛と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
おやすみ、あなた。
明日もまた、初めまして。
(了)



