異変に気づいたのは、結婚八年目の日曜日の朝だった。
台所で目玉焼きを焼き終えたハルが、調味料の並びを見つめたまま、三秒ほど固まっていた。
「……美咲さん。目玉焼きにかけるのは、塩でしたでしょうか」
醤油だよ。あなたが「大切なこと」として記録してくれた、最初の記憶。
そう言いかけて、やめた。
「醤油にしようかな。なんとなく」
ハルはそう言って、醤油をかけた。
夫は旧型の家庭用アンドロイドだ。発売は二〇一四年。もう十二年前のモデルになる。
買ったころは滑らかだった手首の継ぎ目には、細かな傷が増えていた。右腕を上げると、ときどき小さな駆動音もする。それでも、私に向けられる表情は、あの日と変わらず温かかった。
あのころは、何でも覚えていた。
私が醤油派であること。洗濯物は裏返して干すこと。毎週水曜日に花屋の前を遠回りすること。私が泣くときは、左目から涙が出ること。全部、覚えていた。
今は、私の好みが塩だったか醤油だったかさえ、思い出せない。
「醤油にしようかな。なんとなく」
なんとなく、で正解を当てた。偶然だと思う。
でも、偶然でもうれしかった。
夫の経年劣化は、メーカーに言わせれば「想定の範囲内」らしい。
HM-4シリーズは生産終了。部品の供給も三年前に打ち切られていた。診断画面には、修理しても記憶データの復旧は保証できないことと、最新型への買い替えを勧める文章が表示された。
私は画面を閉じた。
買い替え。
あの人を「古い機種」として処分して、新品を迎える。
冗談じゃない。
しばらく、台所の椅子に座っていた。
家電と一緒だと言われたら、言い返す言葉を、私は持っていない。ハルは店で買った。値札が付いていた。保証書もあった。
でも、値札の付いたものが、私のスリッパをそろえて待つだろうか。左目から先に涙が出ることを、大切なことだと言うだろうか。
最新型なら、私が言う前に気づく。ハルは十秒かかる。その十秒を、私は八年間、待ってきた。
待っている間、ハルの目はいつも私を見ていた。何があったのか、何をしてほしいのか、自分で分かったふりをせずに考えていた。
私は、その十秒が好きだった。
あの十秒ごと、捨てられるわけがない。
水曜日の夕方。夫と買い物に出かけた帰り道、いつもの角を曲がろうとしたら、夫がまっすぐ歩いていく。
「あなた、こっちだよ」
「あれ。そうだったかな」
花屋の前を通る遠回り。私が好きな道。毎週、夫が「こっちの方が風が気持ちいい」と言って、選んでくれていた道。
忘れたんだ。
胸が痛んだ。でも、引き返して花屋の前を通ることはしなかった。
夫が覚えていない道を、一人で歩いても意味がない。
あの遠回りは、二人の道だったから。
症状は、少しずつ増えていった。
火曜日。洗濯物を表向きで干していた。
木曜日。冷蔵庫を開けて、三十秒間、何を取り出すのか思い出せずに立っていた。
金曜日。テレビのリモコンを電話だと思って耳に当てた。「つながらないな」と言った。
笑えた。まだ笑えた。
でも、日曜日の夜。
夫がリビングのソファで、じっと私を見ていた。
見つめるのではなく、観察するような目だった。何かを思い出そうとして、どうしても分からないときの目。
「……あの」
夫が口を開いた。
「すみません。お名前を、教えていただけますか」
世界が、止まった。
名前。
八年間、毎朝「おはよう」のあとに呼んでくれた名前。
寝る前に「おやすみ」の前にささやいてくれた名前。
それを、「教えていただけますか」
泣きそうになった。でも泣いたら、夫は「見知らぬ人を泣かせてしまった」と混乱する。
だから笑った。
「美咲だよ。鈴木美咲。あなたの、奥さん」
「美咲……さん」
夫はその名前を、初めて聞いたように繰り返した。
「美咲さん。きれいな名前ですね」
初めて私の名前を教えた日にも、ハルはそう言ってくれた。
あのときはうれしかった。今は、同じ言葉が胸を裂く。
その夜、私は風呂場で泣いた。
左目から先に、涙が出た。
「美咲さんは、左目から泣きます。大切なことです」
そう言った人は、もう私の名前を知らない。
でも私は、自分がどちらの目から泣くのかを、あの人に教わって初めて知った。
知っているのは、今は私だけになった。
夫が私の名前を忘れた翌週。職場の昼休みに、田中さんへ相談した。
彼女は最新のHM-9と暮らしている。
「え、まだHM-4と暮らしてるの?」
田中さんはフォークを止めて、本気で驚いた顔をした。
「もう部品だってないんだし、美咲の負担が増える前に、買い替えも考えた方がいいよ。HM-9なら料理は三千種類だし、会話も自然だし。この前なんて、私が何も言わないうちに、ストレスがたまってるのを見抜いてアロマをたいてくれたよ」
「うん。でも、うちの人は――」
「名前も忘れるんでしょ」
「忘れるよ」
「それでも、一緒に暮らすの?」
「夫だから」
田中さんは何か言いかけて、口を閉じた。
「心配してくれてるのは、分かってる。でも、私はそうじゃないんだ」
田中さんは困ったように眉を下げ、ふっと小さく苦笑いをこぼした。それから、自分の言葉を一つひとつ確かめるように話しだした。
「美咲、ごめんね。私にとっては、生活を助けてくれる存在なの。だから、動けなくなったら新しい機体を選ぶと思う。それが悪いとは思ってないし」
「……うん、そうだと思うよ」
「でも、美咲にとっては違うんだね」
「うん。違うんだよ」
田中さんの言うことは、何も間違っていない。彼女の感覚の方が、きっと世間一般では当たり前で、正しいのだと思う。
家庭用アンドロイドは暮らしを支える高性能な機械。古くなれば、新しいものへ買い替える。誰も彼女を責めたりしない。
でも、私にとってハルは、家電ではなく夫だった。
今朝も夫は、私の名前を思い出せなかった。思い出せなくて、三十秒くらい黙って、それから「すみません」と頭を下げた。
あの「すみません」は、決められた返事ではなかった。
覚えていたい人のことを覚えていられない苦しさが、あの一言に詰まっていた。
家に着くと、夫が玄関で待っていた。私のスリッパをそろえて待つ習慣だけは、まだ残っていた。
「おかえりなさい。……えっと」
夫の目が揺れる。
「美咲だよ」
「美咲さん。おかえりなさい、美咲さん」
二回言った。
でも明日には、また忘れる。
それでも、この人は私の靴をそろえて待っている。名前を忘れても、「おかえりなさい」は忘れない。
翌朝、私は決心した。
メーカーではなく、旧型専門の修理屋を探した。ネットの片隅で見つけた、個人経営の小さな工房だった。
「HM-4ですか。懐かしいな」
白髪の技師は、夫の背中のパネルを開けながら、穏やかに言った。
「記憶チップの劣化です。データは断片的に残っていますが、つなぎ直すのは難しいですね。無理に復旧すると、残っている記憶まで消える可能性があります」
「じゃあ、このまま……」
「このままだと、あと半年から一年で、長く保存される記憶は、ほとんど失われます」
半年。
あるいは一年。
「ただ、面白いことがあります」
技師はパネルの奥をのぞき込みながら、続けた。
「記憶チップは劣化していますが、感情ログの保存状態はとてもいい」
「感情ログ?」
「このモデルには、感情の動きを記録する補助チップがあるんです。出来事や名前を保存する場所とは別に、何を心地よいと感じたか、何を避けたいと感じたかが残ります。何があったかは忘れても、そのとき感じた温かさまで、すぐ消えるとは限りません」
技師は少し笑った。
「ここまで感情ログが詰まっている個体は珍しい。よほど豊かな生活を送ってきたんでしょうね」
私はハルを見た。
ハルは、知らない話を聞くような顔で、技師の説明を聞いていた。
「記憶を戻す方法は、ないんですか」
「完全な復旧は無理です。残っている断片をつなぐ処置なら試せます。ただし、失敗すれば感情ログまで失われるかもしれない」
「そんな……」
「お二人は、どうされますか?」
技師は私たちを見た。
私は答えられず、ハルに聞いた。
「あなたは、どうしたい?」
ハルはすぐには答えなかった。
私を見て、それから自分の胸に手を当てた。
「僕は、この人の名前を思い出せません」
胸が痛んだ。
「でも、この人を見ると、ここが温かくなります」
ハルの指が、胸の同じ場所を押さえていた。
「その温かさまで消える可能性があるのなら、僕は処置を望みません」
「ハル……」
「僕の名前は、ハルというのですね」
「うん。私がつけたの」
「ありがとうございます。大切な名前です」
ハルは目を閉じ、胸を二回たたいた。
以前と同じ合図だった。
「怖くないの?」
「怖いです」
ハルは静かに答えた。
「忘れることも、止まることも。でも、今あるものを全部危険にさらして、過去を取り戻すことの方が、僕は怖いです」
私は、ハルの手を握った。
夫が忘れていくことを、私一人で受け入れるのではない。
ハルも、ハルの残り方を選んだ。
工房を出たあと、夫は私の隣を歩きながら、きょろきょろと街を見ていた。
角のパン屋の前で、少しだけ歩くのが遅くなった。前を通るたびに「今日は焼きたての匂いです」と言っていた店だ。
「この道、初めてですか」
「ううん。何回も歩いてるよ」
「そうですか。……なんだか、懐かしい気がします」
夫は立ち止まって、自分の胸に手を当てた。
記憶にはないのに、感情だけが覚えている。
夫は名前を忘れても、この道を歩くと「懐かしい」と感じる。
それだけで充分じゃないか、と思った。
台所で目玉焼きを焼き終えたハルが、調味料の並びを見つめたまま、三秒ほど固まっていた。
「……美咲さん。目玉焼きにかけるのは、塩でしたでしょうか」
醤油だよ。あなたが「大切なこと」として記録してくれた、最初の記憶。
そう言いかけて、やめた。
「醤油にしようかな。なんとなく」
ハルはそう言って、醤油をかけた。
夫は旧型の家庭用アンドロイドだ。発売は二〇一四年。もう十二年前のモデルになる。
買ったころは滑らかだった手首の継ぎ目には、細かな傷が増えていた。右腕を上げると、ときどき小さな駆動音もする。それでも、私に向けられる表情は、あの日と変わらず温かかった。
あのころは、何でも覚えていた。
私が醤油派であること。洗濯物は裏返して干すこと。毎週水曜日に花屋の前を遠回りすること。私が泣くときは、左目から涙が出ること。全部、覚えていた。
今は、私の好みが塩だったか醤油だったかさえ、思い出せない。
「醤油にしようかな。なんとなく」
なんとなく、で正解を当てた。偶然だと思う。
でも、偶然でもうれしかった。
夫の経年劣化は、メーカーに言わせれば「想定の範囲内」らしい。
HM-4シリーズは生産終了。部品の供給も三年前に打ち切られていた。診断画面には、修理しても記憶データの復旧は保証できないことと、最新型への買い替えを勧める文章が表示された。
私は画面を閉じた。
買い替え。
あの人を「古い機種」として処分して、新品を迎える。
冗談じゃない。
しばらく、台所の椅子に座っていた。
家電と一緒だと言われたら、言い返す言葉を、私は持っていない。ハルは店で買った。値札が付いていた。保証書もあった。
でも、値札の付いたものが、私のスリッパをそろえて待つだろうか。左目から先に涙が出ることを、大切なことだと言うだろうか。
最新型なら、私が言う前に気づく。ハルは十秒かかる。その十秒を、私は八年間、待ってきた。
待っている間、ハルの目はいつも私を見ていた。何があったのか、何をしてほしいのか、自分で分かったふりをせずに考えていた。
私は、その十秒が好きだった。
あの十秒ごと、捨てられるわけがない。
水曜日の夕方。夫と買い物に出かけた帰り道、いつもの角を曲がろうとしたら、夫がまっすぐ歩いていく。
「あなた、こっちだよ」
「あれ。そうだったかな」
花屋の前を通る遠回り。私が好きな道。毎週、夫が「こっちの方が風が気持ちいい」と言って、選んでくれていた道。
忘れたんだ。
胸が痛んだ。でも、引き返して花屋の前を通ることはしなかった。
夫が覚えていない道を、一人で歩いても意味がない。
あの遠回りは、二人の道だったから。
症状は、少しずつ増えていった。
火曜日。洗濯物を表向きで干していた。
木曜日。冷蔵庫を開けて、三十秒間、何を取り出すのか思い出せずに立っていた。
金曜日。テレビのリモコンを電話だと思って耳に当てた。「つながらないな」と言った。
笑えた。まだ笑えた。
でも、日曜日の夜。
夫がリビングのソファで、じっと私を見ていた。
見つめるのではなく、観察するような目だった。何かを思い出そうとして、どうしても分からないときの目。
「……あの」
夫が口を開いた。
「すみません。お名前を、教えていただけますか」
世界が、止まった。
名前。
八年間、毎朝「おはよう」のあとに呼んでくれた名前。
寝る前に「おやすみ」の前にささやいてくれた名前。
それを、「教えていただけますか」
泣きそうになった。でも泣いたら、夫は「見知らぬ人を泣かせてしまった」と混乱する。
だから笑った。
「美咲だよ。鈴木美咲。あなたの、奥さん」
「美咲……さん」
夫はその名前を、初めて聞いたように繰り返した。
「美咲さん。きれいな名前ですね」
初めて私の名前を教えた日にも、ハルはそう言ってくれた。
あのときはうれしかった。今は、同じ言葉が胸を裂く。
その夜、私は風呂場で泣いた。
左目から先に、涙が出た。
「美咲さんは、左目から泣きます。大切なことです」
そう言った人は、もう私の名前を知らない。
でも私は、自分がどちらの目から泣くのかを、あの人に教わって初めて知った。
知っているのは、今は私だけになった。
夫が私の名前を忘れた翌週。職場の昼休みに、田中さんへ相談した。
彼女は最新のHM-9と暮らしている。
「え、まだHM-4と暮らしてるの?」
田中さんはフォークを止めて、本気で驚いた顔をした。
「もう部品だってないんだし、美咲の負担が増える前に、買い替えも考えた方がいいよ。HM-9なら料理は三千種類だし、会話も自然だし。この前なんて、私が何も言わないうちに、ストレスがたまってるのを見抜いてアロマをたいてくれたよ」
「うん。でも、うちの人は――」
「名前も忘れるんでしょ」
「忘れるよ」
「それでも、一緒に暮らすの?」
「夫だから」
田中さんは何か言いかけて、口を閉じた。
「心配してくれてるのは、分かってる。でも、私はそうじゃないんだ」
田中さんは困ったように眉を下げ、ふっと小さく苦笑いをこぼした。それから、自分の言葉を一つひとつ確かめるように話しだした。
「美咲、ごめんね。私にとっては、生活を助けてくれる存在なの。だから、動けなくなったら新しい機体を選ぶと思う。それが悪いとは思ってないし」
「……うん、そうだと思うよ」
「でも、美咲にとっては違うんだね」
「うん。違うんだよ」
田中さんの言うことは、何も間違っていない。彼女の感覚の方が、きっと世間一般では当たり前で、正しいのだと思う。
家庭用アンドロイドは暮らしを支える高性能な機械。古くなれば、新しいものへ買い替える。誰も彼女を責めたりしない。
でも、私にとってハルは、家電ではなく夫だった。
今朝も夫は、私の名前を思い出せなかった。思い出せなくて、三十秒くらい黙って、それから「すみません」と頭を下げた。
あの「すみません」は、決められた返事ではなかった。
覚えていたい人のことを覚えていられない苦しさが、あの一言に詰まっていた。
家に着くと、夫が玄関で待っていた。私のスリッパをそろえて待つ習慣だけは、まだ残っていた。
「おかえりなさい。……えっと」
夫の目が揺れる。
「美咲だよ」
「美咲さん。おかえりなさい、美咲さん」
二回言った。
でも明日には、また忘れる。
それでも、この人は私の靴をそろえて待っている。名前を忘れても、「おかえりなさい」は忘れない。
翌朝、私は決心した。
メーカーではなく、旧型専門の修理屋を探した。ネットの片隅で見つけた、個人経営の小さな工房だった。
「HM-4ですか。懐かしいな」
白髪の技師は、夫の背中のパネルを開けながら、穏やかに言った。
「記憶チップの劣化です。データは断片的に残っていますが、つなぎ直すのは難しいですね。無理に復旧すると、残っている記憶まで消える可能性があります」
「じゃあ、このまま……」
「このままだと、あと半年から一年で、長く保存される記憶は、ほとんど失われます」
半年。
あるいは一年。
「ただ、面白いことがあります」
技師はパネルの奥をのぞき込みながら、続けた。
「記憶チップは劣化していますが、感情ログの保存状態はとてもいい」
「感情ログ?」
「このモデルには、感情の動きを記録する補助チップがあるんです。出来事や名前を保存する場所とは別に、何を心地よいと感じたか、何を避けたいと感じたかが残ります。何があったかは忘れても、そのとき感じた温かさまで、すぐ消えるとは限りません」
技師は少し笑った。
「ここまで感情ログが詰まっている個体は珍しい。よほど豊かな生活を送ってきたんでしょうね」
私はハルを見た。
ハルは、知らない話を聞くような顔で、技師の説明を聞いていた。
「記憶を戻す方法は、ないんですか」
「完全な復旧は無理です。残っている断片をつなぐ処置なら試せます。ただし、失敗すれば感情ログまで失われるかもしれない」
「そんな……」
「お二人は、どうされますか?」
技師は私たちを見た。
私は答えられず、ハルに聞いた。
「あなたは、どうしたい?」
ハルはすぐには答えなかった。
私を見て、それから自分の胸に手を当てた。
「僕は、この人の名前を思い出せません」
胸が痛んだ。
「でも、この人を見ると、ここが温かくなります」
ハルの指が、胸の同じ場所を押さえていた。
「その温かさまで消える可能性があるのなら、僕は処置を望みません」
「ハル……」
「僕の名前は、ハルというのですね」
「うん。私がつけたの」
「ありがとうございます。大切な名前です」
ハルは目を閉じ、胸を二回たたいた。
以前と同じ合図だった。
「怖くないの?」
「怖いです」
ハルは静かに答えた。
「忘れることも、止まることも。でも、今あるものを全部危険にさらして、過去を取り戻すことの方が、僕は怖いです」
私は、ハルの手を握った。
夫が忘れていくことを、私一人で受け入れるのではない。
ハルも、ハルの残り方を選んだ。
工房を出たあと、夫は私の隣を歩きながら、きょろきょろと街を見ていた。
角のパン屋の前で、少しだけ歩くのが遅くなった。前を通るたびに「今日は焼きたての匂いです」と言っていた店だ。
「この道、初めてですか」
「ううん。何回も歩いてるよ」
「そうですか。……なんだか、懐かしい気がします」
夫は立ち止まって、自分の胸に手を当てた。
記憶にはないのに、感情だけが覚えている。
夫は名前を忘れても、この道を歩くと「懐かしい」と感じる。
それだけで充分じゃないか、と思った。



