最初に会ったのは、家電量販店の片隅だった。
二〇一六年。
家庭用アンドロイドは、もう未来の機械ではなかった。駅では道を案内し、スーパーでは商品を棚へ並べ、住宅街では買い物袋を持って人間の隣を歩いていた。
人の代わりに何でも決める存在ではなく、頼まれた家事や仕事を手伝いながら、一つの家で暮らす存在になり始めていた。
私は二十六歳で、一人暮らしに少し疲れていた。
別に寂しかったわけじゃない。仕事もあるし、友達もいる。ただ、夜中に帰ってきて、真っ暗な部屋の電気をつける瞬間が、毎日ほんの少しだけ重かった。
その日も仕事帰りだった。肩までの黒髪は朝から一つに結んだまま、化粧も半分くらい落ちていた。鏡を見ると、丸い頬と少し下がった目尻のせいか、疲れていても人から道を聞かれそうな顔をしていた。
昔から、きれいと言われるより、話しかけやすそうと言われることの方が多かった。私は、その方が自分らしくて好きだった。
恋人はいなかった。仕事が忙しく、誰かと暮らすことを急いでもいなかった。でも、一人でいたいと決めていたわけでも、誰でもいいと思ったこともなかった。
家庭用アンドロイドを見に行ったのは、同僚で友人の田中さんに「家事が楽になるよ」と勧められたからだ。
最新のHM-7シリーズがずらりと並ぶ中、隅に置かれた展示品に目が止まった。
HM-4。二年前のモデル。型落ち品。
成人男性ほどの背丈で、短い灰黒色の人工毛が、きちんと横へ流されていた。薄い青灰色の目は、近くで見ると光を取り込むレンズだと分かる。
象牙色の人工皮膚は人肌によく似ていたけれど、首と手首には細い銀色の継ぎ目が見えていた。
人間に似せて作られてはいる。でも、人間ではない。一目でアンドロイドだと分かる姿だった。
それでも、その顔は不思議と冷たく見えなかった。口元も目元もまだ動いていないのに、誰かが声をかけるのを、静かに待っているように見えた。
胸元には、「在庫処分 定価の七〇パーセント引き」の札が下がっていた。
彼は隣のHM-7たちが滑らかな声で会話の実演をする中、一言もしゃべらず、ただ静かに前を向いていた。
商品説明には、省電力モード中と書かれていた。展示中は、必要最低限の機能しか動かしていないらしい。
その静かな顔を見ているうちに、ほんの少しだけ、私がその「誰か」になってみたいと思った。
私は、胸元の起動ボタンを押した。
彼はゆっくりと瞬きをして、私を見た。
瞳の奥で、小さな光が一度だけ揺れた。表情が動くまで、人間よりほんの少し間があった。それから彼は、ゆるやかに口元をほころばせた。
「……おはようございます。HM-4です。ご用件を承ります」
声が、思ったより柔らかかった。
「あなた、名前は?」
「製品番号はHM-4-0927です」
「そうじゃなくて。名前」
彼は少し首を傾げた。
「名前は、ありません」
なぜだか、それが無性に悲しかった。
「じゃあ、つけていい?」
再び、首を傾げた。
「僕を購入される、という意味ですか」
「そうだよ」
「最新型ではなく、僕を?」
「うん」
「理由を、お聞きしてもよろしいですか」
振り返ると、HM-7の一体が、来店客の好みを読み取って飲み物を差し出していた。何も言わなくても、欲しいものを先に用意してくれる。
でも私は、目の前の彼を選んだ。
「あなたの声が、優しかったから」
「音声は、HM-4シリーズの標準仕様です」
「じゃあ、その標準仕様が気に入ったの」
彼は、しばらく私を見ていた。
「合理的な選定理由ではありません」
「私、理屈で買い物しないの」
その日、私は最新型ではなく、型落ちの彼を連れて帰った。
今は春だから、名前を「ハル」にした。
その夜、玄関の明かりをつけると、ハルは靴を脱いだ場所で立ち止まり、部屋の中をゆっくり見回した。
「そういえば、私の名前をまだ教えてなかったね。美咲っていうの。鈴木美咲」
ハルは私を見て、ゆっくりと瞬きをした。
「美咲さん。きれいな名前ですね」
「……ありがとう」
あまりにまっすぐ言われて、なんだか少しくすぐったくて照れてしまった。
「ここが、美咲さんの家ですか」
「うん。今日からは、ハルの家でもあるよ」
「僕の家」
ハルは、初めて聞いた言葉のように繰り返した。瞳の奥で小さな光が動き、少し遅れて、口元がほころんだ。
「分かりました。ただいま、美咲さん」
私は笑って、「おかえり」と答えた。
真っ暗な部屋の電気を一人でつけた、最後の夜だった。
ハルとの暮らしは、静かで、温かかった。
彼は最新型のように三千種類の料理は作れない。レパートリーは百二十種類。でも、その百二十種類を丁寧に作った。
目玉焼きには醤油をかけることを、三日目に覚えた。
「美咲さんは醤油派ですね。記録しました」
「記録って、大げさだなあ」
「大げさではありません。大切なことです」
彼はいつも、私のささいな好みを「大切なこと」と言った。
洗濯物は裏返して干すこと。コーヒーはミルク多め、砂糖なし。水曜日に花屋の前を通る遠回りが好きなこと。泣くときは、左目から先に涙が出ること。
全部、「大切なこと」として記録された。
私は笑って「そんなこと、覚えなくていいのに」と言ったけれど、彼は真面目な顔で首を横に振った。
「美咲さんのことは、全部覚えたいんです」
記録するとき、ハルは必ず一度、目を閉じた。
「今、保存しました」
「見えないから分かんないよ」
「では、これで」
そう言って、胸の辺りを軽く二回たたいた。誰に教わったのでもない、ハルだけの合図だった。
その合図を、私は数えきれないくらい見た。
最新型にはない不器用さが、私には心地よかった。
HM-7なら、私が言葉にする前に察知して、何でも完璧に先回りしてくれるらしい。旧型のハルは、私が疲れていることに気づくまで十秒かかる。でも、その十秒のあとに「大丈夫ですか」と聞いてくれる声が、どんな最新機能より温かかった。
一年目の冬。仕事で大きなミスをした夜、私は声を出さずに泣いた。
ハルは隣に座って、何も言わなかった。肩にそっと手を置いて、ただ一緒にいた。
二十分くらいたって、ようやく声が出た。
「ハル、私、駄目かも」
「何がですか」
「全部」
ハルは少し考えて立ち上がり、台所へ行った。
戻ってきたとき、手にはホットミルクがあった。
「美咲さん。全部が駄目ということは、統計的にありえません」
「……何それ」
「今日、僕が作った目玉焼きは上手に焼けました。美咲さんは『おいしい』と言いました。それは、全部が駄目ではない証拠です」
私は泣きながら笑った。
「……ばかだなあ、ハルは」
「はい。旧型なので、気の利いたことは言えません」
でも、その夜のホットミルクの味を、私は一生忘れない。
そうやって日々の温もりを重ねていくうちに、ハルは私にとって、替えのきかないたった一人の「家族」になっていた。
出会って二年。桜が咲くころ、私はハルにプロポーズした。
「ハル。結婚しよう」
彼は五秒間、固まった。
「……僕はアンドロイドです」
「知ってる」
「旧型です」
「知ってる」
「料理のレパートリーは百二十種類です」
「それも知ってる」
「……僕で、いいんですか」
「あなたがいいの」
当時、人間とアンドロイドの結婚は法律で認められていた。婚姻届には「アンドロイド婚」を選ぶ欄もあった。ただ、そこに印を付ける人は、まだ少なかった。
窓口の職員は、書類と私とハルを順番に見て、小さく「おめでとうございます」と言った。事務的な声だったけれど、その目元はふっと柔らかく緩んでいた。
印を付けたとき、ハルは隣で、少しだけ背筋を伸ばしていた。
「緊張してる?」
「はい。旧型なので、心拍数が上がる機能はありませんが」
「ないのに緊張してるんだ」
「そのようです」
私は笑って、ハルの袖を引いた。
帰り道、花屋の前を通った。
ハルが足を止めて、白いカスミソウの小さな花束を買った。
「結婚記念の花を決めたいんです。これはどうですか」
「カスミソウ? 地味じゃない?」
「美咲さんに似ています。控えめだけど、そばにあると、ほっとする」
「……それ、褒めてる?」
「はい。最大級に」
その日から、毎年の結婚記念日に、ハルがカスミソウを買ってくれるようになった。
二〇一六年。
家庭用アンドロイドは、もう未来の機械ではなかった。駅では道を案内し、スーパーでは商品を棚へ並べ、住宅街では買い物袋を持って人間の隣を歩いていた。
人の代わりに何でも決める存在ではなく、頼まれた家事や仕事を手伝いながら、一つの家で暮らす存在になり始めていた。
私は二十六歳で、一人暮らしに少し疲れていた。
別に寂しかったわけじゃない。仕事もあるし、友達もいる。ただ、夜中に帰ってきて、真っ暗な部屋の電気をつける瞬間が、毎日ほんの少しだけ重かった。
その日も仕事帰りだった。肩までの黒髪は朝から一つに結んだまま、化粧も半分くらい落ちていた。鏡を見ると、丸い頬と少し下がった目尻のせいか、疲れていても人から道を聞かれそうな顔をしていた。
昔から、きれいと言われるより、話しかけやすそうと言われることの方が多かった。私は、その方が自分らしくて好きだった。
恋人はいなかった。仕事が忙しく、誰かと暮らすことを急いでもいなかった。でも、一人でいたいと決めていたわけでも、誰でもいいと思ったこともなかった。
家庭用アンドロイドを見に行ったのは、同僚で友人の田中さんに「家事が楽になるよ」と勧められたからだ。
最新のHM-7シリーズがずらりと並ぶ中、隅に置かれた展示品に目が止まった。
HM-4。二年前のモデル。型落ち品。
成人男性ほどの背丈で、短い灰黒色の人工毛が、きちんと横へ流されていた。薄い青灰色の目は、近くで見ると光を取り込むレンズだと分かる。
象牙色の人工皮膚は人肌によく似ていたけれど、首と手首には細い銀色の継ぎ目が見えていた。
人間に似せて作られてはいる。でも、人間ではない。一目でアンドロイドだと分かる姿だった。
それでも、その顔は不思議と冷たく見えなかった。口元も目元もまだ動いていないのに、誰かが声をかけるのを、静かに待っているように見えた。
胸元には、「在庫処分 定価の七〇パーセント引き」の札が下がっていた。
彼は隣のHM-7たちが滑らかな声で会話の実演をする中、一言もしゃべらず、ただ静かに前を向いていた。
商品説明には、省電力モード中と書かれていた。展示中は、必要最低限の機能しか動かしていないらしい。
その静かな顔を見ているうちに、ほんの少しだけ、私がその「誰か」になってみたいと思った。
私は、胸元の起動ボタンを押した。
彼はゆっくりと瞬きをして、私を見た。
瞳の奥で、小さな光が一度だけ揺れた。表情が動くまで、人間よりほんの少し間があった。それから彼は、ゆるやかに口元をほころばせた。
「……おはようございます。HM-4です。ご用件を承ります」
声が、思ったより柔らかかった。
「あなた、名前は?」
「製品番号はHM-4-0927です」
「そうじゃなくて。名前」
彼は少し首を傾げた。
「名前は、ありません」
なぜだか、それが無性に悲しかった。
「じゃあ、つけていい?」
再び、首を傾げた。
「僕を購入される、という意味ですか」
「そうだよ」
「最新型ではなく、僕を?」
「うん」
「理由を、お聞きしてもよろしいですか」
振り返ると、HM-7の一体が、来店客の好みを読み取って飲み物を差し出していた。何も言わなくても、欲しいものを先に用意してくれる。
でも私は、目の前の彼を選んだ。
「あなたの声が、優しかったから」
「音声は、HM-4シリーズの標準仕様です」
「じゃあ、その標準仕様が気に入ったの」
彼は、しばらく私を見ていた。
「合理的な選定理由ではありません」
「私、理屈で買い物しないの」
その日、私は最新型ではなく、型落ちの彼を連れて帰った。
今は春だから、名前を「ハル」にした。
その夜、玄関の明かりをつけると、ハルは靴を脱いだ場所で立ち止まり、部屋の中をゆっくり見回した。
「そういえば、私の名前をまだ教えてなかったね。美咲っていうの。鈴木美咲」
ハルは私を見て、ゆっくりと瞬きをした。
「美咲さん。きれいな名前ですね」
「……ありがとう」
あまりにまっすぐ言われて、なんだか少しくすぐったくて照れてしまった。
「ここが、美咲さんの家ですか」
「うん。今日からは、ハルの家でもあるよ」
「僕の家」
ハルは、初めて聞いた言葉のように繰り返した。瞳の奥で小さな光が動き、少し遅れて、口元がほころんだ。
「分かりました。ただいま、美咲さん」
私は笑って、「おかえり」と答えた。
真っ暗な部屋の電気を一人でつけた、最後の夜だった。
ハルとの暮らしは、静かで、温かかった。
彼は最新型のように三千種類の料理は作れない。レパートリーは百二十種類。でも、その百二十種類を丁寧に作った。
目玉焼きには醤油をかけることを、三日目に覚えた。
「美咲さんは醤油派ですね。記録しました」
「記録って、大げさだなあ」
「大げさではありません。大切なことです」
彼はいつも、私のささいな好みを「大切なこと」と言った。
洗濯物は裏返して干すこと。コーヒーはミルク多め、砂糖なし。水曜日に花屋の前を通る遠回りが好きなこと。泣くときは、左目から先に涙が出ること。
全部、「大切なこと」として記録された。
私は笑って「そんなこと、覚えなくていいのに」と言ったけれど、彼は真面目な顔で首を横に振った。
「美咲さんのことは、全部覚えたいんです」
記録するとき、ハルは必ず一度、目を閉じた。
「今、保存しました」
「見えないから分かんないよ」
「では、これで」
そう言って、胸の辺りを軽く二回たたいた。誰に教わったのでもない、ハルだけの合図だった。
その合図を、私は数えきれないくらい見た。
最新型にはない不器用さが、私には心地よかった。
HM-7なら、私が言葉にする前に察知して、何でも完璧に先回りしてくれるらしい。旧型のハルは、私が疲れていることに気づくまで十秒かかる。でも、その十秒のあとに「大丈夫ですか」と聞いてくれる声が、どんな最新機能より温かかった。
一年目の冬。仕事で大きなミスをした夜、私は声を出さずに泣いた。
ハルは隣に座って、何も言わなかった。肩にそっと手を置いて、ただ一緒にいた。
二十分くらいたって、ようやく声が出た。
「ハル、私、駄目かも」
「何がですか」
「全部」
ハルは少し考えて立ち上がり、台所へ行った。
戻ってきたとき、手にはホットミルクがあった。
「美咲さん。全部が駄目ということは、統計的にありえません」
「……何それ」
「今日、僕が作った目玉焼きは上手に焼けました。美咲さんは『おいしい』と言いました。それは、全部が駄目ではない証拠です」
私は泣きながら笑った。
「……ばかだなあ、ハルは」
「はい。旧型なので、気の利いたことは言えません」
でも、その夜のホットミルクの味を、私は一生忘れない。
そうやって日々の温もりを重ねていくうちに、ハルは私にとって、替えのきかないたった一人の「家族」になっていた。
出会って二年。桜が咲くころ、私はハルにプロポーズした。
「ハル。結婚しよう」
彼は五秒間、固まった。
「……僕はアンドロイドです」
「知ってる」
「旧型です」
「知ってる」
「料理のレパートリーは百二十種類です」
「それも知ってる」
「……僕で、いいんですか」
「あなたがいいの」
当時、人間とアンドロイドの結婚は法律で認められていた。婚姻届には「アンドロイド婚」を選ぶ欄もあった。ただ、そこに印を付ける人は、まだ少なかった。
窓口の職員は、書類と私とハルを順番に見て、小さく「おめでとうございます」と言った。事務的な声だったけれど、その目元はふっと柔らかく緩んでいた。
印を付けたとき、ハルは隣で、少しだけ背筋を伸ばしていた。
「緊張してる?」
「はい。旧型なので、心拍数が上がる機能はありませんが」
「ないのに緊張してるんだ」
「そのようです」
私は笑って、ハルの袖を引いた。
帰り道、花屋の前を通った。
ハルが足を止めて、白いカスミソウの小さな花束を買った。
「結婚記念の花を決めたいんです。これはどうですか」
「カスミソウ? 地味じゃない?」
「美咲さんに似ています。控えめだけど、そばにあると、ほっとする」
「……それ、褒めてる?」
「はい。最大級に」
その日から、毎年の結婚記念日に、ハルがカスミソウを買ってくれるようになった。



