「ごめん……ごめんね。言えないの……」
涙を零す柚佳に、何も聞けなくなる。彼女の頭を撫でる。
その時、足音に気付いた。階段の下の方から、誰かが上って来る。
「あっ! 沼田君、柚佳ちゃ……柚佳ちゃん、どうしたのっ?」
姿を現したのは、花山さんだった。柚佳が泣いているのを見た彼女は、驚いた様子で駆け寄って来る。花山さんが傍へ来たので、柚佳の頭に置いていた手を引っ込める。一歩、後ろへ退く。
「美南ちゃん……。ごめん。何でもないよ。私……お手洗いに寄ってから、教室に戻るね」
流れる涙を手で拭いながら、柚佳が階段を下りて行く。当然、オレも一緒に戻るつもりだったのに。
「待って」
花山さんに、制服の上着の端を掴まれる。仕方なく足を止める。
「沼田君……柚佳ちゃんと何があったの? 私、柚佳ちゃんの様子が変だったから心配で。教室に戻った桜場君に、ここだって聞いて来たの。柚佳ちゃん、本音を教えてくれないところあるし……、何か知ってたら教えて! お願い」
こんな可愛い子に『お願い』されたら。普通の男なら、ホイホイ聞くんだろうな。
そんな捻くれた事を考えてしまう。
「ごめん花山さん。柚佳の事を、オレからは話せない。それにアイツ、オレにも秘密にしてる事があるみたいだし」
「そう……なんだ」
花山さんは俯いて微笑し……諦めてくれたのか、捕まえていた制服を放してくれた。後ろを向いて二歩程進んだ後、背伸びをしている様子だったから。だから……てっきり、話は終わったんだと思っていた。階段を下りようと踵を返す。それなのに。
花山さんの声が響く。
「あーあー? 妬けちゃうな。いいなって思ってたのに。まさかその人に、幼稚園から一緒に過ごしてる異性の幼馴染がいるなんて。最悪じゃない?」
信じられない内容に、思わず足を止め……振り返ってしまう。
彼女が顔を、こちらへ向ける。オレを見て、ニコッと笑う。
「沼田君……、柚佳ちゃんと付き合ってないんだったら、私と付き合って」
暫く。思考がフリーズする。
「え……?」
漸く口から出せたのは……たった、それだけだった。呆然とする。花山さんは何故か、嬉しそうに笑みを深めている。
いきなり、勢いよく抱き付かれた。
「ね? いいよね?」
オレの胸の辺りで頬ずりしている花山さんに驚愕したのと、色々と状況が飲み込めなかったのとで対応が遅れた。この時の数秒を後に「致命的だった」と、悔やむ事態に陥る。
階段の下の方からの音を、耳が拾う。誰かが、走り去るような音を。
まさか柚佳? 今の話……聞かれた……?
血の気が引く。
花山さんの両肩を掴み、体から引き剥がす。
「ごめん! オレ……柚佳が好きなんだ。柚佳だけだから」
何とか、それだけを言い置く。踊り場に花山さんを残し、階段を下る。
柚佳を追うのに必死だった。
だから、花山さんが呟いた言葉を聞き流してしまったんだ。
「やっぱりね」
「柚佳っ!」
階段を下りた。柚佳の姿は見当たらない。廊下では登校して来た他クラスの生徒が、訝しむようにこちらを見ている。……もう教室に戻ったのかもしれない。
急いで追い掛けようと一歩、踏み出した時。
「海里? どうしたの? 今、私の事……呼んだ?」
後方から声を掛けられ、驚いて振り向く。
女子トイレから出て来た柚佳がハンカチで手を拭きながら、きょとんとした表情をしている。さっき泣いていたからか、まだ少し目が赤い。
「あ、あれ?」
教室方面の廊下と、トイレの前に立つ柚佳を。交互に見る。
「柚佳、もしかして今まで……トイレにいた?」
「うん。さっき、そう言ったよね? お手洗いに寄ってから戻るって。何かあったの?」
「い、いや……。何でもない」
じゃあ、さっきの足音は? 柚佳じゃなかったのか?
柚佳に誤解されなくてホッと胸を撫で下ろす反面、足音が誰のものであったのか気になる。きっと、オレと花山さんの会話が聞こえていた筈だから。
昼休み。いつも昼飯は、和馬と食べている。
柚佳と一緒に食べたい気持ちはあった。しかし。彼女は彼女で、数人の女友達と食べている。そこに、オレが交ざるのも変な気がするし。勇気もないので、何も言えない。家で会えるし、我儘は言わない。
そんな日常を過ごしていたんだが……おかしい。今日は、いつもと様子が違っている。何が違うかって言うと……。
コッペパンに焼きそばの挟まった惣菜パンを食べつつ。同じく惣菜パンに、ぱくついている和馬を。注意深く窺う。
明らかに、機嫌が悪い。いつもなら取り留めもない話を、切れ間なく喋り通す奴が。今日は昼休み中に、一言も発していない。
「明日、槍でも降るかな?」
そう呟いてみても、チラッと睨まれただけだ。和馬は黙々と……惣菜パンをモグモグしている。
『もしかして今朝、柚佳を追い掛ける為に邪険に扱ったからか?』と危惧する。けれど。それだけで、こんなに不機嫌になる奴でもないよな?
「おい和馬。何怒ってんだよ?」
分からないので直接、聞いてみる。
いくらオレが友達作りを諦め、あまり和馬を大切にしていないからと言っても。和馬はオレにとって、掛け替えのない友人である事に変わりはない。これでも色々と……感謝はしているのだ。絶対に言ってやらないけどな。
頬を膨らませ眉を寄せている親友に、恨みの籠もった目を向けられる。頬を膨らませているのは、むくれているのではなく。単にパンを頬張り過ぎているだけで、オレの脳裏ではリスのそれと重なって見える。
和馬が三個目の……コロッケの挟まった惣菜パンを食べようとしている。だが。惣菜パンは口へ運ばれず、机の上へ置かれた。
「お前には、がっかりだよ」
低い呟きが耳を掠める。眉をひそめて聞き返す。
「は? 何の事だ?」
「とぼけんなよ!」
椅子を立ち、キレ気味に声を荒げてくる。
「俺には話せないって事かよ。あーはいはい。どうせ、お前は俺の事……友達だとも思ってないんだろうよ」
「何の事だよ!」
オレも立ち上がり、声を荒げる。机を挟んで睨み合う。
「朝……お前と花山さんが話してるの聞いた。よかったな。二人、両想いみたいだし。あ、だからって。学校でイチャイチャ抱き合うのは、よくないと思うぞ?」
和馬は言い及ぶと、オレから目を逸らした。
「え……」
『ええーー!』
和馬の言葉の衝撃が、脳に到達する直前。教室にざわめきが起こる。
「えー!」
「嘘でしょ?」
「オレの天使がっ!」
「美南ちゃん本当なのっ?」
嘆いている奴や、花山さんに真相を問おうとする子、ただただ驚いているらしい反応。それらの声が入り乱れる。
心臓が速い。柚佳の方を向けない。どんな顔をしているのか、知るのが怖い。彼女に誤解されたくない。
「違う! オレは……花山さんの告白を断ったんだ」
周囲の盛り上がりが凄くて、オレの声が柚佳に届いたかは分からない。
「じゃあ、何で抱き合ってたんだよ?」
和馬の冷ややかな視線が、胸に刺さる。
「それは……」
言い掛けた口を閉じる。
「花山さんから抱き付いてきただけで、オレは抱きしめていない」と、自分を弁護したかったが。苦し紛れの言い訳に聞こえるだろうし。何より、花山さんに恥をかかせてしまう気がする。
黙っているオレを嘲笑うように、言い捨ててくる。
「ほらな。何で隠すのか知らないけど。堂々と付き合えばいいじゃん! お似合いだし?」
荒っぽい足取りで教室を出て行く和馬を、複雑な感情で眺めていた時……視界の端に映る。友達と机を囲んで座っている、柚佳の姿が。
彼女は……暗い表情で俯いていた。
放課後になるまで、話をする機会を作れなかった。真っ先に教室を出て行く柚佳を追い掛ける。
急ごうとしていたのに。タイミングが悪く、廊下の前方に隣のクラスの奴らが出て来た。わらわらとした人波に阻まれて距離が開く。
追いついたのは、バス停へ下る坂の途中だった。四、五メートル離れた先を歩く後ろ姿へ呼び掛ける。
「柚佳っ、オレっ、花山さんとは何もないから! オレは柚佳が……!」
「分かってる!」
全部を言い切る前に、大きめの声で遮られた。
「分かって、る……?」
息を整えながら、口の中で繰り返す。
バスは通るけど、さして広くもない道にいる。一段ほど高く造られた歩道の端には白い手すりが続いていて、その外側は雑草の生い茂る斜面になっている。薄の揺れる先には、民家の屋根や遠くの山並みが広がっている。
スカートがはためく。彼女が振り返る。微笑みを向けられる。
悲しいのを、無理に笑っているみたいな表情だった。胸に痛みを覚える。
「ごめんね。私、本当は知ってたんだ」
柚佳の言葉に何故だろう……不安が過る。ドクンドクンと脈が響くのを感じる。渇いた唇を動かす。
「何を?」
オレを見ていた彼女は、再び微笑む。
「海里が、美南ちゃんを好きな事。二人が、両想いな事」
背筋が薄ら寒い。柚佳は一体、何を言ってるんだ?
「ゆ……」
「あっ、バス来たよ! 急ごう!」
柚佳のとんでもない勘違いが何で起こったのか問おうと、口を開いたけど。タイミングが悪く、坂の上からバスが来た。二人してバス停へと走り、間に合って乗車する。
車中では、お互いに何も話さなかった。窓側に座った柚佳は、ずっと外を眺めている。
いつもの、小学校前のバス停で降りた。乗る時と違って、広い道路を隔てた反対側のバス停だ。
話をするのを拒まれている雰囲気を感じる。早足に先を行く背を睨む。数メートル後を、つかず離れず歩きながら。憤っていた。
柚佳が何で、あんな勘違いをしていたのか知らないけど。少しは、オレの言葉を信じてくれたっていいじゃないか。
考えていたら、またも沸々と怒りが湧く。
細い道を抜ける。車も通れる幅の道に出て、進む。オレたちの住んでいるアパートが見えてくる。
アパートの隣にある空き地の前で、柚佳の左手を掴む。振り向こうとする彼女を引き寄せて、耳に囁く。
「今日も練習、するよね?」
近付けていた顔を離し、表情を読む。見開かれた目が、惑うようにオレの視線から逃げている。俯き頬を赤らめて、幼馴染は言い淀む。
「え? ……っと……」
煮え切らない様子だった。けれど、返事は待たずに手を引く。
怒りに任せた足取りで、アパートの階段を上る。ドアの鍵を開ける。
玄関に引き込んで、鍵を締めた。

