キスの練習相手は幼馴染で好きな人【改稿版】


 最寄りのバス停手前で、繋いでいた手を離す。バス停のすぐ側に小学校があり、登校中の子供たちの視線が気になったからだ。

「ごめん柚佳。オレ、手汗が凄くて」

 心配していた通り、繋いでいる間中。手が、じっとりと湿っていた。

 嫌がられているだろうな……。
 柚佳の表情を盗み見る。

「へっ?」

 柚佳は何故か驚いた様子で、顔をこちらへ向ける。

「あっ……と。えっと、ごめんね」

 俯き気味に謝られた。窺う。何か言いにくそうに、モジモジしている。頬が赤みを帯びているようにも見える。

「それ。私の手汗……。本当、ごめんね」

 恥ずかしそうに、申し訳なさそうに。視線を逸らされる。

 オレ……左手は一生、洗わなくてもいいや。



 教室に入る。ざわめきに満ちていたクラスメイトたちが一瞬、静かになる。オレと柚佳に、注目しているのだと分かる。少し怯み掛けるが、表には出さずに自分の席に着く。

 柚佳も通常運転で、学校用の落ち着き払った「大人しいモード」に入ったようだ。感情を抑えた顔付きで、椅子を引いている。

 さて。これは早速、誰か聞いてきそうな気配だ。
 昨日……篤の手から柚佳を引き離して、連れ去った事を。

 決めていた。

 オレと柚佳の関係について聞かれたならば、正直に答えようと。オレは柚佳が好きだし、柚佳はオレが好きだ。だから、篤には悪いけど。絶対に渡さないと言ってやる。

 てっきり篤が来るものと思って身構えていたら、違う方向から話し掛けられる。

「ねぇねぇ! もしかして、沼田君と柚佳ちゃんって。付き合ってるの?」

 明るいトーンの可愛らしい声で、割と近くから聞こえた。肩透かしを食らった気持ちで右を向く。右隣の席にいる花山さんが、ニコッと微笑んでくる。彼女の周囲に花が咲き開く幻覚が現れそうな、可憐な笑顔だ。まぁ、柚佳の笑顔には及ばないけど。

 周囲の視線が気になる。ヒソヒソと話す声も耳に届く。
 オレが何と答えるか皆、様子を窺っているようだ。

 机に手をついて立ち上がる。花山さんに答えるのと同時に。篤に「柚佳は渡さない!」と、宣言するつもりで。

「付き合ってない!」


 …………え?

 言ったのは、オレじゃない。
 机に手をついたまま、首を右に向ける。立ち上がって、こっちを見ている……彼女を見る。


 柚佳は、右手で制服の胸元を握り締めるようにして言葉を紡ぐ。

「付き合ってないよ……」

 彼女が不快そうに口を歪めるのを。オレは、ただ……瞳に映す事しかできなかった。



「え……本当に?」

 花山さんが面食らった様相で、柚佳に尋ねている。

「海里とは、ただの幼馴染。小さい頃から一緒にいる事は多かったけど。付き合ったりとか……全然、そういうのじゃないから」

「えっ……?」

 あまりの困惑に、小さく声が漏れてしまう。
 今、何が起きているんだ?

 幼馴染の思いがけない発言は。ショックを認識する手前で、オレの思考を停止させた。


 どういう事だ……?

 呆然としていた状態に。じわじわと焦りや不安、猜疑心が加わる。

 柚佳は視線を逸らして、教室から出て行った。

 何か……誤解があるのかもしれない。確かにオレたちは、まだ付き合っていない。オレがちゃんと、彼女に告白できていないから。もしかしたら柚佳は、それに腹を立てているのかも?

「ゆずっ……!」

「一井さん!」

「フラれてやんの。ドンマイ!」

 理由を聞く為に、柚佳の後を追おうと一歩踏み出した時。後方から来た和馬に、バシッと背中を叩かれた。振り返り、鋭く睨む。

「おー怖っ」

 和馬は両手を挙げて、オレから距離を取った。和馬に気を取られている間に。先を越された。もう一度目を向けた時には、篤の姿はなかった。

「和馬、今は! お前に構っている暇はない!」

 言い置き、オレも廊下へ出た。



 出遅れた。柚佳は、どこへ行ったんだ?

 気持ちが焦って、心音が大きくなる。柚佳が出て行った方向には、他クラスの教室が続く。奥の方には、トイレと階段がある。

 その時、ふと思い出す。高校に入学して間もない頃。昼休みに屋上へ行く階段の途中に、柚佳が座っていた事があった。あの頃の彼女は、まだクラスに馴染めていなかったらしく。教室にいるのが少し緊張すると言っていた。

 『あそこは、あまり人も通らないし。ぼーっと考え事をする時に、いい場所』とか、言ってたな。

 そこかもしれないと考え、階段を駆け上がる。


 三階まで来た時に、上の方から話し声が聞こえた。間違いない。柚佳と篤だ。この階段の上にいる。三階からは、屋上へ続く階段の途中にある踊り場が見えるだけで。その上にいる筈の、二人の姿は見えない。


「一井さん。好い加減、沼田君は諦めて俺にしておきなよ。大事にするからさ」

「誰が! この大噓つき!」


 階段を上ろうと踏み出した足を止める。いつもと違う柚佳の言動……その剣幕に驚いたからだ。学校での柚佳というより、家で怒っている彼女に近い。

「大嘘つきは、一井さんの方じゃないの……?」

 篤が少し笑った気配がする。


「沼田君が気の毒だよ。彼は……俺たちの本当の関係を、知らないんだからね」


 篤の言葉に動揺した。後方へよろめく。上履きが床と擦れて「キュッ」と、大きめに鳴ってしまう。手すりの上から見下ろしてくる篤と、目が合う。篤はオレを見て、表情の読めない顔で眼差しを細めている。

「ああ。沼田君。聞かれちゃった? 俺たち、変な話をしていたけど。誤解しないでね」

 階段を下りて来る足音が近付く。

 篤が横を通り過ぎる。オレが今しがた上って来た階段を下って行く足音が、段々と遠くなる。オレは俯いたまま、顔を上げる事もできなかった。

 二人は一体、何を話していたんだ?


 パタパタと階段を下る音が聞こえ、見上げる。踊り場にいる柚佳と視線が合う。

「海里……」

 彼女は俯いて、オレから目を逸らした。

 何でだろう。最悪な考えが、頭を過る。篤が言っていた「俺たちの本当の関係」って言葉が、ずっと頭に鳴り響いていて。それを確かめるのが怖い。オレが知っていると思っていた柚佳の、本当の顔を知ってしまうのが。堪らなく怖い。逃げ出したくなる。

 でも。

 オレは、彼女を信じる。彼女を好きなオレを、信じる。

 強く閉じていた瞼を、開く。


「柚佳。今まで……ちゃんと言えなくて、ごめん」

 一歩一歩、階段を上る。彼女の目を見つめながら。

「オレ……ずっと、柚佳の事が好きだった」

 相手の双眸が見開かれる。踊り場の柚佳まで……階段は、あと半分。

 踊り場に着いて、告げる。


「オレと付き合ってほしい」


 間近から見上げてくる瞳が、潤んでいく。

 だけど。
 何も言ってもらえなかった。

 振られたんだと分かった。

 やはり、篤には敵わなかったみたいだ。
 小さく笑う。

「困らせて、ごめん」

 彼女もオレの事が好きだと思ったのは、オレの勘違い。けれど、昨日……オレの家で彼女がくれた言葉は、どうしても疑う事ができなかった。嘘でも、嬉しかった。

「ありがとう海里。嘘でも、嬉しかった。私が海里の事を好きだから、責任を感じてくれたんだよね? でも、私は大丈夫だから。気にしないで」


 ……………………ん?


 何だろう。柚佳との会話に、凄く違和感を覚える。噛み合っていない気がする。

 柚佳は、オレの告白を嘘だと思っている? 柚佳がオレの事を好きだから、責任を感じて嘘の告白をした……そう言ってるよな? どういう事なんだ?

 そこまで考えて、はた……と思い至る。柚佳は、オレの事が好き……?

 胸の内に、仄かに希望が宿る。

 ……いや待て。早まるな、オレ。その言葉すら真実じゃないとしたら、信じた後に残るダメージは計り知れない。

 もう二度と立ち上がれなくなる悲しい未来を、容易に想像できる。惑わされそうだった心を強く律する。

 これ以上、深く踏み込むのは止そう。……心では、そう思っているのに。すぐ傍に彼女がいると意識しただけで、何かの力が作用する如く離れがたい。本当は……いつも一番、近くにいたいのだ。


「オレが言った事は、嘘じゃないから」

 長めの前髪の間から、強く見つめる。微笑んでいた相手の表情に、戸惑いのような色が差す。

「証明する。オレが柚佳を好きな事。告白したのは、責任を感じたからじゃない。そんな義務のようなものじゃなくて、その……」

 こんな事を言わせるなんて。オレの幼馴染は、無自覚にとんでもない奴だ。耳まで赤くなっていそうな己の顔を、腕で隠す。視線を彷徨わせながら、しどろもどろに口走る。

「お前が……可愛過ぎるから。付き合えたら、オレに繋ぎ止めて。一生、放さないつもりだったんだ」

 彼女は少し口を開けて、ポカーンとした顔をしている。

 だめだ。結構、恥ずかしい思いをして打ち明けたのに。相手には伝わってなさそうな温度差がある。


「嘘だよ」

 柚佳が真顔で言う。踊り場の右奥へと後退りして、オレと距離を置こうとしているのが分かった。だから、静かに冴える心情で。薄く笑う。

「嘘じゃない」

 言い分を譲る気はなかったので、彼女から目を逸らさない。柚佳が一歩、退いた分。オレは一歩、距離を縮める。

 とうとう彼女は背後の壁に行き当たって、後ろに進むのをやめた。

「だって海里は――」

 柚佳は何か言い掛けたけど。途中から言葉を呑む如く、口を閉ざしている。

「何? ちゃんと言ってよ」

 続きを促す。彼女は俯く。気落ちしたような暗い声で言われる。

「……海里は、キスの上手い子が好きなんでしょ? 私よりも、その……。――可愛い子なんて、たくさんいるし」

「本気で言ってるの?」

 こんなに伝えているのに、まだ足りないみたいだ。

 思っていた以上に、彼女は……。後ろ向きな思考になって、恨み言を言うくらいには。オレの発した言葉に、影響を受けているらしい。

 頬に手を掛け、上を向かせる。顔を近付けると、目を閉じてくれた。
 
 優しく何度も、唇を合わせる。


 少しの間だけ放して、本当の事を教える。

「ごめん。嘘ついてた」

 柚佳が瞼を開く。不安そうに見つめてくる。

「キスしたのは、柚佳が初めてだったんだ。ほかの誰ともした事ないし、するつもりもないから」

「嘘よ。信じない」

 眼前の双眸から、大粒の涙が零れる。

「だって……私、知ってるもの! ……――何でもない」

 まただ。何か言い掛けては、途中で止める。


「何を隠してるの?」

 問うと、視線を逸らされる。


「ふーん?」

 わざとらしく呟いて、彼女の頭にキスを落とす。次に目元、次に頬。

「どうしたら信じてくれる? オレに心を開いてくれる? オレは柚佳の秘密を誰にも言わないし、どんな柚佳も受け入れるよ」

 さっき、篤と柚佳が話していた……彼らの『本当の関係』。それが、ずっと気掛かりだった。

 何であるにせよ。オレはもう、柚佳の手を放さないと決めた。