家でテスト勉強しようと、柚佳を誘う。もちろん、勉強する筈もない。鞄ごと勉強道具一式を学校に忘れ、二人とも手ぶらな時点で……柚佳も気付いていたと思う。
閉めたカーテン越しに差す夕方の柔らかな光が、室内を暖かみのある色に染めている。
部屋に入るなり振り向き、抱き寄せる。
ずっと触れたくて、仕方なかった。彼女もオレの事が好きなんて、夢のようだ。
……ふとした拍子に覚めてしまうんじゃないかと怖ろしいイメージが浮かんで、抱きしめる腕に力を込める。
「海里」
柚佳の心地いい声音が、すぐ傍で聴こえる。背に……ためらうようにぎこちない動きで腕を回された感覚があり、薄く目を開く。
「私……私ね、海里を誰にも渡したくない」
既に隙間なく、くっ付いているのに。まだ足りないと言うように、オレの胸に頬を押し付けてくる。
「ずっと言えなかった。……私は卑怯で汚いから。海里が知ったら、私の事を嫌いになる秘密も持ってる。でも、どうしても海里に振り向いてほしかった。海里の心を少しでも繋ぎ止めたくて、桜場君の気持ちも利用した」
くすんだオレンジ色の光に満たされた、鄙びた畳の部屋で。腕の中に捕まえた、か細い女の子の告白を聴いていた。
「桜場君を振り向かせたいって言ったのは。本当は……海里に振り向いてほしくて。桜場君に告白された時……何度も断ったのにしつこいから、無理難題の要求を突き付けたんだけど。本当に、ほかの子を切ってきて……思わず絶望したよ。十日後に返事を聞かせてって、勝手に約束を言い置いて逃げられたし」
オレの脳裏に今日の休み時間中、机に突っ伏した柚佳の姿が思い起こされる。あれは……照れていたんじゃなくて、絶望していたのか……。
「でも、よかった事もあった。桜場君を理由に、海里に近付けた気がする。キスの練習って言って……本当はただ、私が海里とキスしたかっただけなんだよね」
グッ! 幼馴染が可愛過ぎて、心臓を止められそうだ。
「海里が、キスの上手い子が好きなのは知ってるけど。私なんかじゃ全然……力不足なのは分かってるけど。それでも海里が、ほかの子に行くのは嫌なの」
……?
「だから――」
柚佳がオレの胸から頬を離す。至近距離で見上げてくる。
「海里、キスを教えて。本当は桜場君じゃなくて、海里をイチコロにしたかったんだよ」
我慢できなくなって、彼女の左頬に触れる。
柚佳も、オレと同じ事を考えてた。
嬉しくて、このまま死んでしまうんじゃないかと思った。
昨日、断られた要求にも応じてくれた。詳しいやり方なんて知らなかったけど、思うままに。うっとりしているような瞳と視線が重なり、幸せな気分になる。
永遠にしていたかったけど、途中でやめた。止められなくなりそうだったから。
それに……気が付いた。
色々順番をすっ飛ばしている事に。オレたちは、まだ付き合っていない。まだ柚佳に、告白すらしていない。
さっき、彼女の言動に少し……疑問を持った。
『海里が、キスの上手い子が好きなのは知ってるけど。私なんかじゃ全然……力不足なのは分かってるけど。それでも海里が、ほかの子に行くのは嫌なの』
柚佳は未だに、オレの嘘を信じていて。オレの好みの女子が、キスの上手い子だと勘違いしている……よな……?
「あのさ、柚佳」
彼女の肩を押さえて、体を少し離す。
「オレ、言ってなかった事があって」
真剣に、相手の目を見る。柚佳が身を強張らせたのを、両手の感触で知る。息を呑むような表情で、オレを瞳に映している。
「ただいまー! 腹減ったー」
間の悪い事に、弟が帰って来た。台所で冷蔵庫を漁り、居間に入って来る。弟はオレたちに気付いて「うわ!」と叫び、口に咥えていた魚肉ソーセージを落とした。
「びっくりした! 海里……帰ってんなら、おかえりとか、何か言えよ! 幽霊かと思った――……あっ、そかそか」
陽介はオレと柚佳を交互に見て、ニンマリしている。
「何だよ、その目」
「いや~、何でも?」
言いながら横へ来た弟に、肘でつつかれる。
「陽介君、こんにちは。海里、私もう帰るね。家の手伝いしなきゃ。またね」
「あ……ああ、また」
柚佳は、あっさりと帰って行った。もう少し一緒にいたかった。告白もできなかったけど、いずれまたチャンスはあるだろう。
「あちゃー。オレ、タイミング悪かった?」
陽介が、隣で頭を掻いている。
「ああ。物凄くな」
オレが目付きで不満を表明するけど、陽介は意に介さない様子でニヤニヤを大きくする。
「で? 何か進展あったの今日? 告白できた?」
「お前に邪魔された」
「マジでごめん」
「でも、お前の言った通りだった。オレは結構……柚佳に好かれてた」
右手で顔を覆う。柚佳の発した数々の言葉を思い起こす。赤面している気がした。
「マジで?」
陽介が目を大きくし、嬉しそうに笑っている。
「よかったな! 海里も柚姉ちゃんも、いつ告るんだろうって……見ててやきもきしてたから。これで、ストレスが一コ減る」
そんなに……オレたちって、分かり易かったのか?
居間の壁に掛けてある時計を見る。五時十五分。あっ! そうだ。
「鞄、教室に忘れたんだった。取ってくる!」
柚佳も定期がなかったら困るだろうと考えつつ、家に置いている方の財布を掴んで玄関を出た。
バス停に着いた丁度にバスが来て、家を出てから二十分くらいで学校に到着する。生徒のほとんどが下校しているようで、人影があまりない。
さっき、篤から柚佳を奪って帰宅した事情があるので。同じクラスの奴が、まだ残っていたら気まずい。絶対に何か聞かれる。
教室には、誰もいなかった。少しホッとして自分の席へ向かう。
「……あっれ?」
机の上に置いていた筈の、鞄がない。机の下や周囲も見るけど、ない。
もしかしてと思い、柚佳の机も確認する。彼女の鞄もない。
「忘れ物として、先生が保管してくれてるのか?」と考え、教室を出ようとした。
「海里、君?」
呼ばれて足を止める。
教室の中に人はいないと思ったのに。恐る恐る、振り向く。
教室の窓辺に座って、黄昏を背に足を組んでいる生徒がいる。
腰までありそうな艶やかな黒髪が印象的な美少女で、黒タイツをまとった長い脚に肘を乗せ頬杖をついている。
「遅かったね。待ってたよ?」
透き通るような、それでいて凛とした声が響く。
「……誰?」
不審に思い、問う。
こんな知り合い、いたっけ?
見覚えのない女子生徒。記憶を辿るけど、思い出せない。……でも、懐かしいような気もする。
「ふふっ」
どこか嬉しそうに笑った彼女は、窓際から床へと可憐に下り立つ。
「あなたの捜している鞄は、これ? それとも、こっち?」
女生徒は左手にオレの鞄を、右手に柚佳の鞄を取り出して見せる。
彼女を睨んだまま、答える。
「両方」
「あら。欲張りなのね。本当なら代わりの物を頂くところなんだけど、今日は特別に返してあげる。ほら、取りに来て?」
何だ……? 何か、嫌な予感がする。
「何だ、いらないの? 私が、もらっちゃおうかなー?」
「ダメだ」
からかってるのか? もう相手にしないで、早く帰ろう。
彼女に近付く。鞄に手を伸ばした。
「うん、気が変わったわ」
聞こえた時には、シャツの襟を掴まれていた。引き寄せられて、間近から……囁きが聞こえる。
「ご愁傷様」
突然のシャッター音と、浴びせられたフラッシュに驚く。すぐに後方を見る。廊下をパタパタと駆けて行くような響きが遠ざかる。
「えっ?」
どういう事だ?
「ふふふ。分かってないのね」
左肩を押される。よろけたオレを横目に、微笑んで駆けて行く。
「じゃあね、鈍感さん!」
謎の美少女が振り返り、捨て台詞を吐く。教室から走り去るのを、呆然と見ていた。鞄と共に残されたオレは、まだ状況が飲み込めない。
「……えっ?」
帰る道すがら、さっき起こった事を考え続けている。
一体、何だったんだ? 写真を撮られたよな? 何で? 恐らくオレと、あのよく分からない女の子との……。
あの時。彼女の顔が、凄く近かった。
綺麗に化粧をした隙のない顔立ち。見透かすような黒の瞳。制服の下に着用している黒いハイネックのインナーと、肌の白さのコントラスト。
あともう少しで、唇が触れそうな距離だった。
もしも柚佳と出会っていなければ、彼女に恋をしたかもしれない。……でも。オレは柚佳がいい。この想いを、ほかの誰かに揺るがされる事はないだろう。
内心大きく頷きつつ、思考を本題に戻す。
あの時。オレの後方……教室前方に近い廊下の辺りから、写真を撮られたんだと思う。角度によっては、キスをしているように見えるかもしれない。多分、あの女の子と写真を撮った奴はグルだ。
何が目的なんだ?
1、柚佳に、あの写真を見せて……オレが嫌われるよう仕向ける。
2、柚佳に、あの写真を見せると……オレを脅してくる。
3、実は、あの子は密かにオレの事が好きで……オレの弱みを握って、手玉に取りたい。
取り敢えず考え付いた事を三つ、頭の中に整理してみた。
……3は、さすがに。これはない。いくら柚佳に好かれていると分かり、舞い上がっているからって言っても。調子に乗り過ぎだろう、オレ。
じゃあ、1か2だろうか? 柚佳を好きな、誰かの差し金で? それとも、喝上げ?
柚佳を好きな誰かと考えて、真っ先に篤が思い浮かぶ。
いやいや、証拠もないのに疑うのはよくない。それにアイツは、そんな事をするような奴じゃない筈だ。
ああ、でもそっか……。
家への道を辿りながら、肩を落とす。
あの写真を、柚佳が見たら。オレ、嫌われるかもしれないんだ。
つい、一、二時間前まで有頂天だった心が。陰りを帯びる。明るい未来への展望が、曖昧にぼやけていく。
…………思い通りには、させない。あの子を見つけて、どういうつもりか聞く。せっかく柚佳が、オレを好きだって分かったのに。この幸せを、壊されてなるものか。
アパートに着いた。鞄を渡しに柚佳の家へ行く。ちょうど、入浴中だったようで。鞄は、おばちゃんに預けた。
次の朝、家を出ると。アパートの階段下に柚佳がいた。
「海里。昨日はありがとう。鞄……結局、取って来てくれたでしょ?」
「お、おー……」
一緒に並んで歩きながら、お礼を言われ。昨日、モヤモヤする一件はあったけど。鞄を取りに行ってよかったと、しみじみと思う。我ながら現金な奴だなと、自分に苦笑いする。
柚佳が、じっと見上げてくる。
「海里、何かあった?」
「え?」
「何か、いつもと違う」
指摘されてドキッとする。昨日の女の子との事案が心に引っ掛かっていて、あまり眠れなかった。別に何も、やましい事などしていないのに。何で……こんなに不安にならなくちゃいけないんだ。
俯いていると、心配するように声を掛けてくれる。
「海里?」
――おのれ、許すまじ。オレと柚佳の仲を引き裂こうとする者は、誰であっても許されない。たとえ、その首謀者が篤であったとしても。必ず、その悪だくみを暴いて……柚佳との平穏で幸せな未来を手にしてやる。
「海里、何を考えてるの? 顔が怖いよ」
柚佳に指摘されて、我に返る。
いつの間にか左手が、彼女の右手と繋がれていて。指の絡む感触に、どぎまぎする。
「あっ、ごめん。繋いでみたくて」
俯いて照れたように笑う横顔に、心拍数が上がる。
昨日の夕方は色々な感情があって、勢いのまま彼女の手を引いて帰った。あの時は、そこまで意識していなかったけど。
改めて繋いでいると緊張で、手汗がヤバい事になりそうだった。

