「話、それだけ?」
確認すると小さく「おぅ……」と、返事があった。俯いて少し拗ねている素振りの和馬を残し、さっさと教室へ戻ろうとする。オレの態度に、呆れているのかもしれない。言われた。
「お前って。淡泊だな」
横目に。後方へ笑う。
「ああ、そうだな」
その時。廊下の奥……別の教室から、ざわめきが聞こえる。
何だ?
廊下にいた他の奴らも、何事かと振り返っている。程なくして。二つ先の教室から、誰かが出て来る。廊下を一目散に、こっちへ来る。ショートカットで、茶髪。オレと和馬の間を走り抜けて行った、その女子生徒は……泣いていた。
後から数人の女子が「ミホ! 待って」と言いながら、茶髪の子を追い掛けて行く。
彼女たちの後ろ姿が、見えなくなる頃。オレと和馬は、顔を見合わせる。和馬も驚いたのだろう。目を大きくしている。
「何だあ? ケンカ?」
周囲は、まだ少しざわついている。
「さあ……」
和馬の疑問に対する答えを、持ち合わせていないオレは。気の抜けた返事をする。再び教室へ戻ろうとして、振り向く。
さっき。女の子たちが走り出て来た教室から、出て来る……背の高い人物が、視界に入る。
目を見開く。
オレも同じ、黒髪の男だけど。比べたら、恥じ入ってしまいそうなくらいに。明らかに、スペックの次元が違う。
モデルのような、スラッとした体型。男にしては長めで、サラサラの髪。優しげな目元。人目を引く、整った顔立ち。
おまけに。そいつは、学業もスポーツも卒なく熟すし。友人も多い。孤立しがちな、オレなんかにも。ちょくちょく声を掛けて、クラスに馴染めるよう気を遣ってくれたりもした……いい奴。
だけど。今のオレは、そいつを睨んでしまう。
こっちへ歩いて来る、そいつ……桜場篤は。教室の前で立ち止まっているオレたちを見て、足を止める。オレの目付きにも、気付いたようで。昏く瞳を陰らせた後……意味ありげに微笑して、教室へ入って行く。
「なぁ、見た? アレ、見た? 篤の左頬、赤くなってただろ。さっきの子に、叩かれたんじゃね? 修羅場だったんかな……怖っ」
和馬が自分の肩を抱いて、身震いしている。和馬の言う、さっきの子とは。泣きながら廊下を走って行った、女子の事だろう。
嫌な予感がする。
背中に、変な汗をかいている。
――昨日。柚佳は、桜場に告白されたと言っていた。そして……。
「海里、おい? 海里! 大丈夫か? 真っ青だぞ」
和馬に指摘されるまでもなく。自分でも、血の気が引いているのは分かっていた。
「ああ……大丈夫だ」
動揺を隠し、教室へ入る。
真っ先に、柚佳の姿を捜す。柚佳の席には、ちゃんと彼女がいた。その周囲に、篤がいなかったので。安堵していたのに。
柚佳が、教室の左後方を見ている。何を見ているんだろうと思った。彼女の視線の先にあったのは。教室の一番端の席で、椅子を引いている……篤の姿だった。
柚佳の視線に気付いたように、篤も彼女を見ている。
篤が柚佳に、何かジェスチャーをしている。自分の左頬を小さく二度、指差した後で。女子なら卒倒しそうな程の、甘い笑顔を浮かべた。柚佳が突然、前方へ姿勢を戻す。机に突っ伏している。
何だこれ……茶番だ。
柚佳が篤を好きだって、分かってたじゃないか。
少し前まで「柚佳も、オレの事が好きなのでは」と。浮かれていた己を呪った。
昼休み。篤が一週間限定で付き合っていた女の子を、一日も経たずして振ったという……衝撃の噂が流れた。
律儀な篤は。今まで付き合った女の子は、どんな子でも。一週間、きっちりと付き合っていたらしい。
そんな気がしていた。午前中の休み時間に、泣きながら廊下を走って行った女の子。彼女はきっと、篤に振られた子だ。
篤は本気なんだ……柚佳に。
『他の子を切ってでも、私を選んでくれるのか』
柚佳は、篤に要求したと言っていた。恐らく篤は、もう彼女を作らないつもりだろう。……柚佳を除いて。
怖ろしくなる程の、強敵だと認める。
さっきのダメージを、引きずっている場合ではないと……分かっている。けれど。どうしても自分が、滑稽に思えてしまう。
二人の仲を邪魔する、悪役のピエロだ。
篤と柚佳が教室の端と端から、意味深な視線を交わしている場面を目撃したのは。オレだけでは、なかったようで。放課後には噂や憶測が、そこかしこで囁かれている気配がしていた。
「一井さん」
テスト週間が始まり。部活が休みなので、帰り支度をしていた柚佳に。クラスの女子三人が、話し掛けている。
「ちょっと、来てほしいんだけど」
彼女たちの一人が言う。柚佳を教室から、連れ出そうとしている。篤との件を、尋ねる為だろう。柚佳を心配に思う。
篤はモテる。奴を好きなのは……今日、振られていた子以外にも。期間限定彼女の順番待ちをしている、彼女予定の子たちや。元彼女等……大勢いる。篤の想い人である、柚佳は。その全員を、敵に回してしまう可能性がある。
柚佳は三人に従い、教室前方の戸口へと歩いて行く。やはり、何か危険があるかもしれないと思い……立ち上がって「オレも行く」と、声を掛けようとした。
「沼田君。私が行くわ」
オレより先に席を立った、花山さんと目が合って。ニコッと微笑まれる。
彼女は、柚佳と女子三人の間に入って。何か話している。声が小さくて……少し離れたオレの席からでは、内容を聞き取りにくい。やがて。三人の女子は、泣き出した。
啜り泣く三人に、教室が静まり返る。嗚咽だけが響く。
一体、何を言ったんだ……花山さん。
柚佳は泣き出した三人を見つめて、固まる如く。動きがない。顔色が蒼白だ。
柚佳を連れて帰ろう。
立ち上がる。だけど、また先を越されてしまう。今度は、今……最も憎いアイツに。
「もしかして。俺の事で、揉めてる?」
桜場篤は自然な動作で、柚佳の隣へやって来て。有ろう事か、彼女の肩を抱いた。教室の、あちこちから。「キャー」という、悲鳴が聞こえる。
「ごめんね? 俺……、一井さんが好きなんだ。だから。他の誰とも付き合えない。まぁ、まだ……告白の返事は、もらってないんだけど。皆には、応援してほしいな」
とんでもない事を言ってのけた篤は、ニコリと屈託なく微笑む。啜り泣いている三人の内。真ん中にいる一人が、その場に頽れる。他の二人も、しゃがみ込んで。三人は、肩を抱き合って泣いている。
「……という訳で。一緒に帰ろう? 一井さん」
好きな人へと。奴の視線が、注がれている。彼女の手を、俺じゃない男が取る。限界だ。
「ダメだ。柚佳は、オレと帰るんだ!」
言い放つ。篤の前まで進んで、柚佳の手を奪う。柚佳が、驚いた様相で見てくる。
……彼女が、誰を好きでも。もう、遠慮しない。オレには、できない。ほかの奴が、柚佳に触れるのが。はらわたが煮えくり返るように嫌だ。
そのまま。柚佳の手を引いて、教室を出る。彼女が不安げに、後ろを振り返っているのを。見なかった事にする。柚佳の心が、篤にある……その事実を、見せ付けられているようで。大切にしていたものを、ズタズタにされた気分だった。
柚佳の手を掴んだまま、下駄箱の前まで来た。
「海里」
呼ばれたけど。返事をしなかった。
彼女が靴を、履き替え終わったので。再び手を引く。
鞄を教室に忘れた。気付いていたけど。無言で坂を下る。
オレたちの通う学校は、山の上の方にあって。行き帰りには、坂や階段が多い。普段はバスで通学しているけど。今日はバス停を通り過ぎる。忘れた鞄の中に、財布や定期券が入っている。後で、取りに戻った方がいいかもしれない。
……柚佳は、何も言わない。
学校からオレたちの家までは、歩いて帰れない事はない距離にある。バス通りから少し外れて、細い階段を下る。歩きだと、この道の方が早い。
「柚佳。ごめん。鞄は後で、オレが取りに行くから」
下りながら。やっと、それだけを言えた。先に歩くオレは。彼女を振り返る、勇気がない。篤から柚佳を引き離して、連れて来た。オレの独りよがりな感情の、命令するまま。
不意に。引いていた手を、強く握り返されて。足を止める。
「行かないで」
後方から届いた言葉に、眉を寄せる。意味を探る為に、振り向く。慎重に、相手の顔を見上げる。
「何で?」
瞳を合わせて問う。視線を下へ逸らされる。答えが返ってくる。
「分からない」
「本当に?」
一歩、彼女に近付く。
「本当に、分からないの?」
目線が、同じ高さになる。
「海里は、分かってるの?」
頑なに目線を合わせようとしない幼馴染に、告げる。
「今、分かった」
細い階段の続く道で、立ち止まっている。周囲には民家や、小さな畑がある。
いつもなら。高台から下る時に見える景色を、堪能するけど。今日は、景色に目もくれず。後方にいる、柚佳を。注視している。
オレの方が幾分か、柚佳より身長が高い。柚佳の身長は女子の平均より、やや高い方で。オレのいる位置より、階段の一段分上にいる彼女と。今……目線の高さが同じくらいだ。
間近から観察している。授業中に使う眼鏡は、今はしていない。ポニーテールは短めで。長さが足りなくて結べない部分の髪は、黒のヘアピンで留めている。睫が長い。化粧もしていないのに、この可愛さは。どういう事だろうか。
そんな彼女が、目を合わせてくれない。
「柚佳、『行かないで』って。もしかして……。傍にいてほしいって、思ってる?」
繋いでいた手に、再び。ぎゅっと握られる感覚がある。柚佳が視線を上げ、見つめてくる。苦しげに目を細めた彼女の、小さな小さな、その声を。確かに拾う。
「うん……」
涙が出そうだった。これって、両想いではないだろうか。
……しかし。オレの不安は消えない。彼女は、篤ともいい雰囲気だった。意を決して、核心を聞く。
「それって。オレの事が好きって事?」
柚佳の目が大きく瞠られるのを見た。繋ぐ手に、さっきよりも強い感触がある。だけど……。彼女は表情を曇らせて、瞳を下へ逸らす。
「ううん。違うよ」
「嘘だな」
断言する。
「何で、お前が嘘ついてるのか知らないけど。もう、遠慮しないからな?」
逃げられないように。彼女の両手を、しっかりと握る。
「何で今朝、オレにキスしたのかな?」
彼女は返事に困った様子で、歯噛みした後に。睨め付けてくる。
「……キライ」
「嘘だな」
即断する。もう、自信を持って言える。彼女は、オレの事が好きだ。
「あ、それと。オレたちの関係を、秘密にするって言ってたけど。皆の前で、お前を連れ出したから。相当、怪しまれてると思う。悪いな。本当は……篤と帰りたかったんだろう?」
「~~キライ!」
「嘘だよ。お前は篤じゃなくて、オレと一緒にいたかったんだよな?」
暫くの間、言葉もなく見つめ合った。
柚佳が降参したと言いたげに、溜め息をついて苦笑する。そして白状した。
「嬉しかった」
きっと、教室から連れ出した時の事を言っているのだろう。
「何で?」
欲張って、確実な言質を求めたけど。
「何でかな……?」
最後はやっぱり、はぐらかされた。
顔と顔が近い。オレの目も、まともに見れない程に。相手は余裕がなさそうだ。恥じらうように頬を染める幼馴染と、唇を交わす。
いい雰囲気だったけど。散歩中の犬に吠えられて、我に返る。
笑い合って、階段を下った。

