翌朝。アパートの階段下で、手すりにもたれて柚佳を待っている。
ドアの開く音が響く。「行ってきます」とドアを閉めた柚佳へ、声を掛ける。わざと明るく。
「柚佳!」
ハッとしたような顔で見てくる。
学校での柚佳は、家にいる時と雰囲気が違う。
まず、見た目から違う。学校外では髪を結んでいない事が多い。これは、最近になってからだけど。学校では、いつもポニーテールだ。それから眼鏡を掛けている姿を、よく目にする。視力が落ちて黒板の字が見えにくくなったらしい。そして、最大に違うのは性格。家でオレと遊んでいる時は勝気なのに。学校では大人しいって言うか、しおらしい。
そんな性格のギャップを知らない男どもの間で、柚佳は密かに人気があった。「皆、騙されてるぞ!」と、教えてやりたい時もあったが。よく考えてみると。家での柚佳も生き生きしていて最高に可愛いので、誰にも教えるつもりはない。オレだけで独占するのだ。
「おはよう……海里」
斜め下の方へ、視線を逸らされる。
昨日泣いたから、気恥ずかしいのかもしれない。
結局、彼女が何で泣いていたのか分からなかった。でも、何かを打ち明けようとしていた。
柚佳が話せるようになるまで。取り敢えず、待ってみる事にする。
制服のスカートを揺らして、歩んで来た彼女は。……オレの横を、通り過ぎて行く。
「柚佳……、何か怒ってる?」
追い掛けて聞くけど。こっちを見ようともしない。彼女の態度が冷たい。家では、そんな事ないのに。
特に。ここ一週間くらい。学校での柚佳は、様子が変だった。廊下で、擦れ違った時も。話し掛けたのに聞こえていない素振りで、目も合わせてくれなかったし。「もしかして。わざとオレに会わないように、時間をずらして登校してる?」と、疑ってしまう出来事もあった。
オレ、何か嫌われる事をしただろうか。……心当たりが、あり過ぎて分からない。
「怒ってないよ?」
振り返らずに答えてくる。
「柚佳?」
気が付いた時には彼女の左肩を掴んで、正面から見下ろしていた。見開かれた目が、オレを映している。……よかった。泣いてない。
ほっとして、緊張で強張っていた力が抜ける。振り向かせる為に掴んでいた肩を放す。
「ごめん。泣いてるんじゃないかと思った」
勘違いが少し恥ずかしく思えて、誤魔化し笑いをしつつ右頬を掻く。じっと見上げてくる大きな瞳から逃れるように右下へ視線を移した時。
それは、ほんの短い間で。唇が離れて相手の目を見た後、理解した。
肩に添えられていた手が、静かに距離を取る。彼女は顔を、くしゃっと歪ませて……何も言わないままに、先に行ってしまった。
衝撃で、口を押さえたまま立ち尽くす。大きめの動悸は後からやって来て、暫く続いた。
「えっ?」
その日。授業に身が入らなかった。教科書を見ているフリをして、横目で右隣の更に右斜め前の席にいる柚佳の様子を窺っている。彼女は……いつものように学校用の落ち着いた雰囲気をまとい、教科書をめくっている。
オレだけ? 心に台風が直撃したように穏やかじゃないの、オレだけなの?
何事もなかったように澄ました顔で授業を受けている柚佳に、心がざわつく。
ゴスッ。
「っ……てっ!」
頭に痛みがある。側に誰か立っている。患部を両手で押さえて見上げる。数学の平尾先生が教科書を揺らしている。あの角で、やられたらしい。
「沼田ぁ! 花山が可愛いからって、よそ見するなよな~!」
先生はニヤッと笑い、わざとらしく大きな声で注意してくる。教室に小さい笑い声が、いくつも起こる。右隣の席の花山さんも、少し困ったように微笑んでいる。
オレは言いたい。「違うんだ。オレは一井さんを見ていたんだ!」って。けれど……この平尾先生は厄介で。意見しようものなら「口答えするな」と、キレ出す事がよくあった。まあ、よそ見していたオレが悪いから仕方ない。
「すみません」と謝って、平尾先生をやり過ごした。
先生の目を盗んで。もう一度、柚佳を見る。彼女は変わらず、教科書に視線を落としている。
柚佳が学校と家とで性格に違いがある原因に、思い当たる事が一つある。
元々の柚佳は、勝気な性格だった。自分のしたい事を押し通す等の、良く言えば素直で行動力があるけど悪く言えば我儘で協調性に欠けるところもそうだ。我の強かった彼女を、よく思わない子も……過去のクラスメイトにはいた。
小学二年生だった頃……仲が良かったと思っていた友人たちが、仲間に入れてくれなくなったらしい。ずっと後になって聞いた。その頃から。彼女は学校で、あまり笑わなくなった。友達ができても、どこか一歩引いた場所から彼女たちを見守るようなポジションでいた。
……今思えば。踏み込んで付き合う事に、恐れを抱いていたのではないだろうか。本当の自分を出して嫌われたらどうしようとか、そんな事を考えて怖くなったのかもしれない。ま、全部オレの推測で……柚佳が本当は何を思っているのか、正確なところは分からないけど。
だがしかし。学校から帰宅した柚佳は、柚佳だった。幼稚園の頃からそのままの、明るくて負けず嫌いで横暴な柚佳。学校で大人しく過ごしている反動か……オレの家に来ては、やりたい放題だった。内弁慶って言うのかもしれない。
小学生の頃は、取っ組み合いのケンカもした事あるし(咬み付かれたりした事もあった)。柚佳のお気に入りだった蝉の抜け殻を、誤って踏んで壊してしまった時は大変だった。あ……。その時された仕返しを思い出したら、涙が出そうなので。この話は、心の内に仕舞っておこう。
とにかく。オレから見た彼女は。学校の友人たちの前では、目立たないように……出しゃばらないように、気を付けて振る舞っているような印象がある。
彼女が彼女らしくいられない事に、もどかしい気持ちにもなる。だけど……そのような葛藤を抱えた柚佳の事を、とても愛おしいと思う。勝気な彼女も好きだ。けれど友達に見放されて心に傷を負っても、彼女なりに友人との付き合い方を模索して……たまに空回りしている、不器用な彼女も大好きだった。
それにしても。今朝のキスは、一体何だったのだろう。不意打ちに、彼女からしてきたキス。あああ……。本気で柚佳も、オレの事が好きなんじゃないかと思えてくる。
机に突っ伏す。緩む頬を、腕で隠した。
休み時間中。机に突っ伏しているところへ、声を掛けられる。
「沼田君」
頭を上げて声の主を見る。右隣の席にいる、花山美南だ。
「災難だったね」
そう小さく上品に笑っている。小柄で細いシルエット。顔も可愛らしく優しそうなイメージ。色素の薄い長めの髪を、ゆるく肩の辺りで結んでいる。
「あ……うん」
オレも一応、愛想笑いを浮かべる。きっと、さっきの授業中に注意された件を言っているのだろう。
席が隣なのもあって、最近よく話しかけてくれる花山さん。仲良くしてくれるのは、ありがたいのだが。周囲からの視線が、オレに突き刺さってくる。
男子たちからの妬みと、女子たちからの「美南ちゃんに声を掛けられて調子に乗るなよ。冴えない根暗の分際で」という念を、ひしひしと感じる。これはきっと、被害妄想なんかじゃない。
まぁ、オレも柚佳と似たようなものだ。何と言うか、人の心の動きに敏感になっているのかもしれない。……特に悪意。
昔……小学三年生の頃、クラスのいじめられていた子を助けた事があった。その子を庇った次の日から、いじめのターゲットはオレになった。仲の良かった友達は皆、知らない振りをした。その件があってから、オレは友達作りを諦めた。
多分、柚佳と決定的に違うのは。人間関係を煩わしいと思ってしまった事だろう。期待して裏切られるのなら、最初から期待しなければいい。独りの方が相手に合わせなくていいし楽だと、いつの間にか周囲から孤立し浮く事も多かった。
そんなオレにも、友人ができた(柚佳は友人だけど幼馴染であり好きな人でもある特別な存在だから、今回はカウントしない)。
高校に入ってから、しつこく付きまとってくる変人……もとい、柳城(やなしろ)和馬。誰にでも気さくな態度で、明るく天真爛漫な性格だが。少々、お調子者だと思う。オレが黒髪で前髪が長く根暗な印象なのに対し、和馬は明るめの茶髪で。身長はオレより少し低く童顔だ。女子たちから弟扱いされる事が多いと嘆いていた。何でか知らないけど、一年の時からよく絡んできて。今では学校にいる間だけで比べると、柚佳といる時間よりも長くつるんでいる。
そんな和馬は最近。花山さんの事が、お気に入りらしい。オレが気の利いた話もせずに「あ……うん」と返事をして終了した彼女との会話をクラスメイトから聞きつけて、オレを廊下へ引っ張り出す。
「俺がトイレに行ってる間に、何話してたんだよ! 抜け駆けは、なしだぞ!」
冗談半分といった体で笑っている和馬の、喋り方や人好きがするような笑顔を。心底、羨ましいと思う。
「何も……。ただ、災難だったねって言われた」
「それだけ?」
オレの目の奥を見透かすように笑みを消し、確認してくる。
「ああ……」
答えて視線を逸らす。
「心配しなくても。お前が思う程、オレは女子に人気ねーから。知ってるだろ? むしろ、嫌われてるだろうし」
自虐的に笑って見せる。
何故か。和馬は口をへの字にして、含みのある物言いをする。
「俺……お前の事、嫌い」

