キスの練習相手は幼馴染で好きな人【改稿版】


 長い前髪の奥。黒の瞳が、私を見つめている。

 目の前にいる男の子、沼田海里は。幼稚園の時からの幼馴染。高校二年になった現在まで変わらず、性格に難のある私とも仲良くしてくれる……優しい心根と努力家な一面を持つ――私の好きな人。

 彼の右手が動いて、私の髪に触れる。心臓が飛び出そうになる。今までの人生で、このような場面の経験はない。

 築三十年くらい経つ、ありふれたアパート。二階建ての二階に位置する、海里のお家の居間で。さっきまで、一緒にゲームをしていた。なのに今、二人で向かい合って座り……何をしているのかというと。

 徐に顔が近付いてきて、目をぎゅっと瞑る。

 ま、まだ……心の準備が、できていないのに……!

 左頬に温かい感触があり。それは、すぐに離れた。

 目を開くと。私を心配するような視線があって。思わず下を向いて、動揺を隠す。
 ……海里は、余裕がありそう。その現実が、ちくっと胸を刺す。

 私は、ずっと。彼が好きだった。

 自覚したのは、小学生の頃。今に至るまで、告白できなかったのは。自分に自信が持てなかったのと……振られるのは、耐えられないから。もし告白して。ギクシャクし、幼馴染という関係も失ってしまったら。私は……この人生に、二度と希望を見出だせない。

 何度か、別の男子から告白された事はあったけど。毎回、断っていた。
 彼らは、私の本性を知らない。私は学校では、大人しいフリをしている。昔の出来事を引きずっていて。本性を知られて、友人に嫌われるのが怖くて。自然と、そう振る舞うようになった。だから、私に告白してくる子も。きっと……本性を知ったら離れる。それに私も、彼らに興味がなかった。

 海里だけだった。

 海里が私を、どん底から救ってくれたのだ。海里じゃないと意味がないと分かっているから、大切過ぎて臆病になる。

 でも。海里の好きな人は、私じゃない。彼には、過去に……付き合った人がいたのだと。さっき、初めて知った。ショックだった。全然、知らされなかったのも。衝撃だった。キスをした事のある、その相手とは。今は、付き合っていないと言っていたけど。

 悲しかった。私が告白をためらって、もじもじしている間に。海里が……どこか知らない所へ行ってしまうかもしれない。

 ……けれど。もう、手遅れだった。

 知ってしまった。海里の好きな人。

 私なんかが敵いっこない、学年一の美少女……花山美南ちゃん。彼女は引っ込み思案な私にも、気さくに話し掛けてくれて。失くしたくない友達。
 尊敬する大切な友人の筈なのに。どうしても譲りたくない想いが、嫌悪感を抱かせる。

 一週間くらい前に。美南ちゃんに言われた。海里から、ラブレターをもらったって。まさか……って、疑った。でも、美南ちゃんが見せてくれた手紙に書かれた文字は。海里の字に見える。

 失恋したと実感してくると。日常が味気なく、色褪せているように思える。

 美南ちゃんから口止めされていたし、海里に確認する事はできない。一週間、質問しないように努めたけど。限界が近付いていた。そして今日、我慢できずに聞いてしまった。「海里の好きな子って、美南ちゃんでしょ?」と。

 昼休みにあった出来事も、私を焦らせた。学年一のイケメンと噂されるクラスメイトの男子、桜場篤君に呼び出されたのだ。

 海里は、私の好きな人が桜場君だと……勘違いしている様子だった。

 「私の好きな人は、海里だよ」と、言ってしまいたかった。言える筈もなく。開いた唇は、憎まれ口を紡いで。「まあ、もうすぐ告白する予定だし?」と、付け加える。
 それは、願望だった。未来の私は、きっと。海里に告白する。振られたとしても。そうするのが正解だと、本当は知っていた。

 海里は、私が桜場君に相手にされないと断言していた。「キスもした事のない色気のない女」と言われた。経験した者の言葉には、重みがある。
 海里の好みの子は、恐らく「キスの上手い、色気のある子」なのだろう。キスなんてした事ないし……到底、彼好みの女子になれる気がしない。

 気落ちしていたところへ、思い掛けない提案をされる。

「キス、練習すりゃいいだろ? 篤をイチコロにするやつ」
「練習相手になってやろうか?」

 目を瞠る。…………私は、提案に乗った。天の助け……いいえ。悪魔の誘惑かもしれない。

 海里は美南ちゃんが好きで、美南ちゃんも海里の事が…………それなのに。
 私は、きっと……二人の仲を邪魔する、悪魔よりも悪い奴。

 海里への恋心を、悟られないように。咄嗟に「桜場君を振り向かせたいの」と、嘘をついた。この想いは、海里を困らせるから。


 ぐるぐると考えていた意識を再び、海里へ戻す。目の前にいる彼も。何か、考え事をしているのかもしれない。眉間に皺を寄せ、俯いている。

 名前を呼ぶ。顔を上げた彼と、視線が合う。怯みかける自分に、心の中で鞭を打つ。平静を装って、瞳を見返す。

 大丈夫。覚悟は決まった。地獄に堕ちてもいい。今しかない。こんなチャンスは……もう、二度と来ない。

 これまでに、海里と何もなかったのは。私が、何もしなかったから。

 友達を裏切る、最低な私を。知られれば当然、嫌われるだろう。でも、いいの。ひと時でも、私を見てくれるなら。


「口にして」

 気が変わってしまわないうちに、望みを放つ。

 大きく開いた目を向けられる。好みじゃない私とのキスは、嫌じゃないのかな……と。不安になる。

 それも、僅かの間だった。距離が縮まる。

 今まで何もなかった幼馴染との進展は、現実味がなくて。夢でも見ているような心地で、目を閉じる。
 

 強く恋い慕う人とのキスが、失恋で欠けたものを補うように幸福感をもたらし。そんな筈ないのに……海里の好きな人は、自分なんじゃないかという思いが過る。

 「バカね」と、胸の内で笑う。

 「本来、海里とキスするのは。ここにいるべきなのは、美南ちゃんだよ」……そう言い聞かせるように、思考する私と。「違う!」と、必死に認めようとしない私がいて。どちらの自分も、哀れに感じる。

 伝わる手の感触も。ほんの二、三秒……唇に触れた、彼の温度も。全部、覚えていよう。

 近くにあった、心地のいい気配が解かれて。ゆっくりと、目を開く。海里のシャツを掴んでいる。慌てて、手を引っ込める。恐る恐る……顔を上げて、相手の様子を窺う。

 口を手で覆った彼は。私から目を逸らすように、顔を横に背けている。

 何故なのか。少しの間、考えて。思い当たる。
 今まで、ただの幼馴染だった私たち。海里は私の事なんて、恋愛対象じゃなかったに違いない。何とも思っていなかった幼馴染と、急にキスなんてしたものだから。変な感じがしたのかも。どこか、戸惑っている様相にも見える。

 美南ちゃんじゃなくて、ごめんね。――でも。後悔はないよ。

 心の中で、謝っておく。

 今しがたまで温かかった胸の奥へ、冷気が吹き込む如く。失った痕が疼く。本当は渇望しているものが、決定的に足りなくて。穴が空いている器は、満たされない。だから。底なしのように、欲深くなる。思わずにはいられない。

 どうして海里の好きな子は、美南ちゃんなの? 私の方が、ずっと傍にいたのに!

 彼は黙ったまま、テレビの画面を見つめている。もしかしたら、美南ちゃんの事を考えているのかもしれない。私とキスしていた時も、彼女を想っていたのかもしれない。思い至って唇を噛む。

「あっ……のっ……」

 呼び掛けようと、口を開いたけど。震えてしまって、上手く言葉が出ない。
 みっともないところを見られる前に帰ろう。

 後の事は、あまりよく思い出せない。海里に「もう帰るね」みたいな事を伝えて、その場から逃げ出した。



 自分の部屋のベッドに突っ伏して、少し泣いたら落ち着いた。気持ちを切り替えて、テスト勉強でもしよう。その方が……余計な事を考えないで済むかもしれない。

 制服を脱いで、部屋着に着替えていると。戸がノックされる。台所にいる母が、私の様子を気に掛けている。

「海里君と、ケンカでもした?」

「……ううん? してないよー」

 むしろキスまでする仲になって、近付けた筈なのに。温度差というか、距離を感じる。緊張していたのも、感動したのも、嬉しかったのも。……きっと、私だけ。

 遠くない日に、海里の傍にいられなくなる。今まであった、私の居場所も。美南ちゃんのものになる。

「……っ」

 絶望に似た、暗い気持ちが湧く。
 部屋で立ち竦んでいる時。来客を知らせるチャイムが鳴る。

「はーい! あら、海里君!」

 玄関の戸を開ける音に続いて。母が訪問者の名前を口にする。ドキリとする。

「こんばんは。柚佳いますか?」

「うん、ちょっと待ってね。柚佳ー! 海里君よー!」

 呼ばれている。

 ちょっと待って。今、とってもだらしない格好をしているのに!

 着れればいいやという思考で、何も考えず……。部屋のタンスから適当に出した、青っぽい縦縞柄のショートパンツと。いつも家で着ている、大きめの白いTシャツ。どちらも……くたびれていると認識している。

 何より。ショートパンツがショートなせいで、脚が膝上まで見えている。恥ずかしい気持ちになる。

 呼ばれて、出て行かない訳にはいかず……。「一瞬だけ顔を合わせて、待っていてほしいと伝えた後に。急いで、着替えを済ませよう」と、考えた。

 部屋を出て、玄関へと赴く。戸口の外に立つ海里が、目を丸くしている。慌てていたので、早口になる。

「海里、どうしたの? ちょっと待ってて、着替えるから。少し待ってて!」

 あーあーあーあー。見られた。油断してた。「一瞬だけなら、見えないかも」なんて、浅はかな考えだった。
 海里が訪ねてくれるのは嬉しい。しかし、女の子として敗北したような……複雑な気分を味わった。

 部屋に戻って、悔やむけど。仕方ない。待たせているので、急がないと。

 取り敢えずと。タンスから外用のジーンズと、水色のパーカーを引っ張り出して着替える。
 

「お待たせ! 家の中が、ごちゃごちゃしてて汚いから。外で話そう!」

 外で待ってくれていた海里に、声を掛ける。海里が遊びに来てくれると前もって分かっていたら、掃除をしておいたのに! 日頃から部屋を綺麗にしていない、自分の悪習慣を恨む。


 海里の提案で、小学校の近くにある公園へ向かう。

 昏く、闇へと移ろう空。車も通るけど、広くもない道路には……帰りを急ぐ学生や、子供たちも歩いていたりして。人通りが、割と多い。

 海里は、話があると言っていた。何だろう。

 一つだけ、思い当たる。


 美南ちゃんの事だ。


 海里の近くを歩きながら、一瞬……立ち止まりそうになる。凄く、公園へ行きたくない。それでも、重たくなった足を動かして。彼の後に続く。

 さっきは。たまたま「キスの練習相手」になってもらう、流れになりはしたけど。海里が好きなのは、美南ちゃんなのだ。付き合っていないからと言って……本命じゃない子とキスをするのは、何か違うと思ったのかもしれない。

 どうしよう。せっかく手にしたチャンスを、このままでは失ってしまう。

 あ……っと、いけない。考えに気を取られて、歩みが遅くなっていた。

 俯くのをやめて、顔を上げる。前方に海里がいないと知って焦る。だけど不安に感じたのは、ほんの瞬き程の間で。隣を歩いていると気付き、ホッとする。

 先に行ってしまったと思った。

 また性懲りもなく泣きそうになって、下唇を噛む。もう、高校生なのに。必死に涙を抑える。

 何で、隣にいてくれるの? 幼馴染だから?

 彼を見つめる。虚ろな目で黙ったまま、私の視線にも気付いていない。何を考えているの?


「ねえ」

 美南ちゃんの事だったらと思うと、いても立ってもいられなくて。呼び止めていた。

 ――美南ちゃんじゃなくて、私を好きになって。

 強く願う。でも、口には出さなかった。微笑んで、誤魔化す。

「私、負けるのが嫌いなの。知ってるよね?」

 ゆっくり、目を細めて尋ねる。

「お、おう」

 彼は話の意図が読めないと言いたそうな、戸惑いの窺える表情で返事をする。……私ばかり好きなのは、つらい。

「意地悪されたら当然、仕返しするの。知ってるよね?」

「おっ……おう」

 ……他の子を好きになるなんて、許せない! 絶対に、私を好きになってもらう。それで、泣かせてやる。

「そういう事だから。覚えてなさいよ!」

 怒りが湧いてきて、少し強めに言い置く。私だけ泣くのは、不公平だ。
 怒って不細工な顔を見られたくないので、海里より先を行く。

 公園に着いたら、美南ちゃんの事を告げられて……「やっぱり、キスの練習はしない」と、言い渡される可能性が高い。せっかくの足掛かりを、見す見す失う訳にはいかない。

 既に、昨日までに認識していた以上に。自分が卑怯で、狡い奴だと自覚していた。

 ……今更。汚れるも何もない。

 決意した事がある。
 海里の関心を繋ぎ止められるんだったら、利用できるものは利用する。

 幼馴染である事も。桜場君も。海里の優しさも。



 とうとう、公園に着いてしまった。辺りは既に薄暗い。街灯の光が照らすベンチに二人、並んで座る。意を決して、私から切り出す。

「それで。話って、何?」

 本当は美南ちゃんの事だと、気付いていたけど。明るめの声で、知らないフリをする。

「あの……さ」

 海里が、ためらうように口を開く。斜め下に逸らしていた視線を強く、私へ向けてくる。

 何で、そんな顔するの? 私は海里の、どんな表情も好きだよ。でも。美南ちゃんを想う海里の顔は……キライ。私のものじゃないなんて、許せない。

「柚佳に、ずっと言えなかった事があって。オレさ……」

「私も。海里に言わなきゃいけない事があるの。私……」

 咄嗟に。彼の話を、遮って邪魔した。
 聞けない。聞ける筈ない!

 ……何か言わなきゃ。でも何て?
 俯いて、言葉を探す。

 海里を繋ぎ止められるんだったら。何でも利用するって……決めたよね?

「柚佳……?」

 心配させている。早く。あまり関わりたくなかったけど仕方ない。
 震えそうな声を、何とか絞り出す。

「私、今日の昼休みに……桜場君に告白されたの」

「……え?」

 海里が目を大きくして、こちらを見ている。

 ――桜場君を、利用させてもらう。海里の優しさも。……ごめんね。幼馴染のよしみで、私からの頼みを断りづらいって分かってる。

 桜場君を振り向かせる為の「キスの練習」という名目だけだと。ただ私の経験値を上げるだけで、桜場君の気を引く為の確実な方法だとは言えない。……海里を引き留める理由としては、弱い気がしていた。

 もっと、強い理由をこじつける。

「でも、さっき。オレの家で。もうすぐ告白する予定とか、アイツを振り向かせたいって……言ってたよな?」

 海里が尤もな疑問を示したので。今日の昼休みにあった事を作為的に、かいつまんで説明する。

「告白されたけど、まだ……私の気持ちを伝えてないの。桜場君には、待っててもらってる。十日後に、会う約束をしてて。その時に、言おうと思ってる」

 少し事実と違う。

「振り向かせたいのは……」

 そう言葉を置いて、フフッと笑う。ちょっとした悪戯心が湧く。

「私が本命なのか、そうじゃないのか分からないから。私より可愛い子なんて、たくさんいるし。本当に好きかなんて分からない。だから言ったの。ほかの子を切ってでも、私を選んでくれるのか。私は、好きな人にとって……ただ一人の人になりたい」

 海里から言われた言葉をヒントに、私の願いを絡めて伝える。
 ただの幼馴染にしか思ってないの、知ってるけど。美南ちゃんに勝てるとは思えない。でも。

 絶対に負けたくない。海里を奪われたくない!

「だから彼が、私以外を考えられなくなるようにしたい」

 強い決意と共に口にする。桜場君の事じゃないよ。ねぇ海里……あなたの事だよ?

 両手を伸ばして、彼の髪を触る。緊張で、指先が震える。海里がいけないんだよ。
 私がこんなに頭を悩ませてるのも。大好きな美南ちゃんを、妬ましく思ってるのも。自分が嘘つきで、卑怯で、狡くて、心が汚れてるって……もっと、嫌いになったのも。今、胸が張り裂けそうなのも。

 私から口付けを誘う。
 自分の中に、こんな劣情があるなんて。


 唇が触れる前に、頼んでおく。

「九日の内に。全部、教えて」

 「キスの練習」中に振り向いてもらえるよう、頑張ってみよう。それで、だめだったら……綺麗に忘れよう。

 海里から与えられるキスは、思っていたよりも刺激が強く……。
 その後も、彼に翻弄され続ける運命にあると。この時の私は、知る由もなかった。