キスの練習相手は幼馴染で好きな人【改稿版】


 いきなり口にするのは、初心者のオレにはハードルが高過ぎる。一旦、騒がしい心を落ち着かせる為に。先に唇で、頬に触れる。時間を稼ぎたかったのに。余計に、胸の音が速くなる。

 ついた嘘がバレないように、内心必死だ。けれど、表面上は澄ました顔をしている……筈。

 オレと一緒で、キスが初めてらしい柚佳の反応が可愛い。彼女の想い人、篤への憎悪が膨らむ。


「海里」

 名を呼ばれて。少し、ぼーっとした頭で考える。彼女は声も可愛い。年相応のトーンなのに不思議と、聴いていて落ち着く深みがある。

「口にして」

 覚悟を決めたように、澄んだ瞳を向けられる。

 それまで何度も脳内で反芻していた、僅かな知識。ドラマや漫画で見たキスシーン。
 大丈夫。口と口を合わせるだけ。繰り返し、自分に言い聞かせていた。

 篤をイチコロにするキスとは、恐らくディープキスというものだろうと。薄らと思い浮かべていた。しかし、今の自分には到底到達できない境地なので。柚佳の為の練習という体だけど、オレも同時に練習させてもらうしかない。もちろん、気付かれないように。

 そんな不安や苦肉の作戦で、せめぎ合っていた脳内が。意識が。

 柚佳の挙動に集中する。


 口にキスする事を許された。ずっと好きだった子に。


 この場面で、舞い上がらずにいられる人っているのだろうか。

 重ねた唇は、思っていたよりも柔らかくて。終わった後は、涙が出そうな程の満たされた感覚に……心が震えた。ただの練習で、相手に気持ちがないとしても。長い片想いが報われたような錯覚さえする。

 だけど。よくない。

 オレの中で「もっとしたい」という欲求が肥大して。目を背けたら奈落に落ちてしまいそうなゾクッとした感覚が、背筋を這う。

 焦る心臓を宥め賺して、横を向く。テレビには、ゲームのデモ映像が繰り返されている。オレたちがゲームを中断している間も、流れ続けていた。


「あっ……のっ……」

 左側から上擦った声が聞こえる。柚佳を見る。彼女は立ち上がり、素早く帰り支度を済ませた後。再び、オレの方を向く。

「今日は、もう帰るね。色々、えっと……ありがとう。また明日、学校でね!」

 制服の灰色いスカートが揺れる。彼女はオレの横を通り過ぎて、玄関から外へ逃げるように出て行った。少し、涙目だったような気もする。

 もしかして、嫌われた?

 必死に抑えていたのに。彼女を好きな気持ちや邪な欲望を、気取られてしまったのかもしれない。
 好きでもない男からの好意なんて、凄く迷惑で気持ち悪いものなのでは……と考え至る。キスしてみて「やっぱ無理」と、思われた可能性も高い。

 あああ……。

 頭を抱えて。座った状態から畳へ、横向きに身を投げる。明日から口を利いてもらえなくなったら、どうしよう。

 けれど。後悔は微塵もなかった。今まで何にもなかった幼馴染との進展。たとえ拒絶されたとしても。今日の出来事は、オレにとって一生の思い出になる。間違いない。

 仰向けになって感極まっていたら。いつの間に帰っていたのか、ランドセルを背負って立つ陽介に見下ろされている。

 陽介は五歳年下の、オレの弟だ。背が学年で一番高いらしく、中高生と間違われる事も多い。

「海里、何してんだ? ニヤニヤして、気持ち悪っ」

 幼い頃にオレと陽介、二人で見た事がある脚がたくさん生えた虫。それに出くわした場面でしそうなくらいに、弟の顔がしかめられている。

 陽介が居間の隣にある台所へ移動する。冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出しているのを、寝そべったまま眺めつつ話し掛ける。

「なあ……。お前、キスした事ある?」

「……は?」

 眉間に皺を寄せた表情で、聞き返される。陽介は陰気なオレと違い、さっぱりとした性格で運動神経もいい。きっと、学校ではモテるのではないだろうか。

「何だよ? まさか、柚姉ちゃんとしてねーだろうな? そんな訳ねーよな」

「……」

「……マジで? ついに告った?」

「いや、告ってはいない……」

「じゃあ、告られた?」

 さらっと言う陽介に、首を横に振って見せる。

「何だよ、歯切れわりぃな」

 訝しげに見下ろされたけど、これって言ってもいいんだろうか? 相談できる友達も、いるにはいるが。アイツは口軽いしな。小六の弟に相談するオレって……。

 苦笑いに口を歪める。藁にも縋りたい気持ちとは、この事かもしれない。

 コップに注いだ牛乳を一気飲みしている弟に言う。

「付き合ってない。柚佳には篤っていう好きな奴がいて……。オレは篤を落とす為の、キスの練習相手になったんだ」

 陽介は冷蔵庫の扉へ盛大に牛乳を噴いて咽せた後、鼻からの滴りを手で拭いながら顔を向けてくる。

 さっきより大きな声で、聞き返された。


「は?」


「あーあ」

 寝転がっていた状態から起き上がる。台所へ行き、干してあった台拭きを取る。冷蔵庫の扉を拭こうと手を伸ばしたところ突如、肩を掴まれる。

「何で、そんな事になってんだよ!」

 陽介が疑問に思うのも無理はない。オレも、よく分からない内にそうなった。
 
「何だよ、キスの練習相手って……。柚姉ちゃんは……、本当に柚姉ちゃんは、その篤って奴の事が好きなのか?」

「ああ。本人が言ってた」

 オレが頷くと。弟は眉をひそめて、自らの顎に指の関節を当てる。何かを考えている様子に見える。


「……海里。これはオレからの忠告だ。柚姉ちゃんに告白しろ! 今すぐに」

「は?」

 急に何を言い出すんだ?
 弟を見る。

「いいから。行けって!」

 ぐいぐいと背中を押されて、玄関から外に追い出される。

 ドアの外に出る際、左手に持っていた台拭きを奪われる。代わりに、オレのいつも履いているスニーカーを握らされる。ドアを閉められる。カチャンと、鍵のかかる音が響く。

「ちょ……何で?」

 呆然と、ドアを見つめる。

 遠くで、時を告げる鐘が鳴っている。
 十八時の夕暮れは。真夏だった先月に比べると、夜の色に近い。

 訳も分からないまま。スニーカーを履いて、アパートの階段を下った。



 柚佳の家は、同じアパートの下の階にある。古ぼけた二階建てアパートの、一階の角部屋。位置的にはオレの家の、真下の部屋だ。

 さっき、柚佳を伴って家に帰った時に。制服の上着を脱いで、ネクタイを外していた。今は灰色のズボンに白のシャツという出で立ちでいる。柚佳の家の前まで来て、外していたシャツの一番上のボタンを留める。

 一呼吸置いて、チャイムを鳴らす。



「はーい! あら、海里君!」

 ドアを開けて顔を出したのは「柚佳のおばちゃん」……つまり、柚佳の母親だ。今年で四十二歳とか言っていたけど、三十代くらいに見える。パーマのかかったような茶色の髪を頭の後ろ低めで一つに結んだ髪型で、けっこう毛量が多い。少しだけ、ふっくらした体型で。紺のジーパンに白のTシャツ、その上から黒いエプロンという格好をしている。大きめの黒縁眼鏡が印象的だ。


「こんばんは。柚佳いますか?」

「うん、ちょっと待ってね。柚佳ー! 海里君よー!」

 おばちゃんが大きめの声で、柚佳を呼んでくれる。

 奥の部屋からパタパタと足音がして――。
 少しだけ姿を現した柚佳に、オレの目は釘付けになる。

「海里、どうしたの? ちょっと待ってて、着替えるから。少し待ってて!」

 慌てた様子の彼女は、すぐに奥の部屋へ引き返す。

 ……膝上までの丈の、青っぽいショートパンツに。白地のダボッとしたTシャツ。九月とは言え、まだ暑いし。オレも家では、半袖を着ている。

 目に焼き付いたのは、綺麗な白い脚。

 普段目にする彼女の私服は、膝下くらいまであるスカートやジーパンが多い。そのせいだろうか。何か、見てはいけないものを見てしまった気持ちになる。

 五分くらいして、柚佳が出て来た。

「お待たせ! 家の中が、ごちゃごちゃしてて汚いから。外で話そう!」

 今度は濃い青のジーンズに、水色で大きめのパーカーを着ている。スッと伸びた長い脚が隠されてしまい、少し残念に思うが。これでいいのかもしれない。世の男どもには目の毒だ。ほかの奴は、絶対に知らなくていい。

「あ、じゃあさ。小学校の近くに、公園あったじゃん。あそこに行ってもいいか? ちょっと遠いけど……話があって」

「う、うん」

 突然、訪問したからだろうな。柚佳も戸惑っているように見える。



 夕闇に包まれる喧騒の町を歩く。ゆっくりとした道行。彼女のスピードに合わせる。

 柚佳を連れ出したはいいが、酷く困惑している。

 陽介に言われて、告白する流れになったけど。気持ちが追いついていない。そもそも何故、陽介は急に告白するよう言い出したのか。「キスの練習相手」という、ふしだらな関係はやめて……男らしく告って、散って来いって事なのだろうか。

 それとも。陽介はオレの知らない事実を、何か知っている……?

「ねえ」

 考え込み、無言で歩いていた時。柚佳に声を掛けられて、顔を向ける。

 ハッとする。

 何とも表現しにくい瞳で、見つめられている。
 彼女の口元には、微笑みが浮かんでいるのに。どこか、悲しげな気配を感じる。

 どくん、と。一際、大きく胸が鳴る。


「私、負けるのが嫌いなの。知ってるよね?」

「お、おう」

 急に何の話だ? よく分からないが、相槌を打つ。


「意地悪されたら当然、仕返しするの。知ってるよね?」

「おっ……おう」

 柚佳は、昔からそうだった。幼稚園の頃から。彼女の気分を害しようものなら、相応の報復が未来で待つと刷り込まれるくらいには……トラウマがある。


「そういう事だから。覚えてなさいよ!」


 少し怒った物言いを残して先を行く幼馴染の、後ろ姿を見つめる。

 何に怒っているのか、見当がつかない。そんな状況でも。彼女の仕草が可愛いと思ってしまうのは、重症だと思う。

 こんなに好きなのに。振られたらオレ……どうなるんだろう。きっと耐えられない。