家の前まで来た。傘を柚佳に渡し、玄関の鍵を開ける。
「ただいま……」
「お邪魔しまーす」
いつものように家族は、まだ帰っていない。父は仕事。母はパート。弟は学校帰りに、友達と遊んでいるのだろう。
「これ、借りるね」
居間に部屋干しされているタオルを、慣れた手付きで外して。オレの頭やら肩やらを拭いてくる。
「よかった。思ったよりも濡れてない。制服、脱いで。ハンガーに干しておくから」
「大丈夫。自分でする。着替えて来るから、少し待ってて」
隣の部屋に移動して、上着とシャツを脱ぐ。
「お待たせ」
部屋着に着替えて、居間に戻る。下はカーキ色の、やや大きめのズボンで。上は、くすんだ水色のトレーナー。いつも、家で着ているやつだ。特にトレーナーは、着た時の肌触りがよくて。色違いを、もう一枚持っている。
今しがた開けた襖を閉めて、振り向いたところで。居間の畳に正座している柚佳と、目が合う。
「制服じゃない海里、久しぶりに見た」
柚佳が微笑む。彼女の笑った顔は。心に春の木漏れ日が降るように、オレの気持ちも明るくしてしまう。
「その服、着心地がよさそうだね」
隣に腰を下ろすと。トレーナーの素材を確かめたい様子で、腕の布を摘んでくる。
「着易くて。ずっと、こればっかり着てる」
「私も、こういうの欲しいな」
服を見ていた柚佳が、不意に顔を上げたので。近距離で、瞳を見合わせる姿勢になる。
先に相手が、視線を逸らす。
「えっと……」
間近での呟きが、耳を刺激してくる。後方へ身を離そうとする彼女の、腕を掴む。
「嫌?」
視線を上げずに聞く。
「……や……じゃない……」
「本当に?」
念押しする。もう一度、瞳の奥を覗きながら。
腕を掴んでいた左手を、滑らせる。畳に、彼女の右手を縫い留めるように。上から握る。花弁のように色付く唇へ、浅く口付ける。
「キスや、その先の事も……。篤とは、してないよね?」
ずっと抱いていた疑念が、はっきりと言葉になって漏れる。
柚佳の双眸が。今までに見た事がない程に、大きく開かれる。
さっき、外で話していた時の彼女の態度から。それはないと、分かっていても。
信じたいけど。どうしても気になってしまう。
柚佳は可愛いから。二人切りになったりしたら、男が放っておく筈がないと。変な考えが、頭を過る。
やがて。相手の目が、ニヤニヤするように細まってくる。
「フフッ。どうしよっかな。ここは敢えて、言うのはやめておこうかな?」
嬉しそうな素振りに、閉口する。恐らく彼女は、篤とは何もないのだろう。オレが気にしているのを喜び、浮かれている雰囲気を感じ取る。
「柚佳は。自分が可愛いという自覚が、薄いのではないか?」と。思う時が、たまにある。
「何なの。言って」
不満顔をして、話の先を促す。しかし、彼女は。にっこりと笑い、逆に挑発してくる。
「いいけど。キスで私をイチコロにできたらね。そしたら海里の言う事、一コ聞いてあげる。反対に。私が海里をメロメロにできたら。海里が、私の言う事を聞いて!」
「何それ」
思わず、笑ってしまう。
何を基準に勝敗を決めるのだろう。どちらかが、負けを認めるまでとか? 既に。柚佳にメロメロになっているんだけど。これ以上、メロメロにされる訳? 最高だな。
それらの思考は表に出さずに、微笑んでいる。
ただ「キスがしたい」と、おねだりされているだけの気もするが。それにしても、煽り過ぎだろう。
やんわりと微笑んだまま、窘めようとしていた筈なのに。鋭く見返す。
「生意気」
唸り声のように低く、挑発に応じていた。
左手で押さえていた、彼女の手を握る。持ち上げて、掌同士が触れる。瞳を見交わしたまま。指の一本一本を、絡め合わせる。握り合う手を引いて、導く。
挟んだり、舐めたりして。弄ぶ。浅く深く……短く長く。探り合う。
戯れは、熱量を増し。引き返せないところまで来た。もう、勝負の事なんて頭になかった。
ゆっくりと。柚佳を仰向けにし、覆い被さる格好で。キスを続ける。お互いの中にある愛を、確かめ合うように。一心に。
オレの強い望みが、次第に切迫して。吐息と共に、唇を放す。懇願するように見つめてしまう。
柚佳が笑う。どこか熱っぽさのある、微かに虚ろな瞳で。
「海里。好きだよ」
片想いだった時にはあった、心の空洞部分が。大切なもので満たされたような、泣きたい気分だった。
「オレも」
上手く言葉が見付からなくて、簡素な返事になる。掌で白い頬をなぞる。
いつも会う、場所と時間に。いつもと違う事をしていた。現実味がない。雨音が遠くでしてる。
この日のオレたちは。キスの先にある道を、少しだけ進んだ。
二人の気持ちが、通じ合っていると認識し。一旦、落ち着いたら。別の焦りが訪れる。
今の今まで、時間なんて忘れていたけど。さすがにもう、陽介も帰って来る頃だと慌てる。
「この勝負。オレの勝ちだよな?」
思い出して。ニヤッと笑って見せる。
「な、何で?」
柚佳が驚いた顔をした後に、頬を膨らませている。頭を撫でて、抱きしめる。
「分かってるくせに」
意地悪く笑って、囁く。
「……~~~~」
相手はオレの胸に顔を埋めて、不満があるように唸った。
キスしている時に、更にメロメロにされたのは。秘密だ。
「言う事を聞いてくれるんだよね? そうだなぁ……」
篤と柚佳の『関係』について聞くか、篤が柚佳にした『お願い』が何だったのか聞くか……あと、柚佳が持っていた『写真』についても気になるな。どれを尋ねよう?
悩みながらも。決断する。
「篤とお前の関係について、はっきりと教えてほしい」
顔を向けてきた柚佳は。納得していない目をしている。
「ダメ。教えない」
「何で? 約束と違うじゃん」
「海里の言う事は、もう聞きました」
「は? 何を……」
「よく思い出してよ」
……もしかして。さっきの事? 今までの人生で、最高の時だったから。何も文句が言えない。
「くうっ」
悔しさに歯噛みする。柚佳がニヤリと笑う。無理やりに勝利を我が物にした、仕返しをされたようだ。諦め切れずに言い募る。
「じゃあ、篤の事じゃなくて。『写真』の事は? 柚佳が持ってた、あの『キス偽装写真』! 誰から渡されたんだよ」
「あ、それ?」
何故か、顔を逸らされる。彼女のぎこちない、不自然な仕草を目にして。脳裏を過った場面がある。今朝の……。
「まさか……?」
「あの写真、桜場君にもらったの」
「あの野郎!」
怒りに。歯軋りを強める。慌てたように付け足してくる。
「桜場君は、心配して教えてくれたの。……でも、本当は。私の心を、折りたかったんだと思う」
彼女は、言葉の後半に。暗い顔で俯いている。
「許せねぇ!」
「あっ、でも……! 桜場君は。本当は、いい人なんだよ!」
再び顔を上げ、必死な様子で。篤を弁護する柚佳に、違和感を覚える。
「柚佳……。何で、そんなに。篤の事、庇うんだよ」
「えっと、それは……」
口籠もった彼女へ問う。
「また。言えないの?」
さっきまで、最高に幸せだったのに。急に奈落に叩き落とされたような感覚を味わう。篤と柚佳の秘密が、ここまで胸に応えるとは。
「桜場君と私は……似てるところがあって」
「何それ」
冷ややかに呟く。語尾は低く消えた。
イライラする。柚佳の口から、他の男の話など。聞きたくない。
目付きも悪い自覚がある。彼女の顔が、見る見る悲しそうに歪む。
そんな顔を、させたかった訳じゃないのに。
不甲斐ない自分にも、腹が立つ。どす黒い感情を、どうする事もできない。
「帰るね」
言い残して、彼女は部屋を出て行った。
夜中。考えるのは、柚佳の事ばかり。柚佳と篤、二人の関係について。
邪推してしまう。よく分からないからこそ、酷く。
柚佳……。
彼女と篤の仲が、オレとの仲よりも深かったら。きっと、耐えられない。篤を殺したい程に、憎むかもしれない。
そんな最悪で、胸糞の悪い想像が。簡単に。思考を支配している。
来週には、試験がある。このままだと。勉強も手に付かないし、精神的にもよくない。
「そうだ……」
ある考えを思い付く。ほかの事を、あまり考えないようにする。瞼を閉じる。今は朝の四時だから、あと二時間……眠れるかもしれない。
予定より早く目が覚めて、学校へも早めに行った。
同じクラスの奴は、まだ誰も来ていない。
いつも朝早い時間に登校しているらしい、アイツを待っている。
足音が近付いて。振り返る。教室へ入って来たのは。見慣れた背の高いイケメン、篤だった。
「篤……聞きたい事がある」
険しい視線を送る。篤は少し驚いている様相で、目を大きくしている。だが、すぐに。ニコッと微笑んでくる。
「そう。俺も沼田君に。聞いてみたい事がある」
教室へは他の生徒も、ちらほらと登校して来ている。場所を移す。柚佳がよく休憩場所にしていた……屋上の扉前にあるスペースへと、階段を上る。
「で、何? 聞きたい事って。ああ、もしかして。一井さんの事?」
笑みを作った顔で、篤が切り出す。笑顔の裏の、本心が読めない。不気味さすら感じる。
「篤……。お前と柚佳は。一体、どんな関係なんだよ。教えてくれ。頼む」
頭を下げる。
「……なるほどね」
篤の相槌から。何かに納得したような、妙なニュアンスを感じる。
もう、考えるのも疲れた。もしも、最悪の真実が待っているとしても。受け止める。本当の柚佳を見つめて。それからの事は、話し合って決めればいい。
「一井さん……俺たちの事を、喋らなかったんだ。へぇえ」
「『俺たちの事』……」
愕然として呟く。覚悟して来た筈だった。けれど。やはり二人には、何かあるような物言いに。心臓が早鐘を打つ。
篤は微笑んでいる。そして、その口が。悪魔の如き提案を紡ぎ出す。
「教えてもいいけど。一井さんを俺に、譲ってくれるならね」
思考が真っ白に染まる。人は怒り過ぎると、逆に心凪ぐものなのだろうか。
「ぃ……やだ……」
小さく意志が漏れる。軋み合わせる歯の合間から。
篤が、やっと。笑みを消した。何を考えているのか分からない、虚ろにも思える瞳を向けてくる。
「ふーん? 一井さんでいいの? 君に隠し事をしているような人だよ? 君にはもっと、見合う人がいるんじゃないの?」
「嫌だ、絶対……! 柚佳がいい……!」
奥歯を噛み締め、篤を睨み付ける。少し笑う雰囲気で、溜め息をつかれる。
「お前こそ、何で柚佳なんだ。お前なら、言い寄る女子なんて。山のようにいるだろ? 何で、柚佳なんだよ……」
感情のままに、篤に詰め寄る。
「さあね。君なら分かるんじゃないか? 何で、一井さんを選んだの? 幼馴染だから? 幼馴染だったら、他の子でもよかった?」
やや眉をひそめる表情で、微笑してくる。
「オレは……柚佳が……。…………柚佳はもう、オレの人生の一部……いや、大部分なんだ。身体の一部のように。もがれたら辛くて、生きていけない」
頬を落ちる雫に漸く、自分が泣いているんだと気付く。
「わっ! なっ? ……誰にも言うなよ」
腕で、それらを拭い取る。恥ずかしさを誤魔化す為に、篤を睨む。
オレの睨みも、全く効いていない様子で。篤が笑う。
不思議と。その笑顔は、篤の心からのもののように思えた。
「それより。沼田君……君、誰かの恨みを買うような事をした? 俺の下駄箱に、君と一井さんじゃない女子がキスしてる写真が入っていたから。一井さんに、こっそり渡してみたけど」
悪びれもしていない、いつもの少しマイペースな調子で告げてくる。

