ゆっくりと、花山さんが柚佳を見上げる。緩慢な動きで再び前を向き、机の上に視線を落としている。その表情は意外にも穏やかで、微笑むように少しだけ口角が上がったのが見える。
「知ってたよ? 沼田君が私の事を好きじゃないのも。柚佳ちゃんが沼田君を好きなのも。沼田君が……柚佳ちゃんを好きなのも」
花山さんが、小さく笑いながら言う。
「フフフ。あーあ? 振られちゃったぁ」
立ち上がって背伸びをした彼女は、清々しく輝く如く破顔する。
「お互い辛いねぇ……桜場君?」
何故か急に。彼女は篤へ話を振る。
成り行きを窺う様相で静かだった篤の、双眸が細まる。顎に指を当てて、口元だけで作られた笑顔が。いつもの爽やかなイメージと違い……RPGとかに出て来る強敵の、不気味な笑みを彷彿とさせる。
「なるほどね。あの『情報屋』は、もしかして……花山さんの差し金? 俺が振られて、満足?」
さも面白そうに。篤がクツクツと笑っている。
「まぁ、何の事かしらぁ?」
花山さんが言う。とぼけているような、わざとらしい口振りで。
椅子に座り直した彼女は、机に右腕で頬杖をつく。ニコニコしている花山さんと同様に、微笑みを浮かべて。ゆったりとした動作で歩み出した篤が、花山さんの側で立ち止まる。机に片手をついて上半身を屈め……彼女の頭の近くで、声を潜めて問われた言葉は。けれど、よく響いた。
「花山さんって本当に、沼田君が好きだったの?」
花山さんがフフッと笑い「あら、嫌いなように見えた?」と答える。篤は身を起こして首を竦めている。
「いや……。確か、二週間後が花山さんの番だったから。気になってさ」
「まぁ。覚えててくれたなんて。光栄だわ」
花山さんがパッと、花が咲くような笑顔を見せる。
二人の会話を、教室の出入口付近で聞いていたオレは。少し考えて思い至る。
ああ……花山さんは、二週間後に。篤の「一週間限定彼女」に、なる予定だったのか。
「じゃあ、何で篤じゃなくて。オレに言い寄ってたんだ?」
思わず、疑問が漏れる。花山さんが笑う。
「フフフ。桜場君は柚佳ちゃんの事が好きかもって、前から女子の間で噂になってたんだ。でも、柚佳ちゃんは沼田君が好きっぽかったし。沼田君は柚佳ちゃんが大好きみたいだったから、大丈夫かなって思ってたんだけど。いつまでも二人がくっつかなかったら、桜場君と柚佳ちゃんがくっつくじゃん! って、焦ってるところへ。沼田君からラブレターをもらっちゃったのよね、何でか私が」
「オレは書いてない!」
強く言っておく。苦笑いされた。
「その時は、まさか偽物とは思わなくて。悪い考えが浮かんじゃったの。桜場君を柚佳ちゃんに取られるんだったら、私は沼田君を取っちゃおうって。でも沼田君の反応を見たら、ラブレターが偽物だって分かった。沼田君誘惑作戦は失敗して、怪我の功名で二人がくっついちゃって。桜場君には、本当にごめんね?」
右頬の下に手を合わせて、可愛く「ごめん」のポーズをしている花山さんに。女子の恐ろしさを、感じずにはいられなかった。
「ああ、大丈夫だよ」
篤は平然と微笑む。
「一井さんへした告白の返事は、来週もらう予定だから。それまでに、沼田君より俺を好きになってもらえばいい話だよね? ちょうど『今日、一緒に帰ろう』って、一井さんに誘われてたところだったんだ」
悠然と笑う篤の台詞が、耳に木霊する。
「ね?」
篤が隣にいる柚佳に顔を向け、優しげな声音で確認している。下唇を噛んで俯いていた柚佳が、篤を見る。この世の終わりを告げられたかの如く悲愴な表情で、彼女は口を開く。
「桜場君、ごめん。さっきの、なしに……」
「できないよ。一井さんから言ってきたよね。一度だけしか使えない『お願い』を使ってまで、頼んできたでしょ?」
俯いた柚佳を、声もなく見つめる。
『お願い』?
篤と柚佳の、二人の間でだけ通じる会話だと分かって。頭に血が上る。
「篤。柚佳は、オレの彼女だ」
「今は、ね」
横目で一笑された。
「篤っ!」
どす黒い感情に、中枢を支配される如く。突き動かされる。
声を上げて走り出す、直前に。邪魔される。後方を、睨み付ける。
「和馬、放せよ」
脇の下から腕を差し込まれ、肩を押さえられている。振り払おうと動く。
「どうどう。やめとけ。そろそろ、先生来るって。あーもう! 美南ちゃーん、助けてー」
「ちょっ、和馬っ! その呼び方、やめてって言ってるでしょ! って、わわっ! ち、違う違う!」
後方にいる和馬が、花山さんに助けを求めている。普段と呼び方が違った。酷く慌てた様子の花山さんが注意していたけど。彼女の口調も、いつもの『柳城君』ではなく『和馬』と呼び捨てだった。
「ちっ」
花山さんが舌打ちした。
「桜場君、柚佳ちゃん。私も、一緒に帰りたいなぁ。いいよね、いいよね?」
元の花山さんの声に戻った。いつものように可愛い素振りで、柚佳に微笑み掛けている。
瞳に希望が差すように……少しずつ、柚佳の表情が明るくなる。
「うん!」
柚佳が返事をする。瞬きで輝いたのは、涙だったのかもしれない。
「あっ。じゃあ、俺も俺も!」
どさくさに紛れて、和馬が主張する。
心底、呆れて。物凄く睨み付けたいんだが。肩を押さえられていて、振り返れない。
両手を後ろへ伸ばす。恨みを込めて、側にある脇腹をくすぐる。
「ぬおっ?」
相手がよろめく。オレを掴んでいた腕が離れたので、後方を睨む。
和馬は、いなそうとする雰囲気で。ヘラッと笑ってくる。
「はいはい。美南ちゃん、海里も仲間に入れてほしいって!」
「言ってない!」
透かさず否定する。和馬は明後日の方向を見て、聞き入れない。
「はいはい。強がり」
「なっ……!」
その時。廊下から足音が聞こえてくる。先生のものだろう。
「この話の続きは、放課後だな」
和馬が、そう締め括り。いつもと違う気配の漂う教室は、通常の授業風景に切り替わっていった。オレも一旦、感情を落ち着けて。大人しく着席する。
しかし。いくら普通に装っていても。心の中は、暗いままだった。どす黒くてドロドロした生き物を、身の内に飼っている気分だ。
左手に頬杖をついて、柚佳を睨んでいる。
普段の澄ましたものじゃない……元気のない様子で下を向く、その儚げで綺麗な顔を。………………酷く追い詰めて、泣かせたい衝動が湧く。
どうしたんだろう。いつものオレなら。笑顔にしたいとか、どんな顔も可愛いとか。思うとこだろ?
多分。この衝動を実行したら。柚佳に嫌われる。
……けれど。
その先にいる彼女を、見てみたい気がするのだ。
「海里」
放課後になって。オレの机の前に、柚佳が立つ。前髪の隙間から、目だけで相手を見上げる。
視線が合う。相手の表情が、ハッと強張る。すぐにフイッと。瞳を逸らされる。
斜め下を向いたままで、彼女は喋り出す。
「桜場君と一緒に、帰ろうとしていたのは……」
「分かってる。オレが花山さんとしていた、放課後の約束に対する『仕返し』だろ?」
落ち着けた心で、平静を装う。薄く微笑んで見せる。柚佳がオレの目を見る。
「それもあるけど。……私、どうしても海里を取られたくなくて! 美南ちゃんと一緒にいたら、私なんかよりも……美南ちゃんを選ぶよねって思って。桜場君に協力してもらった。海里に、やきもちを焼いてほしくて。私と桜場君の仲を心配して、美南ちゃんとの約束をやめて……私と帰ってくれるかなって……期待して」
「そう」
一言、ニコッと笑い掛ける。落胆を悟られないように。柚佳の声は、オレの心には届かない。オレの言葉も届いていなかったから、お相子だ。
「海里。やっぱり、怒ってる?」
柚佳からの質問には、答えないで。微笑みながら。話題を変える。
「ねぇ。篤が言ってた『お願い』って、何の事? 柚佳から篤に、してるみたいだったけど。じゃあ……篤からの『お願い』も、あるのか? ……それとも。もう、あったの?」
問い掛け、鋭く窺う。
「そ、れは」
「かっえろーぜ!」
柚佳が曇った表情で、何か言いそうだった時。後方から和馬が来た。強めに背中を叩かれる。
この男のタイミングの悪さに。悪意があって、わざと邪魔しているのではないかと考えてしまうくらいには。イラッとする。
「花山さんと帰れる……っ! 海里。持つべきものは、友達だなっ!」
感激を表す如く。和馬が目を閉じ、両手を合わせる。
隣の席にいる花山さんから、大きめの溜め息が出る。頬杖をつき、どこか脱力した姿勢の彼女は。オレたちのやり取りを、白けた目で眺めている。
「今更やめてよ。『花山さん』なんて。白々しい……。もう皆に、バレちゃったんだから。私の本当の性格も含めてね」
投げ遣り気味な口調の花山さんに、和馬が小さく笑む。
「俺は、そのままの……美南ちゃんの、全部が好きだよ」
「はいはい。誰にでも言うんでしょ。もうアンタなんか、好きにならないんだから」
和馬の告白が、あっさり躱された……と。少し哀れに思っていたのだが。最後に付け加えられた発言に、目を瞠る。驚いた。クラスが一瞬、しんと静まったので。皆、気付いたんだと思う。柚佳が尋ねる。
「美南ちゃん、もしかして。柳城君と、付き合ってたの?」
「もうだいぶ前よ。中三の時に、こっそり……って……え……? まさか。そこまで……付き合ってた事までは、バレてなかったの? ……あああ~~~」
自ら口走る失態を嘆き、頭を抱えながら机に突っ伏している姿を目の当たりにして。考える。いつもの、お淑やかで可愛らしいイメージの彼女よりも。こっちの花山さんの方が、好感が持てそうな気がする。
「お待たせ」
篤が揃って、五人で下校した。
和馬の家は、学校の近所にあるらしい。一旦……鞄を置きに行った和馬と、すぐにまた合流する。花山さんがバスに乗るまで、付いて来るつもりなのだとか。
普段バスに乗る、最寄りのバス停は通り過ぎる。篤は歩きで帰れる距離に祖父の家があり、今はそこで暮らしていると言っていた。今日の帰りのルート的には。篤の祖父の家の前で、篤と別れ。いつもバスを降りている小学校前のバス停付近で、残りのメンバーは解散という流れになる。もちろん……オレと柚佳は住むアパートが同じ建物なので、最後まで一緒だ。
以前、柚佳と通った……細い階段の道じゃない、別の坂道を。他愛ない話をしながら下る。主に和馬が、よく喋っている。花山さんを笑わせたい様子で。話し掛けては、冷たくあしらわれている。オレの前を歩いている、篤と柚佳の会話も聞こえる。
「一井さん。俺の『お願い』……覚えてる?」
柚佳の肩が一瞬、不自然に揺れる。
「覚えてるけど……」
「なら、いいんだ」
篤が柚佳を見て、微笑む。
オレは今回、わざと。柚佳の隣に並んで歩くのを拒否した。いつもなら、譲らないところだけど。
身体の内に燻る怒りは、まだ治まっていない。どうやったら静まるのかも、自分でも分からない。
柚佳と篤のイライラするツーショットを見ながらの、虫唾の走る会話を聞きながらの下校は。オレを最悪の気分にした。
篤の祖父の家が見える。立地もよく、立派な造りで庭も広い。明らかに金持ちの家という印象だ。
「じゃあ、また明日。学校で」
篤がオレたちに微笑んでくる。オレとも目が合う。奴の微笑に、余裕みたいなものを感じて。また……癪に障る。睨んで呟く。
「……行こう」
篤に見せ付けるように、柚佳の手を引いた。

