キスの練習相手は幼馴染で好きな人【改稿版】


 誤解を解くなら、早い方がいい。これ以上、事態がややこしくなる前に。

 昼食を手早く済ませる。ちょうど柚佳たちの女子グループも、移動させていた机を元の位置に戻しているところだった。運び終わり、椅子に座ろうとしている柚佳の横に立つ。

 彼女がオレを見る。相手の顔に、どのような感情が浮かんでいるのか怖くて。思わず右下に視線を逸らす。

「少し話がしたい。……いいか?」

 聞いてみたけど。柚佳が黙っているので、恐る恐る……相貌を確認する。

「……っ」

 言葉を失う。心臓が痛くなる。
 憎悪の籠もるような目付きで、睨まれている。想像以上に、傷付けていたんだと知る。

「丁度よかった。私も話があるの。――来て」

 手首を掴まれる。

「え、あ、う、うん……」

 戸惑いながらも、引っ張られるままに歩き出す。

 教室前方の席の子と喋っていた花山さんが、こっちを見ている。柚佳を。柚佳も彼女たちの横を通る時、花山さんを見ていた。
 けれど、言葉を交わす事はなく。オレたちは教室を出る。

 柚佳に手を引かれる格好で、廊下を進む。

 廊下にいる他のクラスの奴らが、何事かとこっちを向くが。彼女は気にする素振りもなく。らしくない、少し荒っぽい足取りで廊下を抜ける。

 学校では、あまり感情を表に出さず……目立たないように振る舞っている様子だった柚佳の。この変化は、何を意味しているのだろう。


 階段を一番上まで上った。屋上への扉の前に、踊り場くらいのスペースがある。
 ドアの上にある明り取りの窓と、下の踊り場にある大きめの窓からの外光で。そんなに暗くない場所だ。

 ここまで来て。一つの可能性に、思い至ってしまう。

 もしかして……オレ、愛想つかされた? 振られる?

 柚佳が手を放した。胸の内に不安を渦巻かせていたオレは、離れたばかりの彼女の手を掴む。

 もう一度、柚佳の顔を窺う。さっきまで見えていた、怒りの表情は隠されている。少し不快そうに、繋がれた手へ視線を落としている様子に。事の重大さを痛感する。

 ……嫌われた。

 でも。掴んだ手を、離す事ができない。柚佳を手放すなど。考えられる筈もない。

 やっと手に入れた、オレのものになったと思っていた……彼女の心。嫌われても「別れよう」と言われても。絶対に別れない。留まってくれるなら、惨めに縋っても。何をしても。

 覚悟を決めた時、掴んでいる手を振り払われた。驚いて、目を見開く。まさか柚佳が、そこまでするとは思っていなかった。呆然と、払われた右手を見る。

「海里。私に言う事はある?」

 穏やかな口調だった。怒りを堪えるように、暗い瞳で聞いてくる。その迫力と極度の緊張で、唾を飲み込む。

 何と言うのが、正解なんだろう。繋ぎ止めるには。
 迷ったけど、率直に言う。

「別れたくない」

 相手の目が、大きくなる。「フフッ」と、微笑まれる。
 刹那。オレの背中に、今までに感じた事のない悪寒が走る。すぐに『間違えた』のだと悟る。

「自分のした事は、分かってるんだ?」

 笑みに、細めた目を向けてくる。

「えっ……と、花山さんの事だろ? 今日、一緒に帰れなくてごめん。今日だけだから。次は絶対、ことわ……」

「跪いて」

 オレが喋る途中で、柚佳が声を荒げる。

「え……」

「今すぐ、ここに。跪いて」

 困惑しているけど。指示に従って、膝を突く。壁を背に、膝立ちで彼女を見上げる。

 柚佳は微笑んでいる。さっきまでの、怒りを隠すような笑顔とは違う。泣くのを我慢している様子にも見える。澄んでいて……慈悲深い女神にも思える美しさがある。

「足りなかった?」

「え?」

「キス」

 何を聞かれているのか理解が及ばず、小さく首を傾げる。

 相手は自らの制服のポケットから何かを取り出し、近くの床へ落とす。くしゃっと、握り潰された紙。

 ……写真。

 見なくても分かる。あの写真だ。頭の中が真っ白になる感覚を味わう。
 何か言わないと。否定しないと。でも、何て言えばいい?

 柚佳がポニーテールを解く。潤んでいる瞳に、視線を囚われる。しなやかな髪が頬に、さらりと触れる。唇が合わさる。


 柔らかく這われる。

 一刻も早く、誤解を解きたいと思いながらも。柚佳からの熱に浮かされる。

 写真の件を、知られてしまった。失望されたと思う。
 なのに。何故だ? 何でキスしてくるんだ? 分からない。…………まさか? 最後のキスではないよな?

 ゾッとして、目を見開く。

「柚佳っ」

「だめっ」

 僅かに息をする瞬間を見計らって、真意を問おうとした口を。再び塞がれる。

「何も言わないで」

 頬に雫が落ちてきて、彼女から目を離せなくなる。
 されるまま、応えないオレを咎めるように。唇の端を、甘く咬まれた。

 重なりが解かれる。見下ろしてくる瞳が切ない。逸らさずに見上げる。

 何も言葉を発しないのは、先程「何も言わないで」と願われたからだ。これでは気持ちを聞けないし、弁解もできない。反抗的な眼差しを送る。

 笑い掛けてくる。

「授業が始まるから、もう行こう?」

 彼女が、オレから離れて行く。

「安心して。今日は、美南ちゃんと約束があるんでしょ? 止めたりしないから」

 優しい笑みを向けられる。
 階段を下って行く後ろ姿を、無言で見守る。踊り場から見上げてくる。

 残された言葉に、心を打ちのめされる。

「あっそうだ。私も今日は、桜場君と一緒に帰るから」




 授業中、机に突っ伏している。何度か、平尾先生に教科書の角で頭を小突かれたけど。あまりに傷付いていて、何も反応できなかった。

「起きろー」

 言いながら。横を向いているオレの顔を、覗き込んでくる。
 視界に入ってきた先生が、目をギョッとさせて仰け反る。オレが泣きそうな顔をしているからかもしれない。

「な、何だ何だ。俺は何もしてないからな? 起きてるなら、ちゃんと授業を受けろ」

 平尾先生が授業を再開した。オレも何とか身を起こして前を向く。けれど……頭の中は、柚佳の事でいっぱいだった。

『柚佳と篤が。一緒に帰る?』

 思考が、ぐるぐると巡っている。

 きっと、これは。柚佳なりの『仕返し』だ。オレがしてしまった、花山さんとの約束に対する。

 …………じゃあ。あの『写真』に対する『仕返し』は?

 考え至って、背筋が凍る。思わず柚佳を見る。

 彼女は授業を受けている。いつも通り。
 今は眼鏡を掛けていて、さっき解いていた髪は垂らしたままにしてある。水色のシャーペンを口元に当て、熱心に黒板を見つめている。

 オレの視線にも一切気付かない様子で、胸が潰れる。

 身から出た錆とは言え、こんなの酷過ぎるだろ。

 柚佳に黙っていたのは、悪手だったかもしれない。でも実際に、あの黒髪の子とはキスしていない。それなのに『仕返し』される筋合いはない。

 「花山さんに頼んで『約束』を、先延ばしにできないか?」と、思い付く。根本の解決にはならないと、首を横に振っているところで。ハッと……重大な事に気付く。

 既に写真の件は、柚佳にバレている。花山さんと約束してしまったのは、その件で脅されていたからだ。もうバレているので、花山さんとの約束を守る必要はない……?

 表情が明るくなるのを感じる。スキップしながら、踊り出したい気分だ。花山さんに断りを入れて、柚佳に説明して。篤との下校を、考え直してもらう。希望が見えた。

 そう言えば柚佳は、あの写真をどうやって手にしたんだろう。花山さんはオレとの取引材料にしているから、渡さないと思うし。

 ふと……朝、篤が柚佳を呼び出していた場面が浮かぶ。まさかな。

 とにかく。まずは、花山さんの約束を断る。……あ。昼休みに渡されたの、何だったんだろう。

 軽い気持ちで左ポケットに手を差し込み、折り畳まれた紙を取り出す。開いて見ると。水色とピンクの花模様の入った、可愛らしいメモ紙だった。

 一度、目を通して……もう一度、読み返す。書かれてある内容に、頬を叩かれたような衝撃を受ける。


『キスしてた子と、会わせてあげる』





 次の休み時間。柚佳が席を立って、こっちへ来る。

「ゆ……」

 顔を上げて、声を掛けようとした。けれど、彼女は。オレの机の前を、通り過ぎる。その行先は。左後方の……窓際にある、篤の席だった。

 …………分かってた。

 内心で強がり、皮肉を込めて自分を嗤う。
 オレのしなければならない事が、明確に決まった。


 立ち上がり、花山さんの机の前へ歩む。重ねたノートを整えて、次の授業の準備をしている彼女と目が合う。

「海里君。さっきの授業中、あのメモを読んでくれてたね」

 ふわっと、花が綻ぶように可憐な微笑みをくれる。

「ああ」

 笑みを返す。右手に握っていた、件のメモを広げる。

「『キスしてた子と、会わせてあげる』って、書いてるけど。本当に?」

「ええ、任せて。彼女とコンタクトを取れるわ」

「彼女、何者?」

「それは……。詳しくは、放課後に教えてあげる」

「分かった」

 明るく笑い掛ける。

「花山さん、ありがとう」

 花山さんの瞳を正面から見つめて、心を込めて口にする。彼女がくれたメモを掲げる。もう一度、目を通す。可愛い紙に、可愛い文字だと思う。フッと微笑む。


「でも、ごめんな」

 花山さんの目の前で、ビリビリに破く。細かくなったところで手から放つと、机上に花弁のように散る。

 いつの間にか、花山さんから笑みが消えている。硬直したような顔で見てくる。微笑み掛ける。

「花山さんは何か、勘違いしてるみたいだから教えるけど。オレは、その子とキスしてないよ。知らなかったの?」

 机に両手をついて、間近から。瞳を覗く。

「オレがキスするのは、その子じゃないよ」

 冷たく言い捨てる。

 上体を起こす。柚佳を窺う。柚佳もオレたちを見ている。彼女の傍に立つ篤も。周囲にいるクラスメイトの大半が。オレと花山さんを見て、ヒソヒソ話をする如くざわめいている。

 柚佳に「篤と一緒に帰らないでほしい」と、言いたい気持ちを。グッと抑える。

 背を向けた。

 ここは、居心地が悪い。少しの間……休み時間が終わるまで。別の場所にいよう。

 心の内に決め、廊下へ踏み出す。


「美南ちゃん、ごめん!」


 後方で大きな声がした。柚佳の。

 振り返る。

 呆然とした様相の花山さんへと歩む姿が、視界に入る。彼女は花山さんの左横で足を止め、泣き出しそうに歪めた顔をして打ち明ける。

「私、約束を破ったの。黙っててって言われた事、邪魔しないでって言われた事……守らなかったの。…………今、海里と付き合ってる。抜け駆けだし、卑怯だったと思うけど。でも、ごめんね。海里は渡せない」