花那と豪が帝都散策に向かう1週間ほど前。
その日、豪はいつものように軍本部の白く無機質な廊下を歩きながら、先日鬼道家に迎えた女性――花那の事を考えていた。
花那を鬼道家に迎えてから2週間余りが過ぎた。
突然花那を興津家から連れ出してしまったこともあり、心細いのではないかと気遣って、豪はなるべく花那と過ごす時間を取っていた。
と言うのも、花那が笑みを浮かべたのを見たことがないことが気にかかっていたからだ。
彼女は小さく控えめに微笑む時もあるが、憂いの色を帯びていることがほとんどだ。
花那はあの容姿のせいで興津家で虐待を受けており、心に深い傷を負っているようだった。
ただ、それだけではない何かを秘めているように豪には感じられた。
花那の瞳には虐げられていることに対する恐怖よりも、自分の気持ちを押し止めざるを得ないというような、強い意志を感じたからだ。
それが何かは分からない。
だが彼女は何かを隠している。
そんな気がしてならなかった。
(街に行って気分転換になるならいいんだが……)
豪はそんなことを考えながら参謀総長室に向かっていた。
すれ違う軍服の男達は豪の姿を認めると、彼らはすぐに廊下の端に避け、敬礼して豪が通り過ぎるのを息を止めて待っていた。
彼らの視線を気にすることなく豪は廊下を進む。
そして目当ての部屋まで来ると、先程の考えを一旦区切るように思考を切り替え、気を引き締めてドアをノックした。
「失礼します」
そう言って豪が参謀総長室へと入ると、窓辺に置かれた重厚な机に向かっている険しい顔の上司の姿があった。
彼は豪の上官である帝国軍参謀総長だ。
名を遠峰篤志と言い、白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけ、顎鬚を蓄えた容姿は、貫禄がある。
年齢は50歳を少し過ぎたところだと記憶しているが、その風貌は新人隊士を一睨みしただけで硬直させてしまうほど、畏怖を感じさせるようなものだ。
そして特徴的なのは左目に眼帯をしていることだった。
遠峯は豪の前に精鋭部隊の隊長をしていたのだが、任務で左目を負傷してから一線を退いている。
そんな遠峰に、豪は持っていた報告書を差し出した。
「こちら禍牛憑依事件の報告書をお持ちしました」
受け取った遠峯は難しい顔でそれに一通り目を通した後、小さくため息をついた。
「事件についての進展はなし、か」
禍牛憑依事件は、ここ数年豪達精鋭部隊が追っている事件だ。
帝都の地下深くには、古の頃より魑魅魍魎が封じられている。
これまでも結界から漏れ出た低俗な妖である禍牛は存在し、異能の力を持つ人間がそれらを人知れず封じてきたのだ。
だがこれらの禍牛は基本的に物に取り憑くことが多い。
古くからある家や身の回りの物に取り憑き、周囲に禍を振りまくのだ。
稀に人間に取り憑くこともあるのだが、最近はその人数が目に見えて増えているのだ。
帝都のあちこちで禍牛に取り憑かれた人間が犯罪を起こし、人を殺めることもある。
ただそれを軍が注視しているのは、禍牛に取り憑かれた人間が既に死んでいる人間だということだ。
最初は禍牛に取り憑かれ、その禍によって絶命したのだと思われていた。
しかし調査を進めると、その人間は既に亡くなっていたことが確認された。
半分腐乱したような状態で歩く姿が目撃されており、巷では「動く死体」などと噂が流れている。
それを軍では「禍牛憑依事件」と呼んでいる。
花那と出会ったあの日も、豪は禍牛憑依事件の捜査を行っていた。
あの周辺に禍牛に憑依された人間――つまり動く死体がいるとの話を聞き、調査と討伐に赴いていたのだ。
この報告書もその時の事をまとめたものだ。
読み終えた遠峯はふと報告書から豪の顔に視線を移した。
「この間の任務中で怪我をしたと斎藤から聞いたが、もう具合はいいのか?」
「大輝からですか?」
斎藤大輝は豪の直属の部下であり、この間の任務で行動を共にしてい。
あの時は追っていた禍牛に取り憑かれた動く死体は複数人いた。
それらに周囲を囲まれてしまい応戦したのだが、大輝は禍牛からの穢れを受けて動けなくなってしまった。
そんな中で禍牛に憑依された一人の男が逃走し、豪はその後を追ったのだ。
その時、豪の体も半分程禍牛に取り憑かれていたのを大輝は知っており、そのことを遠峯に伝えたのだろう。
「斎藤から聞いた話では、相手はかなり強力な禍牛で、お前の身にも多数の禍牛がついていたと聞いた。あんな状態でよく無事だったと斎藤が驚いていた」
遠峯の言葉に、豪の顔が僅かに強張った。
花那の憂いを滲ませた顔が不意に思い浮かんだからだ。
確かにあの時の豪は、そのまま放置していれば禍牛の穢れによって絶命してもおかしくない状況だった。
だが花那に介抱され、目を覚ますと体に纏わり付いていた禍牛が消えていたのだ。
花那が何らかの対処をしたのだろうか?
もし彼女が禍牛を祓ったのなら、花那も異能を持っていることになる。
一瞬そんな考えが過ぎった。
だが確証がない状況で、そのことを遠峯に報告するのは気が引けた。
もし花那が異能を持っているとなると、軍は彼女を放っておかないだろう。
興津家で辛い目にあっていた花那を、面倒事に巻き込みたくはない。
そう考えた豪は、思わずあの日あったことを隠してしまった。
「はい、体調は問題ありません」
「そうか。さすが鬼道家の人間だな」
鬼道家は平安時代に存在した大嶽丸という鬼の力を持つ血筋で、豪もまた鬼神の力を有している異能持ちだ。
大嶽丸は平安時代、坂上田村麻呂が倒した中でも最も強大な力を持った鬼だ。
咆哮を上げれば火の雨を降らし、手を振り下ろせば雷で人々を殺すことができたとされる。
しかし坂上田村麻呂に討伐されてしまうのだが、その際大嶽丸の力の半分をある人間の中に封じ、残りの半分の力を日本刀の中に封じた。
その人間が鬼道家の祖先であり、大嶽丸と命名された日本刀の所持者でもある。
故に、豪は精鋭部隊でも稀に見る戦闘力を持つ異能持ちであった。
遠峰は左目にある黒光りする眼帯に手を置くと、軽く目を閉じた。
前線で戦えなくなった無念さを噛みしめているようでもあり、禍牛に対する静かな怒りをも感じさせるものだった。
眉根を潜めた遠峯はゆっくりと瞼を上げ、腕組みをしながら背もたれに体を預け、言葉を続けた。
「だな。お前の血筋ほど強力ではなくても、他にも異能の持ち主がいてくれればいいのだがな。研究を進めているが、芳しい報告は上がっていない」
「あの話は本当なのですか?」
「あぁ、一人でも多くの異能持ちが欲しいからな」
禍牛を討伐できる人間は異能を持つ者だけだ。
江戸初期までは多くの異能持ちがいたが、時代と共に少なくなり、今では稀な存在である。
現状、禍牛を討伐できる人間が圧倒的に足りず、軍は異能の持ち主を探しているのだ。
異能は血筋に現れる。
だからその血を使えば異能者を人為的に作れるのではないかという研究がされていると軍医である従兄弟の翔也から聞いてはいた。
どんな実験をして、どんな研究をしているのか具体的には分からないが、被験者になる人間の安全は保障されていないことは容易に察しがつく。
だから豪個人としては、あまり褒められた研究ではないと思っている。
「まぁ、ともかく報告書は受け取った。下がっていいぞ」
「失礼します」
そうして豪は小さく礼をした後、参謀総長室を後にした。
※
執務室を出たタイミングで、見知った明るい声が廊下に響き渡った。
「隊長~!」
手を振って満面の笑みで豪を呼んだのは、先程の会話で名前が出ていた大輝だった。
さっぱりとした短髪に溌剌とした目の持つ大輝は、いつものようにキラキラと目を輝かせブンブンと手を振りながら豪の元に駆け寄って来た。
その様はまるで子犬のようだ。
「大輝か」
豪は大輝の姿を認めると、足を止めて彼がやって来るのを待った。
少し息を弾ませた大輝は、豪の様子と豪が出て来た部屋とを交互に見てから、何かに思い至ったようだ。
「もしかして、この間の報告ですか?」
「あぁ。今終わったところだ」
「あの時は戦線離脱してしまって、すみませんでした。隊長があんな状態で禍牛を追いかけた時には、隊長も無事では済まないんじゃないかって肝が冷えましたよ」
その言葉に、豪はあの日あったことを思い出した。
あの日、雨が降りそうな曇天は太陽の光を遮ってしまい、林の中は夜の様に暗かった。
禍牛に取り憑かれた男は、常人とは思えぬ速さで林を駆けていく。
男の体からは切り離された粘性のある禍牛が次々と豪を襲ってくる。
それを豪は大嶽丸で切り伏せながら、男を取り逃がすまいと必死に追いかけた。
林の中を走っていくと、突然視界が開けた。
明るくて一瞬目がくらみ、目を細めた豪の視界に飛び込んできたのは一人の少女と、彼女を襲わんとしている禍牛の姿だった。
新たな宿主を見つけようとしているのか、男に取り憑いた禍牛が、無数の触手を伸ばし、蠢くように少女に襲いかかった。
それを認めた瞬間豪は大地を蹴り、二人の間に身を滑らせると、そのままの勢いで禍牛に刃を振り下ろした。
後ろで少女の息を呑む声が聞こえた。
(とりあえず、彼女は無事なようだ……)
禍牛に取り憑かれる前に少女を救えた事に安堵した時だった。
豪の視界が二重にぶれたかと思うと、そのまま体が動かなくなってしまった。
ドスンという重い音と立てて、自分の体が地面に倒れたことを認識した。
徐々に意識が朦朧としてくる。
(禍牛の穢れに当てられたか……)
同時に襲ってくるのは皮膚の下に虫が入り込んでくるような不快な感覚。
豪の体にぬるぬるとした異物が侵入し、その気味の悪い感覚と同時に嘔気が上がってくる。
目の前が掠れ、まともに立っていられなかった。
自分が禍牛に憑依され、浸食されているのが分かったが、今の豪ではもうそれを祓う力も無かった。
耳元で少女の声がするが、途切れ途切れでよく聞き取れない。
「屋敷にお連れします」という言葉が聞こえ、彼女が自分を助けようとしていることは分かった。
このような少女に助けられるなど情けないと思いつつも、それすら意識の沼に落ちて沈んでいくようだ。
自分がどこにいるのか、どうなっているのか、混濁した意識ではよく分からない。
ただ、いくつかの言葉を認識することができた。
「この方の手当てをさせてください」
「こんな男など助けても一銭にもならないじゃないか。さっさと追い出せ!」
少女が必死に懇願しているが、野太い声の男が豪の助けを拒んでいる。
やがて乾いた音がして、少女が豪の隣に倒れる事が耳に飛び込んできた。
そして途切れ途切れの意識の中で、豪は少女の涼やかなで、そして清浄な声を聞いた。
「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり」
その瞬間、豪の体が一気に軽くなり、今度は緩やかな眠りに誘われるように穏やかな気持ちで意識を手放した。
どれくらい眠っていたのだろうか?
ゆっくりと目を覚ますと、粗末な天井が見えた。
天井の木は黒く変色してしまっており、所々に雨水が作った染みがある。
ここが鬼道家の屋敷ではないことは分かった。
「すまない……ここはどこだ?」
ゆっくりと体を起こしながらそう尋ねると、布団の脇に座っていた少女がその答えを口にした。
「ここは興津家の屋敷です」
「興津……」
今回の任務は興津家という豪商の屋敷周辺だったと記憶している。
鈍った頭を何とか回転させ、あの禍牛を倒してからここに運ばれたのだとようやく状況を理解した。
介抱してくれた少女に礼を言おうと改めて彼女に向き直った豪は、その姿を見て思わず息を呑んだ。
「髪が……」
少女の容姿は常人とは異なっていた。
その髪は白い絹糸のように見え、光の加減によっては銀色に光っているようにも見える。
大きな円らな瞳に、白い肌。
以前帝都で見かけた西洋人形のような愛らしくも美しい少女だった。
(綺麗だ……)
顔立ちが整っているだけではなく、少女の纏う空気は清浄なものに感じられた。
それはまるで雪が降った翌日に、青空の下で吸った空気のように、澄んでいるものだった。
思わず食い入るように見つめてしまった豪の態度を、少女は違う意味で捉えてしまったようだ。
「も、申し訳ありません。気味が悪いですよね。今、人を呼んで参りますね」
少女は早口でそう言うと、慌てた様子で顔を背けて立ち上がった。
気づけばその手を、豪は反射的に掴んでいた。
「君とは会ったことがあるか?」
「え?」
自分でもおかしなことを言っていると思ったのだが、どうしてもそう尋ねてしまう。
どこか懐かしいような、それでいてずっと昔から知っているような感覚。
心臓がソワソワと落ち着かないようでいて、だがそれは決して不快なものではない。
(なんなんだ、この感覚は)
豪が戸惑っていると少女もまた戸惑いの表情を浮かべた。
一瞬長い睫毛が下を向き、顔に影が出来たように見えたのだが、再び顔を上げた時には小さな微笑みが浮かんでいた。
ただその微笑みが心からのものではなく、どこか張り付けたようなぎこちないもののように見えた。
「いいえ、初めてお目にかかります」
「そうか……」
少女の答えは当然と言えば当然だ。
懐かしい知人になったような気持ちになるのだが、豪自身どこで会ったかも分からない。
そもそもそんな記憶すらないのだから。
ふと見ると、少女の頬が赤く腫れていることに気づいた。
意識を失う前、途切れ途切れながらも聞こえて来た会話から、豪を介抱するために彼女が叩かれたいたことが思い出された。
「俺のためにこんな怪我をさせてしまって……」
白を通り越し、青白い顔色に反して、熟れ切った林檎のように頬が赤くなっており、直視するのも辛いくらい痛々しかった。
気遣いの言葉を口にした豪に対し、少女はこともなげに小さく笑った。
「いえ、お気になさらないでください。いつもの事ですから」
その答えの意味を、最初豪は分からなかった。
彼女にとって、家の人間に怒鳴られ、殴られるのが日常なのだろうか?
見れば、確かに彼女の身なりは粗末なものだった。
煤けてしまった濃紺の着物は、裾や袖が擦り切れており、他にも繕っている箇所がいくつもある。
かなりひどい扱いであることが見て取れた。
使用人とは言え、このような仕打ちをする主人の人格を疑う。
豪はそんなことを思いながら、少女の名前さえ聞いていないことに気づき、その名を尋ねた。
そしてその答えに更なる要撃を受けた。
「興津花那です」
先ほど少女――花那はここを「興津家の屋敷」と言っていた。
つまり花那は使用人ではなく、この家の人間であることを示している。
「君はいつもこういう扱いを受けているのか? それに興津と言ったな……。この家は君の家じゃないのか?」
「その……私の容姿はこのような不気味なものですから、仕方ありません」
静かに、そして淡々と告げる花那を見て、豪はたまらない気持ちになった。
彼女はこの小さな体で全てを受け入れている。
そのことに悔しさと憤りを覚えてしまった。
胸が締め付けられ、気づけば豪はこんな提案をしていた。
「もし、君がこの屋敷から出れるとしたら、どうする?」
「え?」
「君はこの境遇から、この屋敷から逃れたいとは思わないのか?」
何故そんな提案をしてしまったのか、自分でも理解できない。
見ず知らずの自分を介抱してくれた恩からか、はたまた豪のために殴られる羽目になってしまった申し訳なさからか、あるいは花那が虐げられた生活を送っている事への同情か。
よく分からないものの、気づけばそんな提案をしていた。
花那は豪の提案に驚きの表情を浮かべたのだが、次の瞬間にはぐっと何かを堪えるように小さく歯を食いしばっていた。
そして静かに答えを告げた。
「不可能です」
普通なら「逃げられない」「逃げたくない」のいずれかを答えるものだが、花那は「不可能」だと告げた。
諦めなのかとも思ったが、花那の真っ直ぐな瞳からはそうは思えなかった。
確固たる意志を持ってこの場に残っていることが分かった。
感情として「逃げられない」のではなく、事実として「不可能」だと断言している。
それが何故なのか、理由は分からなかったが、豪は花那をこのままにしてはいけないという焦燥感に駆られた。
一刻も早くこのような環境から出てほしいという切望してしまう。
だから豪はその真意を問うようにもう一度尋ねた。
「不可能か可能かを聞いているのではない。君が家を出たいと思うのか思わないのかを聞いているんだ」
「思うか思わないか?」
「あぁ、人には無限の可能性がある。そして常に自分で選択をしなくてはならないんだ。他人にそれを委ねるな。自分自身の意志で選択すべきだと、俺は思う」
見えない鎖に繋がれた花那を解放してあげたい。
だがそれが出来ない事情が豪には分からない今、これが豪が花那に掛けられる精一杯の言葉だった。
「まぁ、その時がきたら考えてくれ」
花那の意志を無視することもできないし、豪の考えを押し付けることもできない。
ただ、花那が望めば豪はその願いを叶えたい。
豪はそう思いつつ、興津家を後にした。
※
その日、豪はいつものように軍本部の白く無機質な廊下を歩きながら、先日鬼道家に迎えた女性――花那の事を考えていた。
花那を鬼道家に迎えてから2週間余りが過ぎた。
突然花那を興津家から連れ出してしまったこともあり、心細いのではないかと気遣って、豪はなるべく花那と過ごす時間を取っていた。
と言うのも、花那が笑みを浮かべたのを見たことがないことが気にかかっていたからだ。
彼女は小さく控えめに微笑む時もあるが、憂いの色を帯びていることがほとんどだ。
花那はあの容姿のせいで興津家で虐待を受けており、心に深い傷を負っているようだった。
ただ、それだけではない何かを秘めているように豪には感じられた。
花那の瞳には虐げられていることに対する恐怖よりも、自分の気持ちを押し止めざるを得ないというような、強い意志を感じたからだ。
それが何かは分からない。
だが彼女は何かを隠している。
そんな気がしてならなかった。
(街に行って気分転換になるならいいんだが……)
豪はそんなことを考えながら参謀総長室に向かっていた。
すれ違う軍服の男達は豪の姿を認めると、彼らはすぐに廊下の端に避け、敬礼して豪が通り過ぎるのを息を止めて待っていた。
彼らの視線を気にすることなく豪は廊下を進む。
そして目当ての部屋まで来ると、先程の考えを一旦区切るように思考を切り替え、気を引き締めてドアをノックした。
「失礼します」
そう言って豪が参謀総長室へと入ると、窓辺に置かれた重厚な机に向かっている険しい顔の上司の姿があった。
彼は豪の上官である帝国軍参謀総長だ。
名を遠峰篤志と言い、白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけ、顎鬚を蓄えた容姿は、貫禄がある。
年齢は50歳を少し過ぎたところだと記憶しているが、その風貌は新人隊士を一睨みしただけで硬直させてしまうほど、畏怖を感じさせるようなものだ。
そして特徴的なのは左目に眼帯をしていることだった。
遠峯は豪の前に精鋭部隊の隊長をしていたのだが、任務で左目を負傷してから一線を退いている。
そんな遠峰に、豪は持っていた報告書を差し出した。
「こちら禍牛憑依事件の報告書をお持ちしました」
受け取った遠峯は難しい顔でそれに一通り目を通した後、小さくため息をついた。
「事件についての進展はなし、か」
禍牛憑依事件は、ここ数年豪達精鋭部隊が追っている事件だ。
帝都の地下深くには、古の頃より魑魅魍魎が封じられている。
これまでも結界から漏れ出た低俗な妖である禍牛は存在し、異能の力を持つ人間がそれらを人知れず封じてきたのだ。
だがこれらの禍牛は基本的に物に取り憑くことが多い。
古くからある家や身の回りの物に取り憑き、周囲に禍を振りまくのだ。
稀に人間に取り憑くこともあるのだが、最近はその人数が目に見えて増えているのだ。
帝都のあちこちで禍牛に取り憑かれた人間が犯罪を起こし、人を殺めることもある。
ただそれを軍が注視しているのは、禍牛に取り憑かれた人間が既に死んでいる人間だということだ。
最初は禍牛に取り憑かれ、その禍によって絶命したのだと思われていた。
しかし調査を進めると、その人間は既に亡くなっていたことが確認された。
半分腐乱したような状態で歩く姿が目撃されており、巷では「動く死体」などと噂が流れている。
それを軍では「禍牛憑依事件」と呼んでいる。
花那と出会ったあの日も、豪は禍牛憑依事件の捜査を行っていた。
あの周辺に禍牛に憑依された人間――つまり動く死体がいるとの話を聞き、調査と討伐に赴いていたのだ。
この報告書もその時の事をまとめたものだ。
読み終えた遠峯はふと報告書から豪の顔に視線を移した。
「この間の任務中で怪我をしたと斎藤から聞いたが、もう具合はいいのか?」
「大輝からですか?」
斎藤大輝は豪の直属の部下であり、この間の任務で行動を共にしてい。
あの時は追っていた禍牛に取り憑かれた動く死体は複数人いた。
それらに周囲を囲まれてしまい応戦したのだが、大輝は禍牛からの穢れを受けて動けなくなってしまった。
そんな中で禍牛に憑依された一人の男が逃走し、豪はその後を追ったのだ。
その時、豪の体も半分程禍牛に取り憑かれていたのを大輝は知っており、そのことを遠峯に伝えたのだろう。
「斎藤から聞いた話では、相手はかなり強力な禍牛で、お前の身にも多数の禍牛がついていたと聞いた。あんな状態でよく無事だったと斎藤が驚いていた」
遠峯の言葉に、豪の顔が僅かに強張った。
花那の憂いを滲ませた顔が不意に思い浮かんだからだ。
確かにあの時の豪は、そのまま放置していれば禍牛の穢れによって絶命してもおかしくない状況だった。
だが花那に介抱され、目を覚ますと体に纏わり付いていた禍牛が消えていたのだ。
花那が何らかの対処をしたのだろうか?
もし彼女が禍牛を祓ったのなら、花那も異能を持っていることになる。
一瞬そんな考えが過ぎった。
だが確証がない状況で、そのことを遠峯に報告するのは気が引けた。
もし花那が異能を持っているとなると、軍は彼女を放っておかないだろう。
興津家で辛い目にあっていた花那を、面倒事に巻き込みたくはない。
そう考えた豪は、思わずあの日あったことを隠してしまった。
「はい、体調は問題ありません」
「そうか。さすが鬼道家の人間だな」
鬼道家は平安時代に存在した大嶽丸という鬼の力を持つ血筋で、豪もまた鬼神の力を有している異能持ちだ。
大嶽丸は平安時代、坂上田村麻呂が倒した中でも最も強大な力を持った鬼だ。
咆哮を上げれば火の雨を降らし、手を振り下ろせば雷で人々を殺すことができたとされる。
しかし坂上田村麻呂に討伐されてしまうのだが、その際大嶽丸の力の半分をある人間の中に封じ、残りの半分の力を日本刀の中に封じた。
その人間が鬼道家の祖先であり、大嶽丸と命名された日本刀の所持者でもある。
故に、豪は精鋭部隊でも稀に見る戦闘力を持つ異能持ちであった。
遠峰は左目にある黒光りする眼帯に手を置くと、軽く目を閉じた。
前線で戦えなくなった無念さを噛みしめているようでもあり、禍牛に対する静かな怒りをも感じさせるものだった。
眉根を潜めた遠峯はゆっくりと瞼を上げ、腕組みをしながら背もたれに体を預け、言葉を続けた。
「だな。お前の血筋ほど強力ではなくても、他にも異能の持ち主がいてくれればいいのだがな。研究を進めているが、芳しい報告は上がっていない」
「あの話は本当なのですか?」
「あぁ、一人でも多くの異能持ちが欲しいからな」
禍牛を討伐できる人間は異能を持つ者だけだ。
江戸初期までは多くの異能持ちがいたが、時代と共に少なくなり、今では稀な存在である。
現状、禍牛を討伐できる人間が圧倒的に足りず、軍は異能の持ち主を探しているのだ。
異能は血筋に現れる。
だからその血を使えば異能者を人為的に作れるのではないかという研究がされていると軍医である従兄弟の翔也から聞いてはいた。
どんな実験をして、どんな研究をしているのか具体的には分からないが、被験者になる人間の安全は保障されていないことは容易に察しがつく。
だから豪個人としては、あまり褒められた研究ではないと思っている。
「まぁ、ともかく報告書は受け取った。下がっていいぞ」
「失礼します」
そうして豪は小さく礼をした後、参謀総長室を後にした。
※
執務室を出たタイミングで、見知った明るい声が廊下に響き渡った。
「隊長~!」
手を振って満面の笑みで豪を呼んだのは、先程の会話で名前が出ていた大輝だった。
さっぱりとした短髪に溌剌とした目の持つ大輝は、いつものようにキラキラと目を輝かせブンブンと手を振りながら豪の元に駆け寄って来た。
その様はまるで子犬のようだ。
「大輝か」
豪は大輝の姿を認めると、足を止めて彼がやって来るのを待った。
少し息を弾ませた大輝は、豪の様子と豪が出て来た部屋とを交互に見てから、何かに思い至ったようだ。
「もしかして、この間の報告ですか?」
「あぁ。今終わったところだ」
「あの時は戦線離脱してしまって、すみませんでした。隊長があんな状態で禍牛を追いかけた時には、隊長も無事では済まないんじゃないかって肝が冷えましたよ」
その言葉に、豪はあの日あったことを思い出した。
あの日、雨が降りそうな曇天は太陽の光を遮ってしまい、林の中は夜の様に暗かった。
禍牛に取り憑かれた男は、常人とは思えぬ速さで林を駆けていく。
男の体からは切り離された粘性のある禍牛が次々と豪を襲ってくる。
それを豪は大嶽丸で切り伏せながら、男を取り逃がすまいと必死に追いかけた。
林の中を走っていくと、突然視界が開けた。
明るくて一瞬目がくらみ、目を細めた豪の視界に飛び込んできたのは一人の少女と、彼女を襲わんとしている禍牛の姿だった。
新たな宿主を見つけようとしているのか、男に取り憑いた禍牛が、無数の触手を伸ばし、蠢くように少女に襲いかかった。
それを認めた瞬間豪は大地を蹴り、二人の間に身を滑らせると、そのままの勢いで禍牛に刃を振り下ろした。
後ろで少女の息を呑む声が聞こえた。
(とりあえず、彼女は無事なようだ……)
禍牛に取り憑かれる前に少女を救えた事に安堵した時だった。
豪の視界が二重にぶれたかと思うと、そのまま体が動かなくなってしまった。
ドスンという重い音と立てて、自分の体が地面に倒れたことを認識した。
徐々に意識が朦朧としてくる。
(禍牛の穢れに当てられたか……)
同時に襲ってくるのは皮膚の下に虫が入り込んでくるような不快な感覚。
豪の体にぬるぬるとした異物が侵入し、その気味の悪い感覚と同時に嘔気が上がってくる。
目の前が掠れ、まともに立っていられなかった。
自分が禍牛に憑依され、浸食されているのが分かったが、今の豪ではもうそれを祓う力も無かった。
耳元で少女の声がするが、途切れ途切れでよく聞き取れない。
「屋敷にお連れします」という言葉が聞こえ、彼女が自分を助けようとしていることは分かった。
このような少女に助けられるなど情けないと思いつつも、それすら意識の沼に落ちて沈んでいくようだ。
自分がどこにいるのか、どうなっているのか、混濁した意識ではよく分からない。
ただ、いくつかの言葉を認識することができた。
「この方の手当てをさせてください」
「こんな男など助けても一銭にもならないじゃないか。さっさと追い出せ!」
少女が必死に懇願しているが、野太い声の男が豪の助けを拒んでいる。
やがて乾いた音がして、少女が豪の隣に倒れる事が耳に飛び込んできた。
そして途切れ途切れの意識の中で、豪は少女の涼やかなで、そして清浄な声を聞いた。
「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり」
その瞬間、豪の体が一気に軽くなり、今度は緩やかな眠りに誘われるように穏やかな気持ちで意識を手放した。
どれくらい眠っていたのだろうか?
ゆっくりと目を覚ますと、粗末な天井が見えた。
天井の木は黒く変色してしまっており、所々に雨水が作った染みがある。
ここが鬼道家の屋敷ではないことは分かった。
「すまない……ここはどこだ?」
ゆっくりと体を起こしながらそう尋ねると、布団の脇に座っていた少女がその答えを口にした。
「ここは興津家の屋敷です」
「興津……」
今回の任務は興津家という豪商の屋敷周辺だったと記憶している。
鈍った頭を何とか回転させ、あの禍牛を倒してからここに運ばれたのだとようやく状況を理解した。
介抱してくれた少女に礼を言おうと改めて彼女に向き直った豪は、その姿を見て思わず息を呑んだ。
「髪が……」
少女の容姿は常人とは異なっていた。
その髪は白い絹糸のように見え、光の加減によっては銀色に光っているようにも見える。
大きな円らな瞳に、白い肌。
以前帝都で見かけた西洋人形のような愛らしくも美しい少女だった。
(綺麗だ……)
顔立ちが整っているだけではなく、少女の纏う空気は清浄なものに感じられた。
それはまるで雪が降った翌日に、青空の下で吸った空気のように、澄んでいるものだった。
思わず食い入るように見つめてしまった豪の態度を、少女は違う意味で捉えてしまったようだ。
「も、申し訳ありません。気味が悪いですよね。今、人を呼んで参りますね」
少女は早口でそう言うと、慌てた様子で顔を背けて立ち上がった。
気づけばその手を、豪は反射的に掴んでいた。
「君とは会ったことがあるか?」
「え?」
自分でもおかしなことを言っていると思ったのだが、どうしてもそう尋ねてしまう。
どこか懐かしいような、それでいてずっと昔から知っているような感覚。
心臓がソワソワと落ち着かないようでいて、だがそれは決して不快なものではない。
(なんなんだ、この感覚は)
豪が戸惑っていると少女もまた戸惑いの表情を浮かべた。
一瞬長い睫毛が下を向き、顔に影が出来たように見えたのだが、再び顔を上げた時には小さな微笑みが浮かんでいた。
ただその微笑みが心からのものではなく、どこか張り付けたようなぎこちないもののように見えた。
「いいえ、初めてお目にかかります」
「そうか……」
少女の答えは当然と言えば当然だ。
懐かしい知人になったような気持ちになるのだが、豪自身どこで会ったかも分からない。
そもそもそんな記憶すらないのだから。
ふと見ると、少女の頬が赤く腫れていることに気づいた。
意識を失う前、途切れ途切れながらも聞こえて来た会話から、豪を介抱するために彼女が叩かれたいたことが思い出された。
「俺のためにこんな怪我をさせてしまって……」
白を通り越し、青白い顔色に反して、熟れ切った林檎のように頬が赤くなっており、直視するのも辛いくらい痛々しかった。
気遣いの言葉を口にした豪に対し、少女はこともなげに小さく笑った。
「いえ、お気になさらないでください。いつもの事ですから」
その答えの意味を、最初豪は分からなかった。
彼女にとって、家の人間に怒鳴られ、殴られるのが日常なのだろうか?
見れば、確かに彼女の身なりは粗末なものだった。
煤けてしまった濃紺の着物は、裾や袖が擦り切れており、他にも繕っている箇所がいくつもある。
かなりひどい扱いであることが見て取れた。
使用人とは言え、このような仕打ちをする主人の人格を疑う。
豪はそんなことを思いながら、少女の名前さえ聞いていないことに気づき、その名を尋ねた。
そしてその答えに更なる要撃を受けた。
「興津花那です」
先ほど少女――花那はここを「興津家の屋敷」と言っていた。
つまり花那は使用人ではなく、この家の人間であることを示している。
「君はいつもこういう扱いを受けているのか? それに興津と言ったな……。この家は君の家じゃないのか?」
「その……私の容姿はこのような不気味なものですから、仕方ありません」
静かに、そして淡々と告げる花那を見て、豪はたまらない気持ちになった。
彼女はこの小さな体で全てを受け入れている。
そのことに悔しさと憤りを覚えてしまった。
胸が締め付けられ、気づけば豪はこんな提案をしていた。
「もし、君がこの屋敷から出れるとしたら、どうする?」
「え?」
「君はこの境遇から、この屋敷から逃れたいとは思わないのか?」
何故そんな提案をしてしまったのか、自分でも理解できない。
見ず知らずの自分を介抱してくれた恩からか、はたまた豪のために殴られる羽目になってしまった申し訳なさからか、あるいは花那が虐げられた生活を送っている事への同情か。
よく分からないものの、気づけばそんな提案をしていた。
花那は豪の提案に驚きの表情を浮かべたのだが、次の瞬間にはぐっと何かを堪えるように小さく歯を食いしばっていた。
そして静かに答えを告げた。
「不可能です」
普通なら「逃げられない」「逃げたくない」のいずれかを答えるものだが、花那は「不可能」だと告げた。
諦めなのかとも思ったが、花那の真っ直ぐな瞳からはそうは思えなかった。
確固たる意志を持ってこの場に残っていることが分かった。
感情として「逃げられない」のではなく、事実として「不可能」だと断言している。
それが何故なのか、理由は分からなかったが、豪は花那をこのままにしてはいけないという焦燥感に駆られた。
一刻も早くこのような環境から出てほしいという切望してしまう。
だから豪はその真意を問うようにもう一度尋ねた。
「不可能か可能かを聞いているのではない。君が家を出たいと思うのか思わないのかを聞いているんだ」
「思うか思わないか?」
「あぁ、人には無限の可能性がある。そして常に自分で選択をしなくてはならないんだ。他人にそれを委ねるな。自分自身の意志で選択すべきだと、俺は思う」
見えない鎖に繋がれた花那を解放してあげたい。
だがそれが出来ない事情が豪には分からない今、これが豪が花那に掛けられる精一杯の言葉だった。
「まぁ、その時がきたら考えてくれ」
花那の意志を無視することもできないし、豪の考えを押し付けることもできない。
ただ、花那が望めば豪はその願いを叶えたい。
豪はそう思いつつ、興津家を後にした。
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