花那と豪を乗せた車は、真鍮でできた大きな門を通り抜けると、優美な曲線を描いた道を通り、車止めでゆっくりと停止した。
運転手に促され、豪と共に屋敷に降り立った花那は、その立派な石造りの洋館を見上げた。
白亜の壁は汚れ一つなく、陽の光に照らされて館全体を神々しく見せており、正面二階の窓はステンドグラスによって彩られている。
先を歩いていた豪が黒光りした木製のドアの前まで進むと、まるで魔法が掛かったように扉が開いた。
「お帰りなさいませ」
玄関ドアを開けた初老の男性が、そう言って恭しく頭を下げた。
「さぁ、入ってくれ」
豪に促された花那は玄関ドアを潜り、屋敷へと足を踏み入れた。
御影石できた玄関ホールの先には赤絨毯が敷かれた廊下が続いている。
吹き抜けにある天窓から差し込む光が、花那を歓迎するかのように降り注いだ。
(懐かしいわ)
死に戻り前、花那はこの屋敷で1年程過ごした。
異能を持つことで宏次朗から軍に売られた花那は、研究対象として軍の一室で半ば監禁されるように過ごしていた。
自由を奪われて過ごす花那に心を痛めた豪は、自らが監視をするという条件で花那を豪の屋敷に住まわせてくれたのだ。
だから目に入る屋敷の端々に、当時豪と過ごした日々が思い出され、遠い日の感傷に襲われる。
「どうした?」
足を止めた花那の様子を訝しむように、豪もまた足を止めるとそう尋ねた。
花那は豪の言葉にハッと我に返ると、曖昧な笑みを浮かべ、それらしい言い訳を探した。
「その……とても立派なお屋敷で驚いてしまって」
「そうだろうか? まぁ、気に入ってもらえると嬉しいんだがな」
まさか昔の事を思い出していたなどと言えるはずもなく、そう誤魔化したのだが、豪はその言葉に疑いなど持った様子はなかった。
そのことに安堵していると、豪は更に屋敷の奥へと花那を促した。
「とりあえずこっちに」
そうして通された談話室は、モダンな作りだった。
木材で作られた床は寄木貼りになっており、磨き上げられてピカピカと光っている。
中央に据えられた丸テーブルは大理石でできており、脚は猫足型なのが目新しい。
ソファも白地に金色の刺繍でダマスク柄が施してあり、隅々にモダンな作りを感じさせるものだった。
「ここで少し待っていてくれ。俺は着替えてくる」
「分かりました」
豪が談話室を出て行った後、花那は今と過去を重ねるようにゆっくりと室内を見回した。
その時、小気味よいノックの音と共に、ガチャリとドアが開いた。
「お茶をお持ちしましたよ」
そう言って静かに入って来たのは、えんじ色の絣に白いエプロンを身に着けた年嵩の女性だった。
浮かべている柔和な笑みは、彼女の人柄を一目で伝えている。
(松代さんだわ)
彼女は豊田松代と言い、この屋敷の使用人の一人だ。
この屋敷は鬼道家の別邸のため使用人も数人しかおらず、豪の身の回りの事は彼女が担っている。
花那もまた死に戻り前に、松代には大変お世話になった。
年の頃は60歳を少し過ぎたところで、小柄で花那よりも背が小さい。
柔らかく穏やかな空気を纏い、垂れ気味の目をいつも下げて朗らかに笑う様子は、花那の記憶と全く変わらない。
よく考えればこの屋敷に来たということは必然的に彼女とも顔を会わせるわけだが、突然の再会に花那は思わず松代の顔を見つめてしまった。
「どうされました?」
「あ、不躾に見てしまってすみません。その……知人に似ていたので懐かしく思ってしまって」
「まぁそうなのですね。どうぞ、お掛けになってくださいませ」
まるで孫に話しかけるように丁寧にそう告げた松代の手には、取手付きの四角いトレイがあった。
銀のトレイには白磁のティーカップが載せられており、ふわりとした湯気と共に紅茶の香りが漂ってきた。
花那は勧められたソファに腰を下ろそうとした。
その時だった。
松代がテーブルにティーカップを置く前によろけたのだ。
「あ、危ない!」
反射的に花那は手を伸ばして松代の体を支えると、ソーサーとカップが小さく音を立てただけで、幸い紅茶は零れることはなかった。
「松代さん、大丈夫ですか?」
「ええ、申し訳ありません。年のせいで足腰が弱ってしまって」
そう言って苦笑した松代だったが、ふと何かに気づいたように頬に手を当てて首を傾げた。
「あら? そう言えば、私の名前をご存じで?」
そう指摘されて花那の背中に緊張が走った。
咄嗟に松代の名前を呼んでしまったが、今の花那はこの屋敷に初めて来たはずなのだ。
彼女の名前を知っているのは不自然だ。
「……その、先ほど使用人の方が話しているのを小耳に挟んでしまいました。初めまして、興津花那と申します」
「そうでしたか。改めまして、豊田松代と申します」
花那が戸惑いながらとつとつと言い訳を口にすると、松代は不審に思うことなく笑顔を浮かべた。
「坊ちゃんから伺っております。どのような方がいらっしゃるのか楽しみにしておりました。お会いできて嬉しゅうございます」
そう言って松代が会釈をしたタイミングでドアが開き、颯爽とした足取りで豪が部屋に入って来た。
普段着なのだろう。黒のスラックスに白いYシャツといった軽装だ。
「あぁ、待たせてすまない」
「では、私はこれで」
豪と入れ替わりのように松代が出て行くのを見送ると、豪は花那に席を勧めながら自身もゆったりとソファに腰かけた。
こうして豪と静かに向かい合うのは二度目になる。
一度目は豪は傷を負っており、会話も慌ただしいものだった。
だからこうやって面と向かって話すことに、少しばかり緊張してしまう。
その様子を感じ取った豪は、花那の緊張を解そうとしたのか、小さく微笑んで言葉を発した。
「そう緊張しないでほしい。まずはお茶でも飲んでくれ」
「ありがとうございます」
豪にそう言われてもすぐには緊張が解けるわけではないものの、少しでも平常心を取り戻そうと花那は一口お茶を飲んで喉を潤した。
正直なところ、目まぐるしく変わる状況に、頭がついて行かないというのが本音だ。
初めに話を切り出したのは豪だった。
「まずは俺を選んでくれて感謝する」
「え?」
花那を興津の家から連れ出してくれたことに関しては、花那の方が礼を言わなくてはならない。
だから先に豪がそう言ったことに対し、花那が驚いていると、豪は更に言葉を続けた。
「今回の件については、介抱してくれた礼のつもりだったんだ。……君の家での扱いは酷いものだった。それで、あの家に出るのが君のためになるんじゃないかと思ってあんな提案をしたんだ」
「そうだったのですね。私の方こそ、ご迷惑をおかけしました。私などのために大金を払うことになってしまい……。お金は必ずお返しします」
「いや、気にしないでくれ。俺がしたくてやったことだ。こちらこそかなり強引な事をしてしまった」
「いいえ、興津の家から連れ出していただいたことは、感謝してもしきれません」
「そうか。それならば安心した。実は介抱してもらった後、君のことが気になってしまって、少し周囲から話を聞いたんだ。話によれば、君は興津家直系だと聞いた。どうしてあの家であんな扱いをされていたんだ?」
豪の疑問は至極真っ当だ。
花那が普通の女性であればその疑問も分かるが、花那はそうではない。
「それは……豪様の想像通りだと思います」
「容姿、か」
豪の言葉に花那は小さく頷いた。
自分の身の上話をするのは、気が引けた。
異能の力を隠し、あの家に留まるために状況を甘んじて受けていたのは花那自身であり、他人から憐れみの目を向けられたくなかったからだ。
それでも、あの家から連れ出してくれた豪には話さなくてはならないだろう。
「豪様が仰る通り、私の両親は興津家直系で、現在の当主である宏次朗叔父様は父の弟にあたります。今から10年前、私が7歳の時に両親が事故で亡くなり、叔父が当主になりました」
両親の存命中は、花那は興津家直系ということで露骨に嫌悪の目を向けられることは無かった。
両親の庇護の元、花那は自分の容姿を気にすることなく過ごすことができていたのだ。
しかし両親が亡くなって状況が一変し、それまで隠されていた悪意が一気に噴き出した。
「誰の目から見ても私の容姿は気味の悪い物ですから、叔父一家があのような態度になってしまうのも仕方ありません」
花那は事実のみを淡々と告げ、そして最後には気にしていないことを主張するように微笑んだ。
対して、豪は視線を痛まし気な表情を浮かべ、口を閉ざしてしまった。
その重苦しい話題を変えるかのように、花那はかねてより思っていた疑問を尋ねることにした。
「……あの、それで私はこれから何をすればよいのでしょうか?」
豪はあれだけの大金を払ったのだ。
彩は豪が婚姻を結ぶと言う意味で「鬼道家に迎え入れる」という言葉を使ったと思っていたようだが、花那に対してそのような意味で使ったわけではないことは分かっている。
恐らく花那を使用人として迎えるつもりなのだろう。
そう思って聞いたのだが、返って来たのは花那の想像とは全く異なるものだった。
「いや、俺は君を興津家から連れ出したいと思っただけで、何かをして欲しくて君を連れて来たんじゃないんだ。今回の事は俺の自己満足みたいなものだから、気にしなくていい。むしろこちらが礼を言わなくてはならなかったな。あの時は、介抱してくれて助かった」
「いえ、そんな。私は当然のことをしたまでです。それに、命を救っていただいたのは私も同じですから。あの時、襲われそうになったのを助けていただきました。ありがとうございました」
もし豪が禍牛に取り憑かれた男を倒してくれなければ、いくら異能を持つ花那でも無事では済まなかっただろう。
「ちょうど任務で、あのあたりに潜伏していた犯罪者を追っていたんだ。まさかあれほど抵抗するとは思わなくて、君を恐ろしい目に遭わせてしまったな」
豪は禍牛に取り憑かれた男を『犯罪者』と呼んだ。
禍牛は一般人には見ることができず、またその存在も知られていないため、普通の人間には犯罪者が暴れているように見えていると考えたのだろう。
豪はそう言って言葉を切った後、厳しい表情を浮かべて言葉を続けた。
「それで、君はあの時何かに気づいただろうか?」
「え? 何か、ですか?」
「今まで見たことのないモノを見たということはないか? 例えば……ナメクジのような物体や、泥のような塊を見ていないか?」
豪の質問は禍牛を見ていないかという確認を示唆している。
異能がない人間には禍牛は視えない。
だから花那は知らないふりをして首を振った。
「少し仰っている意味が分からないのですが、暴れた男に襲われたとしか言いようがないです」
「そうか」
豪はそう答えて逡巡した後、今度は別の疑問を口にした。
「じゃあ、もう一つ聞きたいことがある。君は俺の傷を手当してくれた以外にも、俺に何かしたのだろうか?」
本当は、異能の力で禍牛を祓ったのだが、それを悟られるわけにはいかない。
ともすれば見透かされそうな豪の瞳を真っ直ぐに見つめることができず、僅かばかりそれを避けるように花那は目を伏せて答えた。
「私がしたのは豪様の怪我を手当しただけです。それ以外は、何も……」
「……そうか」
豪はそれだけを言って、再び黙ってしまった。
ほんの数秒の静寂だったのかもしれないが、花那にとっては1分にも2分にも感じられる静寂だった。
(気づかれたかしら)
不安に思っていると、豪が仕切り直しとばかりに明るい声音で話題を変えてくれた。
「変なことを聞いて悪かった。それで、今後のことだが、俺が出来ることはしたいと思っている。突然連れて来てしまったんだ、身の回りの物は用意する。君の部屋も用意しているから、いつまでこの屋敷にいてくれても構わない」
「そんな! さすがにそこまでお世話になるわけには」
「気にしないでくれ。もしこの屋敷が気に入らないなら、こちらで新居を用意する」
「気に入らないだなんて、とんでもありません!」
豪に迷惑をかけることは気が引ける上、これ以上豪との接触を避けるべきなのは明白だ。
だが一方で、花那の容姿で家を貸してくれる家主などおらず、行く当てがないというのも正直なところなのだ。
戸惑った表情で口を噤んだ花那を見て、豪は花那の不安を払拭するように明るい声で言った。
「まぁ、今日の所はゆっくり休んでくれ。君も色々あって心の整理もついていないだろうしな。部屋に案内する」
そう促されて応接室から出た花那は、前を歩く豪の背中を見つめた。
こうして興津の屋敷から連れ出してくれたことにも、屋敷に住むよう提案してくれたことにも、花那は深い感謝の念を持った。
だが、同時にどうしても死に戻り前の事が思い出されてならないのだ。
(豪様と一緒にいたら、あの時みたいな結末を迎えてしまうかも知れない)
だからこそ、絶対に自分に異能の力があることは隠さなくてはならない。
それが恩人である豪への裏切りになるかもしれないが、豪が死ぬ未来が回避できるのならば、彼に軽蔑されても構わない。
花那はそう決意した。
運転手に促され、豪と共に屋敷に降り立った花那は、その立派な石造りの洋館を見上げた。
白亜の壁は汚れ一つなく、陽の光に照らされて館全体を神々しく見せており、正面二階の窓はステンドグラスによって彩られている。
先を歩いていた豪が黒光りした木製のドアの前まで進むと、まるで魔法が掛かったように扉が開いた。
「お帰りなさいませ」
玄関ドアを開けた初老の男性が、そう言って恭しく頭を下げた。
「さぁ、入ってくれ」
豪に促された花那は玄関ドアを潜り、屋敷へと足を踏み入れた。
御影石できた玄関ホールの先には赤絨毯が敷かれた廊下が続いている。
吹き抜けにある天窓から差し込む光が、花那を歓迎するかのように降り注いだ。
(懐かしいわ)
死に戻り前、花那はこの屋敷で1年程過ごした。
異能を持つことで宏次朗から軍に売られた花那は、研究対象として軍の一室で半ば監禁されるように過ごしていた。
自由を奪われて過ごす花那に心を痛めた豪は、自らが監視をするという条件で花那を豪の屋敷に住まわせてくれたのだ。
だから目に入る屋敷の端々に、当時豪と過ごした日々が思い出され、遠い日の感傷に襲われる。
「どうした?」
足を止めた花那の様子を訝しむように、豪もまた足を止めるとそう尋ねた。
花那は豪の言葉にハッと我に返ると、曖昧な笑みを浮かべ、それらしい言い訳を探した。
「その……とても立派なお屋敷で驚いてしまって」
「そうだろうか? まぁ、気に入ってもらえると嬉しいんだがな」
まさか昔の事を思い出していたなどと言えるはずもなく、そう誤魔化したのだが、豪はその言葉に疑いなど持った様子はなかった。
そのことに安堵していると、豪は更に屋敷の奥へと花那を促した。
「とりあえずこっちに」
そうして通された談話室は、モダンな作りだった。
木材で作られた床は寄木貼りになっており、磨き上げられてピカピカと光っている。
中央に据えられた丸テーブルは大理石でできており、脚は猫足型なのが目新しい。
ソファも白地に金色の刺繍でダマスク柄が施してあり、隅々にモダンな作りを感じさせるものだった。
「ここで少し待っていてくれ。俺は着替えてくる」
「分かりました」
豪が談話室を出て行った後、花那は今と過去を重ねるようにゆっくりと室内を見回した。
その時、小気味よいノックの音と共に、ガチャリとドアが開いた。
「お茶をお持ちしましたよ」
そう言って静かに入って来たのは、えんじ色の絣に白いエプロンを身に着けた年嵩の女性だった。
浮かべている柔和な笑みは、彼女の人柄を一目で伝えている。
(松代さんだわ)
彼女は豊田松代と言い、この屋敷の使用人の一人だ。
この屋敷は鬼道家の別邸のため使用人も数人しかおらず、豪の身の回りの事は彼女が担っている。
花那もまた死に戻り前に、松代には大変お世話になった。
年の頃は60歳を少し過ぎたところで、小柄で花那よりも背が小さい。
柔らかく穏やかな空気を纏い、垂れ気味の目をいつも下げて朗らかに笑う様子は、花那の記憶と全く変わらない。
よく考えればこの屋敷に来たということは必然的に彼女とも顔を会わせるわけだが、突然の再会に花那は思わず松代の顔を見つめてしまった。
「どうされました?」
「あ、不躾に見てしまってすみません。その……知人に似ていたので懐かしく思ってしまって」
「まぁそうなのですね。どうぞ、お掛けになってくださいませ」
まるで孫に話しかけるように丁寧にそう告げた松代の手には、取手付きの四角いトレイがあった。
銀のトレイには白磁のティーカップが載せられており、ふわりとした湯気と共に紅茶の香りが漂ってきた。
花那は勧められたソファに腰を下ろそうとした。
その時だった。
松代がテーブルにティーカップを置く前によろけたのだ。
「あ、危ない!」
反射的に花那は手を伸ばして松代の体を支えると、ソーサーとカップが小さく音を立てただけで、幸い紅茶は零れることはなかった。
「松代さん、大丈夫ですか?」
「ええ、申し訳ありません。年のせいで足腰が弱ってしまって」
そう言って苦笑した松代だったが、ふと何かに気づいたように頬に手を当てて首を傾げた。
「あら? そう言えば、私の名前をご存じで?」
そう指摘されて花那の背中に緊張が走った。
咄嗟に松代の名前を呼んでしまったが、今の花那はこの屋敷に初めて来たはずなのだ。
彼女の名前を知っているのは不自然だ。
「……その、先ほど使用人の方が話しているのを小耳に挟んでしまいました。初めまして、興津花那と申します」
「そうでしたか。改めまして、豊田松代と申します」
花那が戸惑いながらとつとつと言い訳を口にすると、松代は不審に思うことなく笑顔を浮かべた。
「坊ちゃんから伺っております。どのような方がいらっしゃるのか楽しみにしておりました。お会いできて嬉しゅうございます」
そう言って松代が会釈をしたタイミングでドアが開き、颯爽とした足取りで豪が部屋に入って来た。
普段着なのだろう。黒のスラックスに白いYシャツといった軽装だ。
「あぁ、待たせてすまない」
「では、私はこれで」
豪と入れ替わりのように松代が出て行くのを見送ると、豪は花那に席を勧めながら自身もゆったりとソファに腰かけた。
こうして豪と静かに向かい合うのは二度目になる。
一度目は豪は傷を負っており、会話も慌ただしいものだった。
だからこうやって面と向かって話すことに、少しばかり緊張してしまう。
その様子を感じ取った豪は、花那の緊張を解そうとしたのか、小さく微笑んで言葉を発した。
「そう緊張しないでほしい。まずはお茶でも飲んでくれ」
「ありがとうございます」
豪にそう言われてもすぐには緊張が解けるわけではないものの、少しでも平常心を取り戻そうと花那は一口お茶を飲んで喉を潤した。
正直なところ、目まぐるしく変わる状況に、頭がついて行かないというのが本音だ。
初めに話を切り出したのは豪だった。
「まずは俺を選んでくれて感謝する」
「え?」
花那を興津の家から連れ出してくれたことに関しては、花那の方が礼を言わなくてはならない。
だから先に豪がそう言ったことに対し、花那が驚いていると、豪は更に言葉を続けた。
「今回の件については、介抱してくれた礼のつもりだったんだ。……君の家での扱いは酷いものだった。それで、あの家に出るのが君のためになるんじゃないかと思ってあんな提案をしたんだ」
「そうだったのですね。私の方こそ、ご迷惑をおかけしました。私などのために大金を払うことになってしまい……。お金は必ずお返しします」
「いや、気にしないでくれ。俺がしたくてやったことだ。こちらこそかなり強引な事をしてしまった」
「いいえ、興津の家から連れ出していただいたことは、感謝してもしきれません」
「そうか。それならば安心した。実は介抱してもらった後、君のことが気になってしまって、少し周囲から話を聞いたんだ。話によれば、君は興津家直系だと聞いた。どうしてあの家であんな扱いをされていたんだ?」
豪の疑問は至極真っ当だ。
花那が普通の女性であればその疑問も分かるが、花那はそうではない。
「それは……豪様の想像通りだと思います」
「容姿、か」
豪の言葉に花那は小さく頷いた。
自分の身の上話をするのは、気が引けた。
異能の力を隠し、あの家に留まるために状況を甘んじて受けていたのは花那自身であり、他人から憐れみの目を向けられたくなかったからだ。
それでも、あの家から連れ出してくれた豪には話さなくてはならないだろう。
「豪様が仰る通り、私の両親は興津家直系で、現在の当主である宏次朗叔父様は父の弟にあたります。今から10年前、私が7歳の時に両親が事故で亡くなり、叔父が当主になりました」
両親の存命中は、花那は興津家直系ということで露骨に嫌悪の目を向けられることは無かった。
両親の庇護の元、花那は自分の容姿を気にすることなく過ごすことができていたのだ。
しかし両親が亡くなって状況が一変し、それまで隠されていた悪意が一気に噴き出した。
「誰の目から見ても私の容姿は気味の悪い物ですから、叔父一家があのような態度になってしまうのも仕方ありません」
花那は事実のみを淡々と告げ、そして最後には気にしていないことを主張するように微笑んだ。
対して、豪は視線を痛まし気な表情を浮かべ、口を閉ざしてしまった。
その重苦しい話題を変えるかのように、花那はかねてより思っていた疑問を尋ねることにした。
「……あの、それで私はこれから何をすればよいのでしょうか?」
豪はあれだけの大金を払ったのだ。
彩は豪が婚姻を結ぶと言う意味で「鬼道家に迎え入れる」という言葉を使ったと思っていたようだが、花那に対してそのような意味で使ったわけではないことは分かっている。
恐らく花那を使用人として迎えるつもりなのだろう。
そう思って聞いたのだが、返って来たのは花那の想像とは全く異なるものだった。
「いや、俺は君を興津家から連れ出したいと思っただけで、何かをして欲しくて君を連れて来たんじゃないんだ。今回の事は俺の自己満足みたいなものだから、気にしなくていい。むしろこちらが礼を言わなくてはならなかったな。あの時は、介抱してくれて助かった」
「いえ、そんな。私は当然のことをしたまでです。それに、命を救っていただいたのは私も同じですから。あの時、襲われそうになったのを助けていただきました。ありがとうございました」
もし豪が禍牛に取り憑かれた男を倒してくれなければ、いくら異能を持つ花那でも無事では済まなかっただろう。
「ちょうど任務で、あのあたりに潜伏していた犯罪者を追っていたんだ。まさかあれほど抵抗するとは思わなくて、君を恐ろしい目に遭わせてしまったな」
豪は禍牛に取り憑かれた男を『犯罪者』と呼んだ。
禍牛は一般人には見ることができず、またその存在も知られていないため、普通の人間には犯罪者が暴れているように見えていると考えたのだろう。
豪はそう言って言葉を切った後、厳しい表情を浮かべて言葉を続けた。
「それで、君はあの時何かに気づいただろうか?」
「え? 何か、ですか?」
「今まで見たことのないモノを見たということはないか? 例えば……ナメクジのような物体や、泥のような塊を見ていないか?」
豪の質問は禍牛を見ていないかという確認を示唆している。
異能がない人間には禍牛は視えない。
だから花那は知らないふりをして首を振った。
「少し仰っている意味が分からないのですが、暴れた男に襲われたとしか言いようがないです」
「そうか」
豪はそう答えて逡巡した後、今度は別の疑問を口にした。
「じゃあ、もう一つ聞きたいことがある。君は俺の傷を手当してくれた以外にも、俺に何かしたのだろうか?」
本当は、異能の力で禍牛を祓ったのだが、それを悟られるわけにはいかない。
ともすれば見透かされそうな豪の瞳を真っ直ぐに見つめることができず、僅かばかりそれを避けるように花那は目を伏せて答えた。
「私がしたのは豪様の怪我を手当しただけです。それ以外は、何も……」
「……そうか」
豪はそれだけを言って、再び黙ってしまった。
ほんの数秒の静寂だったのかもしれないが、花那にとっては1分にも2分にも感じられる静寂だった。
(気づかれたかしら)
不安に思っていると、豪が仕切り直しとばかりに明るい声音で話題を変えてくれた。
「変なことを聞いて悪かった。それで、今後のことだが、俺が出来ることはしたいと思っている。突然連れて来てしまったんだ、身の回りの物は用意する。君の部屋も用意しているから、いつまでこの屋敷にいてくれても構わない」
「そんな! さすがにそこまでお世話になるわけには」
「気にしないでくれ。もしこの屋敷が気に入らないなら、こちらで新居を用意する」
「気に入らないだなんて、とんでもありません!」
豪に迷惑をかけることは気が引ける上、これ以上豪との接触を避けるべきなのは明白だ。
だが一方で、花那の容姿で家を貸してくれる家主などおらず、行く当てがないというのも正直なところなのだ。
戸惑った表情で口を噤んだ花那を見て、豪は花那の不安を払拭するように明るい声で言った。
「まぁ、今日の所はゆっくり休んでくれ。君も色々あって心の整理もついていないだろうしな。部屋に案内する」
そう促されて応接室から出た花那は、前を歩く豪の背中を見つめた。
こうして興津の屋敷から連れ出してくれたことにも、屋敷に住むよう提案してくれたことにも、花那は深い感謝の念を持った。
だが、同時にどうしても死に戻り前の事が思い出されてならないのだ。
(豪様と一緒にいたら、あの時みたいな結末を迎えてしまうかも知れない)
だからこそ、絶対に自分に異能の力があることは隠さなくてはならない。
それが恩人である豪への裏切りになるかもしれないが、豪が死ぬ未来が回避できるのならば、彼に軽蔑されても構わない。
花那はそう決意した。



