髪をしっとりと濡らし、息を切らして部屋に飛び込むと、何事かを察した速日が姿を現した。
人外の彼は、滅多なことでは姿を現さない。
それくらい花那が必死の形相だったのだろう。
「花那、大丈夫か!?」
速日が慌てて花那とは反対側の豪の肩を担ぐと、そのまま豪を布団に横たえるのを手伝ってくれた。
そして横になった豪の顔を見た速日は息を呑み、目を見開いて呟いた。
「こいつは……」
花那が運んだ青年が豪だと分かったのだろう。
どうしてこんなことになったのかとその目で尋ねてきていたのだが、花那はそれすらも気づかなかった。
急いで豪の隊服を脱がせると、中の開襟シャツは真紅で濡れていた。
それが死に戻り前、花那が最後に見た豪の血を想起させ、瞬間的に手を止めてしまった。
死に戻り前の夢を今朝方見てしまったことも相まって、ドクドクと嫌な鼓動が胸を叩く。
(落ち着いて、これは夢じゃないわ)
花那は不安と恐怖を振り払うように小さく頭を振った後、震える指先を押し止めるようにしながら、何とか止血を試みた。
包帯を巻き、傷薬をつける。
体中にあった切り傷も手当をしたが、豪の綺麗な顔についた傷が痛々しい。
これで一応の手当ては終わったが、一番の問題は豪の体を蝕むようについた禍牛の残滓だ。
これを祓わなくては豪は確実に命を落としてしまうだろう。
幸いにして花那の部屋は離れにあり、人が来ることがない。
元々倉庫として使っていた場所で、離れでも奥まった場所にあるのだ。
念のため外の音に耳を澄ませるが、聞こえるのは窓を叩く雨の音だけ。
これならば異能の力を使っても、屋敷の人間に知られることも無いはずだ。
豪の眉間には深く皺が寄り、呼吸は乱れて苦しげに小さく呻いていた。
その手をそっと握ると、花那はゆっくりと目を閉じて豪の体に意識を集中させた。
小さく息を整え、祓え言葉を紡いだ。
「天切る、地切る、は八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり」
まるで氷のように冷たく、そして涼やかな声が部屋の空気を震わす。
その瞬間、花那の言葉に応じて白刃のような光が豪の体を切り裂く。
正確には、豪の体についた禍牛を切り裂いた。
ヒュンという風を斬る音共に、禍牛は跡形もなく消えた。
花那がゆっくりと目を開けて豪を見つめると、彼の呼吸の乱れは無くなり、眉間の皺もまた無くなっていた。
一安心した花那は、そっと豪から手を離した。
温もりがゆっくりと失われていくのが少しだけ名残惜しい。
すると足音もなく速日が花那の隣に座ると、豪の顔を覗き込んだ。
その目には戸惑いと困惑の色が滲んでいる。
「こいつ……鬼道豪、だよな」
速日に尋ねられても即答できない。
花那自身が信じられない思いだった。
外はすっかり夜の帳が下り、降りだした雨が容赦なく窓ガラスを叩いている。
雨音を聞きながら、花那は豪を見つめた。
その面立ちは花那が死ぬ前のものと全く変わらない。
高く通った鼻梁に薄い唇、前髪が少し長めの黒髪には艶があり、蝋燭の灯りに照らされて美しかった。
(本当に……豪様だわ)
花那の部屋にある灯りは蝋燭の灯だけで、小さく炎が揺らめくと豪の影も揺れる。
まったく現実味が無かったが、その揺らめきが豪の存在が確かだと示しているようにも思えた。
やがて外の雨は止み、雲間から差し込んだ光が窓から部屋へと入り、傾いた太陽は、灰色の雲をうっすらと茜色に染めていく。
その頃には、先ほどの動揺はすっかりと落ち着き、花那は蝋燭の灯りを消そうと腰を浮かせた。
そしてすっかり顔色の良くなった豪の顔を見てから、立ち上がろうとした時だった。
豪の睫毛がふるりと揺れ、ゆっくりと目を覚ました。
「ここは……」
「気づきましたか?」
豪は少しだけぼんやりと天井を見つめたあと、花那の言葉にゆっくりと体を起こした。
「無理なさらないでください」
花那が慌てて豪の体を支える。
「すまない……ここはどこだ?」
「ここは興津家の屋敷です」
「興津……」
まだ少し意識がはっきりしないのか、花那の言葉を復唱するように呟いた豪だったが、ようやく状況が分かったようだ。
ハッと我に返った様子になると、花那の方に勢いよく向き直った。
豪は何か言おうと口を開いたのだが、瞬時にその言葉を飲み込んだ。
目を見開き、その瞳には動揺の色がありありと浮かんでいた。
花那は一瞬、豪が花那の事を覚えているのではと錯覚してしまったが、すぐにその考えは否定できた。
「髪が……」
その言葉で花那はようやく豪が驚いている理由に考えが至った。
そうだ、自分は普通の容姿をしているわけではないのだ。
自分は――色無しだ。
「も、申し訳ありません。気味が悪いですよね。今、人を呼んで参ります」
自分の姿を見られたくなくて、思わず顔を背けた。
そのまま立ち上がって部屋を出ようとした花那の手首を、豪の力強い手が掴んでそれを阻止した。
「君とは会ったことがあるか?」
「え?」
豪の言葉にドクンと心臓が跳ねる。
今の豪が花那の事を知っている筈はない。動揺を鎮めるように手で胸を押さえながら、花那は笑顔で答えた。
「いいえ、初めてお目にかかります」
「そうか……」
豪は一旦言葉を区切ると、今度はそっと花那の頬に手を伸ばした。
男性特有のごつごつした指だったが、まるで壊れ物を扱うように優しく触れられ、思わず息を止めてしまう。
「俺のためにこんな怪我をさせてしまって……」
始め、豪が何を言っているのか分からなかった。
気遣うように頬に向けられている視線の意味が分からず首を捻った花那だったが、一拍遅れて、宏次朗に叩かれて頬が赤く腫れていることに気づいた。
「いえ、お気になさらないでください。いつもの事ですから」
「いつもの?」
花那の言葉に、豪が怪訝な表情を浮かべた。
「な、何でもありません」
豪に心配をかけたくない思いから、反射的にそう答えた。
そっと頬から手を離した豪は、何やら深く考え込んでしまった。
そんな豪に対し、花那はどう対応していいか困惑してしまう。
不意に豪が何かを思いついたように表情を変えたかと思うと、今度は花那の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「礼をさせてくれないか?」
「いいえ、そんなことは不要です。私の方こそ助けていただきましたから」
「しかし、俺のせいでこんな目に遭ったのだろう?」
どうやら豪はここに運び込まれる前の事を、朧気ながら覚えているようだ。
花那がどう答えていいのか悩んでいると、豪がふと何かに気づいたような表情を浮かべた。
「そうだ。俺は鬼道豪と言う。君の名前を聞いていいだろうか?」
「私は……」
この名前を告げていいのだろうかと花那は逡巡した。
だが、異能の力を隠している今、今世では豪とはもう関わることはないだろう。
そう思った花那は、自らの名前を告げた。
「興津花那です」
その時、何の前触れもなく突然襖が乱暴に開かれたかと思うと、同時に声を荒げて入ってきたのは彩だった。
「ちょっと! 髪飾りはどうなっているのよ! お父様に聞いたわよ! 私の髪飾りを取りに行かないで、変な男を連れ込んだんですって!」
眦を吊り上げていた彩だったが、不意に豪に目を留め、今度は息を呑んで目を丸くしたかと思うと、ほんのりと顔を赤らめた。
「あなたはこの屋敷の御息女か?」
「え? ええそうですわ」
彩は怒りの表情をすっと消し、代わりに上品に微笑みながら答えた。
「俺の名前は鬼道豪と言う。この屋敷に電話があるのなら貸していただきたい」
「……鬼道? ま、まさか鬼道財閥の!?」
彩は目を皿のように丸くして、半分叫ぶように驚きの声を上げた。
鬼道家は五大華族の一つで膨大な富を持ち、財閥を築いている。
「あぁ、申し訳ありません! こんな見窄らしいお部屋にお通ししてしまって。い、今お父様を呼んで参りますわ!」
慌てふためいた様子で彩は母屋へと飛ぶように戻っていった。
その様子を見送った豪は、再びすっと花那に視線を向けた。
「君はいつもこういう扱いを受けているのか?」
真っ直ぐに見つめる豪の瞳は、真実を求めるような真摯な眼差しで、同時に嘘や言い逃れも許さないような強さがあった。
「その……私の容姿はこのような不気味なものですから、仕方ありません」
花那は短く、それだけを告げた。
すると、豪は意外な言葉を口にした。
「もし、君がこの屋敷から出れるとしたら、どうする?」
「え?」
「君はこの境遇から、この屋敷から逃れたいとは思わないのか?」
聞き返した花那に対し、豪は再び尋ねた。
逃れたいか逃れたくないか。
本音を言えば、この屋敷から出て行きたい。
理不尽に虐げられることも、苛立ち紛れに叩かれることも、もう嫌だった。
しかし、この色無しの容姿では外に出れば異端の目で見られ、まともに生活できないのは目に見えている。
だから、どんなに不条理な状況だとしても、この生活に甘んじるしかない。
「不可能です」
花那は静かに答えた。
「不可能か可能かを聞いているのではない。君が家を出たいと思うか思わないかを聞いているんだ」
「思うか思わないか?」
「あぁ、人には無限の可能性がある。そして常に自分で選択をしなくてはならないんだ。他人にそれを委ねるな。自分自身の意志で選択すべきだと、俺は思う」
豪の言葉はあまりにも真っ直ぐで、そしてあまりにも正論であった。
それでも花那にはその選択肢すら与えられていない。
それをどう伝えればいいのか。
言葉が見つからず黙り込んでいると、俄に廊下が慌ただしくなり、部屋に駆け込んできたのは宏次朗だった。
額には汗が滲み、それを何とか手ぬぐいで拭きながら、笑顔を張り付けている。
「娘から貴方様が鬼道様だと聞きました。この娘が気が利かず、こんな見窄らしいお部屋にお通しして申し訳ありません。ささ、こちらに。電話は自由にお使いください」
そんな宏次朗を豪は静かに見つめた後、ゆっくりと立ち上がると、再び花那に顔を向けた。
「まぁ、その時がきたら考えてくれ」
豪は一言そう言うと、そのまま花那の部屋から出て行った。
死に戻る前と同様に広く逞しい背中を花那は見送った。
(その時って、どういう意味かしら?)
豪の言葉の意味が花那には分からなかった。
ただ、もう二度と豪と会うことはないことだけは分かっている。
部屋でぼんやり考えていると、彩と宏次朗の登場と共に姿を隠していた速日がすっと姿を現し、薄い硝子の窓に身を預けて口を開いた。
「あいつが言っていることは一理ある。俺も言っているだろう? お前が経験したあれはお前が選択した結果だ。だが、選択肢を違えれば未来は変えられるものなんだ」
その言葉は速日が何度も言ってくれる言葉だ。
そして、豪もまた先程言っていたのと同じ意味の言葉だ。
花那はその言葉を噛みしめるようにして目を閉じた。
目裏に広がるのは真っ暗な闇。
(それでも、豪様と関わっては駄目だわ)
例えどんなに自分の境遇が辛くとも、自分が耐えれば花那が死ぬ未来も、豪が死ぬ未来も訪れはしないのだ。
示された選択肢を違えてはならない。
花那は自分自身にそう言い聞かせるのだった。
人外の彼は、滅多なことでは姿を現さない。
それくらい花那が必死の形相だったのだろう。
「花那、大丈夫か!?」
速日が慌てて花那とは反対側の豪の肩を担ぐと、そのまま豪を布団に横たえるのを手伝ってくれた。
そして横になった豪の顔を見た速日は息を呑み、目を見開いて呟いた。
「こいつは……」
花那が運んだ青年が豪だと分かったのだろう。
どうしてこんなことになったのかとその目で尋ねてきていたのだが、花那はそれすらも気づかなかった。
急いで豪の隊服を脱がせると、中の開襟シャツは真紅で濡れていた。
それが死に戻り前、花那が最後に見た豪の血を想起させ、瞬間的に手を止めてしまった。
死に戻り前の夢を今朝方見てしまったことも相まって、ドクドクと嫌な鼓動が胸を叩く。
(落ち着いて、これは夢じゃないわ)
花那は不安と恐怖を振り払うように小さく頭を振った後、震える指先を押し止めるようにしながら、何とか止血を試みた。
包帯を巻き、傷薬をつける。
体中にあった切り傷も手当をしたが、豪の綺麗な顔についた傷が痛々しい。
これで一応の手当ては終わったが、一番の問題は豪の体を蝕むようについた禍牛の残滓だ。
これを祓わなくては豪は確実に命を落としてしまうだろう。
幸いにして花那の部屋は離れにあり、人が来ることがない。
元々倉庫として使っていた場所で、離れでも奥まった場所にあるのだ。
念のため外の音に耳を澄ませるが、聞こえるのは窓を叩く雨の音だけ。
これならば異能の力を使っても、屋敷の人間に知られることも無いはずだ。
豪の眉間には深く皺が寄り、呼吸は乱れて苦しげに小さく呻いていた。
その手をそっと握ると、花那はゆっくりと目を閉じて豪の体に意識を集中させた。
小さく息を整え、祓え言葉を紡いだ。
「天切る、地切る、は八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり」
まるで氷のように冷たく、そして涼やかな声が部屋の空気を震わす。
その瞬間、花那の言葉に応じて白刃のような光が豪の体を切り裂く。
正確には、豪の体についた禍牛を切り裂いた。
ヒュンという風を斬る音共に、禍牛は跡形もなく消えた。
花那がゆっくりと目を開けて豪を見つめると、彼の呼吸の乱れは無くなり、眉間の皺もまた無くなっていた。
一安心した花那は、そっと豪から手を離した。
温もりがゆっくりと失われていくのが少しだけ名残惜しい。
すると足音もなく速日が花那の隣に座ると、豪の顔を覗き込んだ。
その目には戸惑いと困惑の色が滲んでいる。
「こいつ……鬼道豪、だよな」
速日に尋ねられても即答できない。
花那自身が信じられない思いだった。
外はすっかり夜の帳が下り、降りだした雨が容赦なく窓ガラスを叩いている。
雨音を聞きながら、花那は豪を見つめた。
その面立ちは花那が死ぬ前のものと全く変わらない。
高く通った鼻梁に薄い唇、前髪が少し長めの黒髪には艶があり、蝋燭の灯りに照らされて美しかった。
(本当に……豪様だわ)
花那の部屋にある灯りは蝋燭の灯だけで、小さく炎が揺らめくと豪の影も揺れる。
まったく現実味が無かったが、その揺らめきが豪の存在が確かだと示しているようにも思えた。
やがて外の雨は止み、雲間から差し込んだ光が窓から部屋へと入り、傾いた太陽は、灰色の雲をうっすらと茜色に染めていく。
その頃には、先ほどの動揺はすっかりと落ち着き、花那は蝋燭の灯りを消そうと腰を浮かせた。
そしてすっかり顔色の良くなった豪の顔を見てから、立ち上がろうとした時だった。
豪の睫毛がふるりと揺れ、ゆっくりと目を覚ました。
「ここは……」
「気づきましたか?」
豪は少しだけぼんやりと天井を見つめたあと、花那の言葉にゆっくりと体を起こした。
「無理なさらないでください」
花那が慌てて豪の体を支える。
「すまない……ここはどこだ?」
「ここは興津家の屋敷です」
「興津……」
まだ少し意識がはっきりしないのか、花那の言葉を復唱するように呟いた豪だったが、ようやく状況が分かったようだ。
ハッと我に返った様子になると、花那の方に勢いよく向き直った。
豪は何か言おうと口を開いたのだが、瞬時にその言葉を飲み込んだ。
目を見開き、その瞳には動揺の色がありありと浮かんでいた。
花那は一瞬、豪が花那の事を覚えているのではと錯覚してしまったが、すぐにその考えは否定できた。
「髪が……」
その言葉で花那はようやく豪が驚いている理由に考えが至った。
そうだ、自分は普通の容姿をしているわけではないのだ。
自分は――色無しだ。
「も、申し訳ありません。気味が悪いですよね。今、人を呼んで参ります」
自分の姿を見られたくなくて、思わず顔を背けた。
そのまま立ち上がって部屋を出ようとした花那の手首を、豪の力強い手が掴んでそれを阻止した。
「君とは会ったことがあるか?」
「え?」
豪の言葉にドクンと心臓が跳ねる。
今の豪が花那の事を知っている筈はない。動揺を鎮めるように手で胸を押さえながら、花那は笑顔で答えた。
「いいえ、初めてお目にかかります」
「そうか……」
豪は一旦言葉を区切ると、今度はそっと花那の頬に手を伸ばした。
男性特有のごつごつした指だったが、まるで壊れ物を扱うように優しく触れられ、思わず息を止めてしまう。
「俺のためにこんな怪我をさせてしまって……」
始め、豪が何を言っているのか分からなかった。
気遣うように頬に向けられている視線の意味が分からず首を捻った花那だったが、一拍遅れて、宏次朗に叩かれて頬が赤く腫れていることに気づいた。
「いえ、お気になさらないでください。いつもの事ですから」
「いつもの?」
花那の言葉に、豪が怪訝な表情を浮かべた。
「な、何でもありません」
豪に心配をかけたくない思いから、反射的にそう答えた。
そっと頬から手を離した豪は、何やら深く考え込んでしまった。
そんな豪に対し、花那はどう対応していいか困惑してしまう。
不意に豪が何かを思いついたように表情を変えたかと思うと、今度は花那の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「礼をさせてくれないか?」
「いいえ、そんなことは不要です。私の方こそ助けていただきましたから」
「しかし、俺のせいでこんな目に遭ったのだろう?」
どうやら豪はここに運び込まれる前の事を、朧気ながら覚えているようだ。
花那がどう答えていいのか悩んでいると、豪がふと何かに気づいたような表情を浮かべた。
「そうだ。俺は鬼道豪と言う。君の名前を聞いていいだろうか?」
「私は……」
この名前を告げていいのだろうかと花那は逡巡した。
だが、異能の力を隠している今、今世では豪とはもう関わることはないだろう。
そう思った花那は、自らの名前を告げた。
「興津花那です」
その時、何の前触れもなく突然襖が乱暴に開かれたかと思うと、同時に声を荒げて入ってきたのは彩だった。
「ちょっと! 髪飾りはどうなっているのよ! お父様に聞いたわよ! 私の髪飾りを取りに行かないで、変な男を連れ込んだんですって!」
眦を吊り上げていた彩だったが、不意に豪に目を留め、今度は息を呑んで目を丸くしたかと思うと、ほんのりと顔を赤らめた。
「あなたはこの屋敷の御息女か?」
「え? ええそうですわ」
彩は怒りの表情をすっと消し、代わりに上品に微笑みながら答えた。
「俺の名前は鬼道豪と言う。この屋敷に電話があるのなら貸していただきたい」
「……鬼道? ま、まさか鬼道財閥の!?」
彩は目を皿のように丸くして、半分叫ぶように驚きの声を上げた。
鬼道家は五大華族の一つで膨大な富を持ち、財閥を築いている。
「あぁ、申し訳ありません! こんな見窄らしいお部屋にお通ししてしまって。い、今お父様を呼んで参りますわ!」
慌てふためいた様子で彩は母屋へと飛ぶように戻っていった。
その様子を見送った豪は、再びすっと花那に視線を向けた。
「君はいつもこういう扱いを受けているのか?」
真っ直ぐに見つめる豪の瞳は、真実を求めるような真摯な眼差しで、同時に嘘や言い逃れも許さないような強さがあった。
「その……私の容姿はこのような不気味なものですから、仕方ありません」
花那は短く、それだけを告げた。
すると、豪は意外な言葉を口にした。
「もし、君がこの屋敷から出れるとしたら、どうする?」
「え?」
「君はこの境遇から、この屋敷から逃れたいとは思わないのか?」
聞き返した花那に対し、豪は再び尋ねた。
逃れたいか逃れたくないか。
本音を言えば、この屋敷から出て行きたい。
理不尽に虐げられることも、苛立ち紛れに叩かれることも、もう嫌だった。
しかし、この色無しの容姿では外に出れば異端の目で見られ、まともに生活できないのは目に見えている。
だから、どんなに不条理な状況だとしても、この生活に甘んじるしかない。
「不可能です」
花那は静かに答えた。
「不可能か可能かを聞いているのではない。君が家を出たいと思うか思わないかを聞いているんだ」
「思うか思わないか?」
「あぁ、人には無限の可能性がある。そして常に自分で選択をしなくてはならないんだ。他人にそれを委ねるな。自分自身の意志で選択すべきだと、俺は思う」
豪の言葉はあまりにも真っ直ぐで、そしてあまりにも正論であった。
それでも花那にはその選択肢すら与えられていない。
それをどう伝えればいいのか。
言葉が見つからず黙り込んでいると、俄に廊下が慌ただしくなり、部屋に駆け込んできたのは宏次朗だった。
額には汗が滲み、それを何とか手ぬぐいで拭きながら、笑顔を張り付けている。
「娘から貴方様が鬼道様だと聞きました。この娘が気が利かず、こんな見窄らしいお部屋にお通しして申し訳ありません。ささ、こちらに。電話は自由にお使いください」
そんな宏次朗を豪は静かに見つめた後、ゆっくりと立ち上がると、再び花那に顔を向けた。
「まぁ、その時がきたら考えてくれ」
豪は一言そう言うと、そのまま花那の部屋から出て行った。
死に戻る前と同様に広く逞しい背中を花那は見送った。
(その時って、どういう意味かしら?)
豪の言葉の意味が花那には分からなかった。
ただ、もう二度と豪と会うことはないことだけは分かっている。
部屋でぼんやり考えていると、彩と宏次朗の登場と共に姿を隠していた速日がすっと姿を現し、薄い硝子の窓に身を預けて口を開いた。
「あいつが言っていることは一理ある。俺も言っているだろう? お前が経験したあれはお前が選択した結果だ。だが、選択肢を違えれば未来は変えられるものなんだ」
その言葉は速日が何度も言ってくれる言葉だ。
そして、豪もまた先程言っていたのと同じ意味の言葉だ。
花那はその言葉を噛みしめるようにして目を閉じた。
目裏に広がるのは真っ暗な闇。
(それでも、豪様と関わっては駄目だわ)
例えどんなに自分の境遇が辛くとも、自分が耐えれば花那が死ぬ未来も、豪が死ぬ未来も訪れはしないのだ。
示された選択肢を違えてはならない。
花那は自分自身にそう言い聞かせるのだった。



