先程まで立ち込めていた雲は、更にその色を増し、風は湿り気を帯びてきていた。
一雨来るかもしれない。
早くしなければ髪飾りを受け取って帰る頃には、土砂降りの雨に見舞われる可能性もある。
そう思って足早に帝都へと続く一本道を歩いていると、ひと際大きな風が吹いて、欅の木々をざわつかせた。
少し湿った風が、花那の白銀色の髪を揺らす。
その時だった。
耳にざわりという葉音が聞こえてきて、花那は驚いて思わず足を止めた。
(もしかして……禍牛……?)
そう言えば、先ほどの女中たちが近所に化け物――すなわち禍牛が出ると話していた。
そのことを思い出した花那は、茂みに意識を集中させた。
もし、ここで禍牛が襲ってきたらどうすればいいだろう。
禍牛は普通の人間には見えない。
だが、それに取り憑かれた者は、時として暴れ、人を襲うこともあるのだ。
一般にはそれは発狂した人間だと思われたり、阿片中毒者の人間の異常行動だとも思われている。
禍牛だけなら花那の異能で祓うこともできるだろうが、取り憑かれた人が暴れた場合、女性の花那では腕力でも負けるのは必須だ。
そうでなくても、物取りに襲われてしまえば、花那には成す術もない。
(禍牛? それとも人?)
緊張で心臓がバクバクと音を立て、暴れているのが分かる。
固唾を飲んで草むらを見つめていたその時だった。
突然爆音がしたかと思うと、同時に木々を薙ぎ倒して何かが土煙と共に花那の前に現れた。
転げるように体を回転させた黒い塊は、土埃で視界がかすむ中でゆっくりと起き上がった。
「っ!」
驚きの余り、息を止めた花那の目の前に現れたのは、泥人形のように半分溶けた姿の男だった。
否、男性の体の半分を禍牛が覆っているのだ。
薄い灰色や茶色がまだらに混ざった色をして、ぶよぶよとした禍牛が、男性の体を飲み込むように蠢き、表面には大小様々な大きさの目がぎょろぎょろと四方を見ている。
そしてそこからは赤子のような手が無数に出ていて蠢いていた。
(やっぱり禍牛だわ!)
禍牛の男がゆらりと体を揺らし、赤く充血した目で花那を捕らえた。
その鋭い眼差しに、身が竦んでしまう。
瞬間的に異能を使い、禍牛と対峙しようかと構えたものの、人目についてしまうかもしれないと、一瞬そんな考えが頭をかすめた。
だから反応が遅れてしまった。
咆哮を上げた禍牛の男の背中から突然無数の手のようなものが伸びて、花那を襲う。
(殺される!)
身を固くして反射的にギュッと目を閉じた花那だったが、耳に風切りの音が飛び込んだ。
驚いて目を開けると、そこにあったのは軍服の青年の背中。
白く長い外套のような服を身に纏っており、その裾が風に靡いて揺れた。
青年は花那を背に庇い、そして禍牛に対しては日本刀の鋭い切っ先を向けていた。
グオオオオオオ
大地を揺るがすような唸り声を上げた禍牛は、青年に襲いかかるが、彼はそれを薙ぎ払い、そして振りかぶって剣を下ろす。
ヒュンという音がしたかと思うと、禍牛の男は袈裟懸けに切られ、そしてそのまま倒れた。
(禍牛が……祓われた?)
どすんという鈍い音がして、気づけば禍牛が跡形もなく消えていた。
後に残ったのは、青白い顔をした男の亡骸だけだった。
異能を使えるものしか禍牛を祓うことはできない。
ということは、この青年は異能を持つのだろうか?
そんな疑問を持ち、驚きの面持ちで花那は青年の背中を見つめた。
「あの……助けて下さりありがとうございました」
花那が声を掛けると、呼びかけに応じるように青年がゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞬間、花那は思わず息を呑んだ。
(嘘……どうしてここに豪様が……?)
瞠目したまま青年の端正な顔を見つめ、花那は驚きの余り声を出せないでいた。
それは予想だにしなかった出会いだった。
頭が真っ白になり、花那が言葉を発せないでいると、振り返った豪が花那を見ると同時に、突然その場に崩れ落ちるように倒れた。
「豪様!?」
その名を呼びながら急いで駆け寄った花那の呼びかけに、豪は答えることはなく小さく呻き声を漏らすだけだった。
見れば白い隊服は血と泥にまみれており、体にも顔にも傷がついている。
何よりも驚いたのは、豪の体には禍牛の残骸がべったりと張り付いて蠢いていることだった。
このままでは、豪は禍牛に取り込まれ、死んでしまうのは明白だった。
(早く手当をしなくちゃ!)
豪を手当すべきなのは頭では分かったが、それでも花那に一瞬の躊躇いが生じた。
花那が豪と関われば、豪が死んでしまう未来が訪れる可能性が生じてしまう。
それに、今は彩の言いつけで店に髪飾りを取りに行かなくてはならない。
彩の言いつけを破れば、叔父である宏次郎から酷い折檻を受けるのは目に見えている上、母の形見も失ってしまう。
花那はどうすべきか悩んだが、その答えはすぐに出た。
あの時、豪は自らの身の危険を顧みず、花那を助けてくれた。
だから豪を救えるのであれば、自分が殴られるくらい平気だ。
痛みなどとうに慣れてしまっている。
母の形見を失うことは辛いが、それでも豪を傷ついているのを見て見ぬふりはできない。
そう思って花那は覚悟を決めた。
「大丈夫ですか? しっかりなさってください」
だが豪は苦悶の表情を浮かべたままで、花那の呼びかけには答えなかった。
「私の屋敷にお連れします。少し歩けますか?」
何度か豪の肩を揺すり、耳元で大声で話しかけると、ようやくうっすらと目を開いた。
「すまな……い……」
花那は豪の腕を自らの肩に掛けると、豪と共に屋敷へと戻った。
※
少々雨に降られてしまったが、本降りになる前に何とか屋敷に辿り着くことができた。
花那が息を切らして玄関に駆け込むと、迎えた女中が目を丸くして驚いた。
「ま、まぁ! 何事?」
「すみません、怪我人の手当てをさせてくださいませんか?」
髪をしっとりと濡らし、息せき切らせながらそう言った花那に、女中は眉を顰めたかと思うと、そのままバタバタと足音を鳴らして屋敷の奥へと駆けていった。
「何があったんだ?」
そう言いながら奥からやって来たのは叔父の宏次郎だった。
花那はその姿を認めた瞬間、今度は宏次郎に向かって更に頭を下げて懇願を続けた。
「旦那様、どうかこの方の手当てをさせてください」
宏次郎は花那を一瞥した後、ぐったりとしたまま花那に寄りかかる豪に目を向け、そして冷たく言い放った。
「なんなんだこの男は」
「道で倒れていらっしゃったのです。怪我をされていて……」
「それでどこの馬の骨か分からん男を拾って来たのか? 薬だってタダじゃない。こんな男など助けても一銭にもならないじゃないか。さっさと追い出せ!」
そう怒鳴った宏次朗は、玄関を指さしてそう命じた。
勢いよく腕を振ったので、着物の袖がバサリと音を立てる。
その激しい音が、まるで宏次朗の怒りを表しているかのようだった。
「それでも、見捨てることはできません。お願いします!」
「〝色無し〟の分際で、当主の俺に意見するつもりか!」
雷のような大きな声で怒鳴られ、花那の肩がびくりと震える。
だが、人の命がかかっているのだ。ここで引き下がるわけにはいかない。
「どんな罰も受けます。ですからお願いします……」
繰り返し花那が頼むと、突然宏次郎にグッと髪を掴まれて顔を上げさせられた。
かと思うと、頬を思い切り引っ叩かれていた。
鋭い痛みが頬に走り、じんじんと痛んだ。
その様子を宏次郎は鼻を鳴らして一瞥したあと、鋭い口調で言った。
「ふん、介抱なら自分の部屋でしろ。ただし、お前の部屋から一歩でも外に出すな。分かったな」
「……ありがとうございます」
踵を返しつつこちらを振り向いた宏次朗は、もう一度豪を虫けらを見るような目で一瞥した後、そのまま屋敷の奥へと消えていった。
それを見送った花那はほっと胸を撫で下ろすと、再び豪の耳元で声をかけた。
「もう少しで私の部屋です。歩けますか?」
相変わらず眉間に皺を寄せた豪は、小さく頷くだけの返事をした。
そうしてゆっくりと立ち上がった豪の肩を担ぎ、花那はなんとか自室に連れていくことができたのだった。
一雨来るかもしれない。
早くしなければ髪飾りを受け取って帰る頃には、土砂降りの雨に見舞われる可能性もある。
そう思って足早に帝都へと続く一本道を歩いていると、ひと際大きな風が吹いて、欅の木々をざわつかせた。
少し湿った風が、花那の白銀色の髪を揺らす。
その時だった。
耳にざわりという葉音が聞こえてきて、花那は驚いて思わず足を止めた。
(もしかして……禍牛……?)
そう言えば、先ほどの女中たちが近所に化け物――すなわち禍牛が出ると話していた。
そのことを思い出した花那は、茂みに意識を集中させた。
もし、ここで禍牛が襲ってきたらどうすればいいだろう。
禍牛は普通の人間には見えない。
だが、それに取り憑かれた者は、時として暴れ、人を襲うこともあるのだ。
一般にはそれは発狂した人間だと思われたり、阿片中毒者の人間の異常行動だとも思われている。
禍牛だけなら花那の異能で祓うこともできるだろうが、取り憑かれた人が暴れた場合、女性の花那では腕力でも負けるのは必須だ。
そうでなくても、物取りに襲われてしまえば、花那には成す術もない。
(禍牛? それとも人?)
緊張で心臓がバクバクと音を立て、暴れているのが分かる。
固唾を飲んで草むらを見つめていたその時だった。
突然爆音がしたかと思うと、同時に木々を薙ぎ倒して何かが土煙と共に花那の前に現れた。
転げるように体を回転させた黒い塊は、土埃で視界がかすむ中でゆっくりと起き上がった。
「っ!」
驚きの余り、息を止めた花那の目の前に現れたのは、泥人形のように半分溶けた姿の男だった。
否、男性の体の半分を禍牛が覆っているのだ。
薄い灰色や茶色がまだらに混ざった色をして、ぶよぶよとした禍牛が、男性の体を飲み込むように蠢き、表面には大小様々な大きさの目がぎょろぎょろと四方を見ている。
そしてそこからは赤子のような手が無数に出ていて蠢いていた。
(やっぱり禍牛だわ!)
禍牛の男がゆらりと体を揺らし、赤く充血した目で花那を捕らえた。
その鋭い眼差しに、身が竦んでしまう。
瞬間的に異能を使い、禍牛と対峙しようかと構えたものの、人目についてしまうかもしれないと、一瞬そんな考えが頭をかすめた。
だから反応が遅れてしまった。
咆哮を上げた禍牛の男の背中から突然無数の手のようなものが伸びて、花那を襲う。
(殺される!)
身を固くして反射的にギュッと目を閉じた花那だったが、耳に風切りの音が飛び込んだ。
驚いて目を開けると、そこにあったのは軍服の青年の背中。
白く長い外套のような服を身に纏っており、その裾が風に靡いて揺れた。
青年は花那を背に庇い、そして禍牛に対しては日本刀の鋭い切っ先を向けていた。
グオオオオオオ
大地を揺るがすような唸り声を上げた禍牛は、青年に襲いかかるが、彼はそれを薙ぎ払い、そして振りかぶって剣を下ろす。
ヒュンという音がしたかと思うと、禍牛の男は袈裟懸けに切られ、そしてそのまま倒れた。
(禍牛が……祓われた?)
どすんという鈍い音がして、気づけば禍牛が跡形もなく消えていた。
後に残ったのは、青白い顔をした男の亡骸だけだった。
異能を使えるものしか禍牛を祓うことはできない。
ということは、この青年は異能を持つのだろうか?
そんな疑問を持ち、驚きの面持ちで花那は青年の背中を見つめた。
「あの……助けて下さりありがとうございました」
花那が声を掛けると、呼びかけに応じるように青年がゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞬間、花那は思わず息を呑んだ。
(嘘……どうしてここに豪様が……?)
瞠目したまま青年の端正な顔を見つめ、花那は驚きの余り声を出せないでいた。
それは予想だにしなかった出会いだった。
頭が真っ白になり、花那が言葉を発せないでいると、振り返った豪が花那を見ると同時に、突然その場に崩れ落ちるように倒れた。
「豪様!?」
その名を呼びながら急いで駆け寄った花那の呼びかけに、豪は答えることはなく小さく呻き声を漏らすだけだった。
見れば白い隊服は血と泥にまみれており、体にも顔にも傷がついている。
何よりも驚いたのは、豪の体には禍牛の残骸がべったりと張り付いて蠢いていることだった。
このままでは、豪は禍牛に取り込まれ、死んでしまうのは明白だった。
(早く手当をしなくちゃ!)
豪を手当すべきなのは頭では分かったが、それでも花那に一瞬の躊躇いが生じた。
花那が豪と関われば、豪が死んでしまう未来が訪れる可能性が生じてしまう。
それに、今は彩の言いつけで店に髪飾りを取りに行かなくてはならない。
彩の言いつけを破れば、叔父である宏次郎から酷い折檻を受けるのは目に見えている上、母の形見も失ってしまう。
花那はどうすべきか悩んだが、その答えはすぐに出た。
あの時、豪は自らの身の危険を顧みず、花那を助けてくれた。
だから豪を救えるのであれば、自分が殴られるくらい平気だ。
痛みなどとうに慣れてしまっている。
母の形見を失うことは辛いが、それでも豪を傷ついているのを見て見ぬふりはできない。
そう思って花那は覚悟を決めた。
「大丈夫ですか? しっかりなさってください」
だが豪は苦悶の表情を浮かべたままで、花那の呼びかけには答えなかった。
「私の屋敷にお連れします。少し歩けますか?」
何度か豪の肩を揺すり、耳元で大声で話しかけると、ようやくうっすらと目を開いた。
「すまな……い……」
花那は豪の腕を自らの肩に掛けると、豪と共に屋敷へと戻った。
※
少々雨に降られてしまったが、本降りになる前に何とか屋敷に辿り着くことができた。
花那が息を切らして玄関に駆け込むと、迎えた女中が目を丸くして驚いた。
「ま、まぁ! 何事?」
「すみません、怪我人の手当てをさせてくださいませんか?」
髪をしっとりと濡らし、息せき切らせながらそう言った花那に、女中は眉を顰めたかと思うと、そのままバタバタと足音を鳴らして屋敷の奥へと駆けていった。
「何があったんだ?」
そう言いながら奥からやって来たのは叔父の宏次郎だった。
花那はその姿を認めた瞬間、今度は宏次郎に向かって更に頭を下げて懇願を続けた。
「旦那様、どうかこの方の手当てをさせてください」
宏次郎は花那を一瞥した後、ぐったりとしたまま花那に寄りかかる豪に目を向け、そして冷たく言い放った。
「なんなんだこの男は」
「道で倒れていらっしゃったのです。怪我をされていて……」
「それでどこの馬の骨か分からん男を拾って来たのか? 薬だってタダじゃない。こんな男など助けても一銭にもならないじゃないか。さっさと追い出せ!」
そう怒鳴った宏次朗は、玄関を指さしてそう命じた。
勢いよく腕を振ったので、着物の袖がバサリと音を立てる。
その激しい音が、まるで宏次朗の怒りを表しているかのようだった。
「それでも、見捨てることはできません。お願いします!」
「〝色無し〟の分際で、当主の俺に意見するつもりか!」
雷のような大きな声で怒鳴られ、花那の肩がびくりと震える。
だが、人の命がかかっているのだ。ここで引き下がるわけにはいかない。
「どんな罰も受けます。ですからお願いします……」
繰り返し花那が頼むと、突然宏次郎にグッと髪を掴まれて顔を上げさせられた。
かと思うと、頬を思い切り引っ叩かれていた。
鋭い痛みが頬に走り、じんじんと痛んだ。
その様子を宏次郎は鼻を鳴らして一瞥したあと、鋭い口調で言った。
「ふん、介抱なら自分の部屋でしろ。ただし、お前の部屋から一歩でも外に出すな。分かったな」
「……ありがとうございます」
踵を返しつつこちらを振り向いた宏次朗は、もう一度豪を虫けらを見るような目で一瞥した後、そのまま屋敷の奥へと消えていった。
それを見送った花那はほっと胸を撫で下ろすと、再び豪の耳元で声をかけた。
「もう少しで私の部屋です。歩けますか?」
相変わらず眉間に皺を寄せた豪は、小さく頷くだけの返事をした。
そうしてゆっくりと立ち上がった豪の肩を担ぎ、花那はなんとか自室に連れていくことができたのだった。



