花那はすさんだ匂いで目を覚ました。
(ここは?)
驚いて身を起こそうとした花那だったが、両手が後ろ手に縛られ、思うように体が動かない。
それでも何とか藻掻きながら体を起こした花那の中に血の味が広がった。
殴られたのだろうか?
頬に宏次朗や彩に殴られた時のような痛みは感じないが、大輝に連れ去られた時に口の中を噛んでしまったのかもしれない。
そう思いつつ、花那は一度周囲を見回した。
人がいる気配はない。
捕らわれたところは蔵のようだ。
蔵といっても興津の屋敷にある和風の蔵ではなく、薄黒く汚れた赤レンガの壁で洋風の蔵だ。
高い所にある窓は風に晒されて曇っており、所々は蔦に覆われて日が遮られている。
薄暗く、最初は内部が良く分からなかった花那だったが、目を凝らしていると、ようやく倉庫内に置かれている物が分かってきた。
大きな作業台があり、その上には薬研や白いすり鉢、薬が入った瓶、薄緑色の四角い薬紙などの医療用具が雑然と置かれている。
並べられた試験管に、血液と思われる赤い液体が入っているのを見て、花那は小さく息を呑んだ。
その瞬間、花那の肌が粟立った。
背中に虫が這ったような忌避感と、ざわりとする胸の不快感。
これは、興津家の屋敷で時折感じていたものだった。
(ここはどこ? どうして私はこんなところにいるの?)
状況が分からず花那は動揺し、心臓がバクバクと鳴っている。
耳に付く心臓の音を落ち着けるように深呼吸した後、花那は自分の記憶を辿った。
確か鬼道家の屋敷にいて、台所で大輝と会話した。
そして大輝は風邪薬を飲んだ途端禍牛に変貌すると、花那をここまで連れてきた。
つまり大輝に拉致、もしくは誘拐されたということになる。
何故自分がこの場に連れてこられたのか、大輝の目的が分からない。
だが、現時点で殺されていないということは、花那に何らかの利用価値があるということだ。
(すぐに殺されることはなさそうね)
縛られた縄を解こうとするが、縄はきつく結ばれ、動けば動くほど花那の腕に痛みが走る。
幸いにして足は縛られているわけではないので、この縄さえなんとかできればこのまま脱出できないだろうか?
そう考えた花那は、速日に声を掛けることにした。
「速日、姿を現して」
花那が速日に声を掛けると、空中から音もなく速日が姿を現した。
速日は心配そうに眉を潜めながら、花那の前にしゃがみ込んで視線を合わせる。
「花那、大丈夫か?」
「ええ、平気よ。それよりここがどこか分かる?」
「軍本部の敷地内にある蔵だな」
軍本部内であることに、花那の体が思わず強張った。
大輝が花那を軍本部の蔵に連れて来たということは、軍の指示なのだろうか?
(異能を持つことが軍にバレた?)
大輝は花那が異能を持つことは知らないはずだ。
だが、何らかの方法で花那が異能を持つことを知り、軍に連行したのだろうか?
脳裏に死に戻り前の事が思い出される。
軍に拘束されれば、花那のせいで豪が死んでしまう未来が待っているかもしれない。
とにかく、早急にここから逃げる必要がある。
「速日、この縄を外せるかしら?」
「やってみる」
花那の求めに応じて、速日は花那の手首の縄に手をかけてそれを解き始めた。
「くっ、固いな。ナイフか何か道具が必要かもしれない。少し待っていてくれ」
花那が速日の言葉に頷くと、道具を探しに速日は姿を消した。
(そう言えば、大輝様はどうして禍牛になったのかしら?)
そう考えた時、花那の中でふと彩のことが思い出された。
大輝は薬を飲んだ瞬間に禍牛となったが、彩もまた薬を服用した途端禍牛に変貌した。
そして先程大輝が飲んだ薬の包みを思い出した。
普通は薬包には白い紙を使うものだが、二人とも薄緑色の紙で包まれた薬を飲んだ。
つまり同じ薬を飲んだことになる。
そして大輝は薬を飲む前に、その薬は翔也に処方されたと言っていた。
そこまで考えた花那に一つの考えが浮かんだ。
(まさか…‥彼が?)
犯人に思い当たり、花那が驚愕していると、ギイと錆びた金属の扉が開いた。
そして入って来たのは長髪の男は、花那の予想通りの人物だった。
「やっぱり翔也様だったのですね」
「おや? やっぱりということは僕が君を誘拐したことに気づいていたということですね」
「ええ。彩と大輝様が飲んだ薬が同じでしたから。あれは、翔也様が渡したものなのでしょう?」
花那が先ほどの推論を踏まえて説明した。
「ふふふ、花那さんは聡明ですね」
そう言って翔也は小さく微笑んだ。柔和な笑みなはずなのに、その目には陰鬱な色が浮かんでいた。
縄が解けるまでもう少し時間を稼ぐ必要がある。
そこで花那は矢継ぎ早に質問を重ねることにした。
「どうしてあんな薬を作ったのですか?」
「どうして、ですか。そうですね……初めは作ろうと思って作ったものではないんです」
「どういうことですか?」
「花那さんは異能が血に宿るって知っていますか?」
翔也は花那の問いには答えず、唐突にそう尋ねた。
「私は長年軍に言われて異能者を人為的に生み出す研究をしていました。その過程で、異能者の血を服用すれば異能になるのではと考えたんです。しかし実験したところ逆の反応が起きました」
「逆?」
「ええ。服用した者が禍牛に飲み込まれたんです。そこからいくつか実験をしました。過剰に服用すると死んでしまい、死んだ後に禍牛になってしまうんですよね。だからどの程度の薬で人は禍牛になるのかを実験したんです」
その言葉に花那はハッとした。
翔也は医者だ。大輝に風邪薬と称して薬を飲ませたと同様に、患者に薬を処方したとしたら……。
その患者が死亡して、動く死体となったのであれば。
「もしかして、患者さんを……実験に使った?」
余りにも恐ろしい考えに、花那は声を震わせて尋ねた。
「ええ。そうですよ。僕は医者ですからね。薬の開発には実験が必要ですから」
残酷な話だが、薬の開発には動物実験をしなくてはならない。
だがそれが人間で行ったことにも、そしてそれをさも当然というように話す翔也に対し、花那はぞっとした。
「禍牛憑依事件……あの動く死体は翔也様の仕業だったんですね」
花那の問いには答えず、翔也は薄く笑った。
それこそが答えだった。
「その話だと普通は死者が禍牛化するはずです。でも彩も大輝様も薬を飲んでから禍牛になりました。それが分からないのですが」
「二人に異能があったからです。異能を持つ人間が薬を服用すると、ある程度自我を持つことも分かりました。そして異能を持つ場合、その血で禍牛を生み出し、従わせることが興津彩のデータで分かりました」
彩も興津家の人間だ。だから本人は気づかなかっただろうが異能を持っていたのだろう。
それならば彩の血から禍牛が出現したことも納得がいく。
「でも最終的には禍牛になったのは何故ですか?」
「摂取する薬が許容範囲を超えると禍牛化してしまうんですよ。だから興津彩は最後に多量に薬を服用して禍牛になってしまった。その現場は花那さんもご覧になったでしょう?」
興津家で対峙した時、花那達に追い詰められた彩は、薬を一気に口に含んだ。
そして禍牛に飲み込まれ、花那たちを襲ってきた。
「でも興津彩が死んだのは痛手でしたね。実験データが取れなくなってしまった」
そこまで話が翔也は、やれやれと言うように首を振った。
彩は翔也の仲間であったはずだ。
なのに彩の命などどうでもよいと言うような口ぶりに、花那は怪訝な表情で尋ねた。
「実験データ……先ほどから貴方は彩を実験動物のように仰ってますが、彩と大輝、そしてあなたは共犯なのではないのですか?」
「そう矢継ぎ早に質問されても困ります。でも待っている時間もつまりませんし、説明してあげましょう」
花那は翔也の〝待っている時間〟という言葉が気になった。
彼は何を待っているのだろう。
そう疑問を持ったが、翔也が動機を説明し始めたので一旦その疑問を脳の隅に置いて、彼の話を聞くことにした。
「まず、私達は共犯ではありません」
花那は彩と大輝、そして翔也が禍牛憑依事件の犯人だと思っていたが、翔也の言葉はその予想を裏切る者であった。
が、それに続く言葉は、花那に衝撃をもたらした。
「興津彩も大輝君も私にとっては実験体に過ぎない」
「実験体……? 彩は進んでこの事件に加担したのではないのですか?」
彩は花那を殺すために薬を服用し、禍牛になった。
だから彩が翔也から薬を得るために事件に協力したと思ったのだが違うのだろうか?
花那の問いに、翔也はゆっくりと首を振った。
「いいえ」
「じゃあ、彩は騙されてあなたの実験体になってしまったんですね……」
それは衝撃の事実だった。
花那は彩が自分の意志で薬を服用し禍牛になったと思っていたが、そもそもあの薬を飲むとどうなるのかさえ、彩は知らなかったのだ。
何も知らず薬を渡され、翔也の言葉のまま薬を服用し、禍牛になって命を落とした。
その事実に、花那の胸がギュッと締まり、痛みを覚えた。
そんな花那対し、翔也は困ったように眉を下げ、小さくため息をついた。
「それは少々語弊がありますね。偶然が重なっただけです」
「偶然?」
「帝都で初めて貴方に会った時、私は君に興味を持ちました。冷静沈着で何があっても表情を変えないような豪君が一緒に連れている女性が一体何者か、興味があったのです。貴方の事を調べるうち、鬼道家にある文献から興津家は龍神の血筋で異能を持つ分かりました」
翔也が興津家の血の由来も、そして興津家の人間が異能を持つことを知っていたとは。
興津家の人間である宏次朗も彩でさえも知らなかった事実を、まさか翔也が調べているとは思わなかった。
「当時の僕は一人でも多くの異能を持つ人間のサンプルが欲しかった。そんな時、興津彩が私の診療所に診察にきたのです。興津彩と接触していると、彼女は自分の身の上を話し、貴方を殺したいと、それはもう憎々し気に言っていましたよ。だから僕はそんな彼女に手を貸したのです」
「私を殺せる薬を渡す、とでも言ったのですか?」
花那の問いに、翔也は満点を取った生徒に接する教師のように笑顔で頷いた。
「はい。そうしたらすぐに彼女は飛びつきましたよ。彼女は良く働いてくれました。有用な実験データを得ることができましたし、それで薬も改良できました。ですからあのように禍牛になってしまったので、処分するしかなかったのは残念です」
「大輝様を呼びに行ったのは、彩を倒すため……だったのですか?」
「ええ」
彩の視線の先にいたのは大輝ではなく翔也だった。
共犯だと思っていた人間が精鋭部隊と一緒に現れたのに驚いたのだろう
しかしまだ疑問が残る。
大輝は精鋭部隊の人間なのに何故翔也に加担したのか?
軍の指示で翔也の実験体になったのだろうか?
(ううん、それはあり得ないわ)
大輝が屋敷で薬を飲んだ時、彼はその薬をただの風邪薬だと思っていたようだった。
つまり、命令されてあの薬を飲んだわけではないのだ。
となると導き出される答えは一つだった。
「大輝様も騙したのですか?」
「彼の場合は興津彩とは少し違います。身近にいた異能者だったので利用させてもらったのです」
やはり薬を飲んだのは大輝の意思ではなかったのだ。
「興津彩の実験データから異能を持つ人間が薬を服用すると、その血に寄って動く死体を操れることが分かった。つまり、薬と異能の血を使えば禍牛を操ることが可能なのです。そこで私は、禍牛化した時にそれを意のままに操ることができるように薬を改良した。彼はその実験体です。今回、改良薬を大輝君に服用させ『薬を飲んだら花那をここまで連れて来るように』と命じておいたので、実験は大成功ですね」
花那を誘拐したのは大輝の意志ではなかった。
では実験体にされた大輝はどうなったのだろうか?
「大輝様はどうなったのですか!?」
「あぁそこにいますよ」
そう言って翔也が視線を向けた先には、倒れている大輝の姿があった。
禍牛に覆われているがすぐに払えば命は助かるかもしれない
安堵のため息をついた花那に、翔也はクツクツと笑った。
「おやおや自分の事より他人の心配ですか? 今は死んではいませんが、私の言いなりに動くのは変わりませんよ」
それでも、動く死体のように薬の摂取後に死んだわけではないことに安堵した。
ただ、花那の身は危険に晒されていることには変わりなく、緊張状態なのも変わらない。
花那はゆっくりと息を整えた後、気を引き締めてから翔也を見つめ、核心をつく質問をした。
「それで、貴方が私をここまで連れて来た目的はなんですか?」
「豪君を苦しめて殺したいからですよ」
声音だけ聞けば、それは楽し気で、まるで桜の花を褒めるような口調だった。
だが、発せられた言葉はその声音とは全く異なるものだった。
その歪な空気は狂気じみていた。
「豪君にとって貴方は大切な人間。だから貴方を捕らえれば豪君をおびき寄る事が出来ると思ったんです。そして禍牛となった貴方に豪君を襲わせる。愛する花那さんを殺すことになる豪君はさぞ苦しむだろう。私はその顔が見たい。もちろん最後は禍牛の餌食になって死んでもらうつもりです」
「残念ながら私が死んだとしても、豪様は傷つかないと思いますよ。私にはそんな価値などありませんから、私を餌にしようとしても無駄です。翔也様、今なら間に合います。どうか思い止まってください」
花那は必死に訴えたが、翔也は薄ら笑いを浮かべたまま首を振った。
「貴方は分かっていない。普段笑顔など見せず、常に冷静な彼が、どれだけ君に柔らかい表情を向けているのか。興津彩と貴方が戦った時、彼は貴方を守ろうとした。完璧で隙のない豪君にとって、アキレス腱が貴女だと確信しました。ですから大切な貴方を目の前で殺されたら、きっと豪君は深く傷つくはずです」
「……翔也様は思い違いをしています。私は異能など持っておりません。興津家の異能は全員が持っているわけではありませんから。異能を持っていない人間が薬を服用しても、貴方は禍牛を操ることができない。なら私がその薬を服用しても、貴方は私を操ることはできません」
悪あがきともいえる嘘だが、これで薬を飲まされない可能性はある。
花那は嘘だとはバレないように、翔也の目を真っ直ぐに見つめて言い切った。
だが、そんな僅かな可能性さえ、翔也の言葉は打ち消す。
「あぁ、隠さなくても結構ですよ。だって貴方が異能を使うのを見ていましたから」
「え?」
「興津彩との闘い。あれは見事でしたね。僕が興津彩に君たちの居場所を伝え、待ち伏せさせ、戦わせたのは、それを確かめたかったというのもあるんですよ」
全ては仕組まれていたのだと、気づいた時には遅かった。
もう嘘も言い訳も誤魔化しも効かない。
「さて、もうそろそろいいでしょう。この薬を飲んでもらいましょうか」
翔也はそう言って薄く笑いながら一歩一歩近づいて来た。
その手に薄緑色の薬包を持って――
花那は恐怖から息を止め、身を捩って何とか後退しようとしたが、上手くいかない。ただ芋虫のように体が動くだけだった。
(それでも、豪様の足手纏いになるわけにはいかないわ)
自分のせいで豪を死なせるわけにはいかない。
豪を死なせる未来を避けるために、花那はここまで生きてきたのだ。
だからこそ、花那はこの状況を一人で何とかしなければならない。
その時、花那の腕を拘束していた縄が少しずつ緩んできているのが分かった。
(速日、早くして!)
速日の姿は異能を持つ者にしか見えない。
幸いにして翔也の異能は弱く、この距離では速日の存在は見えてないようだが、これ以上近づかれては速日の存在がバレてしまう。
(助けて! 豪様!)
花那は祈るようにギュッと目を瞑った時だった。
「花那!」
そこに現れたのは、花那が待ち望んでいた人物でもあり、来てほしくなかった人物だった。
「豪……様……」
息を切らしてやって来た豪は、花那に目を留めた後、今度は翔也に向かって怒りを露わにした。
「翔也! どうしてこんなことをしたんだ! 何が目的だ!」
「目的、ですか……。そうですね、豪君への、いえ鬼道家への復讐でしょうか?」
「なに?」
「意味が分からないという顔ですね。折角ですし教えてあげましょう。私を狂わせた鬼道家の事を」
翔也はそう言うと、仄暗い瞳をしてゆっくりと口を開いた。
(ここは?)
驚いて身を起こそうとした花那だったが、両手が後ろ手に縛られ、思うように体が動かない。
それでも何とか藻掻きながら体を起こした花那の中に血の味が広がった。
殴られたのだろうか?
頬に宏次朗や彩に殴られた時のような痛みは感じないが、大輝に連れ去られた時に口の中を噛んでしまったのかもしれない。
そう思いつつ、花那は一度周囲を見回した。
人がいる気配はない。
捕らわれたところは蔵のようだ。
蔵といっても興津の屋敷にある和風の蔵ではなく、薄黒く汚れた赤レンガの壁で洋風の蔵だ。
高い所にある窓は風に晒されて曇っており、所々は蔦に覆われて日が遮られている。
薄暗く、最初は内部が良く分からなかった花那だったが、目を凝らしていると、ようやく倉庫内に置かれている物が分かってきた。
大きな作業台があり、その上には薬研や白いすり鉢、薬が入った瓶、薄緑色の四角い薬紙などの医療用具が雑然と置かれている。
並べられた試験管に、血液と思われる赤い液体が入っているのを見て、花那は小さく息を呑んだ。
その瞬間、花那の肌が粟立った。
背中に虫が這ったような忌避感と、ざわりとする胸の不快感。
これは、興津家の屋敷で時折感じていたものだった。
(ここはどこ? どうして私はこんなところにいるの?)
状況が分からず花那は動揺し、心臓がバクバクと鳴っている。
耳に付く心臓の音を落ち着けるように深呼吸した後、花那は自分の記憶を辿った。
確か鬼道家の屋敷にいて、台所で大輝と会話した。
そして大輝は風邪薬を飲んだ途端禍牛に変貌すると、花那をここまで連れてきた。
つまり大輝に拉致、もしくは誘拐されたということになる。
何故自分がこの場に連れてこられたのか、大輝の目的が分からない。
だが、現時点で殺されていないということは、花那に何らかの利用価値があるということだ。
(すぐに殺されることはなさそうね)
縛られた縄を解こうとするが、縄はきつく結ばれ、動けば動くほど花那の腕に痛みが走る。
幸いにして足は縛られているわけではないので、この縄さえなんとかできればこのまま脱出できないだろうか?
そう考えた花那は、速日に声を掛けることにした。
「速日、姿を現して」
花那が速日に声を掛けると、空中から音もなく速日が姿を現した。
速日は心配そうに眉を潜めながら、花那の前にしゃがみ込んで視線を合わせる。
「花那、大丈夫か?」
「ええ、平気よ。それよりここがどこか分かる?」
「軍本部の敷地内にある蔵だな」
軍本部内であることに、花那の体が思わず強張った。
大輝が花那を軍本部の蔵に連れて来たということは、軍の指示なのだろうか?
(異能を持つことが軍にバレた?)
大輝は花那が異能を持つことは知らないはずだ。
だが、何らかの方法で花那が異能を持つことを知り、軍に連行したのだろうか?
脳裏に死に戻り前の事が思い出される。
軍に拘束されれば、花那のせいで豪が死んでしまう未来が待っているかもしれない。
とにかく、早急にここから逃げる必要がある。
「速日、この縄を外せるかしら?」
「やってみる」
花那の求めに応じて、速日は花那の手首の縄に手をかけてそれを解き始めた。
「くっ、固いな。ナイフか何か道具が必要かもしれない。少し待っていてくれ」
花那が速日の言葉に頷くと、道具を探しに速日は姿を消した。
(そう言えば、大輝様はどうして禍牛になったのかしら?)
そう考えた時、花那の中でふと彩のことが思い出された。
大輝は薬を飲んだ瞬間に禍牛となったが、彩もまた薬を服用した途端禍牛に変貌した。
そして先程大輝が飲んだ薬の包みを思い出した。
普通は薬包には白い紙を使うものだが、二人とも薄緑色の紙で包まれた薬を飲んだ。
つまり同じ薬を飲んだことになる。
そして大輝は薬を飲む前に、その薬は翔也に処方されたと言っていた。
そこまで考えた花那に一つの考えが浮かんだ。
(まさか…‥彼が?)
犯人に思い当たり、花那が驚愕していると、ギイと錆びた金属の扉が開いた。
そして入って来たのは長髪の男は、花那の予想通りの人物だった。
「やっぱり翔也様だったのですね」
「おや? やっぱりということは僕が君を誘拐したことに気づいていたということですね」
「ええ。彩と大輝様が飲んだ薬が同じでしたから。あれは、翔也様が渡したものなのでしょう?」
花那が先ほどの推論を踏まえて説明した。
「ふふふ、花那さんは聡明ですね」
そう言って翔也は小さく微笑んだ。柔和な笑みなはずなのに、その目には陰鬱な色が浮かんでいた。
縄が解けるまでもう少し時間を稼ぐ必要がある。
そこで花那は矢継ぎ早に質問を重ねることにした。
「どうしてあんな薬を作ったのですか?」
「どうして、ですか。そうですね……初めは作ろうと思って作ったものではないんです」
「どういうことですか?」
「花那さんは異能が血に宿るって知っていますか?」
翔也は花那の問いには答えず、唐突にそう尋ねた。
「私は長年軍に言われて異能者を人為的に生み出す研究をしていました。その過程で、異能者の血を服用すれば異能になるのではと考えたんです。しかし実験したところ逆の反応が起きました」
「逆?」
「ええ。服用した者が禍牛に飲み込まれたんです。そこからいくつか実験をしました。過剰に服用すると死んでしまい、死んだ後に禍牛になってしまうんですよね。だからどの程度の薬で人は禍牛になるのかを実験したんです」
その言葉に花那はハッとした。
翔也は医者だ。大輝に風邪薬と称して薬を飲ませたと同様に、患者に薬を処方したとしたら……。
その患者が死亡して、動く死体となったのであれば。
「もしかして、患者さんを……実験に使った?」
余りにも恐ろしい考えに、花那は声を震わせて尋ねた。
「ええ。そうですよ。僕は医者ですからね。薬の開発には実験が必要ですから」
残酷な話だが、薬の開発には動物実験をしなくてはならない。
だがそれが人間で行ったことにも、そしてそれをさも当然というように話す翔也に対し、花那はぞっとした。
「禍牛憑依事件……あの動く死体は翔也様の仕業だったんですね」
花那の問いには答えず、翔也は薄く笑った。
それこそが答えだった。
「その話だと普通は死者が禍牛化するはずです。でも彩も大輝様も薬を飲んでから禍牛になりました。それが分からないのですが」
「二人に異能があったからです。異能を持つ人間が薬を服用すると、ある程度自我を持つことも分かりました。そして異能を持つ場合、その血で禍牛を生み出し、従わせることが興津彩のデータで分かりました」
彩も興津家の人間だ。だから本人は気づかなかっただろうが異能を持っていたのだろう。
それならば彩の血から禍牛が出現したことも納得がいく。
「でも最終的には禍牛になったのは何故ですか?」
「摂取する薬が許容範囲を超えると禍牛化してしまうんですよ。だから興津彩は最後に多量に薬を服用して禍牛になってしまった。その現場は花那さんもご覧になったでしょう?」
興津家で対峙した時、花那達に追い詰められた彩は、薬を一気に口に含んだ。
そして禍牛に飲み込まれ、花那たちを襲ってきた。
「でも興津彩が死んだのは痛手でしたね。実験データが取れなくなってしまった」
そこまで話が翔也は、やれやれと言うように首を振った。
彩は翔也の仲間であったはずだ。
なのに彩の命などどうでもよいと言うような口ぶりに、花那は怪訝な表情で尋ねた。
「実験データ……先ほどから貴方は彩を実験動物のように仰ってますが、彩と大輝、そしてあなたは共犯なのではないのですか?」
「そう矢継ぎ早に質問されても困ります。でも待っている時間もつまりませんし、説明してあげましょう」
花那は翔也の〝待っている時間〟という言葉が気になった。
彼は何を待っているのだろう。
そう疑問を持ったが、翔也が動機を説明し始めたので一旦その疑問を脳の隅に置いて、彼の話を聞くことにした。
「まず、私達は共犯ではありません」
花那は彩と大輝、そして翔也が禍牛憑依事件の犯人だと思っていたが、翔也の言葉はその予想を裏切る者であった。
が、それに続く言葉は、花那に衝撃をもたらした。
「興津彩も大輝君も私にとっては実験体に過ぎない」
「実験体……? 彩は進んでこの事件に加担したのではないのですか?」
彩は花那を殺すために薬を服用し、禍牛になった。
だから彩が翔也から薬を得るために事件に協力したと思ったのだが違うのだろうか?
花那の問いに、翔也はゆっくりと首を振った。
「いいえ」
「じゃあ、彩は騙されてあなたの実験体になってしまったんですね……」
それは衝撃の事実だった。
花那は彩が自分の意志で薬を服用し禍牛になったと思っていたが、そもそもあの薬を飲むとどうなるのかさえ、彩は知らなかったのだ。
何も知らず薬を渡され、翔也の言葉のまま薬を服用し、禍牛になって命を落とした。
その事実に、花那の胸がギュッと締まり、痛みを覚えた。
そんな花那対し、翔也は困ったように眉を下げ、小さくため息をついた。
「それは少々語弊がありますね。偶然が重なっただけです」
「偶然?」
「帝都で初めて貴方に会った時、私は君に興味を持ちました。冷静沈着で何があっても表情を変えないような豪君が一緒に連れている女性が一体何者か、興味があったのです。貴方の事を調べるうち、鬼道家にある文献から興津家は龍神の血筋で異能を持つ分かりました」
翔也が興津家の血の由来も、そして興津家の人間が異能を持つことを知っていたとは。
興津家の人間である宏次朗も彩でさえも知らなかった事実を、まさか翔也が調べているとは思わなかった。
「当時の僕は一人でも多くの異能を持つ人間のサンプルが欲しかった。そんな時、興津彩が私の診療所に診察にきたのです。興津彩と接触していると、彼女は自分の身の上を話し、貴方を殺したいと、それはもう憎々し気に言っていましたよ。だから僕はそんな彼女に手を貸したのです」
「私を殺せる薬を渡す、とでも言ったのですか?」
花那の問いに、翔也は満点を取った生徒に接する教師のように笑顔で頷いた。
「はい。そうしたらすぐに彼女は飛びつきましたよ。彼女は良く働いてくれました。有用な実験データを得ることができましたし、それで薬も改良できました。ですからあのように禍牛になってしまったので、処分するしかなかったのは残念です」
「大輝様を呼びに行ったのは、彩を倒すため……だったのですか?」
「ええ」
彩の視線の先にいたのは大輝ではなく翔也だった。
共犯だと思っていた人間が精鋭部隊と一緒に現れたのに驚いたのだろう
しかしまだ疑問が残る。
大輝は精鋭部隊の人間なのに何故翔也に加担したのか?
軍の指示で翔也の実験体になったのだろうか?
(ううん、それはあり得ないわ)
大輝が屋敷で薬を飲んだ時、彼はその薬をただの風邪薬だと思っていたようだった。
つまり、命令されてあの薬を飲んだわけではないのだ。
となると導き出される答えは一つだった。
「大輝様も騙したのですか?」
「彼の場合は興津彩とは少し違います。身近にいた異能者だったので利用させてもらったのです」
やはり薬を飲んだのは大輝の意思ではなかったのだ。
「興津彩の実験データから異能を持つ人間が薬を服用すると、その血に寄って動く死体を操れることが分かった。つまり、薬と異能の血を使えば禍牛を操ることが可能なのです。そこで私は、禍牛化した時にそれを意のままに操ることができるように薬を改良した。彼はその実験体です。今回、改良薬を大輝君に服用させ『薬を飲んだら花那をここまで連れて来るように』と命じておいたので、実験は大成功ですね」
花那を誘拐したのは大輝の意志ではなかった。
では実験体にされた大輝はどうなったのだろうか?
「大輝様はどうなったのですか!?」
「あぁそこにいますよ」
そう言って翔也が視線を向けた先には、倒れている大輝の姿があった。
禍牛に覆われているがすぐに払えば命は助かるかもしれない
安堵のため息をついた花那に、翔也はクツクツと笑った。
「おやおや自分の事より他人の心配ですか? 今は死んではいませんが、私の言いなりに動くのは変わりませんよ」
それでも、動く死体のように薬の摂取後に死んだわけではないことに安堵した。
ただ、花那の身は危険に晒されていることには変わりなく、緊張状態なのも変わらない。
花那はゆっくりと息を整えた後、気を引き締めてから翔也を見つめ、核心をつく質問をした。
「それで、貴方が私をここまで連れて来た目的はなんですか?」
「豪君を苦しめて殺したいからですよ」
声音だけ聞けば、それは楽し気で、まるで桜の花を褒めるような口調だった。
だが、発せられた言葉はその声音とは全く異なるものだった。
その歪な空気は狂気じみていた。
「豪君にとって貴方は大切な人間。だから貴方を捕らえれば豪君をおびき寄る事が出来ると思ったんです。そして禍牛となった貴方に豪君を襲わせる。愛する花那さんを殺すことになる豪君はさぞ苦しむだろう。私はその顔が見たい。もちろん最後は禍牛の餌食になって死んでもらうつもりです」
「残念ながら私が死んだとしても、豪様は傷つかないと思いますよ。私にはそんな価値などありませんから、私を餌にしようとしても無駄です。翔也様、今なら間に合います。どうか思い止まってください」
花那は必死に訴えたが、翔也は薄ら笑いを浮かべたまま首を振った。
「貴方は分かっていない。普段笑顔など見せず、常に冷静な彼が、どれだけ君に柔らかい表情を向けているのか。興津彩と貴方が戦った時、彼は貴方を守ろうとした。完璧で隙のない豪君にとって、アキレス腱が貴女だと確信しました。ですから大切な貴方を目の前で殺されたら、きっと豪君は深く傷つくはずです」
「……翔也様は思い違いをしています。私は異能など持っておりません。興津家の異能は全員が持っているわけではありませんから。異能を持っていない人間が薬を服用しても、貴方は禍牛を操ることができない。なら私がその薬を服用しても、貴方は私を操ることはできません」
悪あがきともいえる嘘だが、これで薬を飲まされない可能性はある。
花那は嘘だとはバレないように、翔也の目を真っ直ぐに見つめて言い切った。
だが、そんな僅かな可能性さえ、翔也の言葉は打ち消す。
「あぁ、隠さなくても結構ですよ。だって貴方が異能を使うのを見ていましたから」
「え?」
「興津彩との闘い。あれは見事でしたね。僕が興津彩に君たちの居場所を伝え、待ち伏せさせ、戦わせたのは、それを確かめたかったというのもあるんですよ」
全ては仕組まれていたのだと、気づいた時には遅かった。
もう嘘も言い訳も誤魔化しも効かない。
「さて、もうそろそろいいでしょう。この薬を飲んでもらいましょうか」
翔也はそう言って薄く笑いながら一歩一歩近づいて来た。
その手に薄緑色の薬包を持って――
花那は恐怖から息を止め、身を捩って何とか後退しようとしたが、上手くいかない。ただ芋虫のように体が動くだけだった。
(それでも、豪様の足手纏いになるわけにはいかないわ)
自分のせいで豪を死なせるわけにはいかない。
豪を死なせる未来を避けるために、花那はここまで生きてきたのだ。
だからこそ、花那はこの状況を一人で何とかしなければならない。
その時、花那の腕を拘束していた縄が少しずつ緩んできているのが分かった。
(速日、早くして!)
速日の姿は異能を持つ者にしか見えない。
幸いにして翔也の異能は弱く、この距離では速日の存在は見えてないようだが、これ以上近づかれては速日の存在がバレてしまう。
(助けて! 豪様!)
花那は祈るようにギュッと目を瞑った時だった。
「花那!」
そこに現れたのは、花那が待ち望んでいた人物でもあり、来てほしくなかった人物だった。
「豪……様……」
息を切らしてやって来た豪は、花那に目を留めた後、今度は翔也に向かって怒りを露わにした。
「翔也! どうしてこんなことをしたんだ! 何が目的だ!」
「目的、ですか……。そうですね、豪君への、いえ鬼道家への復讐でしょうか?」
「なに?」
「意味が分からないという顔ですね。折角ですし教えてあげましょう。私を狂わせた鬼道家の事を」
翔也はそう言うと、仄暗い瞳をしてゆっくりと口を開いた。



