興津屋敷の一件があってから1週間が経った。
あの後、豪は事件の事後処理に追われ、屋敷には深夜に帰宅し、早朝に軍本部へと向かう生活が続いていた。
あまりの多忙ぶりに花那は豪の健康を心配してたのだが、ようやくそれも一段落したようで、今日は二人でゆっくり朝食を食べることができた。
今日の朝食はじゃこと胡麻を入れた変わりご飯、出汁巻き卵、わかめの味噌汁に、豚のコマ肉と生姜の炒め物だ。
和食を基本にしつつ、最近習った洋風メニュウも取り入れてみた。
それを平らげた豪は箸を置いて手を合わせると、花那に微笑みかけた。
「御馳走様。今日も美味かった」
「ありがとうございます」
「君には朝早く朝食の準備をさせてすまなかったな。それに夜遅くまで待たせて悪かった。禍牛憑依事件は解決したし、暫くはのんびり過ごせると思う」
「私に出来るのはその程度だけですから、お気になさらないでください。でも、豪様が体を壊さないかと心配していましたので良かったです」
花那は豪の言葉にほっと安堵のため息を漏らした。
深夜に帰宅した豪を迎えると、「軍人なのだからそんなに軟ではない」と言われ、逆に「遅くまで起きていたら君の身が持たない」と言われていた。
それでも心配なものは心配だったので、どうしても夜に豪の帰宅を迎えていたのだが、そんな生活ももう一段落ということだ。
事件が無事に解決したことは喜ばしいことだが、一方で花那の中には違和感があった。
「やっぱり、禍牛憑依事件は彩が犯人だったのでしょうか?」
禍牛憑依事件は彩の死亡により容疑者死亡として処理された。
ただ、謎は残されている。
彩はどうやって死体に禍牛を憑依させたのか。
そして禍牛を操ることができたのか。
何故事件を起こしたのか。
もし花那への復讐だったのなら、興津家が没落する以前から禍牛憑依事件を起こしていたのは不自然だ。
となると、花那への復讐以外の目的で事件を起こしている筈だ。
そのことに花那はひっかりを覚えていた。
ふと零れるように言った花那の疑問に、豪は神妙な顔で答えた。
「そうだな。しかし興津彩が死亡した後、事件は発生していない。彼女が犯人だった可能性が濃厚だというのが軍の見立てだ」
「そうですか」
「……だが個人的には気になるところはあるがな」
どうやら豪も同じようなことを感じているようだ。
しかし、目的も手段も、彩が亡くなった今、知る手立てはない。
そんなことを考え込んでいると、豪がふと思い出したように、お茶を飲む手を止めて花那に尋ねた。
「そうだ。今週末は時間があるだろうか?」
「はい、特に予定はありません」
「なら、また帝都に行かないか? 事件も解決したから少しまとまった休みが取れそうなんだ。ちょうど帝国劇場でオペラの公演があるんだ」
「オペラですか? でも……私、そう言ったところに行ったことがなくて。私に分かるでしょうか?」
「肩肘を張る必要はないさ。ただ歌を聞けばいいだけだ。それにこの演目は君も読んだことのある『夜の森』というグリムお伽話だ」
夜の森——確か森に捨てられたヘンゼルとグレーテルの二人が悪い魔女を退治して財宝を持ち帰り、幸せに暮らすという話だったはずだ。
先日帝都の本屋でグリムお伽話を見てから、鬼道家の書庫にあったものを全部読んだ。
その中に、「夜の森」も収録されていたので内容は花那もよく知っていた。
それならば、観劇しても内容は理解できるだろう。
「分かりました。是非、ご一緒させてください」
「良かった。じゃあ、準備はまた松代さんにお願いしておく」
「ありがとうございます」
その時、コンコンという小気味よいノックの音と共にドアが開き、松代が談話室に入って来た。
「失礼します。斎藤様がお見えになりましたよ」
「あぁ、もうそんな時間か」
ふと時計を見ると、時間は11時を過ぎていた。
今日、豪は午後に登庁予定だったのだが、そろそろ出発の時間だ。
豪が屋敷を出発すると、その入れ替わりで大輝が屋敷の警護をすることになる。
豪は松代の言葉に頷くと、そのまま玄関に向かった。
花那もまた豪の後について玄関に向かうと、大輝がいつものように子犬の如くに目を輝かせた笑顔で花那と豪を迎えた。
「隊長、花那さん、おはようございます!」
「あぁ、おはよう」
「大輝様、おはようございます」
花那は挨拶して小さく礼をした後、豪に用意していた軍服のジャケットを手渡した。
隊長のみが着用を許される外套のような白い上着に袖を通した豪は、腰に日本刀を佩いて花那に向き直った。
「じゃあ行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「大輝、任せたぞ」
「はい!」
花那はそのまま深く頭を下げ、豪を見送った。
玄関の外に豪の姿が完全に見えなくなると、ふと視線を感じて花那は頭を上げた。
そこには大輝が満面の笑みを浮かべている姿がある。
だが、その笑顔には含みがあるように感じ、花那は首を傾げた。
「あの、どうされましたか?」
「いやーお二人が夫婦みたいだと思いまして」
「えっ!?」
予想外な大輝の言葉に、花那は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「め、夫婦だなんて……とんでもありません」
「えーあのやり取りを見たらどう見ても夫婦だと思いますけど。もしかして花那さんは隊長がお嫌いなんですか?」
「嫌いははずありません。豪様はとても素敵な方ですから」
そう。花那は豪に好意を持っている。
初めは死に戻りの前に助けてくれた恩人として。
そして興津の家から救い出してくれた恩人として。
そう言う意味での好意であったが、豪に優しく接してもらい、共にいる時間が長くなるにつれ、それは異性に対する好意へと変わっていった。
その自覚はある。
しかし豪は花那に対し、そんな感情を持っているわけがない。
(豪様は、私を憐れんでいるだけよ)
帝都に散策に行った時、豪は過去の自分の境遇と花那の境遇を重ね、憐れみの気持ちから助けてくれたのだと知った。
だから、豪には花那に対する好意はない。
頭では分かっている。
しかし思い出されるのは彩を倒した時、豪に抱きしめられた記憶だ。
そして至近距離まで近づいた端正な顔。
あの時、もし大輝がやってこなかったら、豪と唇が触れ合っていたかもしれない。
そのことを思い出すと、途端に花那の心臓が激しく脈打った。
胸がじんと痺れるような甘い感覚が、再び花那を襲う。
『俺は、君のことを……』
途切れた言葉の先に、豪は何を言おうとしていたのだろうか。
「花那さん? 大丈夫ですか?」
大輝に名前を呼ばれ、花那はハッと我に返った。
「あ、すみません。少しぼんやりしてしまって」
「いえいえ。じゃあ、俺、そろそろ見回りに行ってきます!」
「はい、よろしくお願いいたします」
花那は気持ちを切り替えるようにそう言うと、軽妙な足取りで玄関ホールを出て行く大輝を見送った。
※
朝食の後片付けをし終えた花那は、大輝のために、今度は昼食の準備を始めた。
大輝がこうして屋敷の警備をしてくれるのも今日が最後だ。
花那と松代が彩に襲われてからというもの、花那の護衛と鬼道家の警備をしていた大輝だったが、花那の命を狙っていた彩が死んだ今、警備の必要は無くなった。
故に、大輝も今日をもって警備の任を解かれることになったのだ。
(これまでお世話になったのだし、お昼は大輝様の好きなカレーライスにしようかしら)
そう思った花那は人参の皮を剥き始めたものの、どうしても事件の事を考えてしまう。
本当に、禍牛憑依事件は終わったのだろうか?
確かに彩は死亡し、花那はもう命を狙われることはなくなった。
だが、どうも腑に落ちない。
そもそも、彩は他の憑依された人間とは違かった。
他の人間は「動く死体」だったのに対し、彩は自我があったし、最初は禍牛に取り憑かれてもいなかった。
それにもう一つ彩の件では気になることがあった。
大輝が助けに来てくれた時、彩は「どうして? こんなところにいるの?」と呟いた。
あれは誰に向けて言った言葉だったのだろうか?
花那が振り返った時、そこに立っていたのは銃口を向けた大輝だった。
(もしかして……大輝様を見て?)
そんな考えが頭を過ぎる。
しかしすぐに頭を振って花那は自分の考えを否定した。
禍牛を倒す存在である精鋭部隊の大輝と彩に繋がりがあるはずはない。
「……考えても答えは分からないわね」
花那はそう独り言を呟いた。
時を同じくして、大輝の声が廊下に響いたかと思うと、台所にひょっこりと顔を出した。
「花那さん、こちらにいらっしゃいましたか」
「あ、大輝様。お戻りになられたんですね」
「はい。今日も異常ありませんでした!」
「見回りありがとうございました。今日で警備は最後でしたよね? お昼は大輝様の好きなカレーライスにしようと思ってるんです。少しお待ちください」
「わー本当ですか! ありがとうございます! 毎日この屋敷に来ていんで、明日から花那さんに会えなくなるのは寂しいですね」
それまで毎日顔を会わせていただけに、花那のまた寂しさ感じていた。
「それに花那さんの手料理が食べられなくなるのかぁ。それも残念だなぁ……ごほっごほっ」
心底残念そうに眉を下げた大輝が、突然咳込んだ。
音を聞くと風邪のような湿気を含んだ咳だった。
「大丈夫ですか?」
「なかなか風邪が治らなくて……」
「もしかして帝都で初めて会った時の風邪がまだ?」
「はい、そうなんです。翔也さんに薬は処方してもらっているんですけどね。あ、すみません。お水を貰ってもいいいでしょうか?」
「はい、勿論です。どうぞ」
花那は手早くコップに水を入れて差し出した。
「ありがとうございます」
大輝は申し訳なさそうにそう言ってコップを受け取ると、徐ろに懐から薄い緑色の薬包みを取り出した。
その薬包みの色に、花那は既視感を覚えた。
一般的に薬包みは白色の紙が使われるはずだ。だから色付きの、しかも薄緑色の紙を使った薬包は珍しい。
(どこで見たのかしら……)
花那が記憶を辿ろうとしていると、目の前の大輝が突然動きを止めた。
大輝の手からコップが滑り落ち、ガシャンという音が響いたかと思うと、大輝はがっくりと項垂れてしまった。
「大輝様? どうなさいました?」
花那は驚いて大輝の顔を覗き見た。
その目は虚ろで、焦点が定まっていない。
顔色は土気色に変わっていて、何かぶつぶつと呟いているようだ。
「具合が悪いのですか?」
大輝の様子は、どう見てもただならないもので、恐怖すら感じる。
花那は恐る恐る大輝の肩に触れた時、ようやく大輝の呟きが聞こえた。
「そうだ……俺は……花那さんを連れて行かなくちゃ……」
「え?」
「……さんに頼まれてたんだ……」
何を言っているのか分からず、花那は再び聞き直そうとした時だった。
突然大輝が顔を上げたかと思うと、その上半身が泥人形のように溶けて灰色に変じる。
ぶくぶくと歪に膨らみ、ヌメヌメと光る表面に現れた数多の目が花那を捉える。
(どうして大輝様が!?)
目の前で大輝が禍牛へと変貌していく。
それを花那は、驚きの余り目を見開いて凝視したまま動けなくなった。
混乱した花那だったが、すぐに後退って大輝と距離を取ると祓詞を叫んだ。
「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり!」
そうして柏手を打とうとした花那だったが、突如として禍牛の触手が伸びる。
小さな手を無数に生やした触手が花那の手首に巻き付き、動きを封じられてしまった。
「んーんー!」
助けを呼びたくても、口が塞がれて声も出せない。
すると大輝が花那を抱えたまま窓から飛び出した。
パリンという窓ガラスが割れる音が響くと同時に、大輝に囚われたまま浮遊する感覚がある。
「花那様!?」
壊れた窓越しに、驚愕の表情を浮かべる松代が視界の隅に映った。
(助け……て……)
禍牛に触れられたところからじわじわと穢れが入り、意識を保っていられない。
花那は薄れゆく意識の中で、もう一度自分の名を呼ぶ松代の声を聞いた気がしたが、答えることもできず、そのまま意識は闇に閉ざされていった。
あの後、豪は事件の事後処理に追われ、屋敷には深夜に帰宅し、早朝に軍本部へと向かう生活が続いていた。
あまりの多忙ぶりに花那は豪の健康を心配してたのだが、ようやくそれも一段落したようで、今日は二人でゆっくり朝食を食べることができた。
今日の朝食はじゃこと胡麻を入れた変わりご飯、出汁巻き卵、わかめの味噌汁に、豚のコマ肉と生姜の炒め物だ。
和食を基本にしつつ、最近習った洋風メニュウも取り入れてみた。
それを平らげた豪は箸を置いて手を合わせると、花那に微笑みかけた。
「御馳走様。今日も美味かった」
「ありがとうございます」
「君には朝早く朝食の準備をさせてすまなかったな。それに夜遅くまで待たせて悪かった。禍牛憑依事件は解決したし、暫くはのんびり過ごせると思う」
「私に出来るのはその程度だけですから、お気になさらないでください。でも、豪様が体を壊さないかと心配していましたので良かったです」
花那は豪の言葉にほっと安堵のため息を漏らした。
深夜に帰宅した豪を迎えると、「軍人なのだからそんなに軟ではない」と言われ、逆に「遅くまで起きていたら君の身が持たない」と言われていた。
それでも心配なものは心配だったので、どうしても夜に豪の帰宅を迎えていたのだが、そんな生活ももう一段落ということだ。
事件が無事に解決したことは喜ばしいことだが、一方で花那の中には違和感があった。
「やっぱり、禍牛憑依事件は彩が犯人だったのでしょうか?」
禍牛憑依事件は彩の死亡により容疑者死亡として処理された。
ただ、謎は残されている。
彩はどうやって死体に禍牛を憑依させたのか。
そして禍牛を操ることができたのか。
何故事件を起こしたのか。
もし花那への復讐だったのなら、興津家が没落する以前から禍牛憑依事件を起こしていたのは不自然だ。
となると、花那への復讐以外の目的で事件を起こしている筈だ。
そのことに花那はひっかりを覚えていた。
ふと零れるように言った花那の疑問に、豪は神妙な顔で答えた。
「そうだな。しかし興津彩が死亡した後、事件は発生していない。彼女が犯人だった可能性が濃厚だというのが軍の見立てだ」
「そうですか」
「……だが個人的には気になるところはあるがな」
どうやら豪も同じようなことを感じているようだ。
しかし、目的も手段も、彩が亡くなった今、知る手立てはない。
そんなことを考え込んでいると、豪がふと思い出したように、お茶を飲む手を止めて花那に尋ねた。
「そうだ。今週末は時間があるだろうか?」
「はい、特に予定はありません」
「なら、また帝都に行かないか? 事件も解決したから少しまとまった休みが取れそうなんだ。ちょうど帝国劇場でオペラの公演があるんだ」
「オペラですか? でも……私、そう言ったところに行ったことがなくて。私に分かるでしょうか?」
「肩肘を張る必要はないさ。ただ歌を聞けばいいだけだ。それにこの演目は君も読んだことのある『夜の森』というグリムお伽話だ」
夜の森——確か森に捨てられたヘンゼルとグレーテルの二人が悪い魔女を退治して財宝を持ち帰り、幸せに暮らすという話だったはずだ。
先日帝都の本屋でグリムお伽話を見てから、鬼道家の書庫にあったものを全部読んだ。
その中に、「夜の森」も収録されていたので内容は花那もよく知っていた。
それならば、観劇しても内容は理解できるだろう。
「分かりました。是非、ご一緒させてください」
「良かった。じゃあ、準備はまた松代さんにお願いしておく」
「ありがとうございます」
その時、コンコンという小気味よいノックの音と共にドアが開き、松代が談話室に入って来た。
「失礼します。斎藤様がお見えになりましたよ」
「あぁ、もうそんな時間か」
ふと時計を見ると、時間は11時を過ぎていた。
今日、豪は午後に登庁予定だったのだが、そろそろ出発の時間だ。
豪が屋敷を出発すると、その入れ替わりで大輝が屋敷の警護をすることになる。
豪は松代の言葉に頷くと、そのまま玄関に向かった。
花那もまた豪の後について玄関に向かうと、大輝がいつものように子犬の如くに目を輝かせた笑顔で花那と豪を迎えた。
「隊長、花那さん、おはようございます!」
「あぁ、おはよう」
「大輝様、おはようございます」
花那は挨拶して小さく礼をした後、豪に用意していた軍服のジャケットを手渡した。
隊長のみが着用を許される外套のような白い上着に袖を通した豪は、腰に日本刀を佩いて花那に向き直った。
「じゃあ行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「大輝、任せたぞ」
「はい!」
花那はそのまま深く頭を下げ、豪を見送った。
玄関の外に豪の姿が完全に見えなくなると、ふと視線を感じて花那は頭を上げた。
そこには大輝が満面の笑みを浮かべている姿がある。
だが、その笑顔には含みがあるように感じ、花那は首を傾げた。
「あの、どうされましたか?」
「いやーお二人が夫婦みたいだと思いまして」
「えっ!?」
予想外な大輝の言葉に、花那は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「め、夫婦だなんて……とんでもありません」
「えーあのやり取りを見たらどう見ても夫婦だと思いますけど。もしかして花那さんは隊長がお嫌いなんですか?」
「嫌いははずありません。豪様はとても素敵な方ですから」
そう。花那は豪に好意を持っている。
初めは死に戻りの前に助けてくれた恩人として。
そして興津の家から救い出してくれた恩人として。
そう言う意味での好意であったが、豪に優しく接してもらい、共にいる時間が長くなるにつれ、それは異性に対する好意へと変わっていった。
その自覚はある。
しかし豪は花那に対し、そんな感情を持っているわけがない。
(豪様は、私を憐れんでいるだけよ)
帝都に散策に行った時、豪は過去の自分の境遇と花那の境遇を重ね、憐れみの気持ちから助けてくれたのだと知った。
だから、豪には花那に対する好意はない。
頭では分かっている。
しかし思い出されるのは彩を倒した時、豪に抱きしめられた記憶だ。
そして至近距離まで近づいた端正な顔。
あの時、もし大輝がやってこなかったら、豪と唇が触れ合っていたかもしれない。
そのことを思い出すと、途端に花那の心臓が激しく脈打った。
胸がじんと痺れるような甘い感覚が、再び花那を襲う。
『俺は、君のことを……』
途切れた言葉の先に、豪は何を言おうとしていたのだろうか。
「花那さん? 大丈夫ですか?」
大輝に名前を呼ばれ、花那はハッと我に返った。
「あ、すみません。少しぼんやりしてしまって」
「いえいえ。じゃあ、俺、そろそろ見回りに行ってきます!」
「はい、よろしくお願いいたします」
花那は気持ちを切り替えるようにそう言うと、軽妙な足取りで玄関ホールを出て行く大輝を見送った。
※
朝食の後片付けをし終えた花那は、大輝のために、今度は昼食の準備を始めた。
大輝がこうして屋敷の警備をしてくれるのも今日が最後だ。
花那と松代が彩に襲われてからというもの、花那の護衛と鬼道家の警備をしていた大輝だったが、花那の命を狙っていた彩が死んだ今、警備の必要は無くなった。
故に、大輝も今日をもって警備の任を解かれることになったのだ。
(これまでお世話になったのだし、お昼は大輝様の好きなカレーライスにしようかしら)
そう思った花那は人参の皮を剥き始めたものの、どうしても事件の事を考えてしまう。
本当に、禍牛憑依事件は終わったのだろうか?
確かに彩は死亡し、花那はもう命を狙われることはなくなった。
だが、どうも腑に落ちない。
そもそも、彩は他の憑依された人間とは違かった。
他の人間は「動く死体」だったのに対し、彩は自我があったし、最初は禍牛に取り憑かれてもいなかった。
それにもう一つ彩の件では気になることがあった。
大輝が助けに来てくれた時、彩は「どうして? こんなところにいるの?」と呟いた。
あれは誰に向けて言った言葉だったのだろうか?
花那が振り返った時、そこに立っていたのは銃口を向けた大輝だった。
(もしかして……大輝様を見て?)
そんな考えが頭を過ぎる。
しかしすぐに頭を振って花那は自分の考えを否定した。
禍牛を倒す存在である精鋭部隊の大輝と彩に繋がりがあるはずはない。
「……考えても答えは分からないわね」
花那はそう独り言を呟いた。
時を同じくして、大輝の声が廊下に響いたかと思うと、台所にひょっこりと顔を出した。
「花那さん、こちらにいらっしゃいましたか」
「あ、大輝様。お戻りになられたんですね」
「はい。今日も異常ありませんでした!」
「見回りありがとうございました。今日で警備は最後でしたよね? お昼は大輝様の好きなカレーライスにしようと思ってるんです。少しお待ちください」
「わー本当ですか! ありがとうございます! 毎日この屋敷に来ていんで、明日から花那さんに会えなくなるのは寂しいですね」
それまで毎日顔を会わせていただけに、花那のまた寂しさ感じていた。
「それに花那さんの手料理が食べられなくなるのかぁ。それも残念だなぁ……ごほっごほっ」
心底残念そうに眉を下げた大輝が、突然咳込んだ。
音を聞くと風邪のような湿気を含んだ咳だった。
「大丈夫ですか?」
「なかなか風邪が治らなくて……」
「もしかして帝都で初めて会った時の風邪がまだ?」
「はい、そうなんです。翔也さんに薬は処方してもらっているんですけどね。あ、すみません。お水を貰ってもいいいでしょうか?」
「はい、勿論です。どうぞ」
花那は手早くコップに水を入れて差し出した。
「ありがとうございます」
大輝は申し訳なさそうにそう言ってコップを受け取ると、徐ろに懐から薄い緑色の薬包みを取り出した。
その薬包みの色に、花那は既視感を覚えた。
一般的に薬包みは白色の紙が使われるはずだ。だから色付きの、しかも薄緑色の紙を使った薬包は珍しい。
(どこで見たのかしら……)
花那が記憶を辿ろうとしていると、目の前の大輝が突然動きを止めた。
大輝の手からコップが滑り落ち、ガシャンという音が響いたかと思うと、大輝はがっくりと項垂れてしまった。
「大輝様? どうなさいました?」
花那は驚いて大輝の顔を覗き見た。
その目は虚ろで、焦点が定まっていない。
顔色は土気色に変わっていて、何かぶつぶつと呟いているようだ。
「具合が悪いのですか?」
大輝の様子は、どう見てもただならないもので、恐怖すら感じる。
花那は恐る恐る大輝の肩に触れた時、ようやく大輝の呟きが聞こえた。
「そうだ……俺は……花那さんを連れて行かなくちゃ……」
「え?」
「……さんに頼まれてたんだ……」
何を言っているのか分からず、花那は再び聞き直そうとした時だった。
突然大輝が顔を上げたかと思うと、その上半身が泥人形のように溶けて灰色に変じる。
ぶくぶくと歪に膨らみ、ヌメヌメと光る表面に現れた数多の目が花那を捉える。
(どうして大輝様が!?)
目の前で大輝が禍牛へと変貌していく。
それを花那は、驚きの余り目を見開いて凝視したまま動けなくなった。
混乱した花那だったが、すぐに後退って大輝と距離を取ると祓詞を叫んだ。
「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり!」
そうして柏手を打とうとした花那だったが、突如として禍牛の触手が伸びる。
小さな手を無数に生やした触手が花那の手首に巻き付き、動きを封じられてしまった。
「んーんー!」
助けを呼びたくても、口が塞がれて声も出せない。
すると大輝が花那を抱えたまま窓から飛び出した。
パリンという窓ガラスが割れる音が響くと同時に、大輝に囚われたまま浮遊する感覚がある。
「花那様!?」
壊れた窓越しに、驚愕の表情を浮かべる松代が視界の隅に映った。
(助け……て……)
禍牛に触れられたところからじわじわと穢れが入り、意識を保っていられない。
花那は薄れゆく意識の中で、もう一度自分の名を呼ぶ松代の声を聞いた気がしたが、答えることもできず、そのまま意識は闇に閉ざされていった。



