花那は驚いて声の方に顔を向けると、そこには鬼の形相でこちらに向かってくる豪の姿があった。
今まで見たことのない豪の表情に花那が目を瞠っている一方で、隣の翔也は悠然とした笑みを浮かべたままだ。
「あぁ、豪君。遅かったね」
翔也はいつも通りの穏やかな口調で豪に声を掛けるが、豪は眉間に皺を寄せ、翔也に詰め寄った。
「……翔也! 貴様、花那に何をした!」
今にも翔也に掴みかからんとする勢いの豪は、翔也を睨んだまま更に声を荒げて詰問する。
「こんな往来で……よくもそんなことができるものだな!」
「おやおや、勘違いだよ」
花那は状況が掴めずおろおろと、二人の顔を交互に見るしかできない。
そんな花那を見て、翔也はふっと小さく笑って言った。
「豪君は、僕が君に接吻しようとしていたと勘違いしてるんだよ」
「せっ!?」
接吻と言う言葉を聞いた花那は二の句が継げず、そのまま声を失ってしまう。
しかし次の瞬間には豪の誤解を解くべく、慌てて状況を説明した。
「あ、あの! 翔也様は睫毛の埃を取ってくださっただけなのです」
「そう……なのか?」
花那の言葉を聞いた豪は、まるで風船の空気が抜けるような気の抜けた声でそう言った。
それを見た翔也は、クスクスと小さく笑う。
「豪君からは角度的にそう見えたんだろうね?」
「そうか……それは、すまなかった」
自分の行動を改めて振り返った様子の豪は、そのまま口元を手で押さえて花那から視線を逸らした。
その顔が薄っすらと色づいているように見える。
「やっぱり僕の言った通り、豪君は花那さんを大切に想っているようだね」
翔也から意味深な視線を投げかけられた豪は、一転して苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
そうして小さく息を吐いた後、不機嫌な表情のままで翔也に問いかけた。
「それで? どうして翔也がここにいるんだ? 確か、花那には大輝が付き添っているはずだが」
「実は、巡回班の班長が風邪で倒れてしまってね。応援に大輝君が呼ばれて、僕がその伝言を伝えに来たんだ。それで豪君が来るまで、代わりに僕が花那さんに付き添っていたんだよ」
「そうなのか? 俺は報告を受けてないが」
「急なことだったからね。報告が入れ違いになったのかもしれない」
「そうか……」
「じゃあ、豪君も来たことだし、僕はそろそろ行くよ。患者さんが待ってるからね」
そう言って駅の方角へ歩き出した翔也に、花那は頭を下げた。
「あ、ありがとうございました」
花那の言葉に、翔也は柔らかく微笑んで小さく手を振るとそのまま去っていった。
翔也の後ろ姿を見送ると、豪は花那に向き直った。
その頃には様々な感情を顔に露わにしていた豪の表情も普通に戻っていた。
「遅れてすまなかったな」
「いいえ。こちらこそ我儘を言って申し訳ありませんでした」
「気にしないでくれ。君にはもっと我儘を言ってほしいくらいだ。じゃあ早速行こうか」
「はい」
こうして花那は豪と共に興津家の敷地へと足を踏み入れ、蔵へと向かった。
しかし、異変はすぐに起こった。
空気が粘性を帯び、肌に纏わりつくような何ともいなえない不快感が花那を襲い、肌が泡立つ。
それが何か考える間もなかった。
「っ!」
突然豪に抱き寄せられたかと思うと、次の瞬間には豪に抱きかかえられる形で後ろに飛び退いていた。
着地すると目の前には灰色に伸びる触手のようなものが、花那達のいた場所を直撃する。
地面の割れる音を響く。
花那を襲ったのは小さな赤子のような手が無数に生えた触手であった。
「禍牛……」
それは禍牛の一部だ。
すると今度は左右から表面がドロドロに溶けた小さな手がうねるように花那達を襲う。
「はっ!」
豪が短い気合の言葉と共に禍牛を剣で切り裂くと、クスクスという女の忍び笑いが聞こえた。
「残念、仕留められなかったわ。さすが鬼道家当主の豪様だわ」
「彩……」
蔵の前に立っていたのは彩だった。
彩は大振りの牡丹が描かれた振袖を着ており、屋敷に住んでいた時と同じように艶やかな黒髪を靡かせて立っていた。
以前見た時には屋敷にいた頃の面影はなかったが、今は時を戻したように美しく、悠然とした笑みを浮かべている。
「彩……どうしてここに……」
花那が震える声で尋ねると、彩の真紅の唇が弧を描く。
「ふふふ、あの方が言っていたの。ここで待っていればあなたたちが来るってね」
「あの方?」
怪訝な顔で花那が尋ねたが、余裕のある笑みを浮かべた彩はまたクスクスと笑った。
「そう、私にあなたを殺す力をくれた方よ」
それが誰なのかを問う前に、彩が豪にすっと視線を移した。
「でも、豪様を傷つけるつもりはないの。大人しく、そこの女を渡してくださらない?」
強請る様にそう言った彩に対し、豪は警戒心を解くことなく彩を見据えた。
そして彩に大嶽丸の切っ先を向けながら突き放すように言った。
「断る」
「どうしてこんな色無しで醜い女を庇うの? 豪様にはもっと相応しい女性がいるでしょう? 私を選んで下されば、豪様は助けて差し上げるわ」
無邪気な笑みを浮かべながらそう提案をした彩は、当然自分が選ばれるという自信を滲ませていた。
「花那は醜くなどない。容姿も美しいし、自分の身を挺しても人を守る強さと優しさを持つ素晴らしい女性だ。彼女こそ鬼道家に相応しい」
「そう……なら二人まとめて殺してあげるわ」
彩は興ざめとばかりにそう言うと、小刀で己の掌を浅く切った。
切り口から真紅の雫が滴り落ちて地面に血が吸い込まれていく。
次の瞬間、前回同様に血が滲んだ地面から禍牛が姿を現した。
その数、5体。
死体の半分を飲み込んだ禍牛は、低い唸り声を上げながら緩慢な動きで体を左右に揺らして歩く。
そんな鈍い動きをしていた禍牛だったが、その一体が突然襲い掛かってきた。
伸ばされた手の一部を豪が日本刀を振り下ろして切り落とすと、そのまま動く死体の懐に飛び込み、そのまま肩を袈裟懸けに切った。
『グオオオオオ』
死体の男は咆哮を上げ、身をくねらせて倒れると、禍牛もキイキイという錆びた金属のきしむ音を吐き出しながら黒い霧になって霧散していった。
間髪を容れずにそのまま左から襲ってきた一体を豪は斬り、すかさず右からの攻撃を受け、その肩を袈裟懸けに切った。
さらに左からは禍牛が伸ばした触手が豪を襲う。
それを豪は下段から突き上げるように切ると、今度は動く死体の胴を薙ぎ払った。
その後も次々と禍牛が豪を襲い、その攻撃を躱しながら、豪は禍牛と動く死体を倒していった。
豪の持つ大嶽丸に切られた禍牛はそこから祓われ、空気に溶けるように消えていき、取り憑かれていた死体達もばたばたと倒れる。
その攻撃は早く鋭く、息もつかせぬほどだった。
あまりにも鮮やかな手捌きで禍牛を倒していく豪の様子を、花那は息を呑んで見つめた。
「さすがは鬼道家当主といったところね。でも、どこまでもつのかしら?」
そう挑発的な言葉を口にするも、次々に倒される禍牛を見た彩の表情には焦りの色を浮かんでいる。
そして彩は自らの腕を更にナイフで深く切った。
白く美しい彩の腕からぼたぼたと血が地面に落ちていく。
そして彩は腕を横に一振りする。
彩の血が雫となって宙を舞ったかと思うと、更に多くの禍牛が現れ、豪へと突き進んだ。
「くっ!」
それは死体に寄生していたものだけではない。
子供の丈ほどにもなる大きな禍牛も現れた。
それらはナメクジのように、ブヨブヨとして粘性のある皮膚を持ち、表面についた大小様々な大きさの目が、ギョロギョロと四方に動かしている姿は不気味の一言に尽きるだろう。
そんな禍牛が次から次へと禍牛が現れる。
気づけば花那と豪の周りを囲んでいた。
「チッ、これを一体一体倒すのも厄介だな!」
そう言った豪は大嶽丸を振りかぶり、勢いよく振り下ろしたと同時に叫んだ。
「大嶽丸よ、吠えろ!」
豪の言葉に呼応するように、雷音が鳴り響く。
白刃の軌道から稲妻が起こり、鋭い矢、もしくは流れ星が鋭く降り注ぐように禍牛への体に突き刺さる。
『ギャシャアアアアッ!』
この世のものとは思えない、甲高い悲鳴と地の底から湧き上がるような悲鳴が同時に禍牛から発せられる。
砂埃が巻き上げられ、それが風に乗って消える頃には、禍牛の姿もまた消え失せていた。
「これで全部倒したか」
豪が厳しい表情のままでそう呟いた時、近くの桜の大木の葉が揺れた。
がさりという音を認識した時には、地響きのような咆哮と共に、木の上から禍牛に覆われた死体が襲いかかって来た。
『グオオアアア』
すぐに反応した豪は、反射的に後ろに飛び退く。
だが先ほど祓ったはずの禍牛の残骸が、豪の足に巻きついて豪を拘束した。
それは一瞬のことだった。
前方からは半分体が腐乱したように変貌した動く死体が豪を襲おうと迫るが、豪は足を禍牛の触手により拘束されて動けない。
「豪様!」
花那はそう叫びながら反射的に豪と禍牛の間に入った。
「花那!」
慌てる豪の呼び声など花那の耳には入らず、花那は禍牛に覆われた男を見据えると、すぐに祓え詞を奉じた。
「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり」
シュンと空気を切り裂く音と共に、輝くような白刃が乱れ撃ちの如くに動く死体を切り裂いた。
禍牛が千々に引き裂かれ、最後は黒い霧になって消えていく。
そして死体の男もまた、操り人形の糸が切れたようにバタリと倒れ、そのまま動かなくなった。
気づけばいくつもの腐乱死体が地面に倒れており、禍牛は全て祓われて跡形もなく消えていた。
豪は花那を守るように彩へと向き直ると、彩にすっと刃を向けた。
「事件を引き起こしていたのはお前か? どうやって禍牛を人に取り憑かせた? お前には聞きたいことが山ほどある」
「くっ……」
豪の威圧感に気圧され、彩がジリっと後ろに下がった。
そして悔しそうに顔を歪ませたかと思うと、懐から薄い緑色の紙で作られた薬包を取り出し、中身を口に含んで一気に飲んだ。
「まだ……まだよ……この女を殺すためなら、なんでもするわ」
彩は憎悪の表情でギロリと花那を睨んだ。
瞳には強い怒りと憎しみと、呪いの色が浮かんでいた。
あまりにも激しい恨みを孕んだその瞳を向けられ、花那は恐怖から体を強張らせて息を呑んだ。
「もっと強い禍牛を……!!」
地響きのような低い声音から、今度は全ての怒りを吐き出すように彩が叫ぶ。
そして咆哮のような声を上げたかと思うと、彩の体がグニャリと変わり、禍牛に包まれていた。
そこには美しい女の姿はなく、灰色のドロドロとした化け物の姿がある。
「彩!?」
もうその姿は人間ではなく、完全に禍牛と化していた。
「お前さえいなければ!!」
およそ人間の声とは言えない声をあげた彩の体から、無数の腕が伸び、一斉に花那へと向かう。
「きゃあ!」
「花那!」
襲いくる腕のいくつかを豪が切り落としたものの、捌ききれなかった腕が花那に巻きつき、次の瞬間には彩の元へと引っ張られた。
「嫌!」
「お前など、取り込んでやる!」
呪いの言葉を吐きながら、禍牛と化した彩が花那の体を飲み込もうと絡みつく。
その時だった。
パァンという銃声が響き、弾丸が彩の心臓を貫いていた。
「な、何!」
彩が動揺の声を上げた。
突然のことに彩は混乱しているようだったが、花那もまた何が起こったのか分からなかった。
花那も驚いて彩の視線の先を見ると、そこにいたの銃を構えた大輝の姿があった。
その銃の銃口からは硝煙が上がっている。
「どうして? こんなところにいるの?」
彩が驚愕の表情を浮かべたと同時に、花那を飲み込もうとする動きが止まった。
その隙をついた豪が、地面を蹴って間合いを詰めた。
「はぁぁっ!」
豪は花那を自らの元に引き寄せると、その勢いのまま彩の胴を一薙ぎした。
「ぎゃあああ!!」
鬼神の力を宿す大嶽丸に斬られた彩は、空気を切り裂くような叫びを上げる。
そして斬られた箇所が霧となり消え、バタリと彩が崩れ落ちるように倒れた。
そして彩は再び動くことはなかった。
倒れた彩を豪が冷たく見下ろし、花那も豪の腕の中で安堵の息を漏らした。
(彩……)
彩の骸を見た花那の胸がギュッと縮んだ。
あんなに花那を虐げて来た彩だったが、このような末路になったことに、憐憫の念が込み上げた。
物言わなくなった彩を、言葉を発することなく花那が見つめていると、大輝が豪と花那の元へと駆け寄ってきた。
「隊長! 大丈夫でしたか!」
「大輝……どうしてここに?」
「翔也さんが隊長が禍牛と戦ってるって知らせてくれたんです」
豪の問いに大輝がそう答えると、その言葉を追うように遅れて翔也がやって来た。
「間に合って良かったよ」
息を切らせてやって来た翔也は、豪と花那を交互に見た後に安堵の息を漏らした。
「翔也が応援を読んでくれたと聞いたが、帰ったんじゃなかったのか?」
「実は、君達と別れてからすぐに禍牛の気配を感じたんだ。慌てて戻ったら君達が交戦してた。加勢しようかと思ったんだが、僕の異能の力ではかえって足手纏いになると思って大輝君を呼びに戻ったんだ」
「そうだったのか。助かった」
そして翔也は、今度は花那を見て柔らかに微笑んだ。
「花那さんも無事みたいだね? 安心したよ」
「翔也様、大輝様、ありがとうございました」
鬼神の力を有する豪は強く、花那を守りつつ禍牛と戦ってくれた。
しかし、花那が禍牛に変貌した彩に取り込まれたことで、豪は彩に手出しできなかった。
もし大輝と翔也が来てくれなければ、花那は禍牛に取り込まれていた。
(でも、そもそも私が興津家に戻りたいと言わなければ、豪様を巻き込むことはなかったのだわ)
そう思うと自責の念が頭に浮かぶ。
「豪様……ありがとうございました。私がまた巻き込んでしまいました。それに、禍牛に取り込まれて足手纏いになってしまい、申し訳ありませんでした」
「……」
豪は花那に対して口を開くことはなく、硬い表情のままだった。
口をキツく結んだ豪からは静かな怒りのようなものも感じる。
豪は花那を一瞥した後、大輝に向き直った。
「応援を呼んで遺体を回収してくれ。それと花那を屋敷に送りたい。車も回してくれ」
「承知しました!」
そう言って大輝は敬礼をすると、軽妙な足取りで去っていった。
それを見送ったタイミングで、翔也は彩の骸に視線を向けた。
「じゃあ僕は、興津彩を調べさせてもらうよ。死体から何か分かるかもしれないしね」
「ああ、頼む」
そうしてその場には豪と花那だけが残された。
豪が纏う空気は重く、静かな怒りが伝わってくる。
やはり今回の事で迷惑をかけた事を怒っているのだろうか。
「あの……」
再度謝ろうと花那は口を開いた。
その時、豪が花那の手首をグッと掴んで歩き出した。
強く掴まれてしまい、抵抗することもできない。
豪は屋敷の裏手にある桜の大木まで行くと足を止め、くるりと花那に向き直った。
「どうして俺を庇おうとしたんだ。君も死ぬところだったんだぞ!」
今まで声を荒げたことのない豪の言葉に、花那はビクリと肩を震わせてしまう。
豪を救おうとしただけなに、なぜ豪が怒っているのか理解できないまま、花那はおずおずと答えた。
「どうしてって……私は豪様に、私なんかのために死んでほしくなかったんです。彩の件は私が招いたことですし、私が死ぬのは仕方ありません。でも豪様を巻き込みたくないんです。私なんかのために、傷ついてほしくないんです」
「君は……」
花那の言葉を聞いた豪の顔が、痛ましげに歪んだ。
そして次の瞬間、花那は気づくと豪の腕の中にいた。
突然の豪の行動に、驚きのあまり花那は目を見開いてしまう。
「豪……様?」
力強く、まるで掻き抱くように抱きしめる豪の腕が、微かに震えている。
何が起こっているのか分からず、花那が戸惑いの声を上げると、豪は花那の耳元で掠れた声で呟いた。
「……君が俺を庇った時、君を失うかもしれないと思ったら怖かった」
「豪様……」
豪はゆっくりと腕の力を緩めるが、それでも花那を離そうとはせず、顔は口付けできるほどの距離だ。
豪の瞳に花那が写っているのが分かる。思わず花那が息を呑むと、豪はゆっくりとその手で花那の頬を包んだ。
「私なんかなどと言わないでくれ。君が死んだら、俺は生きていけない」
「どういう、意味ですか?」
「俺は、君のことを……」
切な気な表情を浮かべた豪の顔がゆっくりと近づき、唇に吐息がかかる。
その瞬間心臓がドクンと高鳴り、息が詰まった。
(え?)
驚いて目を見開いていると、遠くから大輝の声が聞こえてきた。
「隊長! どちらにいらっしゃいますか?」
大輝の明るい声に、豪はハッとして我に返ったような表情となると、その動きを止めた。
そしてすぐに体を離すと、まるで何事も無かったかのように、いつものような凛とした声で大輝に答えた。
「大輝、ここだ」
「あ、こちらにいらっしゃったんですね! 車が来ました」
「分かった」
先程の不思議な空気は消え失せており、豪との距離もいつものものに戻っていた。
「迎えが来たようだ。行こうか」
「は、はい……」
豪に促された花那は、豪の後を追うように歩き出した。
ただ、先ほどの豪の不可解な行動に、理解が追いつかない。
(何だったのかしら)
接吻できるほどに近づいた距離。
しかしそれが夢だったのではないかと思う程、豪の様子は普段通りだ。
ただ、トクトクと鳴る心臓の音だけが、先程のことが夢ではないと物語っているように花那には感じられた。
今まで見たことのない豪の表情に花那が目を瞠っている一方で、隣の翔也は悠然とした笑みを浮かべたままだ。
「あぁ、豪君。遅かったね」
翔也はいつも通りの穏やかな口調で豪に声を掛けるが、豪は眉間に皺を寄せ、翔也に詰め寄った。
「……翔也! 貴様、花那に何をした!」
今にも翔也に掴みかからんとする勢いの豪は、翔也を睨んだまま更に声を荒げて詰問する。
「こんな往来で……よくもそんなことができるものだな!」
「おやおや、勘違いだよ」
花那は状況が掴めずおろおろと、二人の顔を交互に見るしかできない。
そんな花那を見て、翔也はふっと小さく笑って言った。
「豪君は、僕が君に接吻しようとしていたと勘違いしてるんだよ」
「せっ!?」
接吻と言う言葉を聞いた花那は二の句が継げず、そのまま声を失ってしまう。
しかし次の瞬間には豪の誤解を解くべく、慌てて状況を説明した。
「あ、あの! 翔也様は睫毛の埃を取ってくださっただけなのです」
「そう……なのか?」
花那の言葉を聞いた豪は、まるで風船の空気が抜けるような気の抜けた声でそう言った。
それを見た翔也は、クスクスと小さく笑う。
「豪君からは角度的にそう見えたんだろうね?」
「そうか……それは、すまなかった」
自分の行動を改めて振り返った様子の豪は、そのまま口元を手で押さえて花那から視線を逸らした。
その顔が薄っすらと色づいているように見える。
「やっぱり僕の言った通り、豪君は花那さんを大切に想っているようだね」
翔也から意味深な視線を投げかけられた豪は、一転して苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
そうして小さく息を吐いた後、不機嫌な表情のままで翔也に問いかけた。
「それで? どうして翔也がここにいるんだ? 確か、花那には大輝が付き添っているはずだが」
「実は、巡回班の班長が風邪で倒れてしまってね。応援に大輝君が呼ばれて、僕がその伝言を伝えに来たんだ。それで豪君が来るまで、代わりに僕が花那さんに付き添っていたんだよ」
「そうなのか? 俺は報告を受けてないが」
「急なことだったからね。報告が入れ違いになったのかもしれない」
「そうか……」
「じゃあ、豪君も来たことだし、僕はそろそろ行くよ。患者さんが待ってるからね」
そう言って駅の方角へ歩き出した翔也に、花那は頭を下げた。
「あ、ありがとうございました」
花那の言葉に、翔也は柔らかく微笑んで小さく手を振るとそのまま去っていった。
翔也の後ろ姿を見送ると、豪は花那に向き直った。
その頃には様々な感情を顔に露わにしていた豪の表情も普通に戻っていた。
「遅れてすまなかったな」
「いいえ。こちらこそ我儘を言って申し訳ありませんでした」
「気にしないでくれ。君にはもっと我儘を言ってほしいくらいだ。じゃあ早速行こうか」
「はい」
こうして花那は豪と共に興津家の敷地へと足を踏み入れ、蔵へと向かった。
しかし、異変はすぐに起こった。
空気が粘性を帯び、肌に纏わりつくような何ともいなえない不快感が花那を襲い、肌が泡立つ。
それが何か考える間もなかった。
「っ!」
突然豪に抱き寄せられたかと思うと、次の瞬間には豪に抱きかかえられる形で後ろに飛び退いていた。
着地すると目の前には灰色に伸びる触手のようなものが、花那達のいた場所を直撃する。
地面の割れる音を響く。
花那を襲ったのは小さな赤子のような手が無数に生えた触手であった。
「禍牛……」
それは禍牛の一部だ。
すると今度は左右から表面がドロドロに溶けた小さな手がうねるように花那達を襲う。
「はっ!」
豪が短い気合の言葉と共に禍牛を剣で切り裂くと、クスクスという女の忍び笑いが聞こえた。
「残念、仕留められなかったわ。さすが鬼道家当主の豪様だわ」
「彩……」
蔵の前に立っていたのは彩だった。
彩は大振りの牡丹が描かれた振袖を着ており、屋敷に住んでいた時と同じように艶やかな黒髪を靡かせて立っていた。
以前見た時には屋敷にいた頃の面影はなかったが、今は時を戻したように美しく、悠然とした笑みを浮かべている。
「彩……どうしてここに……」
花那が震える声で尋ねると、彩の真紅の唇が弧を描く。
「ふふふ、あの方が言っていたの。ここで待っていればあなたたちが来るってね」
「あの方?」
怪訝な顔で花那が尋ねたが、余裕のある笑みを浮かべた彩はまたクスクスと笑った。
「そう、私にあなたを殺す力をくれた方よ」
それが誰なのかを問う前に、彩が豪にすっと視線を移した。
「でも、豪様を傷つけるつもりはないの。大人しく、そこの女を渡してくださらない?」
強請る様にそう言った彩に対し、豪は警戒心を解くことなく彩を見据えた。
そして彩に大嶽丸の切っ先を向けながら突き放すように言った。
「断る」
「どうしてこんな色無しで醜い女を庇うの? 豪様にはもっと相応しい女性がいるでしょう? 私を選んで下されば、豪様は助けて差し上げるわ」
無邪気な笑みを浮かべながらそう提案をした彩は、当然自分が選ばれるという自信を滲ませていた。
「花那は醜くなどない。容姿も美しいし、自分の身を挺しても人を守る強さと優しさを持つ素晴らしい女性だ。彼女こそ鬼道家に相応しい」
「そう……なら二人まとめて殺してあげるわ」
彩は興ざめとばかりにそう言うと、小刀で己の掌を浅く切った。
切り口から真紅の雫が滴り落ちて地面に血が吸い込まれていく。
次の瞬間、前回同様に血が滲んだ地面から禍牛が姿を現した。
その数、5体。
死体の半分を飲み込んだ禍牛は、低い唸り声を上げながら緩慢な動きで体を左右に揺らして歩く。
そんな鈍い動きをしていた禍牛だったが、その一体が突然襲い掛かってきた。
伸ばされた手の一部を豪が日本刀を振り下ろして切り落とすと、そのまま動く死体の懐に飛び込み、そのまま肩を袈裟懸けに切った。
『グオオオオオ』
死体の男は咆哮を上げ、身をくねらせて倒れると、禍牛もキイキイという錆びた金属のきしむ音を吐き出しながら黒い霧になって霧散していった。
間髪を容れずにそのまま左から襲ってきた一体を豪は斬り、すかさず右からの攻撃を受け、その肩を袈裟懸けに切った。
さらに左からは禍牛が伸ばした触手が豪を襲う。
それを豪は下段から突き上げるように切ると、今度は動く死体の胴を薙ぎ払った。
その後も次々と禍牛が豪を襲い、その攻撃を躱しながら、豪は禍牛と動く死体を倒していった。
豪の持つ大嶽丸に切られた禍牛はそこから祓われ、空気に溶けるように消えていき、取り憑かれていた死体達もばたばたと倒れる。
その攻撃は早く鋭く、息もつかせぬほどだった。
あまりにも鮮やかな手捌きで禍牛を倒していく豪の様子を、花那は息を呑んで見つめた。
「さすがは鬼道家当主といったところね。でも、どこまでもつのかしら?」
そう挑発的な言葉を口にするも、次々に倒される禍牛を見た彩の表情には焦りの色を浮かんでいる。
そして彩は自らの腕を更にナイフで深く切った。
白く美しい彩の腕からぼたぼたと血が地面に落ちていく。
そして彩は腕を横に一振りする。
彩の血が雫となって宙を舞ったかと思うと、更に多くの禍牛が現れ、豪へと突き進んだ。
「くっ!」
それは死体に寄生していたものだけではない。
子供の丈ほどにもなる大きな禍牛も現れた。
それらはナメクジのように、ブヨブヨとして粘性のある皮膚を持ち、表面についた大小様々な大きさの目が、ギョロギョロと四方に動かしている姿は不気味の一言に尽きるだろう。
そんな禍牛が次から次へと禍牛が現れる。
気づけば花那と豪の周りを囲んでいた。
「チッ、これを一体一体倒すのも厄介だな!」
そう言った豪は大嶽丸を振りかぶり、勢いよく振り下ろしたと同時に叫んだ。
「大嶽丸よ、吠えろ!」
豪の言葉に呼応するように、雷音が鳴り響く。
白刃の軌道から稲妻が起こり、鋭い矢、もしくは流れ星が鋭く降り注ぐように禍牛への体に突き刺さる。
『ギャシャアアアアッ!』
この世のものとは思えない、甲高い悲鳴と地の底から湧き上がるような悲鳴が同時に禍牛から発せられる。
砂埃が巻き上げられ、それが風に乗って消える頃には、禍牛の姿もまた消え失せていた。
「これで全部倒したか」
豪が厳しい表情のままでそう呟いた時、近くの桜の大木の葉が揺れた。
がさりという音を認識した時には、地響きのような咆哮と共に、木の上から禍牛に覆われた死体が襲いかかって来た。
『グオオアアア』
すぐに反応した豪は、反射的に後ろに飛び退く。
だが先ほど祓ったはずの禍牛の残骸が、豪の足に巻きついて豪を拘束した。
それは一瞬のことだった。
前方からは半分体が腐乱したように変貌した動く死体が豪を襲おうと迫るが、豪は足を禍牛の触手により拘束されて動けない。
「豪様!」
花那はそう叫びながら反射的に豪と禍牛の間に入った。
「花那!」
慌てる豪の呼び声など花那の耳には入らず、花那は禍牛に覆われた男を見据えると、すぐに祓え詞を奉じた。
「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、ふっ切って放つ、さんびらり」
シュンと空気を切り裂く音と共に、輝くような白刃が乱れ撃ちの如くに動く死体を切り裂いた。
禍牛が千々に引き裂かれ、最後は黒い霧になって消えていく。
そして死体の男もまた、操り人形の糸が切れたようにバタリと倒れ、そのまま動かなくなった。
気づけばいくつもの腐乱死体が地面に倒れており、禍牛は全て祓われて跡形もなく消えていた。
豪は花那を守るように彩へと向き直ると、彩にすっと刃を向けた。
「事件を引き起こしていたのはお前か? どうやって禍牛を人に取り憑かせた? お前には聞きたいことが山ほどある」
「くっ……」
豪の威圧感に気圧され、彩がジリっと後ろに下がった。
そして悔しそうに顔を歪ませたかと思うと、懐から薄い緑色の紙で作られた薬包を取り出し、中身を口に含んで一気に飲んだ。
「まだ……まだよ……この女を殺すためなら、なんでもするわ」
彩は憎悪の表情でギロリと花那を睨んだ。
瞳には強い怒りと憎しみと、呪いの色が浮かんでいた。
あまりにも激しい恨みを孕んだその瞳を向けられ、花那は恐怖から体を強張らせて息を呑んだ。
「もっと強い禍牛を……!!」
地響きのような低い声音から、今度は全ての怒りを吐き出すように彩が叫ぶ。
そして咆哮のような声を上げたかと思うと、彩の体がグニャリと変わり、禍牛に包まれていた。
そこには美しい女の姿はなく、灰色のドロドロとした化け物の姿がある。
「彩!?」
もうその姿は人間ではなく、完全に禍牛と化していた。
「お前さえいなければ!!」
およそ人間の声とは言えない声をあげた彩の体から、無数の腕が伸び、一斉に花那へと向かう。
「きゃあ!」
「花那!」
襲いくる腕のいくつかを豪が切り落としたものの、捌ききれなかった腕が花那に巻きつき、次の瞬間には彩の元へと引っ張られた。
「嫌!」
「お前など、取り込んでやる!」
呪いの言葉を吐きながら、禍牛と化した彩が花那の体を飲み込もうと絡みつく。
その時だった。
パァンという銃声が響き、弾丸が彩の心臓を貫いていた。
「な、何!」
彩が動揺の声を上げた。
突然のことに彩は混乱しているようだったが、花那もまた何が起こったのか分からなかった。
花那も驚いて彩の視線の先を見ると、そこにいたの銃を構えた大輝の姿があった。
その銃の銃口からは硝煙が上がっている。
「どうして? こんなところにいるの?」
彩が驚愕の表情を浮かべたと同時に、花那を飲み込もうとする動きが止まった。
その隙をついた豪が、地面を蹴って間合いを詰めた。
「はぁぁっ!」
豪は花那を自らの元に引き寄せると、その勢いのまま彩の胴を一薙ぎした。
「ぎゃあああ!!」
鬼神の力を宿す大嶽丸に斬られた彩は、空気を切り裂くような叫びを上げる。
そして斬られた箇所が霧となり消え、バタリと彩が崩れ落ちるように倒れた。
そして彩は再び動くことはなかった。
倒れた彩を豪が冷たく見下ろし、花那も豪の腕の中で安堵の息を漏らした。
(彩……)
彩の骸を見た花那の胸がギュッと縮んだ。
あんなに花那を虐げて来た彩だったが、このような末路になったことに、憐憫の念が込み上げた。
物言わなくなった彩を、言葉を発することなく花那が見つめていると、大輝が豪と花那の元へと駆け寄ってきた。
「隊長! 大丈夫でしたか!」
「大輝……どうしてここに?」
「翔也さんが隊長が禍牛と戦ってるって知らせてくれたんです」
豪の問いに大輝がそう答えると、その言葉を追うように遅れて翔也がやって来た。
「間に合って良かったよ」
息を切らせてやって来た翔也は、豪と花那を交互に見た後に安堵の息を漏らした。
「翔也が応援を読んでくれたと聞いたが、帰ったんじゃなかったのか?」
「実は、君達と別れてからすぐに禍牛の気配を感じたんだ。慌てて戻ったら君達が交戦してた。加勢しようかと思ったんだが、僕の異能の力ではかえって足手纏いになると思って大輝君を呼びに戻ったんだ」
「そうだったのか。助かった」
そして翔也は、今度は花那を見て柔らかに微笑んだ。
「花那さんも無事みたいだね? 安心したよ」
「翔也様、大輝様、ありがとうございました」
鬼神の力を有する豪は強く、花那を守りつつ禍牛と戦ってくれた。
しかし、花那が禍牛に変貌した彩に取り込まれたことで、豪は彩に手出しできなかった。
もし大輝と翔也が来てくれなければ、花那は禍牛に取り込まれていた。
(でも、そもそも私が興津家に戻りたいと言わなければ、豪様を巻き込むことはなかったのだわ)
そう思うと自責の念が頭に浮かぶ。
「豪様……ありがとうございました。私がまた巻き込んでしまいました。それに、禍牛に取り込まれて足手纏いになってしまい、申し訳ありませんでした」
「……」
豪は花那に対して口を開くことはなく、硬い表情のままだった。
口をキツく結んだ豪からは静かな怒りのようなものも感じる。
豪は花那を一瞥した後、大輝に向き直った。
「応援を呼んで遺体を回収してくれ。それと花那を屋敷に送りたい。車も回してくれ」
「承知しました!」
そう言って大輝は敬礼をすると、軽妙な足取りで去っていった。
それを見送ったタイミングで、翔也は彩の骸に視線を向けた。
「じゃあ僕は、興津彩を調べさせてもらうよ。死体から何か分かるかもしれないしね」
「ああ、頼む」
そうしてその場には豪と花那だけが残された。
豪が纏う空気は重く、静かな怒りが伝わってくる。
やはり今回の事で迷惑をかけた事を怒っているのだろうか。
「あの……」
再度謝ろうと花那は口を開いた。
その時、豪が花那の手首をグッと掴んで歩き出した。
強く掴まれてしまい、抵抗することもできない。
豪は屋敷の裏手にある桜の大木まで行くと足を止め、くるりと花那に向き直った。
「どうして俺を庇おうとしたんだ。君も死ぬところだったんだぞ!」
今まで声を荒げたことのない豪の言葉に、花那はビクリと肩を震わせてしまう。
豪を救おうとしただけなに、なぜ豪が怒っているのか理解できないまま、花那はおずおずと答えた。
「どうしてって……私は豪様に、私なんかのために死んでほしくなかったんです。彩の件は私が招いたことですし、私が死ぬのは仕方ありません。でも豪様を巻き込みたくないんです。私なんかのために、傷ついてほしくないんです」
「君は……」
花那の言葉を聞いた豪の顔が、痛ましげに歪んだ。
そして次の瞬間、花那は気づくと豪の腕の中にいた。
突然の豪の行動に、驚きのあまり花那は目を見開いてしまう。
「豪……様?」
力強く、まるで掻き抱くように抱きしめる豪の腕が、微かに震えている。
何が起こっているのか分からず、花那が戸惑いの声を上げると、豪は花那の耳元で掠れた声で呟いた。
「……君が俺を庇った時、君を失うかもしれないと思ったら怖かった」
「豪様……」
豪はゆっくりと腕の力を緩めるが、それでも花那を離そうとはせず、顔は口付けできるほどの距離だ。
豪の瞳に花那が写っているのが分かる。思わず花那が息を呑むと、豪はゆっくりとその手で花那の頬を包んだ。
「私なんかなどと言わないでくれ。君が死んだら、俺は生きていけない」
「どういう、意味ですか?」
「俺は、君のことを……」
切な気な表情を浮かべた豪の顔がゆっくりと近づき、唇に吐息がかかる。
その瞬間心臓がドクンと高鳴り、息が詰まった。
(え?)
驚いて目を見開いていると、遠くから大輝の声が聞こえてきた。
「隊長! どちらにいらっしゃいますか?」
大輝の明るい声に、豪はハッとして我に返ったような表情となると、その動きを止めた。
そしてすぐに体を離すと、まるで何事も無かったかのように、いつものような凛とした声で大輝に答えた。
「大輝、ここだ」
「あ、こちらにいらっしゃったんですね! 車が来ました」
「分かった」
先程の不思議な空気は消え失せており、豪との距離もいつものものに戻っていた。
「迎えが来たようだ。行こうか」
「は、はい……」
豪に促された花那は、豪の後を追うように歩き出した。
ただ、先ほどの豪の不可解な行動に、理解が追いつかない。
(何だったのかしら)
接吻できるほどに近づいた距離。
しかしそれが夢だったのではないかと思う程、豪の様子は普段通りだ。
ただ、トクトクと鳴る心臓の音だけが、先程のことが夢ではないと物語っているように花那には感じられた。



