風が初夏の香りを帯び、日が徐々に長くなり始めた夕方、一人台所に立った花那は、お味噌汁の味見をして頷いた。
洋館に住む豪だったが、食事は和食が好きらしく、彼に出す食事は和食が多い。
実は最近、花那は食事の準備を始め、掃除や洗濯などの使用人の仕事をしている。
というのも、ある使用人の母親が病に倒れてしまい、急遽故郷に帰ることになったのだ。
元々この屋敷では少数精鋭で屋敷内の仕事を行っていたため、突然使用人がいなくなったことで人手が足りなくなってしまった。
そこで花那はその使用人の代わりに仕事をすることを申し出たのだ。
その申し出に、豪は始め「そんな気を使う必要はない」と言い、松代にも「お客様にそんなことはさせられません」とは言われたのだが、居候しているのも気が引けるということを伝えると、最終的には二人も納得してくれた。
(食事の準備は終わったし、後は豪様を待つだけだわ)
そう思いながら花那が使用済みの調理道具を手際よく洗っていると、ふっと空気が変わった。
「花那、楽しそうだな」
「速日?」
突然姿を現し、花那に声を掛けたのは速日だった。
速日は鍋を興味深く除いた後、顔の位置をそのままにして花那を見上げた。
切れ長の目で涼やかな印象を与える目は、今は柔らかく細められ、その顔には微笑を浮かべている。
「突然現れてどうしたの? 何か嬉しそうだけど、何かいいことでもあった?」
「ん、この屋敷に来てから、お前の表情が豊かになったことが嬉しいんだ。興津の屋敷ではお前は余り表情を見せなかっただろ? だからそう言う変化が嬉しい」
「そんなに顔に出ていた?」
「まぁな」
速日に指摘され、花那は思わず両手を頬にやった。
そんなに楽しそうだったろうか?
だが、速日が言っていることも分かる。
花那はこの屋敷に来てから、自然と感情を表すことができるようになった。
興津家にいる時には、家事や炊事を楽しいと思ったことはなかったが、豪のためだと思うとまったく苦に感じない。
花那ができる事はこの程度しかなく、豪から受けた恩を考えると恩返しなどとは到底言えないものだ。
それでもこうして豪の役に立てると思うと、炊事も楽しく感じて、自然に微笑んでしまっているのかもしれない。
すると、不意に速日は声音を低くして、窺うような表情で尋ねた。
「……やっぱり屋敷を出るつもりなのか?」
途端に顔を曇らせた速日を見て、花那は小さく苦笑した。
そして本心を隠すように鍋に視線を移し、最後の仕上げにネギを入れながら速日の問いに答えた。
「ええ。私がここにいたら、いつ豪様に迷惑がかかるか分からないから」
しばらくは恩を返すために働くつもりだが、時期がきたらこの屋敷を離れるつもりだ。
花那の問いに速日が何かを言おうと口を開いた時だった。
パタパタという足音と共に、柔らかな女性の声が台所に響いた。
「あら、いい匂いですね」
振り向くと、声の主は松代だった。
松代は割烹着に腕を通しながら笑顔で台所に入って来たのだが、花那の手元の鍋に目をやってから、申し訳なさそうに眉を下げた。
「もうお夕飯の準備が終わっってしまったんですか?」
「はい、ちょうど出来上がったところです」
「少し来るのが遅くなってしまってごめんなさいね」
「いえ、とんでもありません」
小さく首を振って答えた花那に対し、松代は更に申し訳なさそうな表情をすると、ふうとため息をついた。
「本当に何から何までごめんなさいね。あの子が突然止めてしまってどうしようかと思っていたの。だから花那様が仕事をしてくださるのでとても助かります。私も年のせいで昔みたいに働くことが出来なくなっちゃいましたからね」
「いえ、私なんかでお手伝いできることがあるなら、何でも申しつけてください」
「ありがとう」
心からの感謝を伝えるように、目尻を下げて微笑んだ松代は、そのまま匂いに釣られるように鍋に目をやった。
台所には料理がいくつか入った鍋や皿が置かれている。
「まぁ、美味しそうだこと」
目を輝かせた松代は、そう言って興味深そうに料理を見つめた。それに対し、花那は料理の一つ一つに手を添えて献立を伝える。
「これはつみれとししとうの煮びたしです。こっちは茄子の田楽を用意しています。豪様がお帰りになったらアジの干物を焼こうかと」
「ふふふ。こんな美味しい食事だったら坊ちゃんが早く帰って来るのも頷けますね。花那様が来る前、坊ちゃんは仕事だと言って屋敷にはあまりいらっしゃらなかったんですよ。お仕事もお忙しいのは重々承知していましたが、お休みも取らないので体を壊さないか、私も心配してたんです」
まるで自分の子供を心配するように困ったようにそう言った松代は、花那の隣に立って、洗い物をしながら言葉を続けた。
その口調は不満のように聞こえるが、心の底からその身を案じている慈愛を含んでいるのが分かる。
「坊ちゃんは昔から鬼道家当主であらねばと常に気を張ってらっしゃってましたからね。坊ちゃんには不思議な力があるらしいんですけど、そのせいで子供の頃から厳しい教育を受けてらっしゃったんです。それで子供らしい遊びも許されませんでしたし、子供らしい無邪気さなんてなかったの。それが私には可哀そうに思えていてね」
それは帝都に出かけた時に豪が少し言っていたことを示唆しているのだろう。
大嶽丸という鬼の力を持つ豪は、子供らしい幼少期を過ごしていなかったと言っていた。だから花那に自分の境遇を重ねていたのだと説明していた。
そして花那自身も豪の境遇が理解でき、共感を覚えるのだ。
松代の言葉になんと返していいのか分からず、ただ黙ってその話を聞いていると、松代は食器を洗っていた手を止めて花那を真っ直ぐに見つめた。
「だから、花那さんのお陰で、最近よく笑って柔らかい表情をなさるのでそれが嬉しいのですよ」
〝嬉しい〟
それは先ほど花那が速日に言われたことと同じ言葉だ。
豪の変化は花那がもたらしたものだとは思えないが、それでも豪が少しでも安らぎを覚えてくれるならば、それは花那にとっても嬉しいことだった。
腕を組んで食器棚に背を預けながら速日に、花那は思わず目をやった。
異能を持たない松代には見えていない速日だったが、会話はしっかりと聞いていたようで「お前も俺の気持ちが理解できただろ?」とでも言わんばかりだ。
(そうなのね。人が笑顔になるということは、他人も喜ぶことなんだわ)
速日がこれまで花那に同情していた気持ちも、鬼道家に来てからの花那の変化を喜ぶ気持ちも、ようやく理解できた。
「さて、そろそろ坊ちゃんの帰る時間かしら?」
松代がそう言って時計を見上げると、既に時間は6時を過ぎていた。
いつもならそろそろ帰宅する時間だろう。
そう思っていると、玄関ホールから声が聞こえてきた。
「あらあら噂をすれば、ね」
松代が水に濡れた手を割烹着で拭きながらそう言うのを聞いて、花那も豪を迎えるために玄関ホールに向かった。
「豪様、お帰りなさいませ」
「あぁ、ただいま」
花那がそう言って豪を迎えると、豪は少しだけ疲労を滲ませた笑顔を向けた。
こうやって見ると、豪は時折意志の強い眼差しを向けることもあるが、基本的に花那によく笑顔を向けてくれる。
それは生来の優しさからだと思っていたが、松代の話を聞くとそう言うわけでも無いらしい。
松代の話を鵜呑みにするわけではないが、豪が笑顔が花那による変化なら嬉しく思うし、同時に妙に意識してしまう。
それを誤魔化すように、花那は豪の後ろに回って羽織っていた白い隊服を受け取った。
「お食事の準備ができております」
花那がそう言うと、くるりとこちらに向き直った豪だったが、そのまま口を閉ざして花那をじっと見つめた。
その瞳には何らかの躊躇いがあるようで、かすかに揺れていた。
顔を少しだけ俯き加減にする豪を見て、ただならぬことが起こっているのではないかという考えが頭を過ぎる。
躊躇いと困惑の色を浮かべている豪に、花那は不安になりながらも問いかけた。
「どうされましたか?」
緊張の面持ちでそう尋ねると、豪は小さく息を整えるようにため息をついてから、逸らしていた視線を花那に移し、まっすぐに見つめた。
「君に伝えておくことがあるんだ」
「……なんでしょうか?」
「興津家のことだ」
「興津家の?」
豪から出た話題は、花那にとって意外な事だった。まさか興津家についての話が出るとは思わなかったからだ。
興津家を出てから花那は、叔父達のことを思い出す間も無かったし、気にしたことも無かった。
だから豪から突然その話題が出たことに花那は少々驚いた。
そしてその後に続く豪の言葉は、花那を更に驚かせた。
「興津家が破産したということを伝えておく」
「……え? 破産、ですか?」
興津家は江戸の終わりから明治にかけて呉服店を営んでいた。元は小さな店だったらしいが、曽祖父の代で繁盛させ、花那の父の代までは地元ではそこそこ有名な店となったのだ。
だから「興津家」と言えば、地元の名士と言われており、華族である鬼道ほどではないがそれなりに裕福な家柄だ。
そんな興津家が破産したというのはどういうことなのか。
花那はそんな疑問を持ちつつ、豪の言葉を待った。
「あぁ、事業が失敗して多額の借金を負ったらしい。当主の宏次朗は原因不明の病で倒れ、死去した。君の叔母と従妹の二人は離散し、それぞれ奉公に出たと聞いた」
「そう……なのですね」
「君にこの話をしていいのか悩んだんだが……一応知っておいたほうがいいかと思ってな」
実はこのことは、花那の中である程度予想していたことでもあった。
しかしそのことを口にすれば、必然的に花那の能力を明らかにすることになり、それだけは絶対に避けなければならないことだった。
正直な話、これだけ良くしてくれる豪に隠し事をするのは、豪を裏切っているようにも思えて辛い。
罪悪感に苛まれ、胸が苦しくなる時もある。
それでも花那は真実を豪に告げることができずにいた。
このまま豪の瞳に見つめられたら、秘めた真実が暴かれるように感じた花那は、その視線から逃げるように小さく頭を下げた。
「では、食事をお持ちしますね」
「ああ、すまないな。着替えたらすぐに食堂に行く」
直接見てはいないが、そう答えた豪が纏う空気がふっと緩んだような気がする。
花那がもっと取り乱したり、動揺したり、驚愕したりするのではないかと危ぶんでいたのだろうが、それが無かったことに安堵しているようだった。
その空気を後ろに感じたまま、花那はその場を離れて台所に向かった。
豪に出すための夕食を盛りつけながら、花那は先ほどの話を思い返していた。
(興津家が破産……宏次朗様が亡くなられたのね)
そう思っていると、ふと空気が変わり速日が姿を現した。
そして花那の隣に立って寄り添いながら語り掛けた。
「遅かれ早かれってところだったな。興津家にはあいつらの欲望に引き寄せられた禍牛がうようよいたんだ」
速日が言うように、興津家には数えきれないほどの禍牛がいた。
というのも、あの土地は帝都の地下にある魑魅魍魎を封じる結界が弱い土地だった。
そのため結界から滲み出る妖である禍牛が現れやすいことから、人知れず興津家がそれを抑えていたのだ。
禍牛が現れやすい場所であることに加え、欲にまみれた宏次朗達によって禍牛が更に集まっていたのだが、それを常に祓い、彼らの出現を抑えていたのが花那だった。
だが、花那が興津家を出たと同時に、湧き出る禍牛を祓う人物がいなくなり、結果宏次朗は禍牛による災禍によってあのような末路を辿ったのだ。
豪によって興津家を連れ出された時には、そんなことは頭になかったが、後日冷静に考えた時そのことに思い至った。
しかし、花那は興津家に戻らなかった。
「……冷たい人間よね。望んであの家にいたのに」
ある意味で花那は叔父達を見殺しにしたようなものだ。
そのことに罪悪感を覚え、沈んだ表情の花那を慰めるように、速日は花那の肩を抱いて耳元に語り掛けた。
「気にすることなんてないさ。あいつらの自業自得だ」
その言葉に花那は答える言葉が見つからず、ただ黙って立ち尽くすだけだった。
洋館に住む豪だったが、食事は和食が好きらしく、彼に出す食事は和食が多い。
実は最近、花那は食事の準備を始め、掃除や洗濯などの使用人の仕事をしている。
というのも、ある使用人の母親が病に倒れてしまい、急遽故郷に帰ることになったのだ。
元々この屋敷では少数精鋭で屋敷内の仕事を行っていたため、突然使用人がいなくなったことで人手が足りなくなってしまった。
そこで花那はその使用人の代わりに仕事をすることを申し出たのだ。
その申し出に、豪は始め「そんな気を使う必要はない」と言い、松代にも「お客様にそんなことはさせられません」とは言われたのだが、居候しているのも気が引けるということを伝えると、最終的には二人も納得してくれた。
(食事の準備は終わったし、後は豪様を待つだけだわ)
そう思いながら花那が使用済みの調理道具を手際よく洗っていると、ふっと空気が変わった。
「花那、楽しそうだな」
「速日?」
突然姿を現し、花那に声を掛けたのは速日だった。
速日は鍋を興味深く除いた後、顔の位置をそのままにして花那を見上げた。
切れ長の目で涼やかな印象を与える目は、今は柔らかく細められ、その顔には微笑を浮かべている。
「突然現れてどうしたの? 何か嬉しそうだけど、何かいいことでもあった?」
「ん、この屋敷に来てから、お前の表情が豊かになったことが嬉しいんだ。興津の屋敷ではお前は余り表情を見せなかっただろ? だからそう言う変化が嬉しい」
「そんなに顔に出ていた?」
「まぁな」
速日に指摘され、花那は思わず両手を頬にやった。
そんなに楽しそうだったろうか?
だが、速日が言っていることも分かる。
花那はこの屋敷に来てから、自然と感情を表すことができるようになった。
興津家にいる時には、家事や炊事を楽しいと思ったことはなかったが、豪のためだと思うとまったく苦に感じない。
花那ができる事はこの程度しかなく、豪から受けた恩を考えると恩返しなどとは到底言えないものだ。
それでもこうして豪の役に立てると思うと、炊事も楽しく感じて、自然に微笑んでしまっているのかもしれない。
すると、不意に速日は声音を低くして、窺うような表情で尋ねた。
「……やっぱり屋敷を出るつもりなのか?」
途端に顔を曇らせた速日を見て、花那は小さく苦笑した。
そして本心を隠すように鍋に視線を移し、最後の仕上げにネギを入れながら速日の問いに答えた。
「ええ。私がここにいたら、いつ豪様に迷惑がかかるか分からないから」
しばらくは恩を返すために働くつもりだが、時期がきたらこの屋敷を離れるつもりだ。
花那の問いに速日が何かを言おうと口を開いた時だった。
パタパタという足音と共に、柔らかな女性の声が台所に響いた。
「あら、いい匂いですね」
振り向くと、声の主は松代だった。
松代は割烹着に腕を通しながら笑顔で台所に入って来たのだが、花那の手元の鍋に目をやってから、申し訳なさそうに眉を下げた。
「もうお夕飯の準備が終わっってしまったんですか?」
「はい、ちょうど出来上がったところです」
「少し来るのが遅くなってしまってごめんなさいね」
「いえ、とんでもありません」
小さく首を振って答えた花那に対し、松代は更に申し訳なさそうな表情をすると、ふうとため息をついた。
「本当に何から何までごめんなさいね。あの子が突然止めてしまってどうしようかと思っていたの。だから花那様が仕事をしてくださるのでとても助かります。私も年のせいで昔みたいに働くことが出来なくなっちゃいましたからね」
「いえ、私なんかでお手伝いできることがあるなら、何でも申しつけてください」
「ありがとう」
心からの感謝を伝えるように、目尻を下げて微笑んだ松代は、そのまま匂いに釣られるように鍋に目をやった。
台所には料理がいくつか入った鍋や皿が置かれている。
「まぁ、美味しそうだこと」
目を輝かせた松代は、そう言って興味深そうに料理を見つめた。それに対し、花那は料理の一つ一つに手を添えて献立を伝える。
「これはつみれとししとうの煮びたしです。こっちは茄子の田楽を用意しています。豪様がお帰りになったらアジの干物を焼こうかと」
「ふふふ。こんな美味しい食事だったら坊ちゃんが早く帰って来るのも頷けますね。花那様が来る前、坊ちゃんは仕事だと言って屋敷にはあまりいらっしゃらなかったんですよ。お仕事もお忙しいのは重々承知していましたが、お休みも取らないので体を壊さないか、私も心配してたんです」
まるで自分の子供を心配するように困ったようにそう言った松代は、花那の隣に立って、洗い物をしながら言葉を続けた。
その口調は不満のように聞こえるが、心の底からその身を案じている慈愛を含んでいるのが分かる。
「坊ちゃんは昔から鬼道家当主であらねばと常に気を張ってらっしゃってましたからね。坊ちゃんには不思議な力があるらしいんですけど、そのせいで子供の頃から厳しい教育を受けてらっしゃったんです。それで子供らしい遊びも許されませんでしたし、子供らしい無邪気さなんてなかったの。それが私には可哀そうに思えていてね」
それは帝都に出かけた時に豪が少し言っていたことを示唆しているのだろう。
大嶽丸という鬼の力を持つ豪は、子供らしい幼少期を過ごしていなかったと言っていた。だから花那に自分の境遇を重ねていたのだと説明していた。
そして花那自身も豪の境遇が理解でき、共感を覚えるのだ。
松代の言葉になんと返していいのか分からず、ただ黙ってその話を聞いていると、松代は食器を洗っていた手を止めて花那を真っ直ぐに見つめた。
「だから、花那さんのお陰で、最近よく笑って柔らかい表情をなさるのでそれが嬉しいのですよ」
〝嬉しい〟
それは先ほど花那が速日に言われたことと同じ言葉だ。
豪の変化は花那がもたらしたものだとは思えないが、それでも豪が少しでも安らぎを覚えてくれるならば、それは花那にとっても嬉しいことだった。
腕を組んで食器棚に背を預けながら速日に、花那は思わず目をやった。
異能を持たない松代には見えていない速日だったが、会話はしっかりと聞いていたようで「お前も俺の気持ちが理解できただろ?」とでも言わんばかりだ。
(そうなのね。人が笑顔になるということは、他人も喜ぶことなんだわ)
速日がこれまで花那に同情していた気持ちも、鬼道家に来てからの花那の変化を喜ぶ気持ちも、ようやく理解できた。
「さて、そろそろ坊ちゃんの帰る時間かしら?」
松代がそう言って時計を見上げると、既に時間は6時を過ぎていた。
いつもならそろそろ帰宅する時間だろう。
そう思っていると、玄関ホールから声が聞こえてきた。
「あらあら噂をすれば、ね」
松代が水に濡れた手を割烹着で拭きながらそう言うのを聞いて、花那も豪を迎えるために玄関ホールに向かった。
「豪様、お帰りなさいませ」
「あぁ、ただいま」
花那がそう言って豪を迎えると、豪は少しだけ疲労を滲ませた笑顔を向けた。
こうやって見ると、豪は時折意志の強い眼差しを向けることもあるが、基本的に花那によく笑顔を向けてくれる。
それは生来の優しさからだと思っていたが、松代の話を聞くとそう言うわけでも無いらしい。
松代の話を鵜呑みにするわけではないが、豪が笑顔が花那による変化なら嬉しく思うし、同時に妙に意識してしまう。
それを誤魔化すように、花那は豪の後ろに回って羽織っていた白い隊服を受け取った。
「お食事の準備ができております」
花那がそう言うと、くるりとこちらに向き直った豪だったが、そのまま口を閉ざして花那をじっと見つめた。
その瞳には何らかの躊躇いがあるようで、かすかに揺れていた。
顔を少しだけ俯き加減にする豪を見て、ただならぬことが起こっているのではないかという考えが頭を過ぎる。
躊躇いと困惑の色を浮かべている豪に、花那は不安になりながらも問いかけた。
「どうされましたか?」
緊張の面持ちでそう尋ねると、豪は小さく息を整えるようにため息をついてから、逸らしていた視線を花那に移し、まっすぐに見つめた。
「君に伝えておくことがあるんだ」
「……なんでしょうか?」
「興津家のことだ」
「興津家の?」
豪から出た話題は、花那にとって意外な事だった。まさか興津家についての話が出るとは思わなかったからだ。
興津家を出てから花那は、叔父達のことを思い出す間も無かったし、気にしたことも無かった。
だから豪から突然その話題が出たことに花那は少々驚いた。
そしてその後に続く豪の言葉は、花那を更に驚かせた。
「興津家が破産したということを伝えておく」
「……え? 破産、ですか?」
興津家は江戸の終わりから明治にかけて呉服店を営んでいた。元は小さな店だったらしいが、曽祖父の代で繁盛させ、花那の父の代までは地元ではそこそこ有名な店となったのだ。
だから「興津家」と言えば、地元の名士と言われており、華族である鬼道ほどではないがそれなりに裕福な家柄だ。
そんな興津家が破産したというのはどういうことなのか。
花那はそんな疑問を持ちつつ、豪の言葉を待った。
「あぁ、事業が失敗して多額の借金を負ったらしい。当主の宏次朗は原因不明の病で倒れ、死去した。君の叔母と従妹の二人は離散し、それぞれ奉公に出たと聞いた」
「そう……なのですね」
「君にこの話をしていいのか悩んだんだが……一応知っておいたほうがいいかと思ってな」
実はこのことは、花那の中である程度予想していたことでもあった。
しかしそのことを口にすれば、必然的に花那の能力を明らかにすることになり、それだけは絶対に避けなければならないことだった。
正直な話、これだけ良くしてくれる豪に隠し事をするのは、豪を裏切っているようにも思えて辛い。
罪悪感に苛まれ、胸が苦しくなる時もある。
それでも花那は真実を豪に告げることができずにいた。
このまま豪の瞳に見つめられたら、秘めた真実が暴かれるように感じた花那は、その視線から逃げるように小さく頭を下げた。
「では、食事をお持ちしますね」
「ああ、すまないな。着替えたらすぐに食堂に行く」
直接見てはいないが、そう答えた豪が纏う空気がふっと緩んだような気がする。
花那がもっと取り乱したり、動揺したり、驚愕したりするのではないかと危ぶんでいたのだろうが、それが無かったことに安堵しているようだった。
その空気を後ろに感じたまま、花那はその場を離れて台所に向かった。
豪に出すための夕食を盛りつけながら、花那は先ほどの話を思い返していた。
(興津家が破産……宏次朗様が亡くなられたのね)
そう思っていると、ふと空気が変わり速日が姿を現した。
そして花那の隣に立って寄り添いながら語り掛けた。
「遅かれ早かれってところだったな。興津家にはあいつらの欲望に引き寄せられた禍牛がうようよいたんだ」
速日が言うように、興津家には数えきれないほどの禍牛がいた。
というのも、あの土地は帝都の地下にある魑魅魍魎を封じる結界が弱い土地だった。
そのため結界から滲み出る妖である禍牛が現れやすいことから、人知れず興津家がそれを抑えていたのだ。
禍牛が現れやすい場所であることに加え、欲にまみれた宏次朗達によって禍牛が更に集まっていたのだが、それを常に祓い、彼らの出現を抑えていたのが花那だった。
だが、花那が興津家を出たと同時に、湧き出る禍牛を祓う人物がいなくなり、結果宏次朗は禍牛による災禍によってあのような末路を辿ったのだ。
豪によって興津家を連れ出された時には、そんなことは頭になかったが、後日冷静に考えた時そのことに思い至った。
しかし、花那は興津家に戻らなかった。
「……冷たい人間よね。望んであの家にいたのに」
ある意味で花那は叔父達を見殺しにしたようなものだ。
そのことに罪悪感を覚え、沈んだ表情の花那を慰めるように、速日は花那の肩を抱いて耳元に語り掛けた。
「気にすることなんてないさ。あいつらの自業自得だ」
その言葉に花那は答える言葉が見つからず、ただ黙って立ち尽くすだけだった。



