死に戻りした色無しの娘は鬼神の愛で花開く~帝都純愛物語~

松屋を後にした花那はほうっと息を吐いた。
今まで人混みを見たことも入ったことも無かった花那としては、目が回っている感じがする。
加えて豪が見せてくれた美しい洋服や着物、宝飾品の数々を目の前にして、感動の嵐だった。

(まるで夢に迷い込んだみたいだったわ)

あまりにも非現実的な世界を見た気がして、まだ夢見心地だ。
モダンな建物を出て空を見上げると、太陽はちょうと真上に来ており、澄み渡った青空に燦燦と輝いている。
圧倒された空気から解放され、気持ちと頭を沈ませていると、隣に立った豪が花那を見下ろして尋ねた。

「本当に何も買わなくて良かったのか?」

小さく眉を顰め、何とも残念そうに言う豪に、花那はブンブンと頭を振った。

「いいえ! この洋服も靴も全部ご用意いただいただけで十分です。私にはお返しするものがありませんし、これ以上は受け取れません」
「本当に君は欲がないな。もっと我儘になっていいんだぞ」

そう言って豪は苦笑した。
こんな風に豪に困った顔をされると、自分が悪いのではという考えが花那の頭に一瞬過ぎったのだが、やはりこれ以上は彼の厚意に甘えることはできない。
豪に生活の一切を面倒見てもらうだけでも心苦しいのだ。

(でも、どうして豪様はここまでしてくれるのかしら?)

ふとそんな疑問が湧き上がる。
豪にとって花那は縁故のある人間でもないし、少し介抱してくれただけの存在だろう。
それだけのことに豪が恩義を感じ、厚くもてなしてくれることに、罪悪感さえ覚えてしまう。
だからそんな思いがどうしても拭えない。
俯き加減になった花那に豪が優しく声を掛けた。

「君はもう自由なんだ。どこにでも行ける。好きなところに行って、好きな物を見て、好きな物を食べて。感情を抑える必要もないんだ」

見上げると、豪は真っ直ぐに花那を見つめていた。
その眼差しには強さと優しさが込められており、それは花那が興津の屋敷を出るように促した時を思い出させた。
自由を得るというのは常に選択をしなくてはならない。
どこに行くかという選択、何を見るかという選択、何を食べるかという選択。
今まで選択というものを拒否してきた花那に、豪は何度もそれを提示するのだ。
それは花那の知らなかった世界へと誘おうとしているようだった。
花那の胸に言葉では言い表せない熱いものが込み上げてくる。

「まぁ、突然そんなことを言われても困るか。じゃあ、まずはこうしよう。周りを見回してみるんだ。その中に興味のあるものはないか?」

豪は花那の後ろに回ったかと思うと、そっと羽のように軽く肩に触れ、目線を花那の位置に合わせた。
そして花那に手本を見せるかのように顔を周囲に向ける。
花那もまたつられるように周囲を見回すと、ふと一軒の書店があることに気づいて視線が止まった。

「ん? 気になるのか?」
「いえ……その……」

そこまで言った花那だったが、意を決して頷いて答えた。

「はい……行ってみたいです」
「じゃあ行ってみよう」

豪は花那の答えに満足そうに笑った。
それは興津屋敷で豪が差し伸べた手を取り、興津家を出るという選択をした時に見せた笑顔によく似ていた。
書店は小さなもので、銀座の大通りにあるにしては珍しい木造のこじんまりとした本屋だった。
木製の引き戸は年月を感じさせるようなこげ茶色の物ものであったが、ガラスが使われているところに大正の世を感じる。
先ほどまでモダンな建物ばかりを見ていたせいか、和風造りのそれは花那にとって妙に落ち着くものだった。

「失礼します」
「いらっしゃい」

一歩書店の中に入ると、少し埃っぽいものの、本棚が林立しており充実した品揃えだ。
本棚の間は人が二人程並んで歩ける程度の細い通路にも関わらず、更に本が平積みにされており、本の森の中から店主の声が聞こえた。
店主の顔は見えないものの、花那は小さく礼をして本棚に目を向けた。
閉じ本の他にも洋物の本も並んでいる。
それを興味深く見ていると、豪は少し高い位置にある本の一つを手に取ると、パラパラと中身を通し、再び本棚に戻しながら花那に尋ねた。

「本は好きなのか?」
「はい。その……興津家で自室にいた時には、本を読むことが多かったので」
「どんな本を読むんだ?」
「どんな本というか……御伽草子をまとめたような子供向けの物ばかりです。本は高価なものですから、私には買うことができなくて、昔母に買ってもらったものを繰り返し読んでいました」

本当はもっと色々な種類の本を読んでみたかったのだが、花那の環境では自由になるお金などなかった。
だから何度も同じ話を繰り返し読んだ。
その時間だけは現実を忘れて没頭できたからだ。
花那の言葉に豪が顔を顰めた。たぶん興津家でのことを察して心を痛めてくれているのだろう。
そんな豪の気持ちを察した花那は、さほど問題な事ではないとばかりに小さく笑ってから再び本棚に目を移した。

(たくさんの本があるのね。でも……ちょっと難しいものばかりね)

皮張りの本の背表紙に書かれている題名は、医学書や経済学の本などが多く、花那が理解するには難しい物が多かった。
そんな中、濃紺の表紙に金色の文字が印字されている本の一つに目が留とまった。

「グリムお伽話?」

日本でいうところの御伽草子みたいなものだろうか?
そう疑問に思っていると、豪は本を手に取って花那に渡しながら答えてくれた。

「異国の子供向けの物語だ」
「異国のものですか?」

このような皮張りの立派な本など触れたことがない花那は、差し出された本を丁寧にそっと受け取ると、ゆっくりと中を見ることにした。
子供向けの本と言うだけあって、中には挿絵も描かれている。
ドレスを身に着けた貴婦人や、スーツを着た男性、宝飾品をふんだんに身に纏っているのは王様だろうか?
花那はそう思いながら頁を捲る手が止まらなかった。

赤ずきんを被った少女が狼に食べられそうになるのを猟師に助けられる話や、塔に閉じ込められた少女が王子に助けられる話、継母や義姉に虐められた少女が魔法使いによって舞踏会に行って王子と幸せになる話……
どれも興味深い内容だった。
ただ、それよりも花那が驚いたことがあった。

「異国には、私みたいな髪色の人間がいるんですか?」
「あぁ、異人には金の髪や赤い髪、もちろん銀色の髪の人間もいる」

日本では髪は黒髪の人間がほとんどで、花那の白銀の髪は異質な人間である。
だが、世界には花那のような髪色の人間が存在し、普通に暮らしていることに衝撃を受けた。

「異国って凄いところなんですね。こんな人がたくさんいて、日本とは生活も文化も全く違うんですね」
「そうだな。大正になって随分と外国由来の物が普及したし、世の中も進歩している。だが、外国は日本よりも進んだ技術も多い。そうだ、この本が気に入ったなら買おうか?」
「いいえ、本当にお気持ちだけで結構ですよ」

再び固辞した花那に、とうとう豪は呆れた表情を見せた後、観念して別の提案をした。

「君も頑固だな。じゃあ、屋敷に書庫があってそれなりの蔵書がある。こういう異国の本もあるから自由に読んでみるといい」
「ありがとうございます」

花那が小さく頭を下げてから本を本棚に戻そうとした時、豪がふと何かを思いついたように言った。

「花那、もう疲れたか?」
「え? いいえ。大丈夫です」
「じゃあ、少し距離はあるが、昼食を食べてから凌雲閣(りょううんかく)に行ってみないか? 今の君に見てもらいたいものがあるんだ」

凌雲閣の噂は世間を知らない花那でも知っている程有名な建物だ。
12階建ての塔で帝都を一望できるという、観光名所である。
もちろん断る理由などない。

「はい、是非行ってみたいです」

花那が二つ返事でそう答えると、豪は嬉しそうに顔を綻ばせた。
そうして銀座から電車で浅草に移動し、凌雲閣を目指した。



驚きのあまり息を止めてしまうのは、今日何度目のことだろうか?
そのくらい刺激的な一日だったのに、更にトドメという言わんばかりの光景に、花那は目を瞬かせてしまった。
凌雲閣はさすが帝都随一の観光名所だけあって、圧倒的な威厳のある建物だった。
赤茶色のレンガ造りのそれは、本当に人が作り上げたのかと疑う程高く聳え立っていた。
万人を受け入れるように開かれた鉄門を潜るとすぐに小さな部屋があり、入口は蛇腹式の格子の柵でできている。

「エレベーターだ。これに乗って最上階まで行くんだ」

豪の言葉を聞きながら花那が興味深く見ていると、部屋の中から一人の男性が声を掛けてきた。

「何階に行かれますか?」

髪をポマードできちんと撫で付け、黒いジャケットを着こなしているその男性の手元には、手回しの車輪がある。

「え?」

突然の問いに花那が驚いて目を瞬かせていると、隣の豪はさも当然というように花那の腰に手を添え、そっとエレベーターの中へと誘った。

「最上階へ」
「かしこまりました」

ガタガタと揺れることに思わず身を固くしていると、やがてチンというベルの音と共にゆっくりとエレベーターが止まった。
うす暗いエレベーターから降りると、差し込む日光が花那を照らしたので思わず目を細めてしまった。
そしてゆっくりと目を開けた途端、花那はその眺望に息を呑んだ。

「すごい……まるで鳥になったみたいですね」
「そうだな。ほら、あそこの辺りがさっきいた銀座だな。その奥にあるのが東京駅だ」

そう言って豪は長く美しい指で指をさした。
花那は豪の指を追うようにして、その先を一つ一つ見つめた。
先ほどあれほど大きな建物だと思っていた松屋でさえも小さく見え、花那の眼下に広がる帝都の様子は、まるで模型のようだった。

「もしかして、あの川は隅田川ですか?」
「あぁ、そうだ。夏になると花火が上がって、あの両国橋から皆眺めるんだ」

隅田川はその水面に光が反射してひと際輝いているように見えた。
川の流れを辿っていくとその先は海に通じている。
そしてその海の先には、さっき本屋で見た異国の世界がある。
自分と同じような容姿を持つ人間が普通に暮らす世界があると言うことは、花那にとって今日一番の衝撃だった。

「……世界は、広いんですね」

花那の世界は興津家の中だけだった。
死に戻り前もこの容姿のため外出は控えていたため、せいぜい近所の神社で行われた夏祭りにこっそり出かけた程度だ。
だが、世界はこんなにも広く、こんなにも美しいのだ。
食い入るように眺望を見ていると、視線を感じてそちらを向くと、そこには柔らかく笑みを浮かべる豪の姿があった。
あまりにも楽しそうで、そして愉快そうなので、花那は自分の顔に何かついているのではないかと不安になり、そっと頬に手を当てて確かめてみた。
だが特に何かついている感じもしない。
もしかしてはしゃぎ過ぎたのだろうか?

「あ、あの、どうされましたか? 私に何かついているのでしょうか?」

花那は不安に思い、豪の顔を窺うように見たのだが、豪はゆっくりと首を振って花那の思いを否定した。

「いや、楽しそうだなと思って」
「え? それは、もちろん楽しいですが」
「ようやく君の本当の笑顔が見れた気がする」
「笑顔、ですか?」

首を傾げる花那の問いには答えず、豪は口の端に笑みを浮かべた後に、視線を窓の外に戻した。
それ以上何も言わない豪の整った横顔を見つめた花那の胸が、ギュッと詰まった。
豪の姿が眩しく、その周りが光り輝いているように見える。
花那にとって豪は希望を見せてくれた光なのだと気づいた。
豪と二人でこんな穏やかな時間を過ごしたことは、死に戻り前でさえなかったのだ。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
しかし、それは叶わないことは花那自身がよく知っている。
豪と一緒にいれば、死に戻り前の様に花那の都合に巻き込み、命を落としてしまう未来があるかもしれない。

(それでももう少しだけ。全てを忘れてこの時間を過ごしたい……)

今だけは、幸せな夢を見ていたい。
花那はそう思いつつ、まるでこの温かい時間を胸に刻むように、眼下に広がる帝都を眺め続けた。