帝都の街を行き交う人々の多さは、花那の想像を遙かに超えるものだった。
車を降りた花那は半ば呆然とした面持ちでそれを見つめ、言葉を失ってしまっていた。
耳には絶え間ない騒めきが聞こえ、豪達の車の傍を路面電車がチンチンと軽快な鈴を鳴らして走っている。
歩道には着物姿や羽織り姿の人々が往来し、人力車を引いた車夫が軽快な足取りで、ゆったりと歩く歩行者の脇を走り抜けていく姿も見えた。
整然と並ぶ石造りの西洋風の建物は、二階建てどころか三階建てもあり、店には人が忙しなく出入りしていた。
屋敷の中の静かな場所で、一人で過ごしていた花那にとって、その光景は驚きを通り越して別世界に来たようにも感じる。
(和服の人も多いけど、洋装の人も多いのね)
膝が隠れる程度のスカートを靡かせ、肩程に髪を揃えた女性が、颯爽と歩いているのを見た花那は、その女性の後ろ姿を見送りながらそう思った。
街に来る際に、初めて洋装をした花那は、モガがするような恰好は似つかわしくなく、帝都で浮いてしまうのではと危惧していたが、思いのほか洋装の女性の姿が散見された。
その様子を見ていた花那だったが、不意に自分の格好を認識し、我に返って慌てて髪に手を当てた。
初めての帝都の人に圧倒されて忘れていたが、花那の容姿は異質なものだ。
今まで人々から向けられた白い目を思い出した途端、身が竦んでこのまま立ち去りたい衝動に駆られた。
不安と恐怖が胸の中に広がり、どうしても一歩が踏み出せないでいると、先に車から降りて豪がこちらを振り返った。
そして、立ち尽くしたまま歩けないでいる花那を見て、口の端に笑みを浮かべて優しく声を掛けた。
どうやら花那が歩けない理由を察したらしい。
「大丈夫だ。気にすることはない。ちゃんと染まっている」
豪は花那を安心させるように柔らかい口調でそう言うと、一旦周囲を見回してから更に言葉を続けた。
「それにこれだけの人だ。他人のことをじろじろ見るような暇な人間はいないさ」
そう言われて左右を見渡すと、豪が言う通りすれ違う人々は一緒にいる友達や家族と楽しそうに話していたり、目的地に向かうために小走りだったり、あるいは新聞を睨むように見ているような人ばかりだ。
彼らは花那のことなど気にする素振りもなかった。
小さく安堵のため息をついた花那を見て、豪は仕切り直しとばかりに明るい口調で花那に尋ねた。
「さて、どこに行きたい?」
そう問われても、花那は特に行きたい場所はなかった。
興津家の使用人たちが話しているのを耳にしたり、彩が自慢する言葉から、帝国劇場という西洋風の見世物小屋で様々な演目が披露されていること、洋食を主に出すレストランという食堂があること、カフェーという甘味処ではアイスクリンを食べられると言うことは知っている。
だがそれらがどう言った物か全く想像がつかず、豪にどう答えていいのか悩んでしまった。
「すみません。帝都のことは分からなくて」
きっと豪の期待に添う答えにはなっていないだろうことは明白で、それが申し訳なく思いつつ花那はそう答えた。
「じゃあ、何か欲しい物はないのか?」
「ええと……特には」
「うーん」
花那の答えに豪は顎に手を添えたかと思うと、思案してしまった。
するとふと妙案でも思いついたのか、豪は表情を明るくし、まるでいたずらっ子の様に笑いながら言った。
「ではデパートにでも行ってみるか」
「デパート、ですか?」
「あぁ、百貨店のことだ。あそこなら色んなものが売っている。さぁ、行こう」
そうして豪と花那は百貨店に向かうことにした。
花那が案内されたのは銀座にある「松屋」という百貨店だった。
老若男女問わず道行く人々が吸い込まれるように入っていくその建物は、白いレンガで出来た見上げるほど高い建物だった。
下から数えると8階もあり、周囲の建物と比較しても遙かに高い建物だった。
幅も広く、普通の小間物屋が9店も入るであろう大きさだった。
花那が驚いて目を丸くしていると、豪は愉快そうに笑いながら花那を促した。
「中はもっとすごいぞ」
これ以上凄いことなどあるのかと思いつつ、建物に一歩足を踏み入れた花那は、今度こそ驚きの余り思考が止まってしまった。
天井は8階まで吹き抜けになっており、天井には円形の薔薇の形を模したステンドグラスになっていて、1階の人々に柔らかい日差しを与えている。
半円形のアーチ状を描く柱は漆喰で出来ている上に、施されたモザイク模様がモダンな雰囲気を醸し出していた。
ピカピカに磨かれた大理石の床は、黒と白の市松模様をしていて、人がひしめきあうように歩く様は、祭りでも見たことのないほどの人混みだった。
息をするのさえ忘れて立ち尽くす花那に、とうとう豪が耐えきれず忍び笑いをした。
「凄いか?」
「は、はい!」
驚きを通り越し、自分のような普通ではない人間が、このような豪奢な場所に足を踏み入れていいのか恐れを感じてしまう程だ。
だが、そう思いつつ人混みの中で立ち尽くしていたのがまずかったのだろう。
ひしめく人の波が突然花那を襲った。
「キャッ」
バランスを崩し、そのまま人混みに流されそうになった時だった。
グイっと力強い手が花那の腕を掴んで引き留めた。
そのまま引き寄せられ、気づけば逞しい腕が花那を包み込み、に豪の硬い胸板の感触が背中から伝わる。
「っ!」
急速に縮まった距離に、花那は小さく息を呑んだ。
豪に後ろから抱きしめられている格好なのだと一拍遅れて気が付いた瞬間、背後から豪の落ち着いた声が花那に問いかけた。
「予想よりも人が多いな。花那、大丈夫か?」
そう囁くように言った豪の吐息が耳に掛かり、その熱が花那の耳に移ったように熱を持つ。
(これは不可抗力よ。平常心、平常心)
ドキドキと煩い心臓を鎮めようとするが、暴れるように動くので抑えようにも抑えきれない。
心臓の音が豪にも聞こえてしまうのではないかと言う程だ。
豪は単に人混みから花那を守ってくれているだけなのに、妙に意識してしまう。
「だ、大丈夫です」
花那は緊張からそう言うだけで精一杯だった。
その頃には人の流れも一段落して、ようやく豪が花那を解放してくれた。
そしてほっと安堵の表情を浮かべた後に苦笑した。
「すごい人だったな。離れ離れにならずに済んだ」
「そ、そうですね。私も気を付けます」
「さぁ、行こうか」
豪はそう言うと、花那の肩を引き寄せるように抱き、そのまま歩き出した。
「えっ?」
「人が多いからな。こうして歩いた方がいいかと思ったんだが。迷惑だったか?」
僅かに首を傾げてそう尋ねる豪の表情には少しの下心もなく、純粋な花那への気遣いだけだった。
まだ顔に熱を帯びている花那とは対照的に、豪は至って普通の表情だ。
自分ばかりが意識しているようで、なんとなくいたたまれなくなる。
豪は黙り込む花那の顔を覗き込むように見つめており、反応のない花那に対して不安を覚えているようだった。
花那としては嫌な思いを抱いているわけではない。
ただ少し恥ずかしいだけで。
しかしこのまま黙っていると豪は花那が拒否感を示しているのだと勘違いしそうだったので、花那は慌てて顔を上げて答えた。
「へ、平気です」
「そうか、良かった」
豪は柔らかく微笑むと、そのまま花那をエスコートするように歩き出した。
そんな花那は火照った顔を見せないように少し俯き加減にしつつも、豪に身を任せるように共に歩を進めたのだった。
車を降りた花那は半ば呆然とした面持ちでそれを見つめ、言葉を失ってしまっていた。
耳には絶え間ない騒めきが聞こえ、豪達の車の傍を路面電車がチンチンと軽快な鈴を鳴らして走っている。
歩道には着物姿や羽織り姿の人々が往来し、人力車を引いた車夫が軽快な足取りで、ゆったりと歩く歩行者の脇を走り抜けていく姿も見えた。
整然と並ぶ石造りの西洋風の建物は、二階建てどころか三階建てもあり、店には人が忙しなく出入りしていた。
屋敷の中の静かな場所で、一人で過ごしていた花那にとって、その光景は驚きを通り越して別世界に来たようにも感じる。
(和服の人も多いけど、洋装の人も多いのね)
膝が隠れる程度のスカートを靡かせ、肩程に髪を揃えた女性が、颯爽と歩いているのを見た花那は、その女性の後ろ姿を見送りながらそう思った。
街に来る際に、初めて洋装をした花那は、モガがするような恰好は似つかわしくなく、帝都で浮いてしまうのではと危惧していたが、思いのほか洋装の女性の姿が散見された。
その様子を見ていた花那だったが、不意に自分の格好を認識し、我に返って慌てて髪に手を当てた。
初めての帝都の人に圧倒されて忘れていたが、花那の容姿は異質なものだ。
今まで人々から向けられた白い目を思い出した途端、身が竦んでこのまま立ち去りたい衝動に駆られた。
不安と恐怖が胸の中に広がり、どうしても一歩が踏み出せないでいると、先に車から降りて豪がこちらを振り返った。
そして、立ち尽くしたまま歩けないでいる花那を見て、口の端に笑みを浮かべて優しく声を掛けた。
どうやら花那が歩けない理由を察したらしい。
「大丈夫だ。気にすることはない。ちゃんと染まっている」
豪は花那を安心させるように柔らかい口調でそう言うと、一旦周囲を見回してから更に言葉を続けた。
「それにこれだけの人だ。他人のことをじろじろ見るような暇な人間はいないさ」
そう言われて左右を見渡すと、豪が言う通りすれ違う人々は一緒にいる友達や家族と楽しそうに話していたり、目的地に向かうために小走りだったり、あるいは新聞を睨むように見ているような人ばかりだ。
彼らは花那のことなど気にする素振りもなかった。
小さく安堵のため息をついた花那を見て、豪は仕切り直しとばかりに明るい口調で花那に尋ねた。
「さて、どこに行きたい?」
そう問われても、花那は特に行きたい場所はなかった。
興津家の使用人たちが話しているのを耳にしたり、彩が自慢する言葉から、帝国劇場という西洋風の見世物小屋で様々な演目が披露されていること、洋食を主に出すレストランという食堂があること、カフェーという甘味処ではアイスクリンを食べられると言うことは知っている。
だがそれらがどう言った物か全く想像がつかず、豪にどう答えていいのか悩んでしまった。
「すみません。帝都のことは分からなくて」
きっと豪の期待に添う答えにはなっていないだろうことは明白で、それが申し訳なく思いつつ花那はそう答えた。
「じゃあ、何か欲しい物はないのか?」
「ええと……特には」
「うーん」
花那の答えに豪は顎に手を添えたかと思うと、思案してしまった。
するとふと妙案でも思いついたのか、豪は表情を明るくし、まるでいたずらっ子の様に笑いながら言った。
「ではデパートにでも行ってみるか」
「デパート、ですか?」
「あぁ、百貨店のことだ。あそこなら色んなものが売っている。さぁ、行こう」
そうして豪と花那は百貨店に向かうことにした。
花那が案内されたのは銀座にある「松屋」という百貨店だった。
老若男女問わず道行く人々が吸い込まれるように入っていくその建物は、白いレンガで出来た見上げるほど高い建物だった。
下から数えると8階もあり、周囲の建物と比較しても遙かに高い建物だった。
幅も広く、普通の小間物屋が9店も入るであろう大きさだった。
花那が驚いて目を丸くしていると、豪は愉快そうに笑いながら花那を促した。
「中はもっとすごいぞ」
これ以上凄いことなどあるのかと思いつつ、建物に一歩足を踏み入れた花那は、今度こそ驚きの余り思考が止まってしまった。
天井は8階まで吹き抜けになっており、天井には円形の薔薇の形を模したステンドグラスになっていて、1階の人々に柔らかい日差しを与えている。
半円形のアーチ状を描く柱は漆喰で出来ている上に、施されたモザイク模様がモダンな雰囲気を醸し出していた。
ピカピカに磨かれた大理石の床は、黒と白の市松模様をしていて、人がひしめきあうように歩く様は、祭りでも見たことのないほどの人混みだった。
息をするのさえ忘れて立ち尽くす花那に、とうとう豪が耐えきれず忍び笑いをした。
「凄いか?」
「は、はい!」
驚きを通り越し、自分のような普通ではない人間が、このような豪奢な場所に足を踏み入れていいのか恐れを感じてしまう程だ。
だが、そう思いつつ人混みの中で立ち尽くしていたのがまずかったのだろう。
ひしめく人の波が突然花那を襲った。
「キャッ」
バランスを崩し、そのまま人混みに流されそうになった時だった。
グイっと力強い手が花那の腕を掴んで引き留めた。
そのまま引き寄せられ、気づけば逞しい腕が花那を包み込み、に豪の硬い胸板の感触が背中から伝わる。
「っ!」
急速に縮まった距離に、花那は小さく息を呑んだ。
豪に後ろから抱きしめられている格好なのだと一拍遅れて気が付いた瞬間、背後から豪の落ち着いた声が花那に問いかけた。
「予想よりも人が多いな。花那、大丈夫か?」
そう囁くように言った豪の吐息が耳に掛かり、その熱が花那の耳に移ったように熱を持つ。
(これは不可抗力よ。平常心、平常心)
ドキドキと煩い心臓を鎮めようとするが、暴れるように動くので抑えようにも抑えきれない。
心臓の音が豪にも聞こえてしまうのではないかと言う程だ。
豪は単に人混みから花那を守ってくれているだけなのに、妙に意識してしまう。
「だ、大丈夫です」
花那は緊張からそう言うだけで精一杯だった。
その頃には人の流れも一段落して、ようやく豪が花那を解放してくれた。
そしてほっと安堵の表情を浮かべた後に苦笑した。
「すごい人だったな。離れ離れにならずに済んだ」
「そ、そうですね。私も気を付けます」
「さぁ、行こうか」
豪はそう言うと、花那の肩を引き寄せるように抱き、そのまま歩き出した。
「えっ?」
「人が多いからな。こうして歩いた方がいいかと思ったんだが。迷惑だったか?」
僅かに首を傾げてそう尋ねる豪の表情には少しの下心もなく、純粋な花那への気遣いだけだった。
まだ顔に熱を帯びている花那とは対照的に、豪は至って普通の表情だ。
自分ばかりが意識しているようで、なんとなくいたたまれなくなる。
豪は黙り込む花那の顔を覗き込むように見つめており、反応のない花那に対して不安を覚えているようだった。
花那としては嫌な思いを抱いているわけではない。
ただ少し恥ずかしいだけで。
しかしこのまま黙っていると豪は花那が拒否感を示しているのだと勘違いしそうだったので、花那は慌てて顔を上げて答えた。
「へ、平気です」
「そうか、良かった」
豪は柔らかく微笑むと、そのまま花那をエスコートするように歩き出した。
そんな花那は火照った顔を見せないように少し俯き加減にしつつも、豪に身を任せるように共に歩を進めたのだった。



