全てがキミだった


『俺の髪を切ってくれたら、許してやるよ』

いつだったか、あいつが私にそう言った。

今日みたいに蒸し暑くて、どこか気怠い夏の日。
あの日も、ふと見上げた空には、どこまでも伸びる一本の飛行機雲が浮かんでいた。

いつだったかなんて誤魔化してみても、あいつが口にした言葉のイントネーション、その場の空気の匂いまで、私は一言一言を鮮明に覚えている。

それは、高校2年の放課後、オレンジ色の夕日が眩しく差し込む誰もいない教室。
私は彼の背中に回り込み、少し伸びた柔らかい髪にそっと手を伸ばしたのだった。

全部、綺麗に忘れなければいけない過去のはずなのに。
日常のふとした隙間に、記憶は容赦なく蘇ってくる。

あいつは、“ミサキ”を追うために、私を置いて去っていった。

そんな身勝手な奴のことなんて、私の方から完全に綺麗さっぱり忘れてやるべきなのに……。
忘れる度胸なんて、私にはきっと、多分、この先もずっと、生まれないんだろうな。

「はい、できたわよ。梓を呼んできてちょうだい」

お母さんの少し高めの声がキッチンの油音を切り裂き、私を急激に現実へと引き戻した。