全てがキミだった


「……ねぇ、お前、怒られないの?」
「誰に?」
「いや、だから……親とか。池内の家、門限とかないわけ?」
「あるよ。……7時」
「マジで? もう過ぎてんじゃん、ヤバくね?」
「うん。ヤバいかもね。……今日はもう、叩かれること確定」

平然を装って小舟のように足をぶらぶらさせながら答えても、公平はやっぱり「じゃあ帰ろう」とは言わなかった。
代わりに、濡れた前髪を手ぐしで払うと、意悪く、けれどどこか楽しげに口角を上げた。

「じゃさ。叩かれること確定なら、とことん遅く帰っちゃえばいいじゃん。いま帰ってもどうせ怒られるんだし」

――どくん、と心臓が大きく跳ね上がった。

周りが暗闇に包まれていて、本当に良かったと思う。

冷たい水で冷やされていたはずの頬から一気に熱が広がり、耳たぶまで火照っていくのが自分でもハッキリと分かった。

この動揺を隠すように、私は静まり返ったプールの水面に目を落とした。
いつの間にか夜空に浮かんだ月が、ゆらゆらと青白い光を水面に反射させて揺れている。

沈黙を紛らわせたくて、ポツリと言葉をこぼした。

「……また、伸びてきたね」
「ん? 何が?」
「髪」
「あー、確かに。ちょっと鬱陶しくなってきたかも」
「次はちゃんと美容室行きなよ。……私、もう二度と切ってあげないからね」

あの時、震える手でハサミを握り締め、彼のつむじや耳のラインに触れそうになりながら必死で整えた時間のことを思い出して、胸がキュッとしめつけられる。

すると、公平は少し意外そうに目を丸くしたあと、ふっと柔らかく目を細めた。

「なんで? 俺、結構気に入ってたんだけどな。あの髪型」

そう言って、公平は指先で自分の前髪をひょいとつまみ上げて見せた。

月明かりに照らされた彼の横顔と、指の隙間から覗くまっすぐな瞳。

「気に入っていた」というそのたった一言が、真夏の夜風に乗って私の鼓膜を揺らす。

世界で一番特別な言葉をもらってしまったみたいで、私は言葉を失ったまま、揺れる水面と彼の横顔を交互に見つめることしかできなかった。