菊花の政変から十年後――。
紫泉帝が退位し、景明帝が治める御世で、葵は後宮の最北端に位置する貞観殿のさらに北側に佇む縫物所で働いていた。
御物や衣類を保管する納殿が立ち並ぶ裏方エリアは、日差しが届かず、裁縫するにはお世辞にも良い環境とは言えなかった。
使い込まれた板敷の上に二十名ほどの女たちが円座を敷いて座り込んでいる。彼女たちは、赤袴に単姿で、縫い針を持ち、膝の上に広げた絹布を一心不乱に縫っていた。その中に葵の姿もあった。
(今日の納品は衣五着……)
葵は額に玉のような汗を浮かべながら、絹の布地に針を刺し、糸を縫っていく。
縫物所の中では一番の新人で、一年前に洗物所から異動して来たのだった。
誰よりも仕事は丁寧だが、手際はお世辞にも早いとは言えず、毎晩一人だけ残って作業するのが常だった。
「なんですか、あなたたち、御簾も上げたままで」
賑やかな声をあげて、縫物所に入って来たのは帯刀の典侍だった。
重陽の節句を目前に控え、後宮全体が祝宴の準備で多忙を極める初秋の頃。熱気のこもる室内に耐えかね、普段は閉めておく御簾を上げて作業をしていたのだった。
「帯刀様、すみません。節句前の仕立てが立て込んでおり、蒸し暑さゆえ仕事にならぬと言うものですから」
帯刀の次に位の高い明石の命婦がそう口にすると、「私たちは帝に仕える身なのですよ。そんなにお行儀の悪いことは許されません。御簾を下ろしなさい」と、帯刀は命令を下した。
女たちが不満そうに御簾を下ろすと、室内はさらに薄暗くなり、針仕事がしづらくなるが、帯刀がいる前では誰も不平を言わなかった。
逆らえばどんな処罰が待っているかわかっていたからだ。
重苦しい空気が流れる中、帯刀が次に声をかけたのは葵だった。
「葵、進んでいますか?」
部屋の隅で衣に針を入れていた葵は手を止め、帯刀の方に体を向けると、床に両手をつけ、頭をすりつける程の深いお辞儀をした。
「帯刀様、はい。重陽のお召し物の衣五着、今、縫っているところでございます」
「見せなさい」
そう言われ、座ったままの葵は縫い途中の衣を両手で頭上高くあげ、立ったまま見下ろす帯刀に差し出した。
「やり直し。縫い目が荒い」
衣を一瞥すると、帯刀は冷たく言い放った。
「申し訳ございません」
「葵、何の後ろ盾もないあなたを、縫物所で仕方なく引き受けてあげたのですよ。そうでなかったら今頃、あなたは後宮を追い出され、露頭に迷っていたことでしょう。その恩にちゃんと報いなさい」
「は、はい。帯刀様のご恩は一生忘れません」
「それが本心だと良いのですがね。なんと言ってもあなたは、十年前の重陽の節句で紫泉帝に呪いをかけた藤原秋定の娘なのですから、信用できませんわ」
帯刀の言葉に床に頭を下げていた葵は思わず顔を上げた。
「帯刀様、父は決して帝を呪ってはおりません! 父は策謀に嵌められたのです!」
「お黙りなさい!」
帯刀の叫び声と同時に、パチンと鋭い音が室内に響いた。
右頬を打たれた葵は床に倒れそうになったが、下腹部に力を入れ、なんとか持ちこたえる。しかし、帯刀は葵の背中を蹴り飛ばし、葵は床の上に崩れた。
きゃっ!という女たちの悲鳴が上がり、明石の命婦が慌てた様子で葵の元に駆けつける。
「帯刀様、おやめください。いくら帯刀様でも帝に仕える女官を傷つけるのは許されませんよ!」
「……その者が頑固だからいけないのです。重陽の衣五着、縫い終わるまではその者に食事を与えてはなりません」
明石の命婦の返事も聞かぬまま、帯刀は長い袿の裾を荒々しく引きずって縫物所を後にした。
その瞬間、女たちはほっとしたように息をつく。
「葵、大丈夫ですか?」
明石の命婦が倒れた葵を優しく抱き起こす。
着物越しの華奢な体は今にも折れてしまいそうだった。
「明石様、すみません。大丈夫です」
葵は痛みをぐっと我慢し、明石の命婦に心配をかけぬよう健気な笑顔を浮かべた。その時、誰かが御簾を上げ、室内に柔らかな陽射しが差し込む。
葵の純真な笑顔が陽に照らされ、明石の命婦は葵の美しさに思わず息を呑んだ。
葵は下級女官の身に落ちてもなお、隠し切れぬ高貴な気品を纏っていた。
齢十八歳。透きとおるような白い肌に、黒曜石のようにキラキラと輝く大きな瞳を持ち、儚げで、愛らしい容姿を持つ葵はその美しさから女たちに嫉妬されることも多々あった。
しかし、明石の命婦だけはいつだって葵を気遣ってくれた。
「頬が赤くなっています。冷やさないと」
「これくらい平気です」
「ダメです。誰か井戸から水を汲んで来なさい」
明石の命婦がそう女たちに声をかけると、近くの女が立ち上がろうとした。
それを見て葵は慌てて、立ち上がる。
「自分で行ってきます。少し席を立つことをお許し下さい」
「一人で大丈夫ですか?」
「はい」
本当は少しだけ心細くもあったが、自分の為に皆の手を止めさせてしまうのが申し訳なかった。
葵は打たれた右頬をそっと手拭いで覆い、熱を帯びた顔を伏せながら静かに縫物所を後にした。
縫物所を出ると、下働きの者だけが通る薄暗い板敷の長廊が伸びている。
表には高貴な身分の方が使う格式の高い渡殿があったが、葵のような身分では通ることを禁じられていた。
使い古された箒や木桶が雑多に積まれた長廊を器用に避けながら進むと、ほんの少し離れた表側から、高貴な妃や上級女官たちの優雅な笑い声や、上質な薫物の甘い香りがかすかに漂ってくる。あちらでは、華やかな装束に身を包んだ姫君たちが何不自由なく過ごしているのだろう。微かに聞こえた話し声の中に「重陽の節句」という言葉があり、葵はズキリと胸を痛ませた。
(もうすぐ重陽の節句。あの『菊花の政変』から十年経つんだ)
重陽の節句が近づくたび、葵の胸は締め付けられるように痛む。
ふと、あの日に生き別れた蓮のことが脳裏を過った。
最後に会ったのは政変が起きる前日だった。
門前に止まった網代車に乗り込む幼い姿が今でも忘れられない。
御簾が下ろされ、牛車がゆっくり動き出すと、葵は堪らず、車を追って走ったが、すぐに雪乃に取り押さえられた。胸が張り裂けそうになりながら、何度も蓮の名前を叫んだ。
まさかあれが今生の別れになるとは思いもしなかった。
けれど、あの日蓮が他家に引き取られて行ったのは今思うと正解だった。もし蓮が屋敷に残っていたら、藤原秋定の家の者として巻き込まれていたかもしれない。
(どこかで蓮が無事でいてくれれば、それだけでいい)
そう思えば、頬の痛みも、日差しの届かぬ暗い部屋での針仕事も耐えられる気がした。
さらに歩みを進めた葵は、厨房近くの中庭にある井戸端に辿り着いた。
涼しい風を感じながら、葵は井戸の滑車に掛けられた縄を掴み、木桶をゆっくりと井戸の底へ下ろす。ザブンという水音が響いたあと、水が桶の中に入っている手応えを確かめてから両手で縄を手繰り寄せた。
引き上げた桶には澄んだ冷水がなみなみと満ちていた。それを傍らの大きな石鉢に移してから、葵は使う分を小桶ですくい、手拭いを浸した。
ぎゅっと手拭いを絞ると、ひんやりとした冷水の気持ち良さに、葵は思わず笑みが浮かぶが、右頬が動いた瞬間、鋭い痛みが走り「うっ」と眉を寄せた。
(私の頬がこんなに痛いのだから、帯刀様の手もきっとかなり痛んでいるはず……)
(昔は、優しく接してくださったのに……)
葵は近くの石に腰掛け、手拭いで右頬を冷やしながら、ふっと切ない息を吐いた。
政変が起きる前、葵は十歳年上の帯刀から優しく縫物の手ほどきを受けていたのだ。
「でも、行く当てのなかった私を帯刀様が後宮に置いて下さるように尽力して下さったのよね。そのおかげでこうして仕事をもらって、お給金だってもらえる。もしかしたら、あの頃からの優しさは消えた訳ではないのかも」
そう自分を鼓舞させるが、帯刀に右頬を殴られたことのショックがまだ消えない。
いつも厳しい言葉を浴びせられていたが、叩かれたり、蹴られたのは初めてだった。
唇が震え、泣きそうになるのを何とか堪えようとした時、微かな足音がした。
「……誰?」
手拭いを右頬に当てたまま葵が顔を上げると、仕立ての良さが一目でわかる深藍の袿を着た、背の高い女官が立っていた。
整った色白の顔は人形のように美しく、切れ長の目に、スッと通った鼻、緩く結ばれた艶のある黒髪が、まるで絵巻から出てきた天女のようで、葵は女官の圧倒的な美しさに言葉を失った。
「そなた。ここで何をしている?」
女性にしては低い声でそう問われ、葵は背筋をピンと伸ばして立ち上がる。
「あ、はい。頬を冷やしている所です」
「……頬を? 殴られたのですか?」
「えっと……自分でぶつけて」
誰かに殴られたと答えれば、帯刀のことを話さなければならない気がして、葵は咄嗟に嘘をつくが、嘘が苦手な葵は目が泳いでしまう。
葵を見て、女官は口元を釣りあげた。
「殴られたのだろう? 嘘が下手だな」
そう言って、女官は葵に近づくと濡れた手拭いを持つ手を掴み、そっと赤くなった頬に視線を向けた。
「やはり殴られた傷だ。手形がついている」
「えっ、手形!」
「これで、自分の顔を見てみろ」
女官は袂から磨き抜かれた重厚な白銅の手鏡を取り出し、葵に渡した。
澄んだ鏡面に映った葵の右頬には確かに痛々しい赤い手形が残っているが、葵は間近に迫った女官から漂う甘く高貴な香りにそわそわしてしまう。
(私、どうしたの? 女の方に胸を高鳴らせるなんて……)
「ここで待っていなさい」
そう言うと、女官は葵を残して厨房の方へと足を向ける。
手鏡を握りしめたまま葵はどうしたらいいかわからず、落ち着きなく井戸の周りを歩き回った。
(早く、縫物所に戻らなきゃいけないのに、どうしよう。この立派な手鏡も返さないと)
そんなことを考えていると、背後から無造作に手が伸び、葵の頬にポンと布袋が押し当てられた。
キーンとした鋭い冷たさに葵は「ひゃっ」と目を見開いた。
「冷たいっ!」
驚いて涙目になった葵の顔を見下ろし、女官は満足そうに微笑んだ。
微笑んだ顔も美しいと葵は思ってしまう。
「中に氷が入っている。厨房で分けてもらったのだ」
氷のような貴重品を分けてもらったと聞いて、葵は畏れ多さに眉を上げた。
「氷だなんて、私のような下働きには勿体ないです」
「綺麗な顔に手形が残ったら困るだろう? 遠慮するな」
(綺麗な顔……)
葵の頬は一気に熱くなった。幼い頃は褒められることもあったが、後宮に入ってからは周りから不器量だと笑われることばかりだったからだ。
「あ……ありがとうございます」
小さな声でそう答えるのが精一杯だった。
「しっかり治すのだぞ」
そう言うと、女官は大きな手で葵の頭を優しく撫で、優雅な身のこなしでその場から立ち去った。
葵はぽーっと顔中が熱くなり、頭から湯気が出る勢いだった。
(いけない! 手鏡を)
ハッと思った時にはもう女官の姿はなかった。
「今度会った時にお返しすればいいわよね。一体どなただったのかしら……」
手鏡を見つめながら、葵はまた明日も今日と同じ申の刻に、この場所に来ようと誓った。
*
葵が謎の女官と出会ったその夜――。
後宮内の麗景殿の一角にある特別な部屋で、うず高く積まれた書物のページを熱心に捲る東宮・暁仁の姿があった。
厚い土壁で囲まれた塗籠の部屋は高い防音性を持ち、秘密の謀議や調べ事をするのにこれ以上ない場所だった。この部屋に出入りが出来るのは暁仁の他に、その絶対的な腹心である右近将監の成景だけだった。
室内には内蔵寮から運び出された膨大な古文書が並び、黒漆の文机に向かう暁仁は、その山からまた一冊を引き抜くと、揺れる灯火の明かりに目を走らせていた。
「暁仁様、これ以上はお体に触ります。明日も午前中は政務がありますし、午後は後宮女官として重陽の節句の準備がありますので」
「重陽の節句が近いから調べているのだ。秋定殿が紫泉帝に献上した御衣の記録がどこにもないのだ」
「藤原秋定が呪いをかけたとされる御衣ですか?」
「そうだ。秋定殿が仕立てた御衣は確かに帝に献上されたはずだ。私も幼い日に秋定殿の屋敷で特別に見せてもらったことがあるのだ。秋定殿はひと針ひと針に紫泉帝の無病息災を願い、霊力を込めた特別な衣だと私に話してくれたのだ」
「……暁仁様は秋定殿のお屋敷にいらした時期があるのでしたね」
「ああ。五歳の頃だった。後宮内で私が安全に暮らせないと心配した母が秋定殿に私を預けたのだ。全く、昔も今も変わらないな。私は命を狙われてばかりだ。東宮など望んでなった訳ではないのに」
「暁仁様、そのようなことはお口を慎み下さい」
「成景と私しかいないのだ。偶には愚痴の一つでも言わせてくれ」
自嘲気味に口元を緩めた後、暁仁は文机の上に置かれた古い絹のお守りにそっと触れた。
秋定の屋敷を去る日、幼い葵が作ってくれたものだ。綺麗な出来とは言えないが、暁仁にとって何物にも代えられない宝物だ。
(……葵、どうか生きていてくれ。必ず君を見つけて迎えに行く。その為にはまず、秋定殿の無実を晴らさなければならない)
「きっと、ご無事でいらっしゃいますよ」
暁仁が切なそうにお守りを見つめていると、成景が励ますように口にした。
ふと今日、井戸端で見かけた下級女官の姿を暁仁は思い出した。
明らかに誰かに殴られた傷なのに、自分でやったと言っていた。
殴ったものを庇う健気さが、葵と似ている気がした。
「葵もきっとあの女官のように苦労しているだろうな。家も父もなく、貴族の身分も剥奪されているのだから」
「あの女官とは?」
「今日、井戸端で頬を腫らした下級女官を見かけたんだ。おそらく上級女官にでもぶたれたのだろう。葵もどこかで、あのような不当な苦しみに耐えているとのだとしたら、胸が潰れそうになる」
お守りを握りしめる暁仁の指に力が入る。
「成景、何としても記録を見つけるのだ。秋定殿に罪を背負わせた真犯人は、今もこの後宮のどこかで笑っている。だが、俺が見つけて罪を償わせてやる!」
そう宣言すると、暁仁は鋭い視線を書物に向け、再び秋定が献上した御衣の記録を探し始めた。
紫泉帝が退位し、景明帝が治める御世で、葵は後宮の最北端に位置する貞観殿のさらに北側に佇む縫物所で働いていた。
御物や衣類を保管する納殿が立ち並ぶ裏方エリアは、日差しが届かず、裁縫するにはお世辞にも良い環境とは言えなかった。
使い込まれた板敷の上に二十名ほどの女たちが円座を敷いて座り込んでいる。彼女たちは、赤袴に単姿で、縫い針を持ち、膝の上に広げた絹布を一心不乱に縫っていた。その中に葵の姿もあった。
(今日の納品は衣五着……)
葵は額に玉のような汗を浮かべながら、絹の布地に針を刺し、糸を縫っていく。
縫物所の中では一番の新人で、一年前に洗物所から異動して来たのだった。
誰よりも仕事は丁寧だが、手際はお世辞にも早いとは言えず、毎晩一人だけ残って作業するのが常だった。
「なんですか、あなたたち、御簾も上げたままで」
賑やかな声をあげて、縫物所に入って来たのは帯刀の典侍だった。
重陽の節句を目前に控え、後宮全体が祝宴の準備で多忙を極める初秋の頃。熱気のこもる室内に耐えかね、普段は閉めておく御簾を上げて作業をしていたのだった。
「帯刀様、すみません。節句前の仕立てが立て込んでおり、蒸し暑さゆえ仕事にならぬと言うものですから」
帯刀の次に位の高い明石の命婦がそう口にすると、「私たちは帝に仕える身なのですよ。そんなにお行儀の悪いことは許されません。御簾を下ろしなさい」と、帯刀は命令を下した。
女たちが不満そうに御簾を下ろすと、室内はさらに薄暗くなり、針仕事がしづらくなるが、帯刀がいる前では誰も不平を言わなかった。
逆らえばどんな処罰が待っているかわかっていたからだ。
重苦しい空気が流れる中、帯刀が次に声をかけたのは葵だった。
「葵、進んでいますか?」
部屋の隅で衣に針を入れていた葵は手を止め、帯刀の方に体を向けると、床に両手をつけ、頭をすりつける程の深いお辞儀をした。
「帯刀様、はい。重陽のお召し物の衣五着、今、縫っているところでございます」
「見せなさい」
そう言われ、座ったままの葵は縫い途中の衣を両手で頭上高くあげ、立ったまま見下ろす帯刀に差し出した。
「やり直し。縫い目が荒い」
衣を一瞥すると、帯刀は冷たく言い放った。
「申し訳ございません」
「葵、何の後ろ盾もないあなたを、縫物所で仕方なく引き受けてあげたのですよ。そうでなかったら今頃、あなたは後宮を追い出され、露頭に迷っていたことでしょう。その恩にちゃんと報いなさい」
「は、はい。帯刀様のご恩は一生忘れません」
「それが本心だと良いのですがね。なんと言ってもあなたは、十年前の重陽の節句で紫泉帝に呪いをかけた藤原秋定の娘なのですから、信用できませんわ」
帯刀の言葉に床に頭を下げていた葵は思わず顔を上げた。
「帯刀様、父は決して帝を呪ってはおりません! 父は策謀に嵌められたのです!」
「お黙りなさい!」
帯刀の叫び声と同時に、パチンと鋭い音が室内に響いた。
右頬を打たれた葵は床に倒れそうになったが、下腹部に力を入れ、なんとか持ちこたえる。しかし、帯刀は葵の背中を蹴り飛ばし、葵は床の上に崩れた。
きゃっ!という女たちの悲鳴が上がり、明石の命婦が慌てた様子で葵の元に駆けつける。
「帯刀様、おやめください。いくら帯刀様でも帝に仕える女官を傷つけるのは許されませんよ!」
「……その者が頑固だからいけないのです。重陽の衣五着、縫い終わるまではその者に食事を与えてはなりません」
明石の命婦の返事も聞かぬまま、帯刀は長い袿の裾を荒々しく引きずって縫物所を後にした。
その瞬間、女たちはほっとしたように息をつく。
「葵、大丈夫ですか?」
明石の命婦が倒れた葵を優しく抱き起こす。
着物越しの華奢な体は今にも折れてしまいそうだった。
「明石様、すみません。大丈夫です」
葵は痛みをぐっと我慢し、明石の命婦に心配をかけぬよう健気な笑顔を浮かべた。その時、誰かが御簾を上げ、室内に柔らかな陽射しが差し込む。
葵の純真な笑顔が陽に照らされ、明石の命婦は葵の美しさに思わず息を呑んだ。
葵は下級女官の身に落ちてもなお、隠し切れぬ高貴な気品を纏っていた。
齢十八歳。透きとおるような白い肌に、黒曜石のようにキラキラと輝く大きな瞳を持ち、儚げで、愛らしい容姿を持つ葵はその美しさから女たちに嫉妬されることも多々あった。
しかし、明石の命婦だけはいつだって葵を気遣ってくれた。
「頬が赤くなっています。冷やさないと」
「これくらい平気です」
「ダメです。誰か井戸から水を汲んで来なさい」
明石の命婦がそう女たちに声をかけると、近くの女が立ち上がろうとした。
それを見て葵は慌てて、立ち上がる。
「自分で行ってきます。少し席を立つことをお許し下さい」
「一人で大丈夫ですか?」
「はい」
本当は少しだけ心細くもあったが、自分の為に皆の手を止めさせてしまうのが申し訳なかった。
葵は打たれた右頬をそっと手拭いで覆い、熱を帯びた顔を伏せながら静かに縫物所を後にした。
縫物所を出ると、下働きの者だけが通る薄暗い板敷の長廊が伸びている。
表には高貴な身分の方が使う格式の高い渡殿があったが、葵のような身分では通ることを禁じられていた。
使い古された箒や木桶が雑多に積まれた長廊を器用に避けながら進むと、ほんの少し離れた表側から、高貴な妃や上級女官たちの優雅な笑い声や、上質な薫物の甘い香りがかすかに漂ってくる。あちらでは、華やかな装束に身を包んだ姫君たちが何不自由なく過ごしているのだろう。微かに聞こえた話し声の中に「重陽の節句」という言葉があり、葵はズキリと胸を痛ませた。
(もうすぐ重陽の節句。あの『菊花の政変』から十年経つんだ)
重陽の節句が近づくたび、葵の胸は締め付けられるように痛む。
ふと、あの日に生き別れた蓮のことが脳裏を過った。
最後に会ったのは政変が起きる前日だった。
門前に止まった網代車に乗り込む幼い姿が今でも忘れられない。
御簾が下ろされ、牛車がゆっくり動き出すと、葵は堪らず、車を追って走ったが、すぐに雪乃に取り押さえられた。胸が張り裂けそうになりながら、何度も蓮の名前を叫んだ。
まさかあれが今生の別れになるとは思いもしなかった。
けれど、あの日蓮が他家に引き取られて行ったのは今思うと正解だった。もし蓮が屋敷に残っていたら、藤原秋定の家の者として巻き込まれていたかもしれない。
(どこかで蓮が無事でいてくれれば、それだけでいい)
そう思えば、頬の痛みも、日差しの届かぬ暗い部屋での針仕事も耐えられる気がした。
さらに歩みを進めた葵は、厨房近くの中庭にある井戸端に辿り着いた。
涼しい風を感じながら、葵は井戸の滑車に掛けられた縄を掴み、木桶をゆっくりと井戸の底へ下ろす。ザブンという水音が響いたあと、水が桶の中に入っている手応えを確かめてから両手で縄を手繰り寄せた。
引き上げた桶には澄んだ冷水がなみなみと満ちていた。それを傍らの大きな石鉢に移してから、葵は使う分を小桶ですくい、手拭いを浸した。
ぎゅっと手拭いを絞ると、ひんやりとした冷水の気持ち良さに、葵は思わず笑みが浮かぶが、右頬が動いた瞬間、鋭い痛みが走り「うっ」と眉を寄せた。
(私の頬がこんなに痛いのだから、帯刀様の手もきっとかなり痛んでいるはず……)
(昔は、優しく接してくださったのに……)
葵は近くの石に腰掛け、手拭いで右頬を冷やしながら、ふっと切ない息を吐いた。
政変が起きる前、葵は十歳年上の帯刀から優しく縫物の手ほどきを受けていたのだ。
「でも、行く当てのなかった私を帯刀様が後宮に置いて下さるように尽力して下さったのよね。そのおかげでこうして仕事をもらって、お給金だってもらえる。もしかしたら、あの頃からの優しさは消えた訳ではないのかも」
そう自分を鼓舞させるが、帯刀に右頬を殴られたことのショックがまだ消えない。
いつも厳しい言葉を浴びせられていたが、叩かれたり、蹴られたのは初めてだった。
唇が震え、泣きそうになるのを何とか堪えようとした時、微かな足音がした。
「……誰?」
手拭いを右頬に当てたまま葵が顔を上げると、仕立ての良さが一目でわかる深藍の袿を着た、背の高い女官が立っていた。
整った色白の顔は人形のように美しく、切れ長の目に、スッと通った鼻、緩く結ばれた艶のある黒髪が、まるで絵巻から出てきた天女のようで、葵は女官の圧倒的な美しさに言葉を失った。
「そなた。ここで何をしている?」
女性にしては低い声でそう問われ、葵は背筋をピンと伸ばして立ち上がる。
「あ、はい。頬を冷やしている所です」
「……頬を? 殴られたのですか?」
「えっと……自分でぶつけて」
誰かに殴られたと答えれば、帯刀のことを話さなければならない気がして、葵は咄嗟に嘘をつくが、嘘が苦手な葵は目が泳いでしまう。
葵を見て、女官は口元を釣りあげた。
「殴られたのだろう? 嘘が下手だな」
そう言って、女官は葵に近づくと濡れた手拭いを持つ手を掴み、そっと赤くなった頬に視線を向けた。
「やはり殴られた傷だ。手形がついている」
「えっ、手形!」
「これで、自分の顔を見てみろ」
女官は袂から磨き抜かれた重厚な白銅の手鏡を取り出し、葵に渡した。
澄んだ鏡面に映った葵の右頬には確かに痛々しい赤い手形が残っているが、葵は間近に迫った女官から漂う甘く高貴な香りにそわそわしてしまう。
(私、どうしたの? 女の方に胸を高鳴らせるなんて……)
「ここで待っていなさい」
そう言うと、女官は葵を残して厨房の方へと足を向ける。
手鏡を握りしめたまま葵はどうしたらいいかわからず、落ち着きなく井戸の周りを歩き回った。
(早く、縫物所に戻らなきゃいけないのに、どうしよう。この立派な手鏡も返さないと)
そんなことを考えていると、背後から無造作に手が伸び、葵の頬にポンと布袋が押し当てられた。
キーンとした鋭い冷たさに葵は「ひゃっ」と目を見開いた。
「冷たいっ!」
驚いて涙目になった葵の顔を見下ろし、女官は満足そうに微笑んだ。
微笑んだ顔も美しいと葵は思ってしまう。
「中に氷が入っている。厨房で分けてもらったのだ」
氷のような貴重品を分けてもらったと聞いて、葵は畏れ多さに眉を上げた。
「氷だなんて、私のような下働きには勿体ないです」
「綺麗な顔に手形が残ったら困るだろう? 遠慮するな」
(綺麗な顔……)
葵の頬は一気に熱くなった。幼い頃は褒められることもあったが、後宮に入ってからは周りから不器量だと笑われることばかりだったからだ。
「あ……ありがとうございます」
小さな声でそう答えるのが精一杯だった。
「しっかり治すのだぞ」
そう言うと、女官は大きな手で葵の頭を優しく撫で、優雅な身のこなしでその場から立ち去った。
葵はぽーっと顔中が熱くなり、頭から湯気が出る勢いだった。
(いけない! 手鏡を)
ハッと思った時にはもう女官の姿はなかった。
「今度会った時にお返しすればいいわよね。一体どなただったのかしら……」
手鏡を見つめながら、葵はまた明日も今日と同じ申の刻に、この場所に来ようと誓った。
*
葵が謎の女官と出会ったその夜――。
後宮内の麗景殿の一角にある特別な部屋で、うず高く積まれた書物のページを熱心に捲る東宮・暁仁の姿があった。
厚い土壁で囲まれた塗籠の部屋は高い防音性を持ち、秘密の謀議や調べ事をするのにこれ以上ない場所だった。この部屋に出入りが出来るのは暁仁の他に、その絶対的な腹心である右近将監の成景だけだった。
室内には内蔵寮から運び出された膨大な古文書が並び、黒漆の文机に向かう暁仁は、その山からまた一冊を引き抜くと、揺れる灯火の明かりに目を走らせていた。
「暁仁様、これ以上はお体に触ります。明日も午前中は政務がありますし、午後は後宮女官として重陽の節句の準備がありますので」
「重陽の節句が近いから調べているのだ。秋定殿が紫泉帝に献上した御衣の記録がどこにもないのだ」
「藤原秋定が呪いをかけたとされる御衣ですか?」
「そうだ。秋定殿が仕立てた御衣は確かに帝に献上されたはずだ。私も幼い日に秋定殿の屋敷で特別に見せてもらったことがあるのだ。秋定殿はひと針ひと針に紫泉帝の無病息災を願い、霊力を込めた特別な衣だと私に話してくれたのだ」
「……暁仁様は秋定殿のお屋敷にいらした時期があるのでしたね」
「ああ。五歳の頃だった。後宮内で私が安全に暮らせないと心配した母が秋定殿に私を預けたのだ。全く、昔も今も変わらないな。私は命を狙われてばかりだ。東宮など望んでなった訳ではないのに」
「暁仁様、そのようなことはお口を慎み下さい」
「成景と私しかいないのだ。偶には愚痴の一つでも言わせてくれ」
自嘲気味に口元を緩めた後、暁仁は文机の上に置かれた古い絹のお守りにそっと触れた。
秋定の屋敷を去る日、幼い葵が作ってくれたものだ。綺麗な出来とは言えないが、暁仁にとって何物にも代えられない宝物だ。
(……葵、どうか生きていてくれ。必ず君を見つけて迎えに行く。その為にはまず、秋定殿の無実を晴らさなければならない)
「きっと、ご無事でいらっしゃいますよ」
暁仁が切なそうにお守りを見つめていると、成景が励ますように口にした。
ふと今日、井戸端で見かけた下級女官の姿を暁仁は思い出した。
明らかに誰かに殴られた傷なのに、自分でやったと言っていた。
殴ったものを庇う健気さが、葵と似ている気がした。
「葵もきっとあの女官のように苦労しているだろうな。家も父もなく、貴族の身分も剥奪されているのだから」
「あの女官とは?」
「今日、井戸端で頬を腫らした下級女官を見かけたんだ。おそらく上級女官にでもぶたれたのだろう。葵もどこかで、あのような不当な苦しみに耐えているとのだとしたら、胸が潰れそうになる」
お守りを握りしめる暁仁の指に力が入る。
「成景、何としても記録を見つけるのだ。秋定殿に罪を背負わせた真犯人は、今もこの後宮のどこかで笑っている。だが、俺が見つけて罪を償わせてやる!」
そう宣言すると、暁仁は鋭い視線を書物に向け、再び秋定が献上した御衣の記録を探し始めた。


