後宮の針姫

 都に屋敷を構える藤原秋定(ふじわらあきさだ)は、従五位下(じゅごいのげ)の官位を持ち、帝の御衣(みころも)御物(ぎょぶつ)の調達・お祓いを一手に司る『縫殿頭(ぬいどののかみ)』という要職に就いていた。そして、彼には(あおい)という幼い一人娘がいた。

「ねえ、母様、父様はまだなの?」

 葵はいつになくそわそわと父の帰りを待っていた。宮中からの使いが、本日は大切な客人を連れて帰ると告げていたからだ。葵は客が来るのが好きだった。「秋定の娘、葵です」と挨拶をすれば、まだ幼いのに賢いと大人たちに褒められるからだ。

「もうすぐお戻りになりますよ」

 母が優しく微笑んだその時、「旦那様がお帰りです」という下女の声が響き、葵はパッと顔を輝かせて表に駆けて行った。門前に停まった牛車(ぎっしゃ)御簾(みす)が上がり、葡萄色(えびいろ)直衣(のうし)姿の父が下りてくる。

「お父様、お帰りなさいませ!」
「ただいま、葵。今日から家で預かることになった(れん)だ。私の従姉妹の子でな。まだ五つだ」

 そう言って父に続いて牛車から降りて来たのは、深藍の上等な絹の狩衣(かりぎぬ)を纏った小さな男の子だった。

(わぁ! お人形さんみたいに綺麗な子……!)

 それが蓮に対する葵の第一印象だった。

「蓮、こちらは私の娘の葵だ。蓮より二歳年上なので、姉様だと思って頼りなさい」

 父の口から『姉様』という言葉が出て、一人っ子の葵は目を輝かせた。

「蓮、よろしくね。寂しくないように姉様が一緒にいてあげるからね」

 それから毎日、葵は蓮が寂しくならないように、出来るだけ側にいた。
 ひいな遊びや、手まりで遊んだり、書物を読んであげたりしていたが、無口で大人しかった蓮は、とんでもない悪戯者になった。

「蓮! 姉様の櫛を返しなさい!」
「姫様、走ってはなりませんよ」

 侍女の雪乃に注意されても、葵は蓮を追いかけて廊下を全力で走った。
 蓮はすばしこく、中々捕まらない。

「蓮、待ちなさい! 姉様の言う事が聞けないのですか!」
「お前なんか、姉様じゃない!」

 生意気な口をきいて走り出す蓮に、葵はムッとして眉をひそめた。

「私は蓮の姉様です! 待ちなさいっ!」

 蓮の小さな肩に手を伸ばそうとしたその時、葵は自分の着物の裾を踏み、そのまま前のめりに派手に倒れ込んだ。
 バタンと固い板敷きの廊下に膝を打ちつけ、強い痛みが走る。あまりの痛さに一瞬で涙が込み上げてきたが、葵は必死に唇を噛みしめた。ここで泣いてしまっては、姉としての威厳が保てないと思ったのだ。姉様はどんな時でも強くなければならない。それが葵が思う理想の姉様像だった。

「姫様!」

 血相を変えた雪乃たちが駆け寄ってくる。
 その奥で、蓮は盗んだツゲの櫛を握りしめたまま、蒼白な顔で立ち尽くしていた。どうすればいいか分からず、葵を見つめる瞳は今にも泣き出しそうなほど不安げに揺れている。
 助け起こされた葵は蓮に声をかけようとしたが、侍女たちに囲まれるように自室へ連れて行かれてしまった。

 幸い医者の見立てでは大きな怪我はなく、膝に青痣ができる程度で済んだが、母からは厳しいお小言をもらった。

「廊下を走ってはなりませぬ! 今日はお部屋から出てはいけませんよ」

 自室に一人残された葵は、自分の膝よりも蓮のことが心配でならなかった。

(今頃、蓮はどうしているかしら。あんなに顔を青くして……父様たちに叱られていないと良いけれど)

 そっと膝を抱えて溜め息をついたその時、御簾の外から、消え入りそうな声が聞こえてきた。

「……姉様、大丈夫ですか?」
「蓮!」

 葵が御簾を開けると、ツゲの櫛を持った蓮が申し訳なさそうに立っていた。
 わざわざ会いに来てくれたことが嬉しくて、葵はぎゅっと蓮の細い体を抱きしめた。

「姉様は大丈夫よ。蓮、会いに来てくれてありがとう!」
「……姉様、ごめんなさい」

 葵に抱きしめられたままの蓮が小さな声で口にした。

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

 涙を滲ませながら謝る蓮が、葵は本当の弟のように愛しかった。

「大丈夫よ。蓮。大丈夫だから。明日も姉様と遊んでくれる?」
「はい。姉様」

 それから蓮が葵の物を隠すことはなくなり、二人は本当の姉弟のように仲睦まじく過ごしていた。
 しかし、蓮が秋定の家に引き取られてから一年経った頃、蓮は再び他家に出されることになった。

「蓮は葵の大切な弟です。他家に蓮を出すなら、私も一緒に出して下さい」

 秋定にそう頼み込むが、葵の願いは聞き届けられなかった。
 一週間後には蓮はこの家を出て行く。その事実は八歳の葵にはどうしようもなかった。

 だから葵は父から習ったばかりの『縫い祓い』の縫い方で蓮のために御守りを縫った。

 葵の家系は代々、針仕事に霊力を込めて災いを遠ざける『縫い祓い』の能力が受け継がれていた。

「蓮、これを持って行って」

 蓮が他家へ引き取られていく日、葵は(たもと)から、絹の布で仕立てたお守りを取り出した。
 縫い目は揃っておらず、刺繍も上手くはなかったが、葵が蓮の無事を祈りながら必死で針を動かした手作りの品だった。

「……姉様」

 蓮は大切そうに両手でお守りを受け取ると、大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙を零した。

「泣かないで。蓮。きっと、また会えるから……」

 葵も涙ぐみながら、自分の着物の袖で蓮の涙を拭きとった。

「……姉様、必ず姉様を迎えに来ますから、それまで待っていて下さいますか?」

 蓮の言葉に葵は大きく頷いた。

「蓮を待っています」

 それが幼い日に葵が蓮と会った最後だった。
 その直後の重陽の節句で、秋定が仕立て、献上した御衣により、紫泉(しせん)帝が呪い殺されそうになる『菊花の政変』が勃発し、秋定は身に覚えのない謀反の罪で処刑され、一族は没落。葵もまた流転の末、後宮の下級女官へと身を落とすことになったのだった。