その後も黒川くんを避け続け、一人行動にも慣れてきてしまった。今日の一限は、黒川くんも浅野くんも履修していない講義だった。
いつもは一人で講義を受ける寂しさや、相談相手のいない不安を感じていたが、今はむしろありがたかった。
講義が終わり、荷物をまとめる。二限は空いているから、昼休みに被らないよう先に昼食を取ろうと決めた。
講義室を出た直後、突然腕を後ろから掴まれた。
「おい、拓夢」
「え……っ!?」
俺の腕を掴んでいたのは黒川くんだった。その眉間には深い皺が刻まれている。
「ちょっと来いよ、この後空いてるだろ」
「ええと……でも俺……」
「話があるんだよ。ごちゃごちゃ言ってないで来い!」
「うわっ……!」
嫌と言う前にぐいっと腕を引っ張られ、強制的に歩かされる。腕を掴む力は強く、振りほどこうとしたところで効果はないだろう。なによりずっと彼に申し訳ないことをし続けている負い目もあり、拒否できなかった。
空いている講義室に連れて行かれ、向かい合って立つ。しかし目を見ることができず、俯き加減でさりげなく視線を逸らす。
黒川くんの表情は硬い。怒っている……というよりは、真剣な顔に近い。
「なあ、浅野から聞いたんだけど。なんか考え事してるんだって?」
「……うん、まあ」
「悩んでんの?」
「うーん……」
歯切れの悪い返事をすると、黒川くんの表情が更に険しくなった。
「俺のせい? 最近俺のこと避けてるだろ」
「……違うんだけど……」
黒川くんのせいじゃない、全部俺の問題だ。ただ、どう言えば納得してもらえるのか……そもそも、納得してもらう方法はあるのだろうか。
その先の言葉を告げずにいると、黒川くんはため息混じりに呟いた。
「……まあ、お前ずっと俺に弱み握られてるようなもんだもんな」
「え……?」
「確かに最初は面白がってたよ。いつまで経っても信用されないのも自業自得だよな」
「ち、違うよ!」
自嘲気味に笑う顔を見ていたら、咄嗟に大きな声が出ていた。驚いたのか、黒川くんの肩がぴくりと跳ねる。
「黒川くんは悪くない、俺が悪いんだ」
「お前の何が悪い?」
「そ、それは……」
「……言えねえならいい。安心しろよ、もうお前の過去をバラすつもりもないし、絡まないようにするから」
黒川くんはそう言って踵を返した。
これじゃ、彼は自分が悪いのだと誤解したままになってしまう。本当は違うのに。本当は、俺が分不相応な想いを抱いてしまったせいなのに……!
出口に一歩踏み出した黒川くんの背に向かって、俺は声を震わせながら叫んだ。
「しょうがないじゃん、好きになっちゃったんだから!」
「——え?」
黒川くんは足を止め、ゆっくりと振り返った。その目は丸く見開かれ、俺を凝視する。
「俺、黒川くんが好きなんだ」
「好き、って……」
「でも叶うわけないって分かってる。だから、避けてた」
「……」
「……ごめん。俺の方こそ、もう絡まないよ」
それだけ伝えて講義室を飛び出した。返事を聞くのが怖くて、後ろを振り返ることができなかった。
初めて講義をサボってしまった。
「カンタくん、俺もうダメかも……」
呟きとともに、返事のないぬいぐるみをぎゅっと胸に抱く。
情けなくアパートに逃げ帰った俺は、それから何時間もカンタくん相手にめそめそと泣き言をこぼし続けていた。
元々告白するつもりなんてなかったのだけど、あの状況では告白せずとも嫌われていたと思う。
明日からどんな顔をして大学に行けばいいんだろう。どうしてこの大学を選んでしまったんだろう。どうして、黒川くんを好きになってしまったんだろう。
考えても答えの出ないことばかり、頭の中でぐるぐると回る。
いつの間にか日が落ちて、部屋の中が暗くなってきていた。ベッドから身体を起こして電気をつける。
そろそろ五限が終わる時間だ。本来なら、黒川くんと同じ講義を受けていた。きっともう、隣に座る日は来ないんだろうけど。
「……」
あまりにも悲しくて寂しくて涙がこぼれそうだった。
再びベッドに潜ろうとした時、インターホンが鳴った。
宅配便が届く予定はない。誰だろう。人に会う気分じゃないし、居留守にしようかな……。
ぴんぽーん、と間の抜けた音が再度鳴る。それでも無視していると今度はスマホが震えた。黒川くんからの着信を知らせる通知が表示されていた。
まさかと思い、インターホンのモニターを確認する。すると画面の向こうには——。
「黒川くん……」
どうしてこんなところに? 話はもう終わったはずなのに。
彼の表情は強張っていた。手の中のスマホは震え続けている。居留守を使ったところで、きっとすでに窓から漏れる明かりで在宅だと気づかれている。
ダメ押しとばかりにもう一度インターホンが部屋に響く。どうしようと考える間もなく、もう一度。
「……っ」
俺は玄関ドアに手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
「なんで……」
「ここなら逃げられないだろ」
黒川くんは玄関に入り、後ろ手にドアを閉めた。自分の部屋なのに、鍵のかかる音に緊張してしまう。
ひとまず上がってもらうと、黒川くんの視線が室内をぐるりと回り、枕元にあったカンタくんに向けられた。
「拓夢、昼間のあれ……本気なんだよな」
再確認されると胸がぐっと苦しくなる。けれど今更冗談でしたとは嘘でも言えるはずがない。
「……本気だよ」
「つまり、そういう意味ってことか」
「……うん」
俺はきっと、これから正式にフラれるんだろう。覚悟できていてもこの先に続く言葉を想像するだけで胸が張り裂けそうになった。
しかし黒川くんから発せられた言葉は、覚悟していたものとは全く違った。
「お前のぬいぐるみ、あるだろ」
「え?」
「……あれ拾ったの、俺」
黒川くんの指はカンタくんを差していた。ベッドに転がるそれは、焦点の合わない目でこちらを見ている。
「中学の時、お前のカバンから落ちるのを見たんだよ。でもお前、声かける前に帰ったから、気づいたら戻ってくるかもって思って、下駄箱に入れといた」
「黒川くんが?」
「そうだよ。自分でも忘れてたけどな」
俺はカンタくんを拾ってくれた誰かのことを、ずっと恩人だと思っていた。誰だか分からなくてもその人の優しさに感謝していた。
その相手がまさか、黒川くんだったなんて……不思議な巡り合わせだ。
黒川くんはやっぱり優しい。そして、自分の優しさに無自覚な人なんだ。
「自分でも忘れるくらい些細なことだったんだよ。なのに、お前が大事なものとか言うから……」
ふと気づけば黒川くんの頬はうっすら赤くなっていた。彼は片手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「お前のことただの面白い奴だと思ってた。でも裏で色々努力してたり、なのに不器用だったり、避けたかと思ったらいきなり告白してきたり……意味分かんねえ」
「ご、ごめんなさい」
「お前がいねえと調子狂うし、一人で飯食ってても味気ないし、俺の方全然見ないのもイラつく」
俺を責める口調に聞こえたが、黒川くんの頬は染まったままだった。
今のは、怒っているというより……。
緊張のせいでずっと早鐘を打っていた心臓が、違う意味合いを持ち始める。
「ほんと……意味分かんないくらいギャップがエグいんだよ、お前」
直後、俺は黒川くんに抱き寄せられていた。突然のことに受け身も取れず、彼の胸に飛び込む形になってしまう。
「あの、黒川くん……!?」
「お前のせいで、今日は授業どころじゃなかったんだけど。責任取れよ」
「せ、責任とは……」
耳元で低く掠れた声が聞こえ、心臓が大きな音を立てながら暴れ始める。顔が熱くて仕方がない。
触れ合った身体を押し返すことも抱き返すこともできずに固まっていると、黒川くんはますます腕に力を込めた。
「責任取って、俺と付き合え」
「は……?」
「俺もお前のこと、好きみたいだから」
「えっ……えええ!?」
思わず叫んでしまった。黒川くんが、俺を好き……!?
「う、嘘でしょ」
「はあ? 嘘じゃねえよ」
「だって信じられないよ! ありえないじゃん!」
言葉にされてもすぐには状況を飲み込めず、混乱しながらそう訴えた。すると黒川くんは不満げに眉を寄せて俺の顎を掴んだ。
端正な顔が目前に迫り、反射的に目をぎゅっと瞑る。そのすぐ後、唇に柔らかなものが触れた。
「……これで信じられるか?」
「……っ!」
目を開いても至近距離に黒川くんの顔があった。一瞬触れただけの熱はまだ唇に残っている。
それは嘘でも夢でもなく、俺はもう何も言えず、恐る恐る広い背中に腕を回した。
「ほんとに俺でいいの……?」
「拓夢で、じゃなくて拓夢がいい」
「でも、太ってた頃のこと知ってるのに」
「関係なくね? 痩せたから好きになったわけでもねえんだし」
黒川くんは事もなげに言うと、ふっと優しい笑顔を見せた。それは今まで誰にも向けたことがない表情だった。
色々な想いが溢れそうになり、俺はこっそり目尻を拭った。
ああ、そっか。誰かを好きになるって、こんな感じなんだ。ちょっと切なくて苦しいけど、すごく幸せだ。
「そういえばお前、大学デビュー狙ってたんだろ。誰かと付き合ったらこうしたい、とか妄想してたんじゃねえの?」
「そんなこと……」
考えてない、と言いたいところだけど、本当はめちゃくちゃ考えていた。妄想の中の恋人は女の子だったけど。
「何かあるなら叶えてやるよ」
「え……いいの?」
「もう一回キスする? それともいきなりお泊まり?」
「ええっ」
ステップアップの幅が広すぎる!
俺はしばし逡巡し、たっぷり時間をかけてから口を開いた。
「じゃあ……これからは響くんって呼んでいい?」
俺のささやかな願いを聞いた彼は、一瞬呆気に取られたような顔をすると、「もっと欲張れよ」と笑った。
いつもは一人で講義を受ける寂しさや、相談相手のいない不安を感じていたが、今はむしろありがたかった。
講義が終わり、荷物をまとめる。二限は空いているから、昼休みに被らないよう先に昼食を取ろうと決めた。
講義室を出た直後、突然腕を後ろから掴まれた。
「おい、拓夢」
「え……っ!?」
俺の腕を掴んでいたのは黒川くんだった。その眉間には深い皺が刻まれている。
「ちょっと来いよ、この後空いてるだろ」
「ええと……でも俺……」
「話があるんだよ。ごちゃごちゃ言ってないで来い!」
「うわっ……!」
嫌と言う前にぐいっと腕を引っ張られ、強制的に歩かされる。腕を掴む力は強く、振りほどこうとしたところで効果はないだろう。なによりずっと彼に申し訳ないことをし続けている負い目もあり、拒否できなかった。
空いている講義室に連れて行かれ、向かい合って立つ。しかし目を見ることができず、俯き加減でさりげなく視線を逸らす。
黒川くんの表情は硬い。怒っている……というよりは、真剣な顔に近い。
「なあ、浅野から聞いたんだけど。なんか考え事してるんだって?」
「……うん、まあ」
「悩んでんの?」
「うーん……」
歯切れの悪い返事をすると、黒川くんの表情が更に険しくなった。
「俺のせい? 最近俺のこと避けてるだろ」
「……違うんだけど……」
黒川くんのせいじゃない、全部俺の問題だ。ただ、どう言えば納得してもらえるのか……そもそも、納得してもらう方法はあるのだろうか。
その先の言葉を告げずにいると、黒川くんはため息混じりに呟いた。
「……まあ、お前ずっと俺に弱み握られてるようなもんだもんな」
「え……?」
「確かに最初は面白がってたよ。いつまで経っても信用されないのも自業自得だよな」
「ち、違うよ!」
自嘲気味に笑う顔を見ていたら、咄嗟に大きな声が出ていた。驚いたのか、黒川くんの肩がぴくりと跳ねる。
「黒川くんは悪くない、俺が悪いんだ」
「お前の何が悪い?」
「そ、それは……」
「……言えねえならいい。安心しろよ、もうお前の過去をバラすつもりもないし、絡まないようにするから」
黒川くんはそう言って踵を返した。
これじゃ、彼は自分が悪いのだと誤解したままになってしまう。本当は違うのに。本当は、俺が分不相応な想いを抱いてしまったせいなのに……!
出口に一歩踏み出した黒川くんの背に向かって、俺は声を震わせながら叫んだ。
「しょうがないじゃん、好きになっちゃったんだから!」
「——え?」
黒川くんは足を止め、ゆっくりと振り返った。その目は丸く見開かれ、俺を凝視する。
「俺、黒川くんが好きなんだ」
「好き、って……」
「でも叶うわけないって分かってる。だから、避けてた」
「……」
「……ごめん。俺の方こそ、もう絡まないよ」
それだけ伝えて講義室を飛び出した。返事を聞くのが怖くて、後ろを振り返ることができなかった。
初めて講義をサボってしまった。
「カンタくん、俺もうダメかも……」
呟きとともに、返事のないぬいぐるみをぎゅっと胸に抱く。
情けなくアパートに逃げ帰った俺は、それから何時間もカンタくん相手にめそめそと泣き言をこぼし続けていた。
元々告白するつもりなんてなかったのだけど、あの状況では告白せずとも嫌われていたと思う。
明日からどんな顔をして大学に行けばいいんだろう。どうしてこの大学を選んでしまったんだろう。どうして、黒川くんを好きになってしまったんだろう。
考えても答えの出ないことばかり、頭の中でぐるぐると回る。
いつの間にか日が落ちて、部屋の中が暗くなってきていた。ベッドから身体を起こして電気をつける。
そろそろ五限が終わる時間だ。本来なら、黒川くんと同じ講義を受けていた。きっともう、隣に座る日は来ないんだろうけど。
「……」
あまりにも悲しくて寂しくて涙がこぼれそうだった。
再びベッドに潜ろうとした時、インターホンが鳴った。
宅配便が届く予定はない。誰だろう。人に会う気分じゃないし、居留守にしようかな……。
ぴんぽーん、と間の抜けた音が再度鳴る。それでも無視していると今度はスマホが震えた。黒川くんからの着信を知らせる通知が表示されていた。
まさかと思い、インターホンのモニターを確認する。すると画面の向こうには——。
「黒川くん……」
どうしてこんなところに? 話はもう終わったはずなのに。
彼の表情は強張っていた。手の中のスマホは震え続けている。居留守を使ったところで、きっとすでに窓から漏れる明かりで在宅だと気づかれている。
ダメ押しとばかりにもう一度インターホンが部屋に響く。どうしようと考える間もなく、もう一度。
「……っ」
俺は玄関ドアに手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
「なんで……」
「ここなら逃げられないだろ」
黒川くんは玄関に入り、後ろ手にドアを閉めた。自分の部屋なのに、鍵のかかる音に緊張してしまう。
ひとまず上がってもらうと、黒川くんの視線が室内をぐるりと回り、枕元にあったカンタくんに向けられた。
「拓夢、昼間のあれ……本気なんだよな」
再確認されると胸がぐっと苦しくなる。けれど今更冗談でしたとは嘘でも言えるはずがない。
「……本気だよ」
「つまり、そういう意味ってことか」
「……うん」
俺はきっと、これから正式にフラれるんだろう。覚悟できていてもこの先に続く言葉を想像するだけで胸が張り裂けそうになった。
しかし黒川くんから発せられた言葉は、覚悟していたものとは全く違った。
「お前のぬいぐるみ、あるだろ」
「え?」
「……あれ拾ったの、俺」
黒川くんの指はカンタくんを差していた。ベッドに転がるそれは、焦点の合わない目でこちらを見ている。
「中学の時、お前のカバンから落ちるのを見たんだよ。でもお前、声かける前に帰ったから、気づいたら戻ってくるかもって思って、下駄箱に入れといた」
「黒川くんが?」
「そうだよ。自分でも忘れてたけどな」
俺はカンタくんを拾ってくれた誰かのことを、ずっと恩人だと思っていた。誰だか分からなくてもその人の優しさに感謝していた。
その相手がまさか、黒川くんだったなんて……不思議な巡り合わせだ。
黒川くんはやっぱり優しい。そして、自分の優しさに無自覚な人なんだ。
「自分でも忘れるくらい些細なことだったんだよ。なのに、お前が大事なものとか言うから……」
ふと気づけば黒川くんの頬はうっすら赤くなっていた。彼は片手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「お前のことただの面白い奴だと思ってた。でも裏で色々努力してたり、なのに不器用だったり、避けたかと思ったらいきなり告白してきたり……意味分かんねえ」
「ご、ごめんなさい」
「お前がいねえと調子狂うし、一人で飯食ってても味気ないし、俺の方全然見ないのもイラつく」
俺を責める口調に聞こえたが、黒川くんの頬は染まったままだった。
今のは、怒っているというより……。
緊張のせいでずっと早鐘を打っていた心臓が、違う意味合いを持ち始める。
「ほんと……意味分かんないくらいギャップがエグいんだよ、お前」
直後、俺は黒川くんに抱き寄せられていた。突然のことに受け身も取れず、彼の胸に飛び込む形になってしまう。
「あの、黒川くん……!?」
「お前のせいで、今日は授業どころじゃなかったんだけど。責任取れよ」
「せ、責任とは……」
耳元で低く掠れた声が聞こえ、心臓が大きな音を立てながら暴れ始める。顔が熱くて仕方がない。
触れ合った身体を押し返すことも抱き返すこともできずに固まっていると、黒川くんはますます腕に力を込めた。
「責任取って、俺と付き合え」
「は……?」
「俺もお前のこと、好きみたいだから」
「えっ……えええ!?」
思わず叫んでしまった。黒川くんが、俺を好き……!?
「う、嘘でしょ」
「はあ? 嘘じゃねえよ」
「だって信じられないよ! ありえないじゃん!」
言葉にされてもすぐには状況を飲み込めず、混乱しながらそう訴えた。すると黒川くんは不満げに眉を寄せて俺の顎を掴んだ。
端正な顔が目前に迫り、反射的に目をぎゅっと瞑る。そのすぐ後、唇に柔らかなものが触れた。
「……これで信じられるか?」
「……っ!」
目を開いても至近距離に黒川くんの顔があった。一瞬触れただけの熱はまだ唇に残っている。
それは嘘でも夢でもなく、俺はもう何も言えず、恐る恐る広い背中に腕を回した。
「ほんとに俺でいいの……?」
「拓夢で、じゃなくて拓夢がいい」
「でも、太ってた頃のこと知ってるのに」
「関係なくね? 痩せたから好きになったわけでもねえんだし」
黒川くんは事もなげに言うと、ふっと優しい笑顔を見せた。それは今まで誰にも向けたことがない表情だった。
色々な想いが溢れそうになり、俺はこっそり目尻を拭った。
ああ、そっか。誰かを好きになるって、こんな感じなんだ。ちょっと切なくて苦しいけど、すごく幸せだ。
「そういえばお前、大学デビュー狙ってたんだろ。誰かと付き合ったらこうしたい、とか妄想してたんじゃねえの?」
「そんなこと……」
考えてない、と言いたいところだけど、本当はめちゃくちゃ考えていた。妄想の中の恋人は女の子だったけど。
「何かあるなら叶えてやるよ」
「え……いいの?」
「もう一回キスする? それともいきなりお泊まり?」
「ええっ」
ステップアップの幅が広すぎる!
俺はしばし逡巡し、たっぷり時間をかけてから口を開いた。
「じゃあ……これからは響くんって呼んでいい?」
俺のささやかな願いを聞いた彼は、一瞬呆気に取られたような顔をすると、「もっと欲張れよ」と笑った。



