翌日になると気分はすっかり良くなり、一限から出席できた。
「おはよ、拓夢」
「あ……おはよう。昨日はありがとう」
「もう大丈夫そうだな」
黒川くんの笑顔を見たらまた胸が大きく鳴った。なんなんだろう、これ……。
「持田、おはよう。昨日はお疲れ」
「おはよう、浅野くん」
浅野くんと話している間は特に何もなくて、さらによく分からなくなる。
講義中、隣に座る黒川くんの横顔が目に入った。以前見た時はイケメンだなあと関心してちょっと卑屈になった程度だったが、今はじっとしていられない気分になった。
翌日以降も黒川くんに会うと何となく心がざわざわした。
「なあ拓夢、英語学概論の課題分かるか?」
「あー、進行同化とか、逆行同化とか……俺もあれ苦手かも」
「次の空きに一緒に片付けるか」
「うん、いいよ」
こんな些細なことでも、誘ってもらえたら嬉しかった。
「拓夢、今日は弁当?」
「うん、ゆうべのおかず残っちゃったから」
「サラダチキンと野菜だけかよ。足りんのか、それ。あんま無理すんなよ」
こんな小さなことでも、さりげなく心配してもらえると嬉しかった。
名前を呼ばれるだけで浮き足立ち、肩がぶつかっただけで心が跳ねて、もっと彼のことを知りたくなった。
あの食事会以降、なぜか黒川くんのことばかり気にしてしまう。意地悪な中に見える少しの優しさが、まるで砂粒に混じった星のようにきらきらと輝いて見える。
初めての感覚に戸惑ってしまうけれど……きっと助けてもらったから気になるだけだろうと思った。
そして、あれから一週間ほど経った頃のこと。
金曜二限は演習形式の講義だ。人前で発表したり、ディスカッションをしたりするのは気が重い。
せめて黒川くんや浅野くんの近くに座ってグループを組みたい。席を選べるように早めに講義室に向かい、ドアを押し開ける。
すると一番後ろの席に黒川くんの姿を見つけた。
「黒川く——」
声をかけようとして、思わず足を止める。
黒川くんは近くの席に座っている女子と何か話していた。声は聞こえないが、楽しそうに笑っている。
「……っ」
なぜだろう、胸がぎゅっと締めつけられる。
黒川くんと話しているのは大人っぽくて綺麗な子だった。俺がいくら痩せても声をかけられないような高嶺の花だ。
黒川くんは顔がかっこいい。社交的でコミュ力も高く、中学時代からモテまくっていた。そりゃあ大学生になっても同様だろう。
なんだか自分がひどく不釣り合いな存在に思えた。隣に座っていいのか迷っていたら黒川くんの目が俺を捉えた。
「拓夢、おはよ。こっち来いよ」
「……う、うん」
断れず、のろのろとそちらに歩を進める。躊躇いがちにひとつ間を空けて座ると、黒川くんは眉間に皺を寄せた。
「え、なに?」
「な、なにが?」
「なんで離れてんの?」
「いや、えっと……狭いかなと思って……」
「別に狭くねえわ」
そう言われても今更詰める気にもなれず、結局そのまま講義を受けた。
しかしディスカッションの内容は頭に入って来ず、ただ議題の取りまとめをする黒川くんの様子を見つめていた。
彼と目が合うたびに心臓の挙動がおかしくなり、自分の中に生まれた感情にただ動揺する。
俺はみんなからかっこいいと思われたかった。大学デビューに成功して、あわよくば彼女が欲しいと夢見て、そのために必死にダイエットをした。
けれど今俺の中にあるのは、モテる黒川くんに対しての羨ましさではなく、彼と話していた女子に対しての嫉みだったのだ。
始まった瞬間に終わる恋ならしないほうが良かった。
なんて、どこぞの売れないJ−POPみたいなことをひたすら考えた。
「カンタくん、こういう時どうすればいい?」
問いかけてもぬいぐるみからは無言の回答しか返ってこない。ベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺める。
俺はたぶん、黒川くんが好きだ。
そう思った瞬間、怖くなった。この想いをぶつけたら、きっと嫌がられてしまう。
そもそも彼は優しい一面もあるけれど、基本的には俺をからかっているだけだ。そういう意味で好きになってもらえる可能性はゼロだろう。
「諦めた方が良い、かな……」
自分に言い聞かせるように呟き、カンタくんを胸に抱く。誰かがぬいぐるみを拾ってくれた時、俺も救われた気がした。だからこれを大事にすれば、いつか俺自身にもいいことがあるのだと信じていたけど……今は何とも言えなかった。
それからは黒川くんとうまく話せなくなった。
「拓夢、五限休講だろ? 浅野と買い物行こうって話してたんだけど」
「あ……ごめん、バイトあるんだ」
「ああ、そっか。じゃあ明日は?」
「明日もちょっと……レポート進めたいから、ごめん」
目が合うとどきどきしてしまって、やっぱり好きなんだと思い知らされて、でも気持ちを捨てなきゃいけないと思い直して。
これ以上一緒にいることに罪悪感を抱き、バイトのシフトを増やしてみたり、急ぎでもない課題に追われるふりをしてみたり。
授業開始時間ぎりぎりに講義室に入り、黒川くんと離れた隅っこの席に座って、講義終了と同時にダッシュで退室。昼食は昼休みじゃなく、空きコマの間に済ませるようにした。黒川くんからの視線を感じてもそちらを向かず、とにかく関わりを絶った。
こんなことをしても解決するわけでもない。けれど今の俺にはこれしか思いつかなかった。
一人ぼっちで食べる学食の豆腐ハンバーグはいつもより味気なく、あまり食欲が湧かない。
もそもそと咀嚼して無理やり飲み込んでいると、不意に後ろから肩を叩かれた。びっくりして身体を跳ねさせながら振り返った先には浅野くんが立っていた。安堵のような、拍子抜けのような、複雑な感情に襲われる。
「なあ、黒川となんかあった?」
「……な、何もない、けど……なんで?」
黒川くんの名前が出た瞬間、わずかに呼吸が乱れる。何も悪くない浅野くんに対して嘘をつくのは後ろめたかった。
浅野くんは困り顔で深くため息をついた。
「持田、最近黒川と絡まないからさ。そのせいか、あいつずっと機嫌悪いし」
「え……」
黒川くん、怒ってるのかな。そりゃあ怒るよな。彼からしたら、理由も分からず突然距離を置かれているのだから。
こんな状態で万が一告白なんかしたら……悪い意味で決定的になってしまう。
「喧嘩とかじゃないんだ。ただ、俺ちょっと……一人で考えたいことがあって」
「深刻なやつ?」
「ううん、大丈夫。落ち着いたらまたご飯行こうよ」
そう。俺の不埒な気持ちが落ち着いてきれいさっぱり忘れられれば、きっと元通りに戻れるはずだ。
浅野くんはまだ訝しげだったが、俺は食事をかき込んでその場から逃げるように席を立った。
「おはよ、拓夢」
「あ……おはよう。昨日はありがとう」
「もう大丈夫そうだな」
黒川くんの笑顔を見たらまた胸が大きく鳴った。なんなんだろう、これ……。
「持田、おはよう。昨日はお疲れ」
「おはよう、浅野くん」
浅野くんと話している間は特に何もなくて、さらによく分からなくなる。
講義中、隣に座る黒川くんの横顔が目に入った。以前見た時はイケメンだなあと関心してちょっと卑屈になった程度だったが、今はじっとしていられない気分になった。
翌日以降も黒川くんに会うと何となく心がざわざわした。
「なあ拓夢、英語学概論の課題分かるか?」
「あー、進行同化とか、逆行同化とか……俺もあれ苦手かも」
「次の空きに一緒に片付けるか」
「うん、いいよ」
こんな些細なことでも、誘ってもらえたら嬉しかった。
「拓夢、今日は弁当?」
「うん、ゆうべのおかず残っちゃったから」
「サラダチキンと野菜だけかよ。足りんのか、それ。あんま無理すんなよ」
こんな小さなことでも、さりげなく心配してもらえると嬉しかった。
名前を呼ばれるだけで浮き足立ち、肩がぶつかっただけで心が跳ねて、もっと彼のことを知りたくなった。
あの食事会以降、なぜか黒川くんのことばかり気にしてしまう。意地悪な中に見える少しの優しさが、まるで砂粒に混じった星のようにきらきらと輝いて見える。
初めての感覚に戸惑ってしまうけれど……きっと助けてもらったから気になるだけだろうと思った。
そして、あれから一週間ほど経った頃のこと。
金曜二限は演習形式の講義だ。人前で発表したり、ディスカッションをしたりするのは気が重い。
せめて黒川くんや浅野くんの近くに座ってグループを組みたい。席を選べるように早めに講義室に向かい、ドアを押し開ける。
すると一番後ろの席に黒川くんの姿を見つけた。
「黒川く——」
声をかけようとして、思わず足を止める。
黒川くんは近くの席に座っている女子と何か話していた。声は聞こえないが、楽しそうに笑っている。
「……っ」
なぜだろう、胸がぎゅっと締めつけられる。
黒川くんと話しているのは大人っぽくて綺麗な子だった。俺がいくら痩せても声をかけられないような高嶺の花だ。
黒川くんは顔がかっこいい。社交的でコミュ力も高く、中学時代からモテまくっていた。そりゃあ大学生になっても同様だろう。
なんだか自分がひどく不釣り合いな存在に思えた。隣に座っていいのか迷っていたら黒川くんの目が俺を捉えた。
「拓夢、おはよ。こっち来いよ」
「……う、うん」
断れず、のろのろとそちらに歩を進める。躊躇いがちにひとつ間を空けて座ると、黒川くんは眉間に皺を寄せた。
「え、なに?」
「な、なにが?」
「なんで離れてんの?」
「いや、えっと……狭いかなと思って……」
「別に狭くねえわ」
そう言われても今更詰める気にもなれず、結局そのまま講義を受けた。
しかしディスカッションの内容は頭に入って来ず、ただ議題の取りまとめをする黒川くんの様子を見つめていた。
彼と目が合うたびに心臓の挙動がおかしくなり、自分の中に生まれた感情にただ動揺する。
俺はみんなからかっこいいと思われたかった。大学デビューに成功して、あわよくば彼女が欲しいと夢見て、そのために必死にダイエットをした。
けれど今俺の中にあるのは、モテる黒川くんに対しての羨ましさではなく、彼と話していた女子に対しての嫉みだったのだ。
始まった瞬間に終わる恋ならしないほうが良かった。
なんて、どこぞの売れないJ−POPみたいなことをひたすら考えた。
「カンタくん、こういう時どうすればいい?」
問いかけてもぬいぐるみからは無言の回答しか返ってこない。ベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺める。
俺はたぶん、黒川くんが好きだ。
そう思った瞬間、怖くなった。この想いをぶつけたら、きっと嫌がられてしまう。
そもそも彼は優しい一面もあるけれど、基本的には俺をからかっているだけだ。そういう意味で好きになってもらえる可能性はゼロだろう。
「諦めた方が良い、かな……」
自分に言い聞かせるように呟き、カンタくんを胸に抱く。誰かがぬいぐるみを拾ってくれた時、俺も救われた気がした。だからこれを大事にすれば、いつか俺自身にもいいことがあるのだと信じていたけど……今は何とも言えなかった。
それからは黒川くんとうまく話せなくなった。
「拓夢、五限休講だろ? 浅野と買い物行こうって話してたんだけど」
「あ……ごめん、バイトあるんだ」
「ああ、そっか。じゃあ明日は?」
「明日もちょっと……レポート進めたいから、ごめん」
目が合うとどきどきしてしまって、やっぱり好きなんだと思い知らされて、でも気持ちを捨てなきゃいけないと思い直して。
これ以上一緒にいることに罪悪感を抱き、バイトのシフトを増やしてみたり、急ぎでもない課題に追われるふりをしてみたり。
授業開始時間ぎりぎりに講義室に入り、黒川くんと離れた隅っこの席に座って、講義終了と同時にダッシュで退室。昼食は昼休みじゃなく、空きコマの間に済ませるようにした。黒川くんからの視線を感じてもそちらを向かず、とにかく関わりを絶った。
こんなことをしても解決するわけでもない。けれど今の俺にはこれしか思いつかなかった。
一人ぼっちで食べる学食の豆腐ハンバーグはいつもより味気なく、あまり食欲が湧かない。
もそもそと咀嚼して無理やり飲み込んでいると、不意に後ろから肩を叩かれた。びっくりして身体を跳ねさせながら振り返った先には浅野くんが立っていた。安堵のような、拍子抜けのような、複雑な感情に襲われる。
「なあ、黒川となんかあった?」
「……な、何もない、けど……なんで?」
黒川くんの名前が出た瞬間、わずかに呼吸が乱れる。何も悪くない浅野くんに対して嘘をつくのは後ろめたかった。
浅野くんは困り顔で深くため息をついた。
「持田、最近黒川と絡まないからさ。そのせいか、あいつずっと機嫌悪いし」
「え……」
黒川くん、怒ってるのかな。そりゃあ怒るよな。彼からしたら、理由も分からず突然距離を置かれているのだから。
こんな状態で万が一告白なんかしたら……悪い意味で決定的になってしまう。
「喧嘩とかじゃないんだ。ただ、俺ちょっと……一人で考えたいことがあって」
「深刻なやつ?」
「ううん、大丈夫。落ち着いたらまたご飯行こうよ」
そう。俺の不埒な気持ちが落ち着いてきれいさっぱり忘れられれば、きっと元通りに戻れるはずだ。
浅野くんはまだ訝しげだったが、俺は食事をかき込んでその場から逃げるように席を立った。



