約束の水曜日、五限終わりの空腹状態で駅前の回転寿司チェーン店へ向かった。夕飯時とあって混雑していたが、待ち時間すらも空腹のスパイスになる。
俺はこの日のために何日も前からカロリー調整をがんばった。今朝測った体重も問題なし。今日はお腹いっぱい楽しもう!
空いたテーブル席に案内され、俺はレーン側に座った。浅野くんは俺の隣、黒川くんは向かい側だ。
「どれにする?」
二人に問いかけながら、画面上のメニュー表をタッチする。ローカロリーなのはイカやタコなどの淡白なネタだ。シャリは少なめにして糖質を抑えようかな……。
「やっぱり寿司といえば中トロだろ」
「まずはさっぱり系じゃない? サーモンとか」
おいしそうなメニューを見ながら二人の会話を聞いていたら、俺だけ我慢するのもおかしい気がしてきた。
せっかくの友達との、せっかくの外食。今日一日、いや一食くらい食べすぎても大丈夫だ。そのために調整してきたんだから。
「俺、大トロにする!」
「マジかよ拓夢、一番高い皿じゃん」
「今日は特別だからね!」
「気合い入ってんな」
ダイエット中の時にも、たまにチートデイを設けていた。今がその時とばかりに、好きなネタを片っ端から注文していく。
大トロにイクラにマグロ、肉寿司やサイドメニューのフライドポテト……ここ最近野菜と鶏のささみばかり食べていた胃袋が満たされていくのを感じる。ああ、おいしい。カロリーの暴力、最高だ。
こんなに食べて大丈夫かと一瞬だけ思ったが、楽しい食事の場に水を差したくなくて気づかないふりをした。
「やっぱりこっち側の席座って正解だったわ」
食事中、不意に黒川くんがそう言った。意味が分からなくて首を傾げると、彼は堪えきれない笑みを口元に浮かべていた。
「食ってる時の拓夢の顔がよく見える」
「えっ……なんで見てるの?」
「幸せですって顔に書いてある感じが面白いから」
「見ないでよ!」
どれだけ締まりのない顔をしていたんだろう、俺は。うっかり油断してた……。
浅野くんも「分かる」と同意し、俺の顔を覗き込んでくる。
「持田っていつも少食だから、あんまり外食とか好きじゃないのかと思ってたよ」
「そ、そんなことないよ。ほんとたまたま予定合わなかっただけで……今日はたくさん食べるから!」
まだ締めのデザートには早い。俺は次々に追加注文を入力していった。
十代男子の食欲とはすごいもので、俺たちのテーブルは皿でいっぱいになった。
会計は三等分……というには申し訳ない割合になってしまったので、俺が多めに出した。明日からはもやし生活かも。バイトがんばらなきゃ。
店外に出る足取りは重かった。今体重計に乗ったら恐ろしいことになっていそうだ。
「持田、だいぶ食べてたけど大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと苦しいだけ」
浅野くんにはそう答えたが、正直ちょっと……いや、結構きついかもしれない。調子に乗って食べすぎてしまった。
「うちのアパート、歩いてすぐだし。ゆっくり帰るよ」
喋っていると口から出てはいけないものまで出てしまいそうになる。最後に重めのガトーショコラを選んだのは失敗だった……。
浅野くんはまだ心配そうにしていたが、電車の時間があるからと帰っていった。
「黒川くんはどっち方面?」
「……」
「黒川くん?」
隣に立つ黒川くんは俺の問いに答えず、こちらをじっと見つめてきた。
「お前んち、どのへん?」
「え……商店街抜けたところだけど……」
「じゃあ送ってく」
「は?」
聞き慣れない言葉は俺の脳内に浸透しなかった。送るって、誰が誰を?
ぽかんとしていると、突然腕を引かれた。しかしその動作は乱暴なものではなく、むしろ俺を支えているようだった。
「さっさと案内しろよ」
「ま、待って。なに、どういうこと?」
「お前、顔色やべえよ。そのへんで倒れられたら、こっちだって気にする」
「え……」
そんなに心配されるほど顔に出ていたんだろうか。黒川くんは俺の腕を離さず、商店街の方へ足を向ける。
俺はそれを振りほどくことはできなくて、一歩後ろをついて歩いた。
掴まれた腕から伝わってくる体温が温かかった。
徒歩十分程度の道のりは思ったよりも長く、歩いているうちにどんどん気分が悪くなっていった。黒川くんは文句も言わずに俺を支えながらアパートまで歩いてくれた。
やっとのことで玄関までたどり着き、鍵を開ける。
「黒川くん、わざわざごめん。もう大丈夫、だから……」
そこまで言った直後、重くもたれた胃が悲鳴を上げた。思わずその場に座り込む。やばい、気持ち悪い。
「おい、大丈夫かよ」
「だ……大丈夫。帰っていいよ」
「大丈夫って顔じゃねえだろ」
黒川くんはため息をつき、俺の身体を引っ張り上げた。靴を脱がされ、覚束ない足取りで部屋に上がる。
「勝手に入るぞ」
こくりと首の動きだけで返事をする。部屋の狭さのおかげですぐベッドに到達した。
ベッドの縁に腰掛けるとようやく安心できた。良かった、帰ってこれた……。
黒川くんはグラスに水を入れて持ってきてくれた。ただの水道水がまるで砂漠のオアシスに見えて、しかしお腹が苦しいのでちびちびと飲む。
「ごめん、迷惑かけて……」
「こういう時って『ごめん』じゃなくね?」
「……ありがとう」
彼の言うとおりだ。気まずくて目を逸らせば、黒川くんは呆れ顔になった。
「お前さぁ、そんなになるまで食うなよ。近所だからまだ良かったけど、帰れなくなったらどうすんだよ」
「……だって、楽しくて」
「だからってこんな無茶するか?」
「だって……だって……」
両手で持ったグラスをぎゅっと握り、震える声を吐き出す。
「俺は友達と楽しくご飯食べたかっただけなんだよ」
「……」
「なのに……うまくいかなくて……」
どうしていつも空回ってしまうんだろう。大学デビューだの新しい自分だのと着飾ったところで、今の俺は外見だけを取り繕ったハリボテだ。
訪れた沈黙が目に沁みて、視界がじわりと滲む。つんとした鼻の痛みを堪えていると、黒川くんは言葉を探すように視線を浮かべ、俺の方を見ないまま口を開いた。
「今、自分は何やってもダメだって思ってるんじゃねえの」
「……そうだよ。事実だし……」
「でもダイエットはできたんだろ。理想に近づけたのは、お前が努力したからだろ」
「え……?」
俯けていた顔を上げると、黒川くんはいつの間にか俺を見下ろしていた。目が合った瞬間、心臓が大きな音を立てる。
「つーか、あんまうじうじすんなよ。カビ生えるぞ」
「ご、ごめん」
「そういうのをやめろって言ってんの」
黒川くんの口調は乱暴だったけれど、声色は落ち着いて聞こえた。むしろ、少しだけ優しいような……。
「俺はダイエットしたことないけど、お前が必死にがんばったことくらい分かる。逆になんでいつも自信なさそうにしてんのかが分かんねえ」
「自信……って言われても……」
「まず猫背直せよ。もっと胸張れ」
「う、うん」
しゃきっと背筋を伸ばしてみた。自分ではどのくらい変わったのか分からないけれど、黒川くんは満足そうに笑った。
「いい感じじゃん」
「……うん」
ストレートに褒められるとそわそわする。一度速くなった鼓動はなかなか治まらず、俺の目線は行き場をなくして足元に落ちた。
「俺そろそろ帰るわ。お前も早く休めよ」
「黒川くん、あの……ありがとう、色々」
「おー」
黒川くんは何でもないことのように軽く応えた。そして玄関に向かおうとした時、ふと動きを止めた。
「……なあ、これって」
「え? ……あっ!」
黒川くんの視線の先にはカンタくんのぬいぐるみがあった。慌てて手に取り、さっと背後に隠す。
み、見られた……! いい歳こいた男の部屋にぬいぐるみがあったら笑われるかも……ましてや意地悪な黒川くんだし。
「これ、地元のヤツだよな。なんで隠すんだよ」
「……な、なんとなく……?」
「……一回見せて」
なんでだよ。まさか黒川くんもカンタくんが好きだとか? ……いや、絶対ないな。
あまり見せたくはなかったけれど、見せなければまたなにか言われそうである。観念して手のひらにカンタくんを乗せ、おずおずと差し出した。
「ちょっと汚れてるな」
「ああ、うん……。昔はカバンにつけてたんだ。でも一回落としちゃって」
最初につけたのはランドセルだった。その後、中学生になってからも通学用カバンにぶら下げていたが、ある日ボールチェーンが外れてしまっていた。下校中に気づいて急いで学校に戻ったら、誰かが拾って下駄箱に入れておいてくれたのだ。
なくしたものが戻ってくるのは運気が良くなるサインだと聞いたことがある。それ以来、俺はこれを大切にしようと決めた。
「大事なものなんだ。だから、もうなくさないように部屋に置いてるんだよ」
「……そっか」
黒川くんは一瞬だけ目を細めた。意外にも笑われることも、それ以上突っ込まれることもなかった。
その夜はベッドに入ってもなかなか眠れず、瞼を閉じるとなぜか黒川くんの顔ばかりが浮かんだ。
食べすぎて苦しいはずのお腹よりも、胸がいっぱいだった。しかしその理由は考えても思い当たらなかった。
俺はこの日のために何日も前からカロリー調整をがんばった。今朝測った体重も問題なし。今日はお腹いっぱい楽しもう!
空いたテーブル席に案内され、俺はレーン側に座った。浅野くんは俺の隣、黒川くんは向かい側だ。
「どれにする?」
二人に問いかけながら、画面上のメニュー表をタッチする。ローカロリーなのはイカやタコなどの淡白なネタだ。シャリは少なめにして糖質を抑えようかな……。
「やっぱり寿司といえば中トロだろ」
「まずはさっぱり系じゃない? サーモンとか」
おいしそうなメニューを見ながら二人の会話を聞いていたら、俺だけ我慢するのもおかしい気がしてきた。
せっかくの友達との、せっかくの外食。今日一日、いや一食くらい食べすぎても大丈夫だ。そのために調整してきたんだから。
「俺、大トロにする!」
「マジかよ拓夢、一番高い皿じゃん」
「今日は特別だからね!」
「気合い入ってんな」
ダイエット中の時にも、たまにチートデイを設けていた。今がその時とばかりに、好きなネタを片っ端から注文していく。
大トロにイクラにマグロ、肉寿司やサイドメニューのフライドポテト……ここ最近野菜と鶏のささみばかり食べていた胃袋が満たされていくのを感じる。ああ、おいしい。カロリーの暴力、最高だ。
こんなに食べて大丈夫かと一瞬だけ思ったが、楽しい食事の場に水を差したくなくて気づかないふりをした。
「やっぱりこっち側の席座って正解だったわ」
食事中、不意に黒川くんがそう言った。意味が分からなくて首を傾げると、彼は堪えきれない笑みを口元に浮かべていた。
「食ってる時の拓夢の顔がよく見える」
「えっ……なんで見てるの?」
「幸せですって顔に書いてある感じが面白いから」
「見ないでよ!」
どれだけ締まりのない顔をしていたんだろう、俺は。うっかり油断してた……。
浅野くんも「分かる」と同意し、俺の顔を覗き込んでくる。
「持田っていつも少食だから、あんまり外食とか好きじゃないのかと思ってたよ」
「そ、そんなことないよ。ほんとたまたま予定合わなかっただけで……今日はたくさん食べるから!」
まだ締めのデザートには早い。俺は次々に追加注文を入力していった。
十代男子の食欲とはすごいもので、俺たちのテーブルは皿でいっぱいになった。
会計は三等分……というには申し訳ない割合になってしまったので、俺が多めに出した。明日からはもやし生活かも。バイトがんばらなきゃ。
店外に出る足取りは重かった。今体重計に乗ったら恐ろしいことになっていそうだ。
「持田、だいぶ食べてたけど大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと苦しいだけ」
浅野くんにはそう答えたが、正直ちょっと……いや、結構きついかもしれない。調子に乗って食べすぎてしまった。
「うちのアパート、歩いてすぐだし。ゆっくり帰るよ」
喋っていると口から出てはいけないものまで出てしまいそうになる。最後に重めのガトーショコラを選んだのは失敗だった……。
浅野くんはまだ心配そうにしていたが、電車の時間があるからと帰っていった。
「黒川くんはどっち方面?」
「……」
「黒川くん?」
隣に立つ黒川くんは俺の問いに答えず、こちらをじっと見つめてきた。
「お前んち、どのへん?」
「え……商店街抜けたところだけど……」
「じゃあ送ってく」
「は?」
聞き慣れない言葉は俺の脳内に浸透しなかった。送るって、誰が誰を?
ぽかんとしていると、突然腕を引かれた。しかしその動作は乱暴なものではなく、むしろ俺を支えているようだった。
「さっさと案内しろよ」
「ま、待って。なに、どういうこと?」
「お前、顔色やべえよ。そのへんで倒れられたら、こっちだって気にする」
「え……」
そんなに心配されるほど顔に出ていたんだろうか。黒川くんは俺の腕を離さず、商店街の方へ足を向ける。
俺はそれを振りほどくことはできなくて、一歩後ろをついて歩いた。
掴まれた腕から伝わってくる体温が温かかった。
徒歩十分程度の道のりは思ったよりも長く、歩いているうちにどんどん気分が悪くなっていった。黒川くんは文句も言わずに俺を支えながらアパートまで歩いてくれた。
やっとのことで玄関までたどり着き、鍵を開ける。
「黒川くん、わざわざごめん。もう大丈夫、だから……」
そこまで言った直後、重くもたれた胃が悲鳴を上げた。思わずその場に座り込む。やばい、気持ち悪い。
「おい、大丈夫かよ」
「だ……大丈夫。帰っていいよ」
「大丈夫って顔じゃねえだろ」
黒川くんはため息をつき、俺の身体を引っ張り上げた。靴を脱がされ、覚束ない足取りで部屋に上がる。
「勝手に入るぞ」
こくりと首の動きだけで返事をする。部屋の狭さのおかげですぐベッドに到達した。
ベッドの縁に腰掛けるとようやく安心できた。良かった、帰ってこれた……。
黒川くんはグラスに水を入れて持ってきてくれた。ただの水道水がまるで砂漠のオアシスに見えて、しかしお腹が苦しいのでちびちびと飲む。
「ごめん、迷惑かけて……」
「こういう時って『ごめん』じゃなくね?」
「……ありがとう」
彼の言うとおりだ。気まずくて目を逸らせば、黒川くんは呆れ顔になった。
「お前さぁ、そんなになるまで食うなよ。近所だからまだ良かったけど、帰れなくなったらどうすんだよ」
「……だって、楽しくて」
「だからってこんな無茶するか?」
「だって……だって……」
両手で持ったグラスをぎゅっと握り、震える声を吐き出す。
「俺は友達と楽しくご飯食べたかっただけなんだよ」
「……」
「なのに……うまくいかなくて……」
どうしていつも空回ってしまうんだろう。大学デビューだの新しい自分だのと着飾ったところで、今の俺は外見だけを取り繕ったハリボテだ。
訪れた沈黙が目に沁みて、視界がじわりと滲む。つんとした鼻の痛みを堪えていると、黒川くんは言葉を探すように視線を浮かべ、俺の方を見ないまま口を開いた。
「今、自分は何やってもダメだって思ってるんじゃねえの」
「……そうだよ。事実だし……」
「でもダイエットはできたんだろ。理想に近づけたのは、お前が努力したからだろ」
「え……?」
俯けていた顔を上げると、黒川くんはいつの間にか俺を見下ろしていた。目が合った瞬間、心臓が大きな音を立てる。
「つーか、あんまうじうじすんなよ。カビ生えるぞ」
「ご、ごめん」
「そういうのをやめろって言ってんの」
黒川くんの口調は乱暴だったけれど、声色は落ち着いて聞こえた。むしろ、少しだけ優しいような……。
「俺はダイエットしたことないけど、お前が必死にがんばったことくらい分かる。逆になんでいつも自信なさそうにしてんのかが分かんねえ」
「自信……って言われても……」
「まず猫背直せよ。もっと胸張れ」
「う、うん」
しゃきっと背筋を伸ばしてみた。自分ではどのくらい変わったのか分からないけれど、黒川くんは満足そうに笑った。
「いい感じじゃん」
「……うん」
ストレートに褒められるとそわそわする。一度速くなった鼓動はなかなか治まらず、俺の目線は行き場をなくして足元に落ちた。
「俺そろそろ帰るわ。お前も早く休めよ」
「黒川くん、あの……ありがとう、色々」
「おー」
黒川くんは何でもないことのように軽く応えた。そして玄関に向かおうとした時、ふと動きを止めた。
「……なあ、これって」
「え? ……あっ!」
黒川くんの視線の先にはカンタくんのぬいぐるみがあった。慌てて手に取り、さっと背後に隠す。
み、見られた……! いい歳こいた男の部屋にぬいぐるみがあったら笑われるかも……ましてや意地悪な黒川くんだし。
「これ、地元のヤツだよな。なんで隠すんだよ」
「……な、なんとなく……?」
「……一回見せて」
なんでだよ。まさか黒川くんもカンタくんが好きだとか? ……いや、絶対ないな。
あまり見せたくはなかったけれど、見せなければまたなにか言われそうである。観念して手のひらにカンタくんを乗せ、おずおずと差し出した。
「ちょっと汚れてるな」
「ああ、うん……。昔はカバンにつけてたんだ。でも一回落としちゃって」
最初につけたのはランドセルだった。その後、中学生になってからも通学用カバンにぶら下げていたが、ある日ボールチェーンが外れてしまっていた。下校中に気づいて急いで学校に戻ったら、誰かが拾って下駄箱に入れておいてくれたのだ。
なくしたものが戻ってくるのは運気が良くなるサインだと聞いたことがある。それ以来、俺はこれを大切にしようと決めた。
「大事なものなんだ。だから、もうなくさないように部屋に置いてるんだよ」
「……そっか」
黒川くんは一瞬だけ目を細めた。意外にも笑われることも、それ以上突っ込まれることもなかった。
その夜はベッドに入ってもなかなか眠れず、瞼を閉じるとなぜか黒川くんの顔ばかりが浮かんだ。
食べすぎて苦しいはずのお腹よりも、胸がいっぱいだった。しかしその理由は考えても思い当たらなかった。



