その名前で呼ばないで

 今日のふたご座の運勢は第一位らしいけど、絶対に嘘だ。
 朝からTシャツの袖にコーヒーをこぼしたし、満員電車では足を踏まれたし、まだ慣れない通学路の道を間違えそうになった。
 そして何より——。
「お前……もしかして、持田(もちだ)?」
 暖かな春の日差しが降り注ぐキャンパスで、俺は雪像のごとく凍りついた。
 さらさらのセンターパートの黒髪を揺らしながら、背の高い男が俺の顔を覗き込んでいる。形のいいつり眉にたれ目がちな瞳、高い鼻に薄い唇。誰が見てもイケメンだと認めるその顔は、見間違えるはずもない。
 どうして……どうして、こいつがここにいるんだ!
「人違いです!」
 急いでその場から逃げ出そうとするが、しっかりと肩を掴まれた。
「待てよ。お前、持田だろ。中学ん時の同級生の」
「ち、違……」
「てか、俺のこと覚えてる? 二年で同クラだった黒川だけど」
「知りません!」
 俺の否定など全く聞く耳を持たず、男——黒川響(くろかわひびき)は畳みかける。
「ずいぶん垢抜けたな、おもちくん」
「……っ!」
 中学時代のあだ名を呼ばれた瞬間、俺の喉が小さくひゅっと鳴った。
 かつての俺は平均体重を大幅に上回るほど太っていた。幸いにもいじめられることはなく、いわばゆるキャラ的な存在としてかわいがられていたように思う。
 しかし。
 ——持田くんって、おもちみたいでかわいいよね。
 好きな女子からの悪意ゼロの褒め言葉は、「おもちくん」という愛称となって瞬く間にクラス中に広まった。あだ名で呼ばれ続けた中学時代は黒歴史である。
「その名前で呼ばないで……!」
 オリエンテーションを終えたばかりの講堂にはまだたくさんの人がいる。周囲に聞こえないよう小声で訴えると、黒川くんは楽しげに笑った。
「なんだよ、やっぱり持田じゃん。他人のふりするなよ」
「そ、それは……ごめん。でも、昔の話はしないでほしくて……」
「あー、なるほどね」
 黒川くんは何度か頷いた。分かってもらえたかと安堵したのも束の間、その笑顔が意地悪なものに変わる。
「どうしよっかな」
「え」
「なんか面白そうだしなぁ」
「ええっ」
 まさか脅迫!? 黒川くんってそんなに悪人だったの!?
 しかし慌てふためく俺にかけられた言葉は予想外のものだった。
「黙っててほしいなら、とりあえずこのあと飯行こ」
「は……?」
「俺、この大学に知り合いいねえんだよ。一人飯のつもりだったけど、ちょうどいいわ」
「え、ちょっ……」
 嫌だと言う間もなく、腕を引っ張られて強制的に連行されてしまった。
 憧れのキャンパスライフ、波乱の幕開けである。



「メニュー色々あるな。どれにする?」
「ええと……」
 食券機のボタンの上で人差し指を彷徨わせていると、黒川くんが後ろから覗き込んできた。やばい、急かされてる……!
 焦ってよく見ずに押したらカルボナーラの券が出てきた。うーん……なかなかの高カロリー。夕飯で調整しよう。
 食事を受け取り、向かい合って座ると居心地の悪さが増した。てっきり奢らされるのかと思ったら普通に別会計だった。彼の目的が分からなくて怖くなってくる。
 不自然なほど俯きながら、カルボナーラをフォークでくるくると巻き取る。緊張しすぎて味なんてしないと思っていたが、クリーミーなソースがパスタに絡んで結構おいしい。
 しばらく黙々と食べ進めていると、黒川くんが「そういえば」と切り出した。
「持田も英文学科?」
「そうだけど」
「マジ? 同じじゃん」
 うわ、最悪。講義で会うたびに絡まれるかもしれない。今から気が重い。
「持田はなんでここ志望したんだ?」
「あー……うーん……」
 中学での一件以来、俺は自分を変えようと決意した。高校に通いながら必死にダイエットに励み、知り合いのいない県外の大学で第二の人生を歩もうと思ったのだ。しかしそれを正直に言えば馬鹿にされそうである。
「オープンキャンパスの雰囲気が良かったから、かな」
 無難すぎる答えを返すと、黒川くんは「ふーん」と軽い相槌を返した。
「それだけ? 遠くで大学デビューしたいとか思ったんじゃねえの」
「そ……っ、そんなことないけど」
「で、お前何キロ痩せたの?」
「声が大きいってば……!」
 慌てて立ち上がったら椅子が大きな音を立てた。無駄に注目を集めてしまい、すごすごと座り直す。
「ていうか、黒川くんこそよく俺が分かったね。何年も会ってなかったのに」
「いや、一瞬分かんなかったよ。だいぶ変わってたし。面影は残ってるけど」
「面影……? どのへん?」
 俺は当時よりだいぶ痩せた。そして入学式前に都心のバカ高い美容院で髪をライトブラウンに染めた。パッと見では「おもちくん」の印象はなくなっていると思う。
 すると黒川くんはにやりと笑い、自分の頬を人差し指でトントンと突いた。
「食べる時、ハムスターみたいに頬袋できるところとか」
「うぇっ!?」
 思わず変な声が出た。両頬を手のひらで押さえてみるが、自分ではよく分からない。とりあえず今後食べ物を口に詰め込むのはやめよう。
 先に食べ終えた黒川くんは、食器を下げるでも喋るでもなく、なぜか頬杖をついて俺を見ていた。食べにくいことこの上ない。
「持田ってうまそうに食うのな」
「そ、そうかな……」
 それって、元々太っていたことに対する嫌味? 彼の発言全てに悪意を感じてしまう。
 やっとのことで食事を終え、席を立とうとしたら呼び止められた。
「持田、連絡先交換しよ。明日からも飯付き合えよ」
「ええ……なんで?」
「お前見てると面白いから」
 失礼すぎるだろ。俺は黒川くんとお近づきになりたくない。でも断ったら黒歴史を誰かにバラされるかも……。
 悩んだ結果、スマホを取り出すしかなかった。お互いのQRコードを読み込み、メッセージアプリの友達リストに黒川響の名前が追加された。友達なんかじゃないのに。
「持田の下の名前、なんて読むんだっけ」
拓夢(ひろむ)だけど」
「へー……」
 黒川くんは画面から顔を上げ、俺と目を合わせた。
「夢を拓く、か。名前だけはかっこいいじゃん」
「……」
 俺は今、人生初の「かっこいい」をもらった。ただし、俺より遥かにイケメンでムカつく男から。



「はあ……」
 アパートに帰宅しても動く気になれず、俺はローテーブルに突っ伏していた。
 あの星座占い、全然当たらないじゃないか。どこが運勢第一位なんだよ。
 これじゃ大学デビューの計画が台無しだ。新生活への期待に膨らんでいた胸は、今は不安でいっぱいだった。
「こんなはずじゃなかったんだけどな……どうしよう、カンタくん」
 顔だけテーブルから持ち上げ、ベッド脇の棚に視線を向けた。俺を見つめ返すのは、手のひらサイズの九官鳥のボールチェーン付きぬいぐるみだ。
 カンタくんは俺の地元のマスコットキャラクターである。しかし常に無表情だったり目の焦点が合っていなかったりと絶妙にかわいくなく、全く人気がない。大量に投げ売りされているぬいぐるみを見かけた時、あまりにも不憫で一体お迎えしてしまったのだ。
 今では一人暮らしの寂しさを紛らわせる話し相手になっている。しかしこれは所詮壁打ち、カンタくんは何も答えてくれない。
「俺とあの人、全然タイプ違うよな。何考えてるか分かんないし……」
 俺と黒川くんは確かに中学の同級生だ。でも彼はいわゆる一軍で、人見知りの俺とは所属するグループが違う。今までの人生で失敗したことがないと言わんばかりに、堂々とした振る舞いをするところが少し苦手だった。そしてあんなに意地悪く笑う人だとも知らなかった。
 ただ俺をからかって楽しんでいるだけだろうけど、からかわれている側としては迷惑でしかない。
「……お腹すいたな」
 ぐるぐる考え込んでいたら空腹感がわいてきた。腹が減ってはなんとやら、夕飯にしよう。
 今日は昼にカルボナーラを食べてしまったから、夜はカロリーを抑えないといけない。あーあ、たまにはラーメン食べたいな……。