放課後、サッカー部がボールを蹴りあう様を眺めながら、羽玖は昇降口から校門への短い距離を歩いていた。
校門脇の石柱の影に、由之が使っている飴色の通学鞄が見える。
あ、と羽玖も、つい笑顔が浮かんだ。足を速め、小走りで石柱の脇を覗き込む。
「先輩、お待たせしまし――」
「…………」
……のまま、羽玖が石のように固まった。そこには由之――ではなく、腕を組んでこちらを見下ろす誠斗。
思っていた位置より頭一つ分高い場所に顔があり、……ひく、と羽玖の頬が引きつった。
「ッ……、せ、あれっ」
即座に、羽玖がきょろりと周りを見渡す。由之がいない。誠斗がいる。なんで?……と。
「……なんだよ」
「えっあ、いえっ」
掠れた声が落ちてきて、咄嗟に羽玖も首を振った。……そうか、そういえば、誠斗も由之と同じメーカーの通学鞄を使っていた。
いや違う、どうして帰り道でもないこっち側に誠斗がいるのかわからない。ましてや今日は約束すらしていないのに。
「たっ高遠先輩なにしてるんですか」
「あ゙?お前だろが」
「はっ!?」
「……チッ」
しかめた顔と、重たい舌打ち。ごそりとスラックスのポケットからスマホを取り出した誠斗が、なにやらを操作したのち、画面を羽玖に突きつける。
『じゃあ、帰りに校門のとこいますね』
「…………」
「…………」
――まっ……
(間違えた……!!!)
息を呑むことすら忘れた羽玖が、赤くなり、青くなり、白くなる。
由之に送ろうと思って、そうか、トーク画面は誠斗とのものを開いたままで、通知のポップアップだけを見て由之とのトーク履歴を開いたとばかり……と。
怪訝そうにしていた誠斗が、そんな羽玖の様子を見て、……不機嫌そうにスマホをしまう。
「……用ねぇなら呼ぶなドベ」
「アッ!ちがっ、あるあるあります!!」
「は?」
ぐいっ、と――誠斗の通学鞄の肩掛けの紐を羽玖が両手でつかんだのは、もうほぼ反射的なものだった。
なお誠斗の体幹はびくともせず、羽玖だけがやや引きずられていく。
「放せボケ」
「帰ッ、かっ、一緒帰りましょ!」
「俺ァこっちじゃねぇ」
(いやそりゃそう……!!)
行き交う生徒たちが、謎の攻防を繰り広げているふたりを遠巻きに見やる。
片や仏頂面のおっかない四位。片やそのおっかない先輩に食って掛かっている一年生。
どういう状況……?とちらちらと視線が通り過ぎていく中で、けれど救いの手もあった。
「あ、高遠と羽玖くん」
「よっ由之先輩!……はっ、すみません僕メッセ――」
「ああ、なんだ、高遠を誘えたんだね。よかったね羽玖くん」
「ッ……!?」
――じゃあね、と横合いを通り過ぎ、さらりと手を振って去っていったその後ろ姿は、……果たして救いの手か……?
引っ張っていたカバンの紐の圧が消えて、……羽玖は、ちょっと後ろの誠斗が振り向けない。
でも両手で握ったその紐も、離せなかった。
――……行き交う生徒たちの中に、沈黙のエリア。
「……、えと……」
「……チッ」
そしてもはや聞き慣れた舌打ちと、ため息混じりに歩き出す背中。
ぐい、と歩き出すその足は、羽玖の帰り道へと向いている。カバンの紐を握った手を、離せとも言われない。
ええ……?と羽玖が見つめた後ろ姿に、淡い夕陽が照っていた。
いつもの帰り道も、推しと一緒ならまた一風変わって見える……などという生ぬるいものではない。
咄嗟に掴んでしまった誠斗の通学鞄の紐から手を引くこともできず、羽玖はその後ろ姿を追いかけていた。
一応、並んで歩く都合上、片方の手はそれとなく離した。
でももう片方も離してしまったらその瞬間に帰られてしまいそうで、――何より「放せ」と言われてなくて。
半袖の肘がすぐそこだ。ちょっと間違えて手を伸ばせば、腕さえも組めそうな距離。死んでもできないが。
「……先輩、夏休みバイトとかするんですか」
……ぽつり、と呟いた羽玖の声に、返ってくる言葉はない。
これは響かなかった、OK、と羽玖も顔を下げる。
「……う、うち、毎年、お盆に田舎のばあちゃんちに行くんですよ」
「…………」
「今年は、ばあちゃんちの犬が子犬産んで、……っみ、見に行くんす」
「…………」
どこかたどたどしい羽玖の言葉は、俯いた先の歩道に消えていく。
その頭のてっぺんをちらりと見やり、……ふん、と誠斗が鼻を一つ鳴らした。
同じ方向へ歩いていく生徒たちが、一定の距離を開けて歩道を進んで行く。
やや後方を歩いている生徒も、つかず離れずの間隔だ。
「……お前、一緒に帰る奴いねぇの」
「えっ」
ふと落ちてきた声に、羽玖もパッと顔を上げる。誠斗は正面を向いたままで、視線だけをわずかに後ろへ向けていた。
「いっや、あの、仲いい友達は普通にいるんですけど」
「…………」
「みんな帰る方向、逆でッ」
「……俺も逆だけどな」
「そっ、そうですよね!」
道脇にあるフェンスの影が、規則的な格子模様になって足元に落ちている。いつもの憎まれ口が、羽玖の口から出てこない。
それとなく歩幅が揃っているのは、……誠斗が歩く速度を緩めてくれているのだろうか。
なのにこないだのファストフード店はあっという間に通り過ぎて、いつの間にか、いつもの駅前の交差点で。
……はや、と羽玖が思う。夏休みの予定も、夏期講習も、たとえばどっかに遊びに行くとか、実りになるようなことをなんにも聞けていないのに。
「……あ、あざした」
「……チッ」
横断歩道の前で礼を言った羽玖に、何故か舌打ちが落ちてくる。
びくり、と肩を震わすことはない。何故ならもう慣れ切っているし、まずもって羽玖にとってはそもそも怖くない。何事かと羽玖が誠斗を見上げれば、後方に視線を投げながら、今日も今日とて険しい顔をしていた。
「……帰る奴いねぇんなら、由之と帰れ」
「えっさすがにそれは由之先輩に悪いですね」
「俺は引きずったくせにか」
――それは……、そうですが……でも引きずった覚えはない。どっちかと言えば引きずられたし、なによりここまでは誠斗がわりと自発的に歩いてきてくれた。冤罪である。
「……高遠先輩は引きずれますけど、由之先輩はなぁ……」
「ぶっ飛ばすぞお前」
むんず、と頭を掴まれ、駅の方へ押しやられる。もはや毎度の扱いで、ここここんなものもういちいちときめかない。初手の自販横でのむんずより、心拍数は低い。はず。
「……お、おつかれっしたー」
「…………」
シッシッ、とするように誠斗の手が羽玖を追い払って、羽玖も唇を引き結んで踵を返した。
そのまま速足で改札へ滑り込んで、すぐさま柱の陰へ駆け込む。ちら、と横断歩道の向こうを振り返れば、両手をポッケに突っ込み、肩で風を切るようにしてのしのしと去っていく推しの背中。
(…………)
無理だ。無理である。無理寄りの無理。
メッセの誤送信に律儀に付き合ってくれた。掴んだカバンの紐を、最後まで放せと言われなかった。あんなんもう、手を繋いで帰ってきたようなもの。
(ちっ、違うか……)
違うか。それは言いすぎか。けれど心臓は正直で、もうどこどこと高鳴っていて。
「……、……」
――でも、由之と帰れと言われてしまった。
他に帰る奴いねぇのか、とも。
(……やっぱ迷惑か……?)
……いや、まあ、そりゃ、逆方向だもんね……と、羽玖が駅構内へと向かって歩き出す。
ムムンッ、とシャツの胸ポケットでスマホが震えて、画面を見れば瑛汰から、
『ばあちゃんちのチビ犬、目ェ開いたって~~~』
と画像付きのメッセが来ていた。
くそう、こっちはてぇへんだってのに……!
『したら間違えて誠斗さんにメッセ送っちゃって』
『うん、知ってる』
『は?なんで?』
『俺まことの横にいたし』
夕食の後、風呂も終え、ベッドでサメの抱き枕を下敷きにして、瑛汰とそんなメッセのやりとりをしていて――、
――羽玖は、あんぐりと口を開けて硬直していた。
『まってまってまって』『え、それ』『怒ってた?まことさん』
『別に?すぐ授業だったし』
べ、ベツニ……!?羽玖が、ずむ、とサメに顔を埋めた。
別にってどういう顔……?
あの「チッ」する時の顔……?
僕にしかめっ面する時の顔……!?
少なくとも穏やかな顔は想像できない。っていうか穏やかな顔とか見たことないな。あ、バーガー食べてるときはわりと険がとれてたな……。
次々と滑っていく思考は留まるところを知らない。それでも、なんとか顔を上げてスマホに視線を戻す。
『ちがくて、それで、結局駅までついてきてくれたの』『やばい 面倒見よすぎない??』
『あーね。ちっちゃい時もよく俺の面倒見てくれてたし』
『そなの?でも瑛汰くんとタメじゃん』
『タメじゃないよ?』
タ……?
「タメじゃないの!!?」
「はく静かにしなー!」
階下から母親の叱咤が聞こえてきて、羽玖がわずかに首をすくめた。
しかしこちとらとんでも情報が出てきてもうそれどころじゃない。
瑛汰と同い年――つまりは羽玖の一つ上かと思っていた。それが、なんですって……?と。
『ど、どゆこと……? 留のつくやつ……?』
『違うけど、でも誠斗今十九歳』
「じゅっ……」
三つも上だァ~……?
――ぽて、と、羽玖がサメから転がり、仰向けになる。口も目も開ききっている。呆然、であった。
「……そうか、だから……」
だから妙に大人っぽいのだ。手がちょっとごつごつしているのも、身体もちょっとおっきいのも、あと妙にシブいのも声が掠れてんのも。
(……関係ないか……)
関係ないか。単なる個人差かもしれない。でも、この時の羽玖は妙に納得がいっていた。
「高遠さん」と呼んでいる二年生も、ちらほらいた。
一個上にしては、変に落ち着いているなとも思っていた。
他の生徒のようにわちゃわちゃとしないで、なんか冷めてるな、とも思っていた。
夏休みも、別に楽しみでも何でもないような顔で。
「…………」
……関係、ないか。単なる個人差か。
投げ出していたスマホを、羽玖がゆるりと手に取る。
『だから一匹狼なの?』
むいむいと打った文字は、ほんの少し迷ったあと、瑛汰に送信した。
ちょっとの間のあとに既読がついて、返事はすぐに返ってくる。
『一匹狼かどうかは知らないけど、まわりはほとんど年下ではあるよね』
『じゃあ僕マジでガキじゃん』
『そんなことないと思うけど』
「そんなことなくねぇわ……」
わかってない。全ッ然わかってないね瑛汰くん。
むす、と唇を尖らせた羽玖は、スマホをまたベッドに投げ出した。
だって僕らからしたら、十九歳ってもう、あれでしょ、大学生。
高一からみた大学生って大人だよ。じゃあ大学生から見た高一もガキじゃない?
そのガキに突っかかられて、口ごたえされて、一緒に帰れとわがままを言われて、さぞ鬱陶しかったんじゃ……?
「……ぴえん……」
――羽玖、ぴえんである。
誠斗がダブっている理由は今はどうでもいい。これまでの己を顧みてぴえんするほうが忙しい。だったら最初っから、もっともっと素直に突っかかっていけばよかった。
(……、……いや無理かも……)
……ずりずりと、隣のサメを引き寄せる。
ごく小さな反省会は、夏の夜に静かに更けていった。



