誠斗の母親に持ってきてもらったジュースは、テーブルの隅で冷えた水滴を湛えていた。昼食はなんだかんだと母の勢いに押し切られ、そのまま誠斗の家で。
午後からもまた二階の部屋で、ふたりっきりの勉強会――……ではあるものの、そこに甘さなど皆無である。
「ここ答え合ってんすけど先生に途中式雑って言われて」
「……きったねぇ。場合分け飛ばすな」
「でも答え出てる!」
「条件変えて解け」
「ぐっ……!」
「……なんでそこに数字代入すんだよ」
「だっ、いや計算は……」
「最後まで文字で持っとけや」
「いやそれはわかりますけど……!」
「こっからどうすんの……?」
「知らね。立式できてんだろ」
「違うこっからあと一歩!」
「やれ」
「ねえ!」
「るっさ」
ぎゃんぎゃんと噛みつきつつも、羽玖も正直楽しくて仕方がない。誠斗は自分の勉強をしながらこちらを見てくれているし、聞けば返ってくる。
ただし優しく教えてくれるという意味ではない。くそスパルタ。
勉強はしんどい。わかんないとこはわけわかんない。
それでも確かに身についている感じがするのは――さすが四位といったところだろうか。
羽玖の答案を見た誠斗が、ふん、と鼻を鳴らしたのを見て、羽玖は力が抜けるように、後ろへぱたりと倒れ込んでいた。
「はあぁ……鬼だぁ……」
「……そりゃ残念だったな」
ぎ、と後ろ手に手を付きながら、誠斗が見下ろしてくる。だがそのまま何事かを考えて、小さく息をついた。
「……次も選考落ちすると思うぞ」
「なにがすか?」
はて――と羽玖が、誠斗を見上げる。怪訝そうにした誠斗は、眉根を寄せて見下ろしたままだ。
「……順位上がったって、次の選考でも瑛汰のアテンドにゃなれねぇぞって」
「え、なんで瑛汰くん……?」
「あ゙?」
「は?」
え……?……とこの部屋に珍妙な静寂が訪れたのは一瞬のこと。
……ほほう?と誠斗が羽玖の横に肘をついたのは、もはや逃げ道を塞ぐ包囲のようだった。
「聞いてた話とちげぇな」
「……アッ!?」
「てめぇ瑛汰の選考落ちてきたんだよなぁ?」
ぴくりと上がった片眉は、崩れた前提そのものを逃す気もない眼差しだ。じりじりと横へ逃げようとする身体を、腹に手を回して引き寄せる。
なんのことはない、いつもの意地悪の温度である。いつもの意地悪の接触で、頭をむんずするのと大差ないものだったはずで。
けれどすっぽりと誠斗の懐に収まる背中は丸く、そこから見える耳は火が出そうなほどに赤く。
「ちが、待っ、離してっ!」
「ああ?なんだァ勉強教えてやったのになあ」
「それとこれとは別でっ、だっ大体――!」
「……チッ、……――羽玖」
耳のすぐ後ろにそんな低い声が落ちて、びくんと羽玖が動きを止めた。
身体中に鳥肌が立つ。死んでも後ろは振り向けない。腕を回された腹が熱かった。
しんと部屋が静まり返って、……窓の外を、家に帰っていく子どもたちの声が通り過ぎていく。
あれっ、これ状況だけ見たら抱きしめられてない……?とは羽玖の現実逃避だったが、逃避どころか現実ど真ん中で失敗に終わった。
軽い力で以て転がされ、ころりと誠斗のほうへ向かされる。
まごうことなく真上から、見下ろしてくる眼差し。ド近距離。
「……んじゃあ誰だ。他のリードか」
「……ッ……」
「……またそいつに落ちたら、俺んとこに来るってか、羽玖」
「ひ、ひえ……」
「は……?」
耐えきれず羽玖の口から漏れ出た鳴き声に、誠斗がかすかに顎を引いた。せめて人語が返ってくることは予想できてたが、こちらはやや予想外。
続く言葉は、誠斗からしてみれば、さらに予想外だった。
「僕のリードくそメロいぃ……」
「……ああ……?」
――五藤羽玖、もう無理であった。
たっぷりニ十分ほど聴取に時間がかかったのは、話す内容が多かったためではなく、羽玖が人語を取り戻すのに多大な時間を要したから。
しどろもどろで時系列もバラバラ、しっちゃかめっちゃかな供述を脳内で整理していく誠斗は、……やはり頭の周りはすこぶるいいらしい。
「……要はお前は最初から俺が狙いで」
「っ……」
「瑛汰にそそのかされてうちの高校きてL&Aまで入って」
「……ちょっ」
「あの手この手で俺のアテンドになったと」
「も、殺して……!!」
まるでダンゴムシのように床に伏せた羽玖は、身体から湯気が上がる勢いだった。
何が悪いって誠斗の声が若干笑っているのが一番悪い。これが怪訝そうな声ならまだなんとか生き残れたのに……いや無理か。
「いやっまじ、もう、ちが、ちがうんす」
「そんでおベンキョウ頑張ってるってか」
「ねぇええ!」
ダンゴムシから手だけが伸びてきて、ばちん、と胡坐をかいた誠斗の膝を叩く。
誠斗も叩かれるがままになっており、しかしながらその手をすかさず掴む動きもまた、早かった。
「つーことは、お前は後期も俺を指名する腹づもりだってわけだ」
「ッ……そっ」
「順位が下がらなければな」
「も、もぉおお!!」
もはや、どこを打っても響いて返ってくる。掴んだ手を誠斗がゆっくりと引き寄せれば、ささやかな抵抗。いや、羽玖にとっては精一杯の抵抗。
ずりずりと引きずられていき、亀でもひっくり返すかのように、誠斗が羽玖を胡坐の上の引き上げた。
「ぅぎゃっ!」
「どうりでクソ生意気な一年坊主だと思ったんだ」
「は、はっ!?」
「突っぱねても突っかかってきやがって、騒がしいったらねぇ」
――べちん、と今度は羽玖の手が誠斗の腹を叩くが、これにも文句は返ってこない。その代わり、ぐ、と顔が近づいた。
「そのくせ図太いわ由之には懐くわ」
「うぎ……す、すいませんね、かわいくねぇアテンドで!!」
「かわいくねぇわけねぇだろが」
「だかっ――ら、……はぇ」
「ちょこまか慕ってついてくるドベがよ、かわいくねぇわけねぇだろって」
胡坐の上に転がされ、大きな身体で囲うようにして、真上から覗き込んでくる推し――。
の、その口元が、にやりと笑った。
「食っちまうぞ」
「――っぎ、」
ぎゃん、と限界を超えた赤面の鳴き声が、高遠家にこだまする。
二次災害として、驚いた母がリモコンを落としていた。
「駅まで送ってくる」
「はぁい。またおいでねぇ」
「オジャマシマシタ……」
さながら人形のようにぎしりと一礼をかました羽玖を、誠斗の母が不思議そうに見送っていた。
随分と楽しそうに勉強をしていたのに、疲れちゃったのかしらね、なんて。
外はすっかり夕方で、家路を急ぐ人や子どもの姿がちらほらと。
夕陽を背負いながら、そんな中を歩く。外側だけ見れば妙にセンチメンタル。心は焼け野原であった。
「……ま、誠斗さんのせいで今日勉強したこと全部吹っ飛んだ……」
「あ゙?」
「は?」
やりとりはいつの間にかいつも通りで、けれどそれが助かった部分もあった。
なのに足を止めた誠斗が、ぐるりと振り向いてなにやら睨みをきかせてくる。……口の端だけは、笑んでいた。
「……なん、すか」
「……クソ生意気な奴め」
「か、……かわいいくせにぃ~……」
――言ってから、羽玖は即座に大後悔。立ち尽くしたまま顔面を両腕に埋めた。閉店。
ざ、ざ、とサンダルが歩み寄ってくる音がする。すぐ真正面に体温を感じて、もう顔も上げられない。
ぽん、と頭に手のひらが乗って、わしわしと揺らす動きは、まるでなでているようだった。
「そうだっつってんだろ」
「……、……う、そだぁ」
「なんで」
「だ、って、誠斗さん僕の"スキ"わかってないっしょ……」
ぼそ、と呟く羽玖の声は、防衛線が半分。拗ねがそのまた半分と、残りがまだちょっとの混乱。
だってこっちは全部、もう全部喋ったのに、誠斗はずっと意地悪の温度感で、ただ楽しそうにしているだけで。
けれど頭に乗っていた手が、するりと落ちて耳をなでた。
「……なんだ、カラダで証明すりゃいいか」
「ッッ!?」
――バッ!と羽玖が顔を上げ、弾けるように後ろへ飛びのく。なでられた方の耳を両手で隠したのち、わなわなと唇を震わせた。
やや目を丸くしていた誠斗が、両の手のひらをぐわしと広げて、わざとらしく一歩踏み出してくる。
「……食っちまうぞっつったぞ」
「――っ……!!」
悲鳴……は、なんとかギリギリすんでのところで羽玖の喉の奥へ呑み込まれる。
なんてこった、チャンネルがばっちり合っている。意味が全部通じている。
甘い言葉も何もない、しかしそうとわかったらもう無理である。いや最初からずっと無理だったな。
ふん、と鼻で笑った誠斗が、おもむろにスマホを取り出して画面を睨みながら操作し始める。一体何を――と羽玖が小さく顎を引けば、しばらくして誠斗のスマホがブブ、と震えた。
その画面を、くるりと羽玖に見せてくる。
「な、なんすか……」
「ん」
ふり、と誠斗の手元でスマホが揺れて、羽玖が覗き込みに行けば、瑛汰や由之とのグループチャット。誠斗の送信から始まっていた。
『なんか知らんがはくから全部聞いた』
『あっ聞いた? ごめんね~ よろしく』
『羽玖くん言ったんだ? 直接言えば早いのにって言ってたんだよ』
瑛汰と由之のメッセがそんな風に続いており、……羽玖、はわわ。由之はひとまず置いておいても、瑛汰の"よろしく"はなんだ。
はわわっている羽玖の横に誠斗が並び、画面はそのままに続きを打ちこんで行く。
『中間でエルエー落ちてももらっていくぞ』
「ぅううわー!!なに打っ、おく、送った!?」
「送った」
けろりと見下ろしてくる誠斗に、羽玖が首から順に真っ赤になっていく。
ピロン、と何やら返信も来ていたし、誠斗も画面を掲げてきたが、羽玖にはもう確認する心の余裕などない。
ちなみに後期中間テストの結果、羽玖の順位は全校十七位。
指名はもちろん、推しである。



