――サメちゃんよ……僕に魚類の叡智をお与えください……とは、スマホ片手に自室のベッドの上で、サメの抱き枕に埋まる羽玖の心の嘆きである。
多分ひと月半ぶりくらいの連絡。
塩野家での焼肉と泊まりの次の日に、「あっす」と解散して以来。
「…………」
むくりと羽玖が顔を上げる。いや、別に重く受け取る必要ないじゃないかと。誠斗に断られても、自分には主席の瑛汰がついている。
もしだめだったら瑛汰に頼もう。また由之も混ぜて、皆で楽しく勉強会なんてことになるかもしれない。
そうだ、そうそう、そもそも望み薄なんだもの、叡智もくそもない。
半ばヤケになった羽玖が、その勢いのまま誠斗とのメッセージアプリの通話ボタンを押す。画面が暗転して―呼び出し中―の表示。
途端に、ぶわりと背中が汗ばんだ気がした。
(――っか、かけちゃった……!)
(うわうわうわバカじゃん僕考えなしかよ!)
呼び出し音は無情にも鳴り続ける。無意味にサメを引き寄せる。も、あと二回くらい呼び出して出なかったら切ろう、と思った時である。
『――はい』
「……、……僕です」
『誰だよ僕ちゃん』
ングッッ……と喉の奥で声が出そうになって、羽玖はズムリとサメに埋まった。脳内の何かのゲージが急速に回復していくのを感じる。多分推しゲージ。多分。
『なに』
「っや、ちょっとのっぴきならないことが……」
『あ゙?』
「こ、後期の中間の成績悪かったら、L&A制度外れちゃうって聞いて……」
『……ああ……』
ぎし、と通話の向こうから何かが軋む音がして、椅子に掛けたのかなと思った。
答える誠斗の声は特に驚いている様子もなく、そういやそうだったなとでも言いたげな温度。
そういえば四位だった。崖っぷちから遠い男である。
「んで、あの、勉強したいんで、お、教えてくれたりとかしないカナッテ……」
『……誰が?』
「……先輩が……」
『……。……あ゙?誰がって?』
「せっ、……マコトサンが……」
一拍ほどの沈黙ののち、スマホ越しに、は、と小さく笑うような声がした。
トン、トン、と机を小さく叩くような音も聞こえてくる。
『来週末は』
「らっ、い、大丈夫です」
『んじゃ十時に南駅な』
「はい……あざス……」
――からの通話終了――。
そして羽玖沈没……。もちろんサメにである。
(…………)
「…………」
…………。今度こそ何も出てこない。色々とオーバーで無理である。
その後の記憶は当然、来週末まで喪失していた。
南駅とは、瑛汰の最寄り駅より一つ手前にある駅である。
羽玖がこの駅に来るのは、以前誠斗とジョイプルに行って以来。あの時は迷ってたどり着けなかった西口は、――今日もたどり着けない。
『西口どこ』
『またかよドベ』
『だからこの駅使わないんすって!あとドベじゃない僕二十位!』
『キヨスクいろや』
そんなメッセですら、頬が緩んでしまう。この一週間、学校でも会うことはなかった。あれきり特にメッセのやりとりをすることもなかった。
けれども、人混みの向こうから睨みつけてくる誠斗は秒で見つけられた。
ロクに挨拶もさせてもらえずに踵を返す背中に、ひょろひょろの拳だって入れられた。
舌打ちも文句も返ってこない。へでもねぇってかとその背中を睨み上げる。……せめて外面だけでも。
「どっどこでやるんですか。ファミレス?」
「あ?俺んち」
「オッ……ん!?」
「ファミレスなんて周りうるさくてできねぇだろ」
なんでもないことのように駅の出口に向かっていく背中は、やはりなんでもないことのように歩いていく。
そうか、よくよく考えれば、確かに誠斗と会うのはこの駅だった。ジョイプルも、スメルハザードの満員電車で確保された時も。
というかよくよく考えれば瑛汰の幼なじみなのだから、隣の駅でもなんら不思議ではない。
へっ、へぇ~じゃあこの辺って誠斗さんのホームなんだぁ~へぇ~~……。
羽玖、現実逃避である。推し枯渇に対する供給が過剰。対してこちらは"推しです"の顔をして好きな人の家に連れていかれる恋愛ど素人。対戦ありがとうございま――
「こら置いてくぞ」
「ぁえっ、はい!」
――呼ばれ、駅前のアーケードの中、その背中を追いかける。
全然見慣れない街並みはどこもかしこも目新しくて、前を歩くパーカーはさっきよりちょっと追いやすかった。
誠斗の家は住宅街の中にあって、ごくごく普通の一軒家。
庭に洗濯物が干されていて、リビングの窓が網戸になって開いている。……中から、テレビの音が聞こえていた。
無造作に玄関を開け、誠斗が中に。羽玖もそれに続いて中に入った。
心臓がえげつないことになっている。なのに家の中はちょっと覚えのある気配がして、――ああ、誠斗の匂いだ、と思った。
二階への階段がリビングを通る位置にあり、羽玖がおずおずと誠斗の後を追う。
大きなソファに座っていた誠斗の母親が、振り向いてにこりと笑みを浮かべた。
「あらぁ、いらっしゃぁい」
「おっお邪魔します……」
「はぁ~い……あらっ、瑛汰くんちのわんちゃんの!」
「えっ」
ぱっと上半身ごと振り向いた母親が、羽玖に向かってますます笑みを深めた。
鬱陶しそうに手を振った誠斗が、しれっと間に割って入る。
「やめろ。勉強する」
「なによぉ」
――ぺこり、とそちらへ頭を下げながら、羽玖が階段に足をかける。瑛汰の母が言っていた"ゆりさん"だ……!と思った。その上で、「瑛汰くんちのわんちゃんの」とは――!?と。
……トン、トン、と階段を登っていく背中を見上げる。
(……そっ、ういえば、あの画像親に見せたって言ってた……)
……、……言ってたな……。羽玖が、階段を登りながらリュックの紐を握る。
恥ずかしいことこの上なし。あのバカ笑いしている画像が誠斗の母親に見られている。この上なし。
二階は静かで、部屋が二部屋あるだけ。扉の一方を誠斗が開け、室内へ。心臓がフェス会場のようになっているが、羽玖もそのままお邪魔した。
「ゃっすー……」
「その辺座れ」
指さされ、促されるまま、ベッド脇にあるテーブルへつく。
スマホやノート、タブレットをリュックから取り出しながら、羽玖がちらりと部屋を見渡すなどしてみた。
物は大して多くない。
バイクの写真やフルフェイスなどがあちこちにある程度。雑多とした印象はなく、整っていた。
「……先輩部屋キレーっすね」
「…………」
そばのデスクからノートやペンを手に取り、誠斗が羽玖の隣へ座る。それらをバサバサとテーブル上に置く手つきはやっぱり無造作で、無言のまま頬杖をついて羽玖を見た。
「…………」
ぐぬ……と羽玖がわずかに肩を引く。"先輩"……は、やはり不受理であるようで。
「……、……まこっ、誠斗さん……」
「どこわかんねぇんだ」
「くっ……このやろう……」
軽率にときめく自分をどうにかしたい。
ごす、と誠斗の肩に拳を入れれば、ごす、とテーブルの下で膝が当たってきた。足の長さの暴力……!!



